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富小路通夷川上るにある大炊御門万里小路殿碑です。平安京左京二条四坊十一町にあった邸宅。平安時代、但馬守源高房が所有。延久5年(1073年)、後三条天皇は方違えに来てここで崩。その後、源能俊が所有し、白河上皇の院御所となりました。広大な平安宮大内裏は維持が困難となり、貴族の邸宅を皇居とする里内裏へ以降。平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて約90年間里内裏であった閑院内裏は、正元元年(1259年)の焼失以降再建されず、後深草天皇は外祖父西園寺実氏の邸の一つ冷泉富小路殿に入って里内裏とし
全生庵さんの御朱印帳に天龍寺さんの御朱印をいただいてゆくシリーズは一昨年の参拝の折りにはいずれも書き置きのみの対応だったので、実際に御朱印帳に押していただいたのは実に久しぶりなんだな霊亀山天龍寺京都に出た際のお参りの最後はほぼほぼこちらへ御朱印少し間があいた霊亀山天龍寺臨済宗天龍寺派大本山京都府京都市右京区嵯峨追記境内には天皇陵もあったんだね、全く気付いていなかったよ💦てか、参拝されるほとんどの方はご存知ない🤔?で
さてさて………………【化野念仏寺】を出発し、ココロはこの日最後の目的地を目指しててくてく歩く………………目指すは嵐山、【天龍寺】方面だ【博物館さがの人形の家】江戸期より昭和初期までの系譜の整った品質の良い古人形を20万点余り館蔵している博物館だそうだ。時間がないので、今回は博物館の前を通過するのみ……………『新田公首塚碑道』【滝口寺】には、南朝の雄『新田義貞公の首塚』があるという最後は越前国(現在の福井県)で思いがけず戦の矢が当たってしまい、命を落とした新田義貞😭💦妻であった勾
さてさて…………………【嵯峨天皇陵】から徒歩10分程で、次の目的地が近づいてきた………………道中には、こんな無人野菜販売機がありました見通しが良く、気持ち良くてくてくと歩いて…………雰囲気あるなあ到着したのは………………【後宇多天皇蓮華峯寺陵】京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町天気の良さももちろんあるが、とても清々しい空気に身体が浄化されるココロ通算114陵目(124陵分の)の『天皇陵』となる【後宇多天皇(ごうだてんのう)】1267年ー1324年日本の第91代天皇。亀山
永観堂エリアから南禅寺エリアに戻ってきました。南禅寺会館の駐車場の脇に佇む趣のある築山。よーく見ると、鳥居と祠があります。築山の周囲をぐるぐるめぐって、神社へのルートを探します。たどり着いた先には、綾戸大明神とありました。綾戸大明神は、綾戸小路に住む亀山法皇の牛飼の舎人で醇酒を造り献上し、法皇に愛飲されました。舎人の死後、霊現があり、これを祀ったと伝えられています。
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第八十八代後嵯峨天皇は鎌倉時代の天皇です。後嵯峨天皇の二人の皇子により、朝廷は二つに別れていきました。これが南北朝時代、また後南朝まで続く200年に渡る大乱の原因となっていきます。承久二年(1220年)生。御名は邦仁(くにひと)。御父は土御門天皇、御母は源通宗の娘通子。在位、仁治三年(1242年)~寛元四年(1246年)。土御門天皇の第三皇子の邦仁王は、承久の変で父が自ら土佐に流された時は二歳で、母の叔父や祖母のもとでひっそり暮らしていました。二十歳を過ぎても元服せず出家する予定だ
2019/03/16配信<第90代亀山天皇>1259年即位日蓮「立正安国論」元寇を予言1274年文永の役〔元寇〕<第91代後宇多天皇>1274年即位1281年弘安の役〔元寇〕1283年無住「沙石集」
第九十二代伏見天皇は鎌倉時代朝廷が二つに分かれた頃の持明院統の天皇です。御父、後深草天皇の第二皇子、御母は洞院愔子(いんし)。諱は煕仁(ひろひと)。文永二年(1265年)生。在位は弘安十年(1287年)から永仁六年(1298年)。後深草上皇は、後嵯峨上皇の崩御後治天の君になること(我が子が天皇になる)を願っていましたが叶わず、祈願や指の血による写経を行っていました。その為、治天の君となっていた大覚寺統の同母の弟である亀山上皇は円満な解決を幕府に求めました。鎌倉幕府執権の北条時宗は、亀
