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「お城紀行」の掲載で少し中断しましたが、ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』を再開し、具体的なお城の写真をお届けします。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…am
さて、資料館でプチ知識を頭に入れ、亀山城跡に向かいました『亀岡市文化資料館』開花の記事を先に出したので、時系列が前後しましたが、元に戻しますカフェジュノーでランチした後、次の目的地へ移動するところからです・・・『Ca…ameblo.jp亀山城は、織田信長から命を受けた明智光秀が、天正5年(1577年)ごろ、丹波進攻の拠点とするために築城されました。明治維新の後、廃城令により解体されましたが、現在の
先日の東海地方のお城巡り、2日目を吉田城→野田城ときて、続日本100名城の古宮城を目指し、なかなか遠いなーと思いながら運転していると、↓あ、お城。というところがあり、近づいてみることに。上の写真は、国道から見える図ですが、裏手に車で入ることができました。(今までに訪問した東海地方のお城は→こちら)お城巡りランキング↓本丸にあったお城の図はこんな感じ。この辺りは、奥平氏の本拠地だったということで、この亀山城も主に奥平氏のお城だったようです。
400城址巡りの旅🏯345城目は田峯城ですよぉー100&続100名城スタンプラリーを終え独自の基準で新たに200城を設定し勝手に400名城シリーズを始めたアタクシ追加した200城のうち33城跡が戦国時代の中心舞台でもあった愛知・岐阜・静岡の3県に集中で、その大トリを務めるのが愛知の離合困難な山道を経た先に山奥にひっそり佇む田峯城跡かつて城主が辱めの恨みで城内に居た約100名を惨殺したというおどろおどろしい歴史とは一変約450年を経た現代では超絶見
400城址巡りの旅🏯344城目は亀山城ですよぉー野田城跡から走ること約30分道の駅つくで手作り村へ相棒を停め第2駐車場近くにある登城口へ城跡&登城道共に整備抜群でして遺構も比較的分りやすい仕上がり二の丸跡濠跡と拝みまして虎口跡を抜けますと本丸跡ですよぉ( ̄▽ ̄)野田城が鬱蒼としてたせいか満開の桜のお陰なのか初夏の陽気も相まって解放感抜群過ぎる本丸跡土塁跡や東曲輪へ抜ける虎口跡など遺構保存状態もよろし城跡と桜ってなぜにこんなに相性い
400城址巡りの旅🏯343城目は野田城ですよぉー井伊谷城跡から更に西へ進み相棒HONDAヴェゼルちゃんとは初めてとなる愛知県の地へ先ず訪れたのは野田城跡早速本丸跡へ向かうでね本丸~三の丸まで段丘崖造りで本来ならその形状を愛でつつ諸々妄想に浸って楽しむワケですが良くも悪くもまるで手つかず状態で何がなんやらよー判らん( ̄▽ ̄)特に酷い二の丸跡はタダの藪続いて三の丸周回コースへ向かうもそこそこに案内板はあるんだケド「どれが?」とイチイチ突っ込み必
400城址巡りの旅🏯342城目は井伊谷城ですよぉー残念観桜となった富士霊園から初めて走る新東名をぶっ飛ばし引佐多目的センター駐車場ピットピンそれはそうと新東名っていいわねぇ交通量少ないうえ片側3車線で速度上限120km/hなモンだから皆なレース状態でアタイもスイッチ入り1時間30分で174kmも走っちゃった登城口は駐車場からはすぐに在り急坂ヒーヒー登るといきなり石垣チャンただコレは現代版フェイクココ意外に見せ場(城址遺構)無いままひたすらヒー
買い物帰りに花見のハシゴしてきましたまずは鈴鹿川(神辺小学校前)お次は亀山城へ。博物館前の亀山公園にも行ってみましたが満車で車から眺めるだけになりました今日は暖かいからお子さん連れでピクニック感覚で遊んでたので楽しそうでしたよ。桜を堪能してから帰宅して我が家はダラダラタイム突入www
