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福島県二本松市にある二本松城址の桜を見学に行きました2016年4月の蔵出し写真です二本松城は別名霞ヶ城と呼ばれています日本百名城の一つとして国の史跡に指定されています現在は一帯が県立霞ヶ城公園ですソメイヨシノやヤマザクラなど2500本余の桜が咲きます桜まつり開催中二本松少年隊の悲話があります二本松少年隊群像史跡二本松城址城址は標高345m霞ヶ城の傘松「八千代の松」樹齢300年るり池斜面にカタクリの花が咲いていましたラッパ水仙洗心亭茶店☆ご覧いただ
青葉城の次は桜の名所を予定している。東京をスタート時は見頃を迎えていた桜も北上するにつれて7分咲き、5分咲きとなり青森では蕾に戻ってしまった。しかし青森から南下し始めると桜前線の北上と相まって開花が進み、ここ仙台では見頃となっていた。仙台は桜の名所が多いので迷った末、白石川沿いの千本桜に向かった。白石川の千本桜は全長8kmにも及ぶ桜回廊が有名で、川沿いをドライブしながら花見を楽しむことが出来た。しかし車を停める場所が見当たらず、ようやく回廊の端に車を停められるスペースを見つけて駐車する
一昨日からブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的な写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全
ちょう久しぶり。待ってた人おる?w前回『【東北DQW鈍行旅⑦】秋田から山形へ。ただただ鈍行旅を楽しんだ。』前回は今回の旅の最北端の能代でバスケを堪能したさしみ。『【東北DQW鈍行旅⑥】憧れは5分だけ&バスケットはお好きですか?』こんばんは前回は岩手から秋田への西…ameblo.jp6日目です。山形城を出発しどんどん南へ下ろうと(上ろうと?)山形駅に向かったさしみにまさかのトラブル。フリーパス券の磁気壊れました\(^o^)/7日間同じ券なのでよくあるみたい。以後全ての乗り降りは
桜の季節となると日本国中、城趾が脚光を浴びる。それこそ、多くのお城とさくらのコラボ、けっこう楽しんできた。中でも、福島の二本松のお城は印象深いものだった。城の石垣も関東以北ではかなり図抜けて素晴らしかった。確か10万石丹羽氏のお城だったと思うが織田家の重臣の家系が東北にいるというのも感慨深いものがある。整備されているとはいえ、この石積みは見事。天気がいいと本当に気持ちがいいのが平山城の特徴なのかも。眺めはまるで桃源郷のよう、というのは言い過ぎか、苦笑。お城の近く
あっという間に年度始めなのに、ファンべーブログはまだまだ開花宣言出来ず。2月に行った2泊3日のリフレッシュ休暇の振り返りです2月18日いつものお宿へGO今回はその前に行きたいところがあるので、珍しく早めに出発しました。借りぐらしのかのこも一緒ですが。。。ファンべーはクレートインなのに諸事情により、ほぼフリーダムそして猫用品がたくさん。何だか、ファンべーに申し訳ないような。。。途中、トイレ休暇をはさみながら、着いたところは。。。霞ヶ城公園(二本松城)箕輪門をくぐらず、本丸へ向
年は明けて2024年1月4日です。1泊2日で福島と茨城で城取でした。上野(6:08)発JR宇都宮線宇都宮行きで宇都宮(7:51)までの乗車でした。この日は人身事故が発生して雀宮で宇都宮駅のホーム空き待ちで停車してしまいました。そのため、宇都宮(8:35)発JR宇都宮線黒磯行きで那須塩原(9:21)までの乗車としました。後ろにダイヤの薄い行程があるので、新幹線課金しました。那須塩原(9:38)発JR新幹線なすの253号郡山行きで新白河(9:47)までの乗車でした。乗車券5
名称:二本松城(にほんまつじょう)別名:霞ヶ城、白旗城城郭:梯郭式平山城築城年:室町時代中期築城主:二本松満泰改修者:丹羽光重主要城主:二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏所在地:二本松市郭内3指定文化財:国史跡日本100名城二本松少年隊像箕輪門本丸石垣案内図
あだたらの里軒の市丁度、二本松少年隊の演舞が開催されてました。かっこよかったですよ。二本松の観光広報だと思います。これからの季節、二本松城桜🌸が綺麗です。また、お花見がてら訪れようかな?