【食育クイズ:Vol.1433】「京都府」の「平氏ゆかりの寺院」おさらいクイズ!「壇ノ浦の戦い」で生き残り「大原の地」で生涯を閉じた「建礼門院」ゆかりの寺院とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,100g×2袋)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}コッチラボ国産大豆100%大
第九十代亀山天皇は鎌倉時代に朝廷が二つに分かれた一因となった天皇です。御父、後嵯峨天皇の第七皇子、御母は西園寺きつ(女偏に吉)子。同母の六歳違いの兄の後深草(ごふかくさ)天皇は先帝。また、後嵯峨天皇の第一皇子、異母兄の宗尊親王は鎌倉幕府の第六代将軍です。諱は恒仁(つねひと)。建長元年(1249年)生。在位、正元元年(1259年)から文永十一年(1274年)。恒仁親王が十一歳の時、後嵯峨上皇の意向で譲位させられた兄に代わり即位しました。そして院政を敷いていた後嵯峨上皇が崩御されるとご自分
10月4日が命日・忌日の有名人・著名人1305年(嘉元3年9月15日)56歳崩御(?)亀山天皇陛下第90代天皇後嵯峨天皇の第七皇子1669年満63歳没(?)レンブラント・ファン・レインさん画家1947年89歳没(?)マックス・プランクさん物理学者量子論の創始者ノーベル物理学賞1970年満27歳没(ヘロイン過剰摂取)ジャニス・ジョプリンさんロックシンガー1972年満73歳没(?)東海林太郎さん歌手「赤城の子守唄」1982年満50歳没(脳梗塞)グレ
第八十九代後深草(ごふかくさ)天皇は鎌倉時代の天皇で、持明院統の祖となります。朝廷が大覚寺統と二つに分かれ後の南北朝へと続く対立はここから始まります。御父は後嵯峨天皇、御母は西園寺姞子(きつこ)。後嵯峨天皇の第二皇子。また異母兄の宗尊親王は鎌倉幕府第六代征夷大将軍、亀山天皇は同母の弟。寛元元年(1243年)生。諱は久仁。在位、寛元四年(1246年)から正元元年(1259年)。寛元四年(1246年)父帝後嵯峨天皇の譲位により四歳で即位したが、十三年後十七歳の時にマラリアを患われ後嵯峨院の
本日は旧暦の5月27日ですが、建長元年(1249年)五月二十七日は後嵯峨天皇の第七皇子恒仁(つねひと)親王が誕生された日です。※単純に旧暦にあてはめています。父君の後嵯峨天皇は既に譲位されていて、6歳違いの同母兄の後深草天皇の御代のことです。恒仁親王が十一歳の時、後嵯峨上皇の意向で譲位させられた兄に代わり即位しました(亀山天皇)。父の意向とはいえ、この事が後に兄弟間の確執を生じさせることになります。院政を敷いていた後嵯峨上皇が崩御されるとご自分の皇子に譲位し(後宇多天皇)、治天の君と
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」・・・天皇陵を中心に皇族の御陵墓をできるだけ回ってみる天皇陵編も実施中です。(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)5月14日(日)~16日(火)、京都へ旅してきました。二日目に嵯峨野を中心に観光してまいりまして・・・その際に訪れた御陵墓については、ご紹介しました。『<覇道の男
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」・・・天皇陵を中心に皇族の陵墓をできるだけ回ってみる天皇陵編も実施中です。(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)5月14日(日)~16日(火)、京都へ旅してきました。二日目に大覚寺を回った後、その裏手にある嵯峨天皇嵯峨山上陵をご参拝。その後、そこからから歩いて行ける別な御陵・・・
ということで、VIP男性版お百度参りの続きです。(勝手にVIPをつけ加えましたww)前回は、室町時代中期の伏見宮さんを紹介しましたが、今回は遡って、亀山院。後嵯峨院の子で、後深草院の弟。大覚寺統の祖として著名ですよね。その亀山院もお百度参りしてるんです。史料は『勘仲記』。カンチュウキ、と読みます。読み方って、難しいですよね…。「勘解由小路兼仲」さん、という方が記主なのですが、その氏・名両方から1文字ずつ取った日記名になってます。(辞典だと「広橋兼仲」で立項されて