久しぶりのお城めぐり冷たい雨の中行ってきましたよー亀山城址天正18年(1590)岡本宗憲が築城しました。寛永9年(1632)三宅康盛の代に天守が下ろされ、正保年間(1644~1648)本多俊次が城主の時に天守跡に現在の多門櫓が建てられました。平屋建白壁の塗込で屋根は入母屋造り、東西北の三方に破風があり、平時は武器庫として利用していました。県内に唯一現存する城郭建造物として、高石垣の上にそびえる多門櫓は今も往時と変わらぬ風情を残しています。創建年代:安土桃山石垣に気を
今日は亀岡城下町案内所当番の日でした。4月13日と14日にももいろクローバーZが亀岡で「ももクロ春の一大事2024」があるそうで、3月始めにメンバーの2人玉井詩織さんと高城れにさんが桂川亀岡市長を表敬訪問。(亀岡市ホームページより引用)ももクロのファン(モノノフ)が亀岡で回った出雲大神宮などの聖地巡りをされてます。当番で勤務している本町カフェもその一つでももクロと同じ席に座り、同じものを注文されてました。ほんまに熱量がすごい😆⤴️。ちなみに2人が食べたものは光秀桔梗の黒蜜きなこか
保津峡ランChangeTalk,ChangeListenandLife."話し方を変えたければ聴き方と生き方を変えろ"「話がちゃんと”伝わる人”と話をちゃんと”聴ける人”を増やす」「22世紀に人見知りを社会からなくす」トークスキルだけにフォーカスした自己満足的な解決法に疑問を投げかけるそもそも話し方に悩む人の大半は“聴き手に原因がある”ことがほとんどです約3000人の悩みに寄り添い気付いたこと「話し方」だけを改善しても意味が無い本当に改めるべきは「聴
こんにちは!「四季彩テラス&精霊の森」の村岡洋子です前回のツインレイとのオラクル(神託)の旅の続きです初めての方はこちらをどうぞその1『その1ツインレイとのオラクル(神託)の旅プロローグ』こんにちは!「四季彩テラス&精霊の森」の村岡洋子です私のインスタグラムの方で簡単に旅の写真を掲載しているのですが私たちツインレイ夫婦は一緒になってから車で…ameblo.jpその2『その2ツインレイとのオラクル(神託)の旅山形出発!』こんにちは!「四季彩テラス&精霊の森
三重県亀山市伊勢亀山城址を見にきました🏯冬なのでチョット寂しい画ですが…きっと春には桜、新緑の季節には瑞々しい若葉の緑で、違った景色も楽しめると思うとなんだか“侘び寂び”を感じます鎌倉時代から安土桃山時代伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城された。天正18年(1590年)に、豊臣秀吉に従った岡本良勝が入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。❇
コロナ禍で中止だった亀山市の大市が1月27日28日久しぶりに開催!!駐車場から会場への間も結構楽しめたりするまずは亀山神社で参拝汽車があったり亀山城跡大市会場は歩行者天国もちろんワンコもOK!たくさんの山車が出てるねぇ高校生の吹奏楽演奏や流行り物の偵察もできる今こんなのが人気なんだタコ焼きの具も色々なのねぇ🐙一度食べてみたかったフルーツ飴🍓あんこ物もやはり食べちゃうなぁ賑わってきたね~ラグビーチームのキャラクターさんと亀山市だからきっと
【日本の城】亀山城跡、備前沼城跡岡山県岡山市浮田小学校の児童によるデザイン「直家飛躍の地」「秀家生誕地」「亀山城跡」秀吉、中国大返しの時の拠点となった。宇喜多秀家生誕地宇喜多直家とお福。子供は、宇喜多秀家。宇喜多秀家と豪姫(前田利家娘)近くの岡山市立浮田小学校御城印は、まだありません。
2023.初秋今回は、伊勢亀山城跡周辺を散策した時に訪れた場所のいろいろです…亀山神社前回、亀山公園内にある『ますみ公園』には楠門跡を紹介しましたが、その近くには、蒸気機関車が保存展示されてました…🚂亀山公園案内看板展示されている蒸気機関車と説明看板近くには剣術の流派を亀山に伝えた山﨑雪柳軒を顕彰した石碑がありました…⚔️顕彰の碑神社のそばには、亀山演武場がありました…亀山演武場の様子、説明看板…移築された大久保神官家棟門(大久保但馬守邸の門の移築)亀山神社境内…亀山神社
