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私は年のわりには、やや古い言葉を使う癖がある。たとえば、ハンガーのことをエモンカケという。衣紋掛けと書く。メジャーのことを巻き尺といい、傘のことをコウモリなどと言う。ほかに、ガランドウなどとも言う。いまなら、普通は空っぽとかいうのであろう。そのように言う理由は、とくにない。子供の頃の環境なのか、よくわからない。同様にして、カイショウなどとも言う。甲斐性のことだ。あの人は甲斐性のない人だ!などと言うのは、頼りのない人というほどの意味だが、甲斐性自体には「人間的な頼もしさ
本日は旧暦の5月27日ですが、建長元年(1249年)五月二十七日は後嵯峨天皇の第七皇子恒仁(つねひと)親王が誕生された日です。※単純に旧暦にあてはめています。父君の後嵯峨天皇は既に譲位されていて、6歳違いの同母兄の後深草天皇の御代のことです。恒仁親王が十一歳の時、後嵯峨上皇の意向で譲位させられた兄に代わり即位しました(亀山天皇)。父の意向とはいえ、この事が後に兄弟間の確執を生じさせることになります。院政を敷いていた後嵯峨上皇が崩御されるとご自分の皇子に譲位し(後宇多天皇)、治天の君と
第八十八代後嵯峨天皇は鎌倉時代の天皇です。後嵯峨天皇の二人の皇子により、朝廷は二つに別れていきました。これが南北朝時代、また後南朝まで続く200年に渡る大乱の原因となっていきます。承久二年(1220年)生。御名は邦仁(くにひと)。御父は土御門天皇、御母は源通宗の娘通子。在位、仁治三年(1242年)~寛元四年(1246年)。土御門天皇の第三皇子の邦仁王は、承久の変で父が自ら土佐に流された時は二歳で、母の叔父や祖母のもとでひっそり暮らしていました。二十歳を過ぎても元服せず出家する予定だ
常寂光寺に続いて二尊院を訪ねました。法然上人の御廟と土御門天皇後嵯峨天皇亀山天皇の遺物が納められている御陵と数多の公家のお墓がありました。後日土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇について調べてみました。ローバーのネタ本土御門天皇は父親が承久の乱の後鳥羽上皇で土御門天皇の息子の後嵯峨天皇は皇統を大覚寺統と持明院統に分裂させて後嵯峨天皇の息子の亀山天皇は蒙古襲来に「敵国降伏」を石清水八幡や、伊勢神宮に祈願した。と。神風吹いたあヨッシャそっかそうなのか教
26.01/17sat.07:30-18:252番極楽寺から西に、板野IC.の南を過ごし右折から左回りに、白鳥神社・亀山神社左折して駐車場、金泉寺仁王門まっすぐ、本堂本尊釈迦如来に納経東側に西向きに、大師堂南無大師遍照金剛……右手前に北向に、観音堂本堂の左となりに、不動堂左手前に、慈母観世音菩薩像右となりに、子安大師像大師堂の右となりに、黄金の井戸(寺名由来)左後方に、閻魔堂本堂の右に、倶利伽羅龍王像本堂の後方に、長慶天皇の御陵多宝塔(阿弥陀堂)
京都府左京区界隈は初参詣何処をどう拝観すれば良いのか分からない10月も近江国巡礼や塩田平札所巡りに、孫ちゃま達の子守で、下調べが全く出来ておらず、ある程度の行先はチョイスしていましたが、公共機関や寺社の拝観所要時間まではリサーチ出来ず…南禅寺の次は水路閣の奥にある南禅院に行って見る事にしました南禅院の入口には観光客がいて、写メは撮れず…庭園を公開してるので、拝観します拝観料を払って庭園に…とっても静かです😊亀山天皇分骨廟所南禅院亀山天皇は、正応2年(1289年)離宮で出家して
第九十二代伏見天皇は鎌倉時代朝廷が二つに分かれた頃の持明院統の天皇です。御父、後深草天皇の第二皇子、御母は洞院愔子(いんし)。諱は煕仁(ひろひと)。文永二年(1265年)生。在位は弘安十年(1287年)から永仁六年(1298年)。後深草上皇は、後嵯峨上皇の崩御後治天の君になること(我が子が天皇になる)を願っていましたが叶わず、祈願や指の血による写経を行っていました。その為、治天の君となっていた大覚寺統の同母の弟である亀山上皇は円満な解決を幕府に求めました。鎌倉幕府執権の北条時宗は、亀
第九十代亀山天皇は鎌倉時代に朝廷が二つに分かれた一因となった天皇です。御父、後嵯峨天皇の第七皇子、御母は西園寺きつ(女偏に吉)子。同母の六歳違いの兄の後深草(ごふかくさ)天皇は先帝。また、後嵯峨天皇の第一皇子、異母兄の宗尊親王は鎌倉幕府の第六代将軍です。諱は恒仁(つねひと)。建長元年(1249年)生。在位、正元元年(1259年)から文永十一年(1274年)。恒仁親王が十一歳の時、後嵯峨上皇の意向で譲位させられた兄に代わり即位しました。そして院政を敷いていた後嵯峨上皇が崩御されるとご自分
