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先日、やさしい日本語指導員の養成講座を修了しました。その前に、やさしい日本語って何ですかという方もいらっしゃると思いますので、簡単に紹介します。私たちは国際公用語は英語だと思いがちですが、そうではないことに気づかされる自体が発生しました。それが、1995年の阪神大震災です。この時、重要な地震情報や生活情報が、被災した外国人には伝わらなかったんです。もちろん、英語などで伝える努力はしていたでしょう。でも、そこに思い違いがあったんですね。データ上の簡単でいうと、英語を母語とする
久方ぶりの更新です。忍者体験の実施に向けてクラウドファンディングですが、要望があって、ご支援へのリターンにグルメコースも新設しました。https://camp-fire.jp/projects/view/26226新たに追加したのは、謙信公鍋セットです。これは、上越地域特有の香辛料「かんずり」と地元産野菜にみそを加えたセットです。これがなぜ謙信公鍋なのか。それは、かんずりの誕生に謙信公が関わっているからなんです。謙信公は、当時高価だった唐辛子を上方から取り寄せ、
軒猿体験プログラムに向けてのクラウドファンディングですが、ようやく三人目、四人目の支援者が現れました。ありがとうございます。また、2人ほど支援の約束も頂いております。ありがとうございます。そのほか、クラウドファンディングを達成した先輩たちからもアドバイスを頂いております。この場を借りて感謝申し上げます。さて、この忍者体験プログラムについて聞かれる「軒猿」について紹介します。軒猿は上杉家に仕えた忍者集団でした。でも、なぜ伊賀や甲賀に比べて無名なのか。それは「優秀だから」
いつもお読みいただいてありがとうございます。これまで私の半生を書いておりましたが、このたび、忍者体験プログラムを実施すべくクラウドファンディングを友人の手で立ち上げてもらいました。私自身、ぜひとも実現させて、起業という夢にむかっての第一歩にしたいと考えております。そこで、私という人間を理解して頂くための半生の記録をいったん、中断したいと思います。次回からしばらくは、クラウドファンディングに挑戦する男のドキュメントに変更してお届けしようかと思います。期限は8月末日。そ
今まで私の半生を書いてきたこのブログですが、今日は少し内容を変えて、近況報告です。クラウドファンディングを立ち上げました!クラウドファンディングはwebやSNSを通じて、実行を希望する計画に対し広く一般からの支援をお願いする資金調達の手段です。私が立ち上げたプロジェクトは、下記URLから確認できます。一度ご覧になってください。https://camp-fire.jp/projects/view/26226私が実行したいプロジェクトとは、新潟県上越市で忍者体験プログラムの
新津を後にして、私は松山に行きました。松山は、歴史のある街です。松山城下には大きな商店街があり、愛媛一の繁華街でした。大街道商店街です。秋山兄弟や正岡子規などもこの大街道で遊んだりしていたことでしょう。無論当時はこんなのではなかったはずですが。そして、愛媛は豊かな土地だったんでしょう。土佐や阿波のように一国大名ではなく、複数の藩に分割された土地でした。家康の大名配置は、豊かな土地は複数の大名に分割統治させ、大きな勢力が出ないようにすることが基本政策でした。越後は上杉謙信のよう
新津に戻って数日後、愛媛朝日テレビから携帯に電話がありました。やってくるなら内定を出すということでした。もう一も二もありません。――よくもまあ、あの状態で臨んだ面接で通ったものだ――そう驚きつつも「よろしくお願いします」といって、内定を頂きました。それはそれでよいのですが、こうなると新たな問題が発生します。どうやって退職を切り出すかでした。これについては、信頼できる先輩に相談し、まずは直接上司である部長に申し出るべきと言われました。しかし、会社にとってはマイナスの申し出で
