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第51期棋王戦コナミグループ杯<共同通信社>挑戦者決定トーナメント準決勝、敗者復活戦、変則決勝戦伊藤匠二冠は斎藤明日斗六段に連敗斎藤明日斗六段は増田康宏八段に連敗さて増田康宏八段は藤井六冠相手に・・・?斎藤明日斗六段が実力を付けてきているとはいえ、伊藤匠二冠連敗は不味いでしょう「週刊ヤングジャンプ」(2007年第41号~第51号)掲載著者:柴田ヨクサル監修:鈴木大介八段発行:㈱集英社第6巻2008/3/24初版
丸山神明社(名古屋市千種区円山町1)11月22日の「さわやかウォーキング」の途中で立ち寄りました。豊彦稲荷(千種区法王町2)ここに神社ってあったかなぁと思ったら、揚輝荘の庭園の中でした。こちらも11月22日に。最初の鳥居の写真だけ後日撮り直しに行きました。結婚式の前撮りしてるのが場所占拠してたから。吹上八幡社(千種区千種2)こちらは鶴舞公園に行った日に。立派な竜がいましたよ。山神社(千種区田代町岩谷)名前からのイメージ
いつまでたっても歩きスマホ馬鹿が絶滅しない。というかますます増加傾向にある。今朝も、混んだ朝の電車が途中駅(品川駅)に着いたので人混みをかき分ながら降りようとしたところ、スマホを見ながらノロノロと降りようとする若い馬鹿が前にいて、危うく乗り込んでくる人波に押し戻されそうになった。せめて駅に着いて降りるときぐらいスマホから目を離してくれよ、この想像力欠如間抜け阿呆!そいつは下車してからもスマホを見ながらノロノロ歩いて私と同方向の階段に向かっていた。
📺17日午前中放送のテレビ観て…目黒不動行ってきた😅📺TVK【猫のひたいほどワイド】観終わって🚶♂️出発都営浅草線・五反田へ⇩⇩⇩五反田駅前⇩⇩⇩⇩⇩ハイボール¥99~先日まで薬局だったと思うが…?目黒不動行き🚏バス停…後ろのマツキヨ写り込み特に意味は無し…可愛かったので⇩⇩⇩🚍バス乗車~14:10発⇩⇩⇩🚍15~6分で目黒不動尊…乗ってきたバスを見送る目黒不動~境内?を通る🚍バス📺テレビに映っていた目黒不動尊・航空写真⇩⇩⇩📺テレビ・門前の茶店青木昆陽、
11月16日の一読は第3章の続きです。田村氏は、富や創造経営の出発点を、「どれだけ稼ぐか」ではなく、「どれだけ残すか」という一点に置いている。一食分の米を、二分だけ残し、明日に回す。その小さな余白が、やがて食に困らない暮らしを生む。どんなに利益が小さくても、その一部を必ず残すという習慣が、将来の大きな資産につながるというのである。この考え方は、経営の陣容にもそのまま当てはまると田村氏は述べる。全員がフル稼働している組織よりも、一部が「遊軍」として周囲を観察し、
11月15日の一読は第3章の続きです。田村氏は本節の中で、「経営者の仕事は決定することである」と述べている。そしてその決定の背後には、大局的視点と局所的視点の両方からの「注意」が不可欠だと強調する。その説明として引用されているのが、金次郎の有名な米の話である。米は一年に一回実るが、食べるのは十二か月だ。これは決定だ。そして毎日、米櫃をかき混ぜておれば均等な食生活ができる。これが注意だ。田村氏はここから、戦略は「仕組みづくり」、戦術は「仕掛け」であり、それを実行
11月14日の一読は第3章の続きです。田村氏によれば、誠実な経営は、結局いちばん強い。それは道徳的に正しいからではない。信用が積み重なり、結果として持続的な成果につながるからだ。信用の背後には、品質の確かさがあり、無理のない取引関係があり、そして推譲の行動があるという。それらは意図的につくり出されるものではなく、日々の判断と行動の積み重ねとして、周囲に自然と伝わっていく。金次郎の原点にあった「真心」二宮金次郎には、「勤勉に仕事に打ち込めば、誰でも生活は成り立つ」
高崎方面へ連れられて行ってきました玉村町歴史資料館に気持ちはジオラマ模型の中に入って実りの大地です玉村八幡宮へ天井には二宮金次郎の像です説明板で思い起こしました境内をじじいの散策みごたえがあります清めて三猿の説明板です彫り物がいいですねぐるりまわって穏やかな次回をおたのしみに