2月18日2泊3日のまったりリフレッシュ休暇へ出発前回のドライブから随分リラックス?自由にしているかのこ。シートに固定してあるキャリーケースに繋いでいるけど、自由に出来る分、安全面が不十分物珍しさからの好奇心が落ち着くのを待つしかないのかな寝顔を見られるのは嬉しいけれど、出来ればキャリーケースで寝て欲しい。ひと眠りして着いたところは二本松城跡公園。今日は何だかやる気満々で出たくて出たくて仕方ない※再生時間27秒音楽あり♪リュックから飛び降りたら大変ということで前
雪が降ると、私はこの木に積もった風景がとても好きです。この枝の積もり具合が本当に満開の桜みたいで。上の写真は実際桜の木で、ちょっと桜色っぽく編集してみたんですが、夜に淡いピンク色のライトなんか当てたら本当に夜桜そのものになると思います。また風で散り散りになる雪が桜吹雪みたいで…!!とても幻想的で素敵でした。ちなみにモサモサ積もった木は色も形も綿あめみたいで、めっちゃおいしそうでした。笑仕事だと憂鬱になるんですけどねこの歳になっても雪積もるとわくわくしますこれが元の写真。お城が無く
※2024年1月6日訪問※奥州探題【畠山氏墓所】を参拝させて頂きます✨正面が、初代高国から12代義継までを祀る畠山氏累代の墓碑非常に立派な墓碑で【奥州探題畠山家墓】と刻まれてます初代高国から12代義継までの歴代当主の名前が刻まれています✨こちらには、二本松氏を名乗った13代以降の名前が刻まれていました✨墓碑についての碑文も有りますね墓碑の両脇には、12代義継と共に『粟ノ巣の変』で散った二本松家の家臣達の墓石が整然と並んでおり、今でも畠山氏の側で主君を支えているようにも見えました✨
※2024年1月6日訪問※称念寺さんの本道西側に有る【畠山公墓所】へと向かいます✨【畠山公墓所参道】と彫られた石碑が建てられていますね✨石畳に沿って坂道を登って行きます🚶坂道を登りきった平場には【奥州探題畠山家墓所】の案内板が建てられていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼奥州探題畠山家墓所南北朝の頃、(1340)北朝方より奥州探題として入国した畠山高国公を初代城主とする畠山家は、その後11代義継公が伊達政宗と戦い討ち死に、翌年落城するまで約240年続きました。義継
※2024年1月6日訪問※福島県二本松市本町の【二松山称念寺】さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1185年(文治元年)、尊道によって開山された。当初は法相宗の寺院であったが、後に時宗に転宗している。1586年(天正14年)の二本松城落城の際に、陸奥国信夫郡大森(現・福島市大森)に避難したが、江戸時代初期に二本松藩藩主丹羽光重の城下町整備の際に現在地に移転した。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲陸奥国・二松山称念寺(二本松市)畠山氏墓所▲①に続く
※2024年1月6日訪問※二本松城の搦手門跡を目指し、霞ヶ城公園内の遊歩道を登って行く途中、山の中で急激に開けた場所に出ましたそこから見えた【安達太良連峰】がとても美しかったので、ご紹介させて頂きたいと思います✨私が訪れたのは【見晴台】と呼ばれる場所だったようで、小さな東屋と安達太良連峰を紹介する案内板が建てられていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼安達太良連峰那須火山帯に属する安達太良連峰は、磐梯朝日国立公園内の南端に位置し、南から北へ和尚山、安達太良山、船明神山、鉄山
※2024年1月6日訪問※二本松城を見学し、城跡の南西部に新たに建てられた【にほんまつ城報館】に向かって歩いていると、広大な芝生の平場に案内板を発見▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼藩校「敬学舘」藩校とは各藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校である。二本松藩においても、9代藩主丹羽長富の代の文化14年(1817)、藩校敬学館が城の正面のこの地に整備された。素読や儒学、礼法などを教える文学校と馬術、槍術、剣術などを取り扱う武術校をまとめたもので、慶応4年(1868)の戊辰戦争