愛媛朝日テレビから二次(最終)試験の連絡が来ました。幸い今回も日曜日なので、一次試験の時のように仕事の代打を組んでもらって松山へ入りました。松山入りした日ですが、台風が徐々に接近していました。ただ、風が強いとかではなく、フェーン現象が起きていて、気温がぐんぐん上昇していたんです。一方で、松山に着いて、坊ちゃんスタジアムでプロ野球デイゲームがあると知りました。――これは見に行こう――町ネタでこれ以上のものはないですし、自分も見てみたい。坊っちゃんスタジアムも見たい。そんな思い
四国は愛媛・松山の愛媛朝日テレビにエントリーシートを密かに出しました。既卒も受験可能のありがたい局でした。まあ、そんなこと言っても通るかどうかはわかりませんでした。そして、書類提出の締め切りから少しして、一次試験の案内が届きます。この時、いつ行われるかが重要です。というのも、遠くの試験を受けにいく場合、前泊が必要です。それなので、移動日+試験日(終了後帰着)ということで2日必要です。2日も休めるのかどうか。試験日が平日に設定されていた場合は完全にアウトでした。しかし、案内を見ると
エフエム新津では、結構楽しく働いていました。まあ、それなりの悩みもあったのですが、総じて楽しく働けていたと思います。でも、そんな私にも野望がむくむくと湧いてきました。――もっと大きなところで経験をしたい――実際のところ、野球やスポーツの実況がしたかったという想いがありました。それが現況では難しいと感じてはいました。けれども、本当に新津でやりたければ、エフエム新津でも頑張って実現できたはずです。それを選択しなかったのは、やはり私にもっと大きな放送局で働きたいという野望があった
エフエム新津では歴史好きというよりも野球好きで通していたと思います。パ・リーグ好きで売っていたということもありますが、アナウンサーとして話をしやすかったという実利の面もありました。なにせ毎日、試合を通じて話題を提供してくれるわけですから、話し手としてはありがたかったんです。話は変わりますが、アナウンサー試験の一つの実技の中で、「フリートーク」というものがあります。これは1分とか2分とか時間が与えられ、その中で自由に喋ることです。ただし、時間を超えることは×です。余らせすぎても×です。
エフエム新津の仕事で頻繁に通ったのが、シネウインドです。シネウインドの映画紹介コーナーを前任者から引き継いだのがきっかけでした。実はそれまでは映画が好きというわけではなかったのですが、シネウインドに取材に行くようになってから好きになりました。いえ、むしろシネウインドのスタッフの方々に影響を受けたと言ってもいいでしょう。世の中にこんなに映画を愛してる人々がいたんだと知りました。それまで映画といえば、全国ロードショー系のものしか見ませんでした。しかし、シネウインドで上映するのはいわ
紆余曲折あって新津に移り住んだ私ですが、エフエム新津にてアナウンサーとして働くことになりました。ここでの仕事は非常に恵まれていたと思います。何せ人がいないのですから、すぐに喋ることになります。番組を持てます。いえ、持たされます。否やはありません。すぐにCMコメントとります。ナレーションします。取材します。素材管理しますという感じで、いわばOJTの連続です。実地で学び、実地で傷つき、実地で克服するという環境です。今でも思い出して冷や汗かくのは、最初に取材した酒蔵の素材を機械操作間違って
大学院修士課程の年に受けたアナウンサー受験ですが、いいところまで残るものの合格はもらえずに終わりました。周囲や肉親からは「もうやめて、埼玉に帰ったら」ということを言われます。まあ、当然ですね。私が親で、子どもが同じ状況だったら同じことを言うと思います。けれど、私はその道を選ばず、アルバイトしながらアナウンサーをめざすことを決めました。複数の会社で最終試験まで残るのは、脈ありだということがわかっていました。アナウンサー試験はその受験性の数に圧倒されて、難関だと思われがちです。