公共交通機関のみで巡る!日本100名城巡りの旅日本100名城巡り~南紀・三重編~和歌山県南部と三重県にある7城を3泊4日で巡る旅。今回は2023年2月28日(火)の4日目をお届けします。4日目は伊賀上野城、津城の2城を中心に巡ります。(初日はこちら)『日本100名城巡り~南紀・三重編~2023.02.25~28①』公共交通機関のみで巡る!日本100名城巡りの旅日本100名城巡り~南紀・三重編~和歌山県南部と三重県にある7城を3泊4日で巡る旅。
岡山市の東部、「沼」と呼ばれる地域にある「亀山城」に行ってみました。この「亀山城」は、天文年間に中山勝政によって築城されたそう。この「中山勝政」は、以前は「中山信正」と言われていましたが、近年、発見された書状から「信正」ではなく「勝政」が正しいということが分かったそう。永禄2年(1559)、中山勝政は、宇喜多直家によって滅ぼされ、直家は、砥石城から、この亀山城に拠点を移し、岡山城に移るまでの、約15年の間、ここから、備前国の制圧を目指すことになる。ちなみに、「備前軍記」などに書かれた
三重県漫遊。初日の最終地、亀山へ。かつて、シャープのAQUOS製造で"世界の亀山"と謳われた地。(カメヤマローソクでも有名ですね)<旅の行程>1日目:桑名→鈴鹿→亀山2日目:関宿→伊賀→赤目3日目:赤目→伊賀上野江戸時代、伊勢亀山藩の城下町であり、宿場町でもあった亀山。駅から坂道を上れば、そこは宿場町。亀山宿カーブの先が旧東海道。お城見庭園伊勢亀山城の多聞櫓が見えます。右手の脇道が旧東海道(江戸方面)です。池の側(外堀)
今回は祭の山車が見れるということで、東海道五十三次の関宿の祇園夏まつりの日に、亀山ローソクで有名な三重県亀山市の町をサイクリングしました。うだるような猛暑の中でしたので無理しないよう、関宿周辺と亀山城跡周辺の移動に自転車を使う感じで、宿場町と城跡をゆっくりと見て回りました。関宿東の追分=関宿の東の端山車収納展示棟から出された山車「関の山」の語源になった綺麗な関宿の山車山車の模型と鎧兜の展示物江戸時代の宿場町の風情が感じられる関宿名物の「志ら玉」美味しかったレトロな看板などが目を
明智秀満⑰「福知山市史」『天正年中に明智光秀殿が、丹波全体を平定され、群主村邑の主に限らず、従来の支配者達を追放して浪人となし、天正七年秋所々へおふれを出して次のごとくいわれた。「昔より丹波は地頭が多い国であると主人信長から聞いていたが、今日皆追放した。これは今までの悪政をやめさせるためである。しかし、足利将軍から代々の御判をもらっている地頭については、その趣を願い出たならば、いくらか領地を残してやる。」と申し渡した。』天正8年、信長は光秀に感状を与え、丹
国道314号線をさらに西北に進みました東城町の西北地域ですこんもりとした小さな杜に目的地の奴可神社(ぬかじんじゃ)はありました大鳥居をくぐります手水の音が静かに響いています正面に本殿まだ新しい社殿のように見えました「延喜式」神名帳にみえる奴可郡一座は迩比都売神社(にひつひめじんじゃ)ですがここも候補地のひとつです社伝によると当社は平安時代の初期第52代嵯峨天皇の御代弘仁3年(822)この地を拓いた大船足治麿(備後国品治郡国造
亀岡市の2種類のマンホールカードをいただきました。『亀岡市のマンホールとカード&最近食べたお菓子』割烹露瑚で川床ランチを優雅にいただきました。『割烹露瑚で川床ランチ[京都]』京都で1泊し、平安神宮の神苑でアジサイや花菖蒲を観賞した日。『平安神宮へ~神苑の…ameblo.jpマンホールカードをいただける2つの施設へ歩いている間に、亀山城にも寄っていました。三重県亀山市にも亀山城があるので、区別するために丹波亀山城と言われたりもします。昨日の記事にも書きましたが亀岡に来るのは2度目で、