この南禅院は、1264年(文永元)に亀山天皇の離宮として建てられた。その後、亀山天皇は禅宗に帰依して出家、1291年(正応4)に禅寺として無関普門(大明国師)を開山として創建された。南禅院本堂前庭園その後、寺域は拡大され寺号も瑞龍山南禅寺と改められた。その発祥地であった詩仏堂の南禅院は、南禅寺の塔頭とされた。南禅院庭園と池庭園は鎌倉時代末期の代表的池泉廻遊式で、夢窓疎石の
10月4日が命日・忌日の有名人・著名人1305年(嘉元3年9月15日)56歳崩御(?)亀山天皇陛下第90代天皇後嵯峨天皇の第七皇子1669年満63歳没(?)レンブラント・ファン・レインさん画家1947年89歳没(?)マックス・プランクさん物理学者量子論の創始者ノーベル物理学賞⇒『マックス・プランク(1858年4月23日生~1947年10月4日没、物理学者)』1970年満27歳没(ヘロイン過剰摂取)ジャニス・ジョプリンさんロックシンガー⇒『ジャニス
第八十九代後深草(ごふかくさ)天皇は鎌倉時代の天皇で、持明院統の祖となります。朝廷が大覚寺統と二つに分かれ後の南北朝へと続く対立はここから始まります。御父は後嵯峨天皇、御母は西園寺姞子(きつこ)。後嵯峨天皇の第二皇子。また異母兄の宗尊親王は鎌倉幕府第六代征夷大将軍、亀山天皇は同母の弟。寛元元年(1243年)生。諱は久仁。在位、寛元四年(1246年)から正元元年(1259年)。寛元四年(1246年)父帝後嵯峨天皇の譲位により四歳で即位したが、十三年後十七歳の時にマラリアを患われ後嵯峨院の
第90代天皇、亀山天皇(1249-1305)が即位された正元元年(1260)における大礼の様子を描いた絵が大本山「南禅寺」のリーフレットで商会されているのを室内の書類を整理している際に見つけました。記憶に留めるために亀山天皇即位の大礼の様子を描いた絵を紹介します。原典は「南院国師絵伝」。上の写真が亀山天皇即位の大礼の様子です。原典:南院国師絵伝第90代亀山天皇(在位は1260-1274)は両親の後嵯峨天皇と太政大臣「西園寺実」の娘姞子(きつこ)から寵愛を受けた英才で正
後嵯峨天皇・龜山天皇陵嵯峨南陵龜山陵(さがのみなみのみささぎ)(かめやまのみささぎ)88代後嵯峨天皇(ごさが)90代龜山天皇(かめやま)所在地:京都市右京区嵯峨天竜寺天竜寺内この度、紹介をする陵は今までとはチョット違って、時代が新しいせいか古墳タイプではなく、お墓タイプ???です。(Wikipedia)によると2012年、宮内庁は1873年の改暦の際に
「3歴代ノ天皇(その90)」今日は、藤原純友みなさん、おはようございますいよいよ明日は夏至です今日は上向きのピークという感じでしょうかしっかりとエネルギーを貯めましょう冬至に祈ったことは叶っていますか見極める水無月、六月いよいよ夏至です(笑)楽しく國史を学びご家族のためご自身のためにお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!6月20日は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友が亡くなりました平将門とともに民衆が重税と労役に苦しむこと
語り部アロマが紡ぐ「やまと語り十五」聞いていかれませんか。鎌倉幕府が開かれた頃、朝鮮には高麗という国があり、満州・北支那には金という国があり中・南支那には宗という国がありました。わが国とこれらの国々との間に、表向き使節の往来はありませんでしたが、商人や僧たちの中には高麗や宗と盛んに行き来するものがありました。ところで、第83代土御門‐つちみかど‐天皇のころ、金の治めている蒙古からテムジンという者が出て蒙古地方を統一し、ジンギスカンと名乗りました。以後50年ばかりの間に、蒙古は優れ
【食育クイズ:Vol.1850】「京都府」の「渡月橋」おさらいクイズ!渡月橋の名称を名付けたと言われている「天皇」とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞北海道大豆100%大豆ミートミンチタイプ200gAmazon(アマゾン)コッチラボ【国産大豆100%】大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに(1㎏)Amazon(アマゾン)