生田教室で指導を受けることになりましたが、劣等生だった私は怒られてばかりでした。活舌やイントネーション、読みのリズムや鋭さなど怒られない部分はないくらい怒られました。ええ、自信などは全く喪失状態です。こうなると人間悲惨なものです。思考がマイナスに陥ってしまうんですね。しなくてもいいミスまでしてしまう。それで自信をさらに失うという悪循環に陥りました。そんな中で、大学3年生の後半に差し掛かりました。当時は年明けころから東京のキー局を皮切りに各地でアナウンサー試験が始まっていきます。
先回お話ししたアナウンサー受験者のスクール「生田教室」に入室してしまったんです。ええ、正しく「してしまった」という表現が正しい場所でした。もうね、厳しいんです。普通、原稿読みなどが上手くならなかったらその方法を先生があっさり教えて、その場で実践させて「それでは次回までに」というのが普通だと思うんです。いや、基本はそうなのですが、生田教室はその熱量が違いました。生田先生が、学生一人一人に真剣に向き合ってくれるんです。こう書くと、何と素晴らしい先生なんだろうと思われるでしょう
龍谷大学合格を決めた私ですが、まだ洛中に向けた足掛かりを得ました。後は、関西4私大いわゆる関関同立の壁を突破することに照準を絞っていったのです。しかし、そうはいっても人間は弱いもの。――浪人するかも――という重圧から解放されるとここ一番での踏ん張りがきかなくなります。人間追い込まれてると、――あと少し頑張ろう――と英単語の1つや2つはさらに覚えようとします。しかし、同じ状況で――まあ、いいか――という緩みが出るんです。それは最初は修正が利くレベルであったとしても、やがては大き
歴史オタクになりかけの小学生が中学生になったらあなたはどうなると思いますか。中学になると、歴史の授業が始まるんですね。そう、ようやく社会好きの人間、歴史好きの人間が日の目を見ることができる時代が来るんです。雌伏●年という感じです。この中1の時の担任が、社会科の先生でした。この先生、私にとってはとてもいい先生でした。私が在学中に、卒業する中3生の一部から『お礼参り』をされたこともある先生だったんですが、いい先生でした。仮にN先生とします。このN先生ですが、今でも覚えているのが授
私が歴史を好きになったきっかけは、王道ですが歴史漫画でした。人物シリーズで豊臣秀吉を読んで以来、はまってしまいました。小学4年頃に風邪で数日学校を休んだ時に、母親にお願いして本屋で買ってきてもらったんです。立ち読みしていて気になったものでしたが、値段がなかなか高かったので、買ってきてもらったんです。農民の出から(現在は商人の出という説もあるようですが)天下人にまで上り詰めた秀吉の物語に魅かれました。そのうちに、関連人物である織田信長や徳川家康、伊達政宗や武田信玄、上杉謙信といった人物たちが
私が考えている戦について書きます。単純な遊びほど、人って熱中しませんか。その最たるものがチャンバラだと思うのです。刀を手にして、相手と戦う。これは燃えるはずです。Tシャツ短パンでやってもいいのですが、どうせやるなら実際の恰好でやった方がさらに燃えるはずです。そこで、戦を考えました。現在、段ボールで作る甲冑も売り出されてますし、安全なおもちゃの刀も塗装して本物感を出すこともできます。しかし、いくら実戦に近くといっても、危ないことは避けねばなりません。そこでどうなったら討死か
誰しも幼い頃、何かに憧れたことはありませんか。仮面ライダーかも知れないし、ウルトラマンかも知れません。今の子どもだったらなんだろう。ポケモンなのかも知れませんし、中には妖怪ウォッチの影響で妖怪に憧れる子もいるかも。昔は「早く人間になりたい」という妖怪がいたのに時代も変わったもんです……シミジミ。さて、私も仮面ライダーや野球選手などに憧れてましたが、もう1つ憧れたものがあるんです。勘の良い人はもう気付いたと思いますが、そう武士です。侍です。新聞紙丸めてチャンバラなんてやったん