※2024年1月6日訪問※大手道のすぐ側には、三ノ丸への通用門として使用されたと考えられる【遠裡門】が建てられていました✨【遠裡門】の案内板が設置されていますね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼遠裡門三ノ丸御殿跡の東辺にある門で、幕末期の絵図に「遠裡門」と記されており、三ノ丸への通用門として使用されたと思われる。この門の東側には本丸へ続く大手道が描かれている。調査の結果、花崗岩製の長方切石の階段が検出され、この部分が平場への出入口であったことが絵図から読み取れる。▲▲▲▲▲▲
※2024年1月6日訪問※元坂御殿跡の石垣下には、二本松城の【大手道】が通っていたようです▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼大手道現存の石階段に沿って通路の縁石が検出されたことから、箕輪門付近の大手道の位置がほぼ特定された。平成29年度に埋没石垣を露出させる整備を実施し、江戸期の景観を復元した。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆陸奥国・二本松城(霞ヶ城)遠裡門跡/国指定史跡◆に続く
※2024年1月6日訪問※二本松城南西部に位置していた【元坂御殿跡】まで降りて来ました遊歩道を降りて行く途中、何やら城郭建築のような建物を発見調べてみると、現在は使われていないようですが、鯱の乗ったその姿は、元坂御殿の遺構かと勘違いしてしまうような建物でした元坂御殿跡には立派な石垣も残されていますね✨近くには【元坂御殿と大手道】という案内板が設置されていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼元坂御殿跡三ノ丸御殿跡の東方高台の平場にあり、通称「姫御殿」、幕末期の絵図には「新御
※2024年1月6日訪問※松森舘跡から遊歩道を降り、城跡の南東部へと歩いて行きます遊歩道の途中に【城内路】の案内板が建てられていたので確認してみましょう【城内路】▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城内路急な斜面を登るため、つづら折りに造作された通路。寛文年間(1661~1663)引水の二合田用水により途中で寸断されているため、古い時期の通路であろう。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲分かりにくいかもしれませんが、画像の左、右、左といった形でつづら折りの道が上部に続いてい
※2024年1月6日訪問※二本松城の東の防備の要となっていた【松森舘跡】までやって来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼松森舘会津領時代、東城と西城がおかれた時の東城にあたる。上下2段の平場にわかれ、下段では周囲に掘立柱塀跡や桁行6間・梁間2間(116×72m)、南面と北面に庇がつく掘立柱建物跡が確認されたほか、多くの柱穴が切りあっていることから数回建て替えられたことがわかる。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲案内板の他に【松森館】の標柱も建てられていますね✨◆陸奥国
※2024年1月6日訪問※本町谷御庭~洗心亭~本宮舘~搦手門~新城舘~堀切~空堀~土塁と二本松城の西側と北側の遺構を回って来ましたこの後は二本松城の東側の遺構を見て行きたいと思います本丸跡の石垣を見ながら遊歩道を降り【煙硝蔵跡】へ🚶【煙硝蔵】の案内板が建てられていますので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼二本松城址煙硝蔵平成15年度の発掘調査で、直方体の花崗岩を長方形に並べた建物跡が発見されました。この内2棟(1.3号建物跡)は大きさに少し差がありま
※2024年1月6日訪問※空堀付近に残る【土塁】も見て行きましょう現在は低くなってしまっていますが、城の北側を守る堅固な土塁が築かれていたと推測されます✨【土塁】の標柱も建てられていますね✨ちなみにですが、初めて二本松城を訪れた際、二本松駅からタクシーを利用したのですが、この土塁脇の細い道を通って、本丸側の乙森跡で降ろして頂きました個人的に二本松城は難攻不落の《山城》というイメージだったので、搦手門付近やこの土塁周辺まで道路が整備されている事に少し驚きましたが、アクセスしやすいという意