11月13日の一読は第3章の一つ目です。「経営課題の中にこそ、真理は埋もれている。」この言葉は、読むほどに重みを増してくる。私たちは課題に直面すると、「どこが悪いのか」「何が正しいのか」と論点を増やしがちだ。だが、二宮金次郎が向き合っていたのは、そうした議論の多さそのものだったように思われる。「古道に積もる木の葉をかき分けて天照す神の足跡を見ん」金次郎は、人々の心に積もった雑多な価値観や欲を「木の葉」にたとえた。今日の糧のみに生きようとする者、仕事は適当にして酒や遊びを優
11月12日の一読は第2章の続きです。魚も酒も、役を尽くすところへ登ってくる「魚も酒も山に登るものだ」金次郎は、勤労の意味をこの少し奇妙な言い回しで語っています。きこりが山に入るのは材木が好きだからではない。炭焼きが炭を焼くのも、炭が好きだからではない。それぞれが、それぞれの持ち場に立ち、その役を外さずに働く。そうしていれば、結果として生活に必要なものが巡ってくる。魚も酒も、わざわざ追いかけなくても、山に登ってくるのだ――金次郎はそう言います。ここで語られている「勤」と
11月11日の一読は第2章「地理から行動を学ぶ」の一つ目です。金次郎は、人生を「修行」と呼びました。ただしそれは、いつか悟りに到達するための修行ではありません。まだ上があると感じるうちは、学び、試し、失敗し、登り続ければいい。金次郎は、そう言います。けれど、ある地点まで来ると、これ以上、同じやり方では前に進めない場所に立つことがある。それは、もう学ぶものがないという意味ではなく、学びの向きが変わる地点なのだと思います。金次郎は、それを山登りにたとえました。山が高く見
11月10日の一読は第1章の続きです。『二宮尊徳と創造経営』第1章・第11節で語られるのは、「何かを得るには、まず何をするべきか」という、極めて具体的で現実的な問いです。金次郎は、困窮したときほど、「もらおうとする姿勢」そのものが状況を閉ざすことを見抜いていました。だからこそ彼は、「まず庭を掃け」と言います。求める前に、手を動かせることがある金次郎は、こんな例を挙げています。空腹のときに、「庭を掃くから飯を食わせてほしい」と言っても、それだけで一飯をふるま
11月9日の一読は第1章の続きです。『二宮尊徳と創造経営』第1章・第10節では、金次郎の経済観・社会観が、溜め池と水門という比喩で語られています。金や情報は、持っているだけでは価値を生みません。流れ、巡り、使われてはじめて意味を持つ。金次郎は、財や富をめぐる人々の振る舞いを見ながら、「水門を閉じて水の分け前を争う」姿に重ねて戒めました。財は、どこから生まれ、どう動くのか金次郎はまず、財の生まれる場所をはっきりと区別しています。財を生み出すのは、農業と工業
11月8日の一読は第1章の続きです。『二宮尊徳と創造経営』第1章・第9節では、金次郎の人生観・経営観が、「川を渡る」という比喩で語られています。川を渡るとき、油断すれば足を取られ、流れを甘く見れば溺れる。金次郎は、人生もまた同じだと見ていました。富者も貧者も、私利私欲にとらわれ、工夫のない利益だけを追い続ければ、思惑が外れたときに、簡単に流されてしまう。だからこそ、「覚悟して渡れ」と言う。ここでいう覚悟は、気合いや精神論ではありません。不測の事態が起
11月7日の一読は第1章の続きです。『二宮尊徳と創造経営』第1章・第8節では、金次郎の処世観が「世の海を渡る」という比喩を通して語られています。人生にも、事業にも、必ず波があります。順風の日もあれば、逆風にさらされる日もある。穏やかな凪もあれば、思いがけない荒波に出会うこともある。金次郎は、こうした違いを運の良し悪しや、才能の差としては捉えませんでした。それらはすべて、同じ海を渡る中で、どのような渡り方を選ぶかの違いにすぎない――そのように見ていたように思えます。
