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水戸城二ノ丸角櫓二ノ丸土塀大手門大手橋杉山門柵町坂下門
※2024年3月29日訪問※不明門跡から三ノ丸には入らず、【二ノ丸の東側の石垣】をじっくりと堪能して行きます土塁のお城も素敵ですが、石垣が有る事でより堅固な印象を受けますね下の画像の左下の方に丸い形の石材を見る事が出来ますが、こちらは【笑い積み】と呼ばれる石垣の積み方だそうです✨規則的な打込接の中に不安定な丸い石を詰め込み、周囲に栗石を詰めて補強したものになっていて、口を開けて笑っているように見えるためこの名前が付いたそうです✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)二ノ丸東側石垣(はばき石垣)
最上義光の居城だった山形城その後徳川家の有力大名保科氏の居城に国内5番目の規模ということもありかなり広さです二ノ丸東大手門からstart度重なる藩主交代に伴い石高が削減され維持が困難になり荒廃しほとんどが失われましたが二ノ丸跡が霞城公園として残されています本丸へ向かいます
今日は、山形城に行きました🏯二ノ丸東大手門横が登れるんだネ(^o^)今まで登ったことありませんでした(^_^;)いいじゃないですか\(^o^)/ここから出ます一番残ってる感じの二ノ丸東大手門です(^o^)byXperia1Ⅲ
北御門橋を渡った先に石垣が見えますが、これが北御門跡だそうです。北御門は、二ノ丸北側の門で、門の先には石垣による枡形状の空間があったそうです。二ノ丸へ入ってすぐの右手側には、馬場先御門があり、その先に馬場があったとの事でした。右の石段を上がると、二ノ丸堀(中堀)を見下ろす事が出来ました。
駿府城公園二ノ丸の東にある東御門です。東御門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される桝形門で、桝形門は要所に石落し、鉄砲狭間、矢狭間等をもつ堅固な守りの実戦的な門で、戦国時代の面影を残していると書いてありました。東御門の両側には、門松がありました。
駿府城公園二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋の下には、内堀遊覧舟「葵舟」の乗船場がありました。
静岡市歴史博物館前から見た駿府城二ノ丸東御門巽櫓です。巽櫓は、駿府城二ノ丸の東南角に設けられた三層二重の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれたそうです。この櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていたとの事でした。かつて駿府城を囲んでいた堀は3重だったそうですが、最も内側の内堀がほぼ埋め立てられて2重の堀となっており、これは中堀だそうです。駿府城公園二ノ丸の東にある東御門です。東御門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御
名古屋城二ノ丸庭園にある二の丸茶寮の周りが晩秋色に色付き。(12月1日撮影)晩秋色から目が外せません。撮影してから10日も経っていますので、今は散りモミジになっているかもしれませんね。見上げれば、うろこ雲からも目が外せませんでした。その2に続きます。
そろそろ、市内部も紅葉🍁か?松山城の二ノ丸に行ってみました。愛媛のブロガーさん達が、夜のライトアップを挙げてますよね。私は、昼間に❗堀之内、城山公園から、歩いてテクテク🚶江戸期の後、ここには学校が建ってました建屋が復元される前は、中学校が有りました。今の二ノ丸の建屋は、復元されたものです。私は高校が、松山だったので、同級生がここの中学出身が多々居ます。城東中学です。御幸中学と合併して、松山東中学となって移転しましたが。現在は、観光地として、外側中心に復元され。
ボクは昔の日本企業が強かった理由は、企業に利益貢献した男を社長に据えたことーーだったと思っています。だからそれを実現しようとみんながんばったーーその結果日本企業は強くなった。いま、そうではないような気がします。利益ではなく、ほかの企業活動で貢献した人たち――がえらくなり、どうしたらえらくなれるか――正直訳が分からないのだと思います。ボクは野村証券に野村番として取材に行き、社長になるにはどうしたらいいかを学びました。今だからこそ国際派企業ですが。その柱はどうやったら利益が上