24.12/15sun.07:30-18:00(スマイルホテル徳島-西梅田)4番黒厳山大日寺から約5km、車で10分ほど南に戻り東に3番亀光山金泉寺仁王門参道から北に、本堂本尊釈迦如来に納経東側に、大師堂堂内で納経「お大師さんの生涯」誕生から、醍醐天皇に「弘法大師」諡号を賜る…肖像までの12絵画が…大師堂の右手前に、観音堂大師堂の南側に、閻魔堂となりに、「黄金の井戸」大師堂の北側に、俱利伽羅龍王境内北側に、多宝塔と長慶天皇陵観音堂の右前に、修行
24.10/06sun.08:00-19:05(ホテル阪急-西梅田)大日寺から南に、徳島自動車道をくぐって左折東に、高松自動車道が近づき右折して下り白鳥神社、亀山神社を過ぎ左折して駐車場から、金泉寺仁王門まっすぐ、本堂本尊釈迦如来に納経東側に西向きに、大師堂右手前に北向に、観音堂本堂の左となりに、不動堂大師堂の右となりに、閻魔堂となりに、黄金の井戸境内の西側に、弁慶の力石境内北東を眺めて金剛力士阿形像金剛力士吽形像聖武天皇の勅願により行基菩薩が建立弘
「92第九十代亀山天皇」今日は、満州事変みなさん、おはようございます9月18日は柳条湖で南満州鉄道が爆破された事件を契機に関東軍は満州国を建設しました作戦を立てたのは天才・石原莞爾中佐です第九十代亀山天皇御嵯峨天皇(八十八代)の皇子父母の鍾愛を受け兄の後深草天皇(八十九代)の譲位の後1259年、御即位あそばされました大覚寺統=南朝の繁栄に力を注ぎ後の両統迭立の端緒となります執権は北条時宗です日蓮は立正安国論で元寇を予言します予
朝廷は庶民の困窮も考えず、政治的な権謀術数に明け暮れている腐った組織でしたが、鎌倉時代の後半にはいよいよ酷い状況に陥ります。鎌倉幕府が作られる以前は、日本中の税金が京に集まりました、鎌倉幕府が成立すると税金の半ばは鎌倉に持って行かれるようになり、京都に集まる富は大きく減ります。朝廷にぶら下がって食っている者たち、平安時代は貴族、鎌倉以降は公家と呼ばれますが、その者たちの生活は苦しくなってきます。天皇家は、御嵯峨天皇の後に子の後深草天皇が即位して、そのあと弟の亀山天皇が即位します
富小路通夷川上るにある大炊御門万里小路殿碑です。平安京左京二条四坊十一町にあった邸宅。平安時代、但馬守源高房が所有。延久5年(1073年)、後三条天皇は方違えに来てここで崩。その後、源能俊が所有し、白河上皇の院御所となりました。広大な平安宮大内裏は維持が困難となり、貴族の邸宅を皇居とする里内裏へ以降。平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて約90年間里内裏であった閑院内裏は、正元元年(1259年)の焼失以降再建されず、後深草天皇は外祖父西園寺実氏の邸の一つ冷泉富小路殿に入って里内裏とし
全生庵さんの御朱印帳に天龍寺さんの御朱印をいただいてゆくシリーズは一昨年の参拝の折りにはいずれも書き置きのみの対応だったので、実際に御朱印帳に押していただいたのは実に久しぶりなんだな霊亀山天龍寺京都に出た際のお参りの最後はほぼほぼこちらへ御朱印少し間があいた霊亀山天龍寺臨済宗天龍寺派大本山京都府京都市右京区嵯峨追記境内には天皇陵もあったんだね、全く気付いていなかったよ💦てか、参拝されるほとんどの方はご存知ない🤔?で
さてさて………………【化野念仏寺】を出発し、ココロはこの日最後の目的地を目指しててくてく歩く………………目指すは嵐山、【天龍寺】方面だ【博物館さがの人形の家】江戸期より昭和初期までの系譜の整った品質の良い古人形を20万点余り館蔵している博物館だそうだ。時間がないので、今回は博物館の前を通過するのみ……………『新田公首塚碑道』【滝口寺】には、南朝の雄『新田義貞公の首塚』があるという最後は越前国(現在の福井県)で思いがけず戦の矢が当たってしまい、命を落とした新田義貞😭💦妻であった勾
さてさて…………………【嵯峨天皇陵】から徒歩10分程で、次の目的地が近づいてきた………………道中には、こんな無人野菜販売機がありました見通しが良く、気持ち良くてくてくと歩いて…………雰囲気あるなあ到着したのは………………【後宇多天皇蓮華峯寺陵】京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町天気の良さももちろんあるが、とても清々しい空気に身体が浄化されるココロ通算114陵目(124陵分の)の『天皇陵』となる【後宇多天皇(ごうだてんのう)】1267年ー1324年日本の第91代天皇。亀山