11月6日の一読は第1章の続きです。『二宮尊徳と創造経営』第1章・第7節は、金次郎の思想の中でも、とりわけ印象的な比喩から始まります。仁徳のある国は温泉のようなものだ。人が薪をくべずとも、もともと温かい。金次郎は、小田原藩主・大久保忠真に対し、江戸の日本橋と巣鴨村を引き合いに出しながら、「人が集まる場所」と「人が離れていく場所」の違いを説きました。日本橋は家賃が高くても人が集まる。それは商いによって報われる見込みがあるからです。一方で、条件が悪く、努力が報われない場所
11月5日の一読は第1章の続きです。『二宮尊徳と創造経営』第1章の6つ目は、湯船の中での大人と子どもの姿を通して、分限(ぶんげん)を知ることの大切さを語る場面です。金次郎は、次のようなたとえを示したとされています。湯船の中に立ち上がり、肩に湯をかけながら「湯が少ない」と怒鳴る大人がいる。そこで湯を足せば、子どもは入れなくなってしまう。そういうときは、かがめば良いのだ。大人がしゃがめば、子どもは立ったままで肩まで湯に浸かれる。これを金次郎は「中庸」と呼びました。
11月4日の一読は第1章の続きです。『二宮尊徳と創造経営』第1章の5つ目は、人と人との関係を「湯船」にたとえた、非常に印象的な話から始まります。二人で湯船に浸かっているとき、自分のほうにばかり湯をかき寄せれば、いずれ湯は相手に戻っていく。しかし、先に相手へ湯を送れば、相手は喜び、その湯はめぐって自分のところへ返ってくる──。金次郎は、この身近なたとえを通して、人の行いや関係の成り立ちを語ったとされています。■先に与えるか、先に取り込むかこの比喩が示している
ニュースを見てたら北海道で二宮金次郎の像が盗まれたとありました。最近は撤去が進んでいるようですが今も設置されてる学校もあるかもしれません。二宮金次郎(尊徳)が実際どういう人かあまり知られていないこともあるかと思いますが、江戸後期の藩の財政改革、農村復興を行ったことで有名です。のちの信用組合に繋がる仕組みを作り、「報徳思想」は渋沢栄一や松下幸之助に影響を与えたともいわれます。二宮尊徳と報徳|報徳博物館hotoku.or.jpまた何度も伊勢参りしたり成田山で断食をしたり
11月3日の一読はこちらです。『二宮尊徳と創造経営』第1章の4つ目のテーマは、水の流れを手がかりにした金次郎の教えです。村の復興に成果が見えはじめ、他の村からも「指導してほしい」という嘆願が相次いだとき、金次郎は次のように語ったと記されています。「水は必ず低い方に流れ、窪地が満ちてから次に進む。」「低い所が満ちないうちに先を急げば、すべてが中途半端になる。」成果が出たように見えても、まだ土台が固まりきっていない段階で“次の村”に手を広げることはできない。復興は水のよう
先日に杉並区立郷土博物館をを訪ねたのは、もっぱら特別展「昭和歌謡は杉並から生まれたテイチク東京吹込所物語」を覗くためであったわけですが、せっかく出向いたついでですので常設展示もひと通り見て廻ることに。そもそも郷土博物館らしく?たどり着いたところでは、かように立派な長屋門に迎えられるのでもありまして。もちろん移築されたものですけれど、「建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804~1829)頃と推定されるとか。ことさら立派感があるのは屋根が銅板葺になっているからでもありましょう。もっと
定休日。今日は、相方とお出かけ。少し早いクリスマス⁇忘年会⁇レストランでランチをいただきました。メルキュールホテル内にあるリストランテトラットリアMキョウトのランチコース。プラス・リゾットをいただきましたデザートのティラミスまで、全て美味なり。ご馳走様でした。食後、折角なので近所を散策する。西本願寺。貴女の母校の母体やで。銀杏が美しい。因みに粗粗、外国人観光客。銀杏を楽しんだ後、正面通を歩く。ここは、本願寺御用の仏具店が多い。途中、玄関開けっぱなしの軒先にワンコが
11月2日の一読は第1章の3です。『二宮尊徳と創造経営』第1章の3つ目のテーマは、「水は傾く方へ寄るものだ」という言葉から始まります。ここで紹介されているのは、物事の増減・好不調・巡りの変化をどう捉えるかという視点です。田村氏はこの言葉を、「創造的な経営者の姿勢」と結びつけて解説していきますが、丁寧に読み進めると、金次郎の思想の一端が見えてきます。■運の増減は“外側の出来事”ではなく“心の傾き”章の中で紹介される金次郎の言葉がこちらです。「増減は器傾く水