最終日(11月13日)は、平戸温泉を出発して肥前名護屋城と福岡城に行きました。肥前名護屋城に行く途中は焼き物で有名な伊万里と有田を通り有田で有田焼きの器に盛り付けた豪華なランチをいただきました😊肥前名護屋城は、佐賀県唐津市にあり豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して出兵拠点として築かれた本格的な陣城で平山城「国特別史跡」「日本100名城」です。大手口(正面入口)東出丸(侍詰所があったと推定されている)本丸跡天守台からのぞむ三の丸井戸跡取り壊された石垣一国一城令を受けて人為的に破
前回に続いて10月下旬の週末に愛知県岡崎市を訪問して「グルメ&お城めぐり」を愉しんだ旅の様子を紹介します。今回は「どうする家康大河ドラマ館」を訪問するため、岡崎城二ノ丸までやって来ました。岡崎城二ノ丸を訪問岡崎城は、徳川家康公が生まれた、神君出生の城です。駐車場からほど近い場所にあるのが「東隅櫓」、2010年(平成22年)に再建されました。東隅櫓の脇を通り二ノ丸へと通じる道は「南切通し」という幅が狭く切り立った石垣が迫る通路。途中で折れ曲がり東隅
駿府城跡静岡県静岡市駿河区駿府城公園令和5年(2023年)8月10日㈭撮影1989年(平成元年(1989)年に復元された巽櫓と平成8年(1996年)に復元された東御門が見えてきました。堀に架かる東御門橋を渡ります。東日本高麗門を潜り東御門櫓門を潜り駿府城東御門券売所駿府城有料エリアの開館時間は午前9:00〜午後4:30(入園は午後4:00まで)料金は東御門・巽櫓大人200円/小人50円紅葉山庭園大人150円/小人50円・坤櫓大人100円/小人50円●
①五葉城址(出丸・二ノ丸・本丸)彷徨い(H348m)五葉城は西郷氏が石巻に供える「月ヶ谷城」の支城で、五葉湖の南にそびえる標高348mにあります。創建は南北朝時代と言われていますが、西郷氏と野田城の菅沼氏とは姻戚関係にあり、西郷清員と菅沼貞則は、従兄弟関係です。宇利城の戦いで西郷と菅沼は松平(のちの徳川)勢に従い先陣として軍功を立てています。子孫の西郷義勝は1571年武田との戦いで戦死しますが、この時の義勝の妻「お愛の方」が7年後に徳川家康に嫁ぎ
23/10/23月、霞城(かじょう)公園(山形城跡)山形支店の内部業務監査立ち会いの前に山形市へ早入りして見学散策0518起床、シャワー0620北綾瀬→西日暮里→上野0718上野発新幹線つばさ11,240円乗6,050特1,130幹特4,0601006山形着1015宿泊先の山形駅西口ワシントンホテル(霞城セントラル24F)のフロントへ荷物を預けて出発1030『霞城公園』着1356年に羽州探題と
昨日は、毎日サンデー仲間のK氏と歴史遺産探訪シリーズとして砺波市の増山城址を探訪して来たのでござる。今回の探訪は、珍しくK氏からの提案でもちろん即決定となった次第。増山城址探訪は12年、21年に続いて今回が実に3度目の登城でござる。増山城は現魚津市の松倉城、高岡市の守山城とともに越中三大山城に数えられている。しかも増山城には、大堀切や連続堅堀群、土塁といった山城に特徴的な施設を備えており、「山城の教科書」と呼ぶにふさわしい山城といわれる。先ずは、増山城の歴史からご覧く
白河小峰城の敷地内にある二ノ丸茶屋さんへ。おすすめされたあんみつを。ボリュームもあって美味しかったです。白河小峰城。100名城、福島県制覇です。
≪大阪城公園≫せっかく、ここまで来たので行きたいなぁ~あまり、時間がないので、バタバタ近くまで行って、戻りました(笑)≪大阪城公園内をロードトレイン&エレクトリックカーが運行≫ロードトレインは森ノ宮駅の噴水から、スタバの近くですいっぱいお客さんが乗っていました私は、周りを見ながら、歩きましたお堀の所で、ビルが反射して、シンメトリー上には飛行機が・・・重要文化財≪桜門≫本丸の正門にあたる。重要文化財。1626年(寛永3年)、徳川幕府の大坂城再築工事で創建されたが、186
6月24日大人の休日倶楽部パスを利用して山形を訪れました24日は一日中山形市内観光をしました(徒歩)先ずは山形城址東北屈指の戦国大名・最上義光公がその礎を築いた「山形城」。1986年に国の史跡指定を受け、2006年には「日本100名城」に認定されています。山形市市街地のほぼ中央にあり、第二次世界大戦後は「霞城公園」として一般公開され、近年、発掘調査と復原工事のプロジェクトが進行中。1991年には城門の「二ノ丸東大手門」、2005年には「本丸一文字門大手橋」などの復原が進み、往
6月25日に講座『毛馬内の町を歩く』を開催しました。あいにくの曇り空で時おり小雨の降る中での散策でした。集合場所の鹿角市先人顕彰館にて館駐車場を出て古町を伊藤家、泉澤家等武家屋敷を通り大手坂を登ります。二ノ丸へ上り、横田家、内藤湖南の父、十湾の家塾「育焉亭」跡、内藤湖南の移り住んだ家を経て柏崎新城跡へ搦手坂を下り、十和田市民センターから五軒町、横丁勝俣家を西に下り、常照寺から登って本光院、月山神社里宮を経て本町通りから立山文庫、仁叟寺を経て終点の顕彰館に戻るコースでした。