※2024年1月6日訪問※本丸北側の堀切から更に北側へ🚶すると見えてくるのが【空堀】の標柱です案内板などは設置されていませんが、人工的に掘られた地形を確認する事が出来ました✨◆陸奥国・二本松城(霞ヶ城)土塁/国指定史跡◆に続く
※2024年1月6日訪問※【奥州探題畠山氏居城霞ヶ城址碑】を過ぎるとすぐに【本丸石垣】が見えて来ますほとんどの方がこの雄大な石垣を見学し、本丸跡へと登られますが、この本丸石垣は前回訪問時にじっくりと堪能させて頂きましたので、今回は本丸の北側にある堀切などの未訪問の遺構を優先的に見学して行きたいと思います壮大な石垣を眺めながら、城跡の北側へ🚶すると【堀切】の案内板が見えて来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼堀切本丸北側へ延びる尾根を切り、堀状にした敵の侵入を防ぐ為の施設。
※2024年1月6日訪問※新城舘跡から搦手門跡を経由して本丸へと登って行きます途中に見えてくる巨大な石碑は【奥州探題畠山氏居城霞ヶ城址碑】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼奥州探題畠山氏居城霞ヶ城址碑当記念碑は、昭和28年(1953)に施工された本丸入り口左側石垣修復を記念して、畠山氏末裔である二本松氏により、昭和30年に入り口左側に建立されました。平成7年(1995)本丸石垣修築復元工事の完成に伴い、当所に移設しました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲天正1
※2024年1月6日訪問※新城舘跡の北側には【二本松少年隊顕彰碑】が建てられています✨【二本松少年隊顕彰碑】の案内板が建てられていますので確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼二本松少年隊顕彰碑この場所は「少年隊の丘」と呼ばれ、戊辰戦争直前まで少年たちが砲術の稽古を行った場所といわれています。当碑は、昭和15年(1940)の紀元2600年記念事業にあたり、出場した少年隊の顕彰を目的に、二本松町が建立したものです。碑表面は、旧二本松藩主丹羽家16代当主丹羽長徳の揮
※2024年1月6日訪問※二本松城の西の防備を担っていた【新城舘跡】までやって来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のときで、2城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城館」はその西城にあたります。平成10.11年度の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物跡や平場を取り囲む掘っ立て柱塀跡も確認
※2024年1月6日訪問※二本松城の【搦手門跡】を進んで行きます先程の案内板とは別の【搦手門跡】の案内板が建てられていました✨【搦手門跡】▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼搦手門跡城の裏面にあたる門のことで、現在は石垣および門柱を建てた礎石を残すばかりです。この門は、二本松城始築時の慶長初期(1590年頃)に建てられ、その後に何度が修改築されたことが絵図等でわかります。一般的に、城は敵に対する正面(大手)の防備は堅固ですが、裏面(搦手)はそれに比べて弱いところから、この語の起
※2024年1月6日訪問※霞ヶ城公園西側の遊歩道を登り【搦手門跡】まで登って来ました山の上に広大な石垣が詰まれている光景は圧巻です非常に立派な石垣です門跡の反対側にも石積を確認する事が出来ました✨【搦手門】の案内板が建てられていますので見てみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼搦手門この場所は近世の搦手門があった場所です。城の正面を大手と呼ぶのに対して、裏手を搦手と呼びます。平成13年度発掘調査の結果、新旧2時期の門跡が確認されました。第一期は掘立柱の冠木門(