11月1日の一読は第1章の2です。ここでは、事業承継の心得として次の印象的な言葉が紹介されています。「事業を継承するとは、平らな盆に張られた水をこぼさないように運ぶようなものだ。」欲を出せば盆は傾き、迷えば水は揺れ、やがてこぼれる。まずは前任者の歩みを静かに受け取り、状況をよく知るところから継承は始まる──そんな趣旨のたとえです。田村氏はここから、継承者には「前任者の意図をよく知り、その後に自分の考えを育てるべきだ」と導き、聖徳太子の「同知職掌」、中国の「守成」の思想に
お立ち寄り頂き有難うございます✨🎄⛄🎄⛄🎄⛄🎄✨12月10日(水)晴れ☀️14℃―3℃先日孫から届いた【京都の写真】をアップします西本願寺の大イチョウ携帯の中にも大イチョウが、鏡映りしています(同じ場所?)西本願寺・御影堂(国宝)龍谷大学大宮学舎(本館)手にスマホを持ち、現代の【二宮金次郎】を再現しているそうです京都駅ビル(プロジェクトマッピング)おみやげに買ったお気に入りの【チョコバナナ味】と、【チョコいちご味】の生八ツ橋試食して気に入った【京ラ
10月31日の一読は第1章の一つ目です。私たちは毎日のように新しい情報に触れ、さまざまな知識を蓄えていきます。けれども、それらは金次郎の言う“氷”のままでは流れず、動かず、自分の力にもなっていきません。その氷を溶かし、清流へと戻すもの──それが金次郎の言う「胸中の温気」です。本書『二宮尊徳と創造経営』の冒頭でこの点が取り上げられていました。それを手がかりに、現代の創造や実践を、金次郎の視点からあらためて読み直していきます。いちばん惹かれたところまず好印象だったのは、本書の冒
10月30日の一読はこの本です。私たちの暮らす社会は、ここ数年でさらに変化の速度が増してきたように感じます。テクノロジーの急速な進展、価値観の多様化、働き方の揺らぎ、地域コミュニティの弱体化。便利になった一方で、「どう生きるのがよいのか」という基準が見えにくくなり、大人も子どもも迷いやすい時代になりました。表面的には豊かでも、心の拠りどころとなる“生きるための定規”が揺らいでいる――著者の田村氏は、そのような時代状況に問題意識を置いています。そして、この揺らぎの中で、私
10月29日の一読は本書の補遺でした。ー直系と門流の歩みから見える“継承”の姿二宮金次郎(尊徳)が亡くなったあと、その志と実践はどんな形で受け継がれていったのか。今回は、『補遺尊徳以後』に描かれた流れをもとに、尊徳の死後、直系(尊行・尊親)の歩みと、門流による「報徳運動」の広がりを振り返ってみます。尊徳研究を進めるうえで、“思想は継がれたのか?”“受け継がれなかったものは何か?”を考える重要なヒントになる内容です。■1.父のあとを継いだ尊行が直面した「維新という激変」
10月28日の第10章の最後までです。真岡代官所での六年間は、仕事は増えるのに成果は見えず、多忙なわりに心の手応えが薄い、そんな時期でした。しかし──その苦い歳月のあと、ようやく幕府から「本気の仕事」が降りてきます。■「日光御神領の仕法を任せる」──金次郎の嘆願に応じた幕府嘉永六年(二月)。日光領の荒地を立て直すという大任を、幕府は金次郎に命じます。この背景には、金次郎自身が出した長文の嘆願書(3,900字)がありました。「私はもう66歳。人生の残りはわず
10月27日の一読は第10章の続きです。天保十五年の雛形づくりを経て、金次郎は幕府から「真岡代官所への転任」を命じられます。桜町の陣屋で暮らした25年に別れを告げ、一家はすぐ隣の東郷陣屋(のちに真岡本陣)へ移ります。距離は一里ほど。しかし、金次郎の心境としては“第二の故郷を離れる”ほどの重みがありました。■真岡代官所での6年間は「とにかく忙しかった」転任後、金次郎の周りで動く仕法は一気に増えます。烏山藩下館藩小田原藩相馬藩さらに天領の村々(桑野川、棹ヶ島