ご参考に。見事な巨大空堀と本丸二ノ丸を下りて本丸へ!二ノ丸は、しっかりした石垣に守られています。手前が空堀。本丸に上がりました。二ノ丸側を見る。二ノ丸の目印は、ハンコがある小屋。往時は、軍用の水や食料を貯蔵する小屋だったようです。本丸を見る。広いですね。左側に土塁跡が見えます。月山略史年表山中幸盛塔(山中鹿介)この石塁は?勝日高守神社なんとも湿度の高さを感じる苔むした神社。【周囲の状況に十分ご注意のうえ、ご参拝ください】と注意書きがあり、これ以上、歩を進めることが
松江城の本丸や二ノ丸に至る「北惣門橋」。その東の袂に、家老屋敷がありました。今は、「松江歴史館」になっています。市立の歴史博物館は、福岡、大津、岐阜などが優れていますが、「松江歴史館」も、なかなか見応えがありました。今も、家老屋敷の佇まいを残しています。松江城と城下町を整備した堀尾義晴公を顕彰しています。この方は、不昧公です。城下町のジアラマです。ついつい、見入ります。水の都らしく、堀で囲まれた城山の守りは、完璧です。成熟期の城下町は、こんな感じです。
前回の二ノ丸からの続きです5月3日のお昼ごろには彩雲が出ていました◆本丸天守台の石垣◆城内最大の高さ(約12m)を誇る圧倒的な天守台石垣。かつて三層の天守が建っていました。現在の趣ある苔むす石垣の姿も魅力があります。高取城本丸跡、国の指定史跡である。二ノ丸から本丸へ向かう際に最初に現れるのが天守閣の袂になる。2003年に本丸付近が整備され本丸周りを1周することが
鳥取城跡です🏯鳥取城も桜が満開です🌸「日本さくら名所100選」にも選ばれた鳥取を代表する桜の名所です🌸かつて「鳥取城の戦い」では、秀吉の兵糧攻め「鳥取の飢え殺し」という悲劇の跡地ですが…現在は、鳥取城は久松公園として整備され美しい桜が咲き誇ってます😆鳥取城跡二ノ丸、お堀端を含め、公園内には約230本のソメイヨシノが咲き石垣とのコントラストは、圧巻でした‼️お花見時期は、ぼんぼりが取り付けられライトアップも行われます🌛夜桜の幻想的な美しさと屋台も出店して花見客で賑わいます🤡
岸和田城は、建武新政期に楠正成の一族、和田高家が築いたといわれ、別名千亀利城(ちきりじょう)とも呼ばれています。1585年、羽柴秀吉は紀州根来寺の討滅後、叔父・小出秀政を城主とし、秀政によって城郭が整備され、天守が築かれました。しかし、この天守は1827年に落雷で焼失し、明治になって櫓・門も破却されたため、堀と石垣だけが残りました。現天守は、1954年に建造された3層3階の天守で、城跡は1943年に大阪府指定の史跡となりました。最初の写真は二
ああいう石垣を見ると燃えてきますね。(^o^)『東御門』がありました。\(^o^)/現在は石垣のみですが、当時はこの門の東側石垣上には2重の炭櫓(高矢倉)が、西側には革櫓と呼ばれる櫓が設けられていたそうです。かなり幅が広い門ですが、右に折れ曲がっていて、防御力もかなり高そうです。坂をのぼったところが二の丸(東二の丸)で、二の丸御殿が建てられていました。この辺に『二ノ丸御殿』があったんでしょうね。(^o^)向こう側にはラグビーやサッカーなんかも出来そうな広さのグラウンドが見えますね。
鳥取城跡です🏯鳥取城といえぼ天球丸⭕️球面石垣が一番の見所です🍂角を持たない球面の石垣は、亀の甲羅のような形状に積み上げられ🐢国内では確認事例がなく、国内唯一の大変珍しいものです🤔見学は、二ノ丸の一段上にある天球丸から常時可能ですし、天球丸下段の広場からも見学は可能ですが積雪があり除雪は、してませんので近づくのに大変でした☃️ですが雪を被った天球丸も冬の鳥取城を象徴する姿かと思います❄️
※2023年1月12日訪問※山形城の二ノ丸大手門に架かる【二ノ丸東大手橋】ですこちらの東大手門ですが、観光客の方というよりかは、地元の方々が自転車を押して通ったりと、通勤通学の近道としても利用されているようです思ったよりも人の往来が有る場所なので、人が入り込まないように撮影する際には御注意をさて、この二ノ丸東大手橋ですが、橋の下には二ノ丸を囲う水堀とJRの線路が敷かれている事が特徴です上の画像、城に近い奥の木橋部分の下には水堀、手前のコンクリート橋部分の下には線路が有るのでフェンスが設
※2023年1月12日訪問※山形城二ノ丸東大手門の【北櫓】ですこちらは、二ノ丸内部からの北櫓枡形内部から見ると、石垣の上に巨大な櫓が乗り、土塀が付随している様子がわかります石垣・白壁・瓦屋根と、城郭建築の美しさを実感する事が出来ました✨◆出羽国・山形城(霞城)二の丸東大手橋/国指定史跡◆に続く