三宅弥平次(78)「信長公記」『十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間、羽柴、惟任、惟住、諸口仰せつけらる。信貴の城へ攻め上げられ、夜責めにさせられ、防戦。弓折れ矢尽き、松永、天主に火を懸け、焼死候。』手取川の戦いの後、謙信は春日山城に引き返した。朝倉氏もそうであったが、北陸は豪雪地帯のため冬の行動には大きな制約があったのであろう。信長は反攻に出る貴重な時間を得た。信長は嫡男・信忠を総大将に加賀遠征軍を中心に4万人の援軍を信貴山城に送り込んだ。人質にしていた
三宅弥平次(72)「明智光秀の妻・煕子」(中島道子:著)『比較的近年まで光秀は逆臣、叛将とのみ言われてきたにもかかわらず封建体制下の江戸時代にあって、光秀の妻を顕彰したのはまさに自由人芭蕉その人であった。明智が妻の句は「奥の細道」の旅の途次、越前(福井県)は丸岡に足を止めた折耳にしたことを後、伊勢の門弟山田又玄の妻に贈ったものである。月さびよ明智が妻の咄せむ芭蕉まさにこの一句に人生感があらわれていると云えよう。』いつ発症し
今日は、本編のホームページに、亀山の散策記をアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html2回目の今回は、亀山の西町周辺を紹介します。旧東海道は、亀山城下を東西に走り、大手門跡から坂道を南に下っていきます。亀山駅前から北に向かう道と交差した後、坂道を登って西之丸の南側へと繋がっています。撮影:2012年1月亀山駅前から北に向かう道との交差点に亀山宿の石碑がありました。亀山宿の碑の先のちょ
今日は、本編のホームページに、亀山の散策記をアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html亀山は、先日に紹介した亀山城のある街です。城下町として栄えましたが、旧東海道も城下を通り、東海道46番目の宿である亀山宿が置かれていました。近年では、2002年にシャープの亀山工場が建てられ、2012年にかけて「世界の亀山モデル」として名を馳せています。亀山城を訪れた際に、城下町を散策してみました。亀山
今日は、本編のホームページに、伊勢亀山城の登城記をアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html3回目の今回は三之丸・西之丸の様子です。亀山城は本丸から東に二之丸、三之丸と続き、本丸の西に、西出丸、その南に西之丸が配置されていました。三之丸は亀山市の市街地となり、西之丸は住宅街となっています。その市街地や住宅地にも、当時の亀山城の跡が残っています。まずは、二之丸と三之丸の間に建っていた太鼓門
今日は、本編のホームページに、伊勢亀山城の登城記をアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html2回目の今回は西出丸と二之丸の様子です。本丸の西側には、江戸時代には西出丸がありました。亀山神社の北側を東西に走る道がカーブを描いて下り坂になる辺りの右手がその西出丸です。西出丸跡の駐車場からは、堀跡に設けられた菖蒲園が見えています。撮影:2012年1月西出丸の下には関見櫓跡の碑が立っていまし
今日は、本編のホームページに、伊勢亀山城の登城記をアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html伊勢亀山城は、鎌倉時代中期の1265年(文永2年)に関実忠が始めて築いたと記されているようです。その後、関氏が亀山城主となりこの地を治めますが、1573年(元亀4年)織田信長によって関盛信が追放されています。その後、信長の家臣・岡本宗憲が城主となり、亀山城の再築城に取り掛かったそうです。1636年(