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先日の大河「光る君へ」の御堂流(御堂関白家)藤原道長の家系から思い出した事なんだけどね...先ずは、このお話しのプロローグ😅MGMミュージカル映画🎬【上流社会】成功したジャズ🎷🎺ミュージシャンのデクスター(ビング・クロスビー)が、他の男と再婚しようとしている元妻の富豪の令嬢トレイシー(グレース・ケリー)との愛を取り戻そうと奮闘。そのスキャンダルを取材しにやってくるゴシップ記者のマコーリー(フランク・シナトラ)の主演トリオが演ずるミュージカルラブ💓😍💓コメディ☝️この作品を最後にヒ
京都市内、毎朝、いると、いろんな碑や立て看板に遭遇するわけなのだが・・・二条家邸跡の井戸というのに最近、気が付いたちょっと見にくいが、とある施設の生垣の外から少し見えるというもの、その施設辺りが、二条家邸跡ということになっている早朝、全然人通りがなかったので、したけど、もう少し遅い時間ならするのに、ちょっと勇気が要るかもしれないなぜなら・・・同志社女子の学校の中をしているように見えるし・・・さて、次は、タミヤのIV号J型エッチングは、
「3つある一条家をそれぞれ解説しよう!」という、連続3回やらかした前企画。「一条家(五摂家)」は、なんだか二条家の解説っぽくなってしまったのですが(もちろん理由があってですよ…無駄に語ったからじゃない!と思う)これに便乗して、二条家の曖昧回避もやってしまおうかな…などと思い立ってしまった…というわけで、今日はそんなお話になります。相変わらず、どこに需要があるんだか分かりませんが(笑)、まぁ自己満足もまた、立派なストレス解消なのでねー。さっそく、wikipediaで「二
王朝和歌史上における定家の立ち位置は「百人一首」の編纂の功罪をもって決まり手とする。カルタ取りなる稚戯ながら古典に親しむヨスガとなるも、さしたる理由もなく採用されなかった歌人は歴史の中に消えてしまい、あまつさえ定家の選歌以降の歌人は顧みられる事もない。足利義尚もアタシと同じように考えたからかどうかは解らないが「新百人一首」なる私撰集を編纂していますが、落穂ひろいの出来栄えは、、、どうなんでしょう。選ばれて然るべき名歌人ばかりかどうかはなんとも言えないが、、、源順源三位頼政宮内卿俊成
御子左家の人々みたいなはなしを書こうとして、あちこちを拾い読みをして気がついた。皇位継承の基本ルールは「父子相続」だとされる。アタシは「子」と書いたが、必ずしも「男」を意味しないし、応神帝以前には兄弟相続が多く見られるところを見るに古法は兄弟相続だったのかもしれない。一方でなにかと紛争や紛糾を巻き起こした事例も多々あるが、神話的世界のはなしだから略しますし、武家社会はたくさんありすぎる。けだし、兄弟は他人の始まりなのですよ毛利元就の三本の矢の遺訓だって、兄弟が当たり前のように力を合わせ
近衛家旧邸の糸桜京都市内で桜の開花が早いのは、冷泉家と近衛家の桜。冷泉家の満開のソメイヨシノ(2022年3月25日撮影)冷泉家(烏丸今出川通東)には、シダレ桜とソメイヨシノがあり、このソメイヨシノは京都市内では早めに満開になる。冷泉家:藤原定家の孫冷泉為相に始まり、家名は平安京の冷泉小路に由来する。現在の当主は冷泉為人氏(冷泉家時雨亭文庫の理事長)京都御苑の旧近衛邸跡の有名な枝垂
少し遅れましたが、南朝二条家周辺の家系図を掲載します。手書きでごめんなさい🙇
二条冬実(にじょうふゆざね)生没年正平八年/文和二年(1353)~応永二十五年(1418)12月23日官位従一位関白左大臣(南朝)別名長□(玉葉奥書)長知?(桜雲記)右大臣玉櫛殿父二条教基兄弟姉妹教子?(従二位、長慶天皇女御)妻泰子内親王?(後亀山天皇皇女?)(南朝編年記略)子良教(二条師嗣猶子)尊性房(?~1432)恵芳明元女子(中宮寺)官職位階歴(南朝公卿補任は他史料との乖離が激しく参考にならない為記載しない。日付は旧暦。)時期不明