…「くまなき月の渡るに似る」と詠嘆した橋は「【74】渡月橋」と呼ばれる様になった。亀山天皇この橋は承和3年、僧・道昌(ドウショウ)による大堰川修築の際に架けられたのが最初と云々、もう少し古く嵯峨天皇の行幸時に始まるなどの説があり定まらないが、9世紀前半に架設されたのは確かな様で、その頃は100mほど上流。応仁の乱や洪水の度に落橋し、江戸初期、角倉了以が保津川を開削した際、現在地に架け替えられた。
南禅寺塔頭である南禅院の門前を琵琶湖疎水(水路閣)が横切っています。いくら景観に配慮した設計だからと言っても、当時は苦々しく思った人もいたかも知れませんね。鎌倉時代中期、亀山天皇がこの地に離宮を造営しました。その後、禅宗に帰依された天皇は離宮で出家して法皇になり、離宮を寄付して禅寺を開山したのが、現在の南禅院です。それゆえ南禅院は、南禅寺発祥の地と言われます。池泉回遊式庭園は、鎌倉時代末期の作だそう。赤色が際立って綺麗でした。
天龍寺境内にある、第90代天皇・亀山天皇の陵墓。目立ちませんが、このあたりも美しい秋色に彩られます。一見すると天皇陵まで行けそうにありませんが、お寺の方に尋ねると「天皇陵参拝のためなら近くまで行ける」とのことでした。◇亀山天皇陵の紹介サイト◇-天皇陵-龜山天皇龜山陵(かめやまてんのうかめやまのみささぎ)www.kunaicho.go.jp
【食育クイズ:Vol.1111】「京都府」の「天龍寺」おさらいクイズ!「天龍寺、法堂」の鏡天井に描かれている「雲龍図」を描いた画家とは?∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽【食育クイズ:Vol.1110】(「京都府」の「宇治・平等院」おさらいクイズ!「末法の世到来」を恐れ「宇治、平等院」を創建した人物とは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】「平等院」を開いたのは「藤原道長」
令和4年10月23日(日)南禅寺、法堂と方丈の拝観を終えたので、次は塔頭の南禅院を拝観することにした。南禅院の拝観(庭園のみ)に際しては別途拝観料が必要である。南禅院は亀山天皇が深く禅宗に帰依され、離宮で出家され、離宮を寄附して禅寺とし大明国師を開山とされたのが始まりとされている。そのことから、南禅院の庭園は離宮の遺跡であり、南禅寺発祥の地とされている。ただ、現在の建物は火災や戦火で二度消失し、現在の建物は将軍綱吉の母、桂昌院の寄進によるものであるようだ。南禅院へ向かう石段。有名な
嵯峨天皇陵から北嵯峨を歩きます。野菜の自販機がありましたのどかな良いところですねぇ。京都市内ですよ〜こんなところで住みたいなぁ到着。京都市右京区北嵯峨朝原山町第91代後宇多天皇蓮華峯寺陵参道を進みます。在位1274年(文永11年)〜1287年(弘安10年)。諱は世仁。大覚寺統後醍醐天皇の父文永・弘安の両役がおき、2度、元の来襲をうける(元寇)。鎌倉中期の天皇。後嵯峨天皇の子には先々代後深草天皇と
嵐山の渡月橋。天龍寺に到着。天龍寺総門。天龍寺庫裏。この日はなんと、午前中は法要?とかで拝観停止とか本日の目的はこちら閉まってますが、庫裏で伺ったら御陵の参拝なら潜って入って良いってことでしたふぅ〜。突き当たりは一般の方の墓地となります。左へ向かいます。第88代後嵯峨天皇嵯峨南陵。第90代亀山天皇亀山陵。並立しています。手前側、第88代後嵯峨天皇嵯峨南陵。後継者を定めず崩御。兄弟間の後継者争いに在位1242年〜1246年。諱は邦仁。誕生は承久の乱の
2019/03/16に公開<第90代亀山天皇>1259年即位日蓮「立正安国論」元寇を予言1274年文永の役〔元寇〕<第91代後宇多天皇>1274年即位1281年弘安の役〔元寇〕1283年無住「沙石集」
南禅寺三門を拝観した後、法堂をお参りしました。その後、本坊で御朱印帳を調達しました。南禅寺の御朱印帳はとても質が良いのでお気に入りです。前回は虎の御朱印帳を拝受したので今回は別のものを…ということで、水路閣のものにしました。水路閣の御朱印帳に書いてある御朱印は南禅院のものでした。南禅院は亀山法皇の離宮の遺跡で、南禅寺発祥の地です。水路閣の御朱印帳です。「利益衆生」と書いてあります。世の中の人々、他人を益し、恵みを与えること。という意味だそうです。ありがたいお言葉で