二条教頼は二条教基の弟とされています。「摂家系図」には他に「教忠」「教嗣」の名前が見え、この3人は同一人物だろうとされています。「南朝公卿補任」には「教頼」の名前は見えず「教忠」が登場します。また「園太暦」にも「教忠」の名前が見え正平七年の「男山八幡の戦い」で戦死したと記載されています。同一人物とした場合、辻褄が合わなくなりますが、園太暦の作者の誤りなのか、別の人物なのか気になる所です。そんな存在自体があやふやな「教頼」ですが、「新葉和歌集」等から南朝で関白左大臣に昇っている事が確認でき
二条教頼(にじょうのりより)生没年生年不詳~元中六年/嘉慶三年(1389)1月以前官位関白左大臣(南朝)別名教忠?教嗣?関白左大臣(新葉和歌集)父二条師基兄弟教基※教忠※教嗣(摂家系図。詳細不明。)良順嘉喜門院?※教頼教忠教嗣は同一人物の可能性有り。官職位階歴(注記の無いものは公卿補任、※は南朝公卿補任に拠る。日付は旧暦。)興国二年/暦応四年(1341)12月13日※従三位に昇叙。右中将元の如し。興国五年/康永三年(1344)1月5
二条教基(にじょうのりもと)二条教基の記録の初見とされるのは「園太暦」観応元年9月に北朝大嘗会の御禊行幸に供奉した廷臣の中に「正五位下藤原朝臣教基」とあるのが初見とされています。同名異人の可能性も有るので断定出来ませんが、故実典礼の為に、一時的に北朝に出仕していたのではないかという説があります。正平の一統時には南朝で左大将と見え、摂関家として南朝で高官に昇っています。正平八年6月に南朝方が二度目の京都奪回に成功していますが、その時に教基も兵を率いて入京しています。この直後の7月に
二条師基(にじょうもろもと)生没年正安三年(1301)~正平二十年/貞治四年(1365)1月26日官位正二位権大納言(北朝)従一位関白左大臣(南朝)別名福恩寺前関白内大臣?光明台院前関白左大臣?父二条兼基(従一位関白左大臣)(1267~1334)母内蔵権頭源兼任女兄弟道平(従一位関白左大臣)(1287~1335)基教(従五位下?侍従)良冬(従一位権大納言)(1322?~?)良瑜(大僧正准三后)良潤(権大僧都)源経(大僧正)子教基
二尊院には広大な墓地が広がります。■四條家墓「男爵四條家之墓」。■六体地蔵堂「遊戯六苦抜苦与楽」。■六体地蔵尊■紀朝臣西吉村家累靈遥拝碑■阪東妻三郎墓田村家累代墓。■壬生基修墓従一位勲一等伯爵壬生基修(1835-1906)は七卿の一人、のちの貴族院議員。■藤原治孝墓従一位前左大臣藤原朝臣治孝公墓。
2020年9月22日火曜日秋分の日です。朝からいい天気です。朝食を済ませ今日も庭へ。今日は、苔の手入れです。苔に生えた雑草を抜きます。地味ーな仕事です。庭が傾斜してるのでけっこう体幹使います。でも地味です。蚊取り線香と虫よけスプレーは必須です。お昼を済ませ、おやつです。今日は、自家製の。「あんみつ」です。黒蜜と寒天は自家製で、餡は井村屋です。寒天やゼリーもシーズン終わりかな。秋分ですな。おやつを食べ、メダカと金魚に餌をやり、再び庭へ。雑草を抜いたら綺麗です。左奥は鈴蘭です
京都の今出川通りを挟んで、南側が京都御所。北側は同志社大学、同志社女子大学のキャンパスが広がる。この女子大の通りの一角に御覧のような石碑が見える。公家の二条家邸宅跡である。2007年の発掘調査で、右側の石が出土。こうした結果などから判明したという。公家の二条家は、藤原家を源流とする五摂家のひとつ。耳慣れない言語だが、五摂家とは「近衛、九条、二条、一条、鷹司」のことをいう。学校の国語、社会、歴史等で、よく現れる名前のように思えるが。
おはようございます京都のkojiro(小次郎)です今週の小次郎は朝早くからの仕事が多いため、今日も昨日と同様に早い時間に家を出ます。小次郎の自宅から大阪までは約2時間、9時のアポイントには7時に家を出ないと…。時間の余裕がなくなってきたので、今回の「kojioの京散歩」も京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山「隋心院」(ずいしんいん)の画像だけのご紹介となりますことをお許しください。ご覧いただいている総門と庫裏は、江戸時代の宝暦三年(1753