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4月8日の出来事217年ローマ皇帝カラカラが近衛隊長マクリヌスにより暗殺される。1587年(天正15年3月1日)九州征伐:豊臣秀吉が九州の島津氏討伐のため、自ら2万5千の大軍を率いて大坂城を出発。1767年アユタヤ王朝がビルマの侵攻により滅亡。1820年エーゲ海のメロス島の農夫が「ミロのヴィーナス」を発見。dionisosbさんが2013/01/20に公開ΗΑΦΡΟΔΙΤΗΤΗΣΜΗΛΟΥhttp://youtu.be/vXhjdTed
本日は太宰府駅から林道を歩いて小一時間くらいの岩屋城跡まで行きました。その先は体調しだいで福岡県民の森まで行けたらと思いましたが、坂道が続き呼吸も苦しくなり無理でした。ここから岩屋城跡に上がります。岩屋城は大友宗麟の配下の武将で高橋紹運(たかはしじょううん)が当時の城主でした。島津は当時、大友、龍造寺と九州の覇権を争い秀吉の調停案を聞かず筑前へ4万5千の兵で攻めてきて、岩屋城は籠城作戦で見事に進行をくい止め高橋紹運以下763人が玉砕しました。高橋紹運は岩屋城で2週間耐え忍び全
けふ(今日)は、些か、ジジイの生れ在所、薩摩の観光案内などを、ひとくさり・・・(汗)もう3日前になってしまったが、雨の中のバカ仕儀敢行を、敢え無くアッサリ『空振り三振・・・、サヨナラ負け・・・!』の返り討ちに遭ったジジイは、そこでスゴスゴ引き下がるはずも無く、一旦、そこからほど近い、斯様な場所へ・・・(汗)もう昔から、地元薩摩やこの北薩地方では、『東洋のナイアガラ・・・!』の代名詞が定着して語られる『曾木(そぎ)の滝(=伊佐市)・・・』と云うソコソコ識られた観光
『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️目次吉川広家(きっかわひろいえ)です。我が父・吉川元春(きっかわもとはる)は天正14年(1586年)11月15日に出陣中の豊前小倉城(ぶぜんこくらじょう)で亡くなりました。この時、元春さんを初めとする毛利(もうり)軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし)さんの九州征伐に参戦してたんだよね「兄上…後はわしにお任せあれ!」毛利(もうり)を支える毛利両川(もうりりょうせん)の元春がなくなり、残ったのは小早川隆景(こばやかわたかかげ)でした。小早川隆景九州征伐は
戦国時代にあった土地収用の強制代執行について天正十六年(1588)閏五月十四日、関白秀吉は尼崎の法園寺に拘禁され足止め状態に置かれていた元肥後隈本城主の佐々成政に対して、肥後国の統治に失敗した責任を償わせるべく切腹を命じた。このときの検視役は加藤清正であった。武士としての名誉ある刑罰としての切腹ではあったが、このとき成政の心の内には忸怩たる思いがあったのか、あるいは憤怒の感情に包まれていたのかは分からないところではある。しかしながらこのとき成政は切腹に際し、横一文字に腹を斬った後さらに
激闘「柳河城黒門」の戦い立花統虎(宗茂)という武将は無骨千万な戦国の世にあって、多くの百姓領民に愛され、家臣に愛された希な猛将でもあった。さらにあまたの戦国武将にその武勇を愛され、はたまた天下人秀吉に「鎮西一の忠勇、天下無双の勇士なり」と絶賛されただけではなく、関ヶ原の西軍武将であったにもかかわらず徳川家将軍からも絶大な信頼を寄せられて、ついには一度失った旧領筑後柳河に藩主として復帰したことでも知られている。当時の人々のものの考え方や価値観は現代とは大いに異なるであろうが、いずれにしても立
波太神社は、親戚の家から近い所にある。家に行った記憶。それも、薄っすらしか覚えてない場所違うけど積川神社近くに親戚の家あって蝉取り行った言うエピソードあるが。覚えてないんやから、ないよね前回、天之宮の帰り立ち寄るそうそう近所やのに行きにくくなった。話戻します。神社前、繋がる道路は、信長街道と言う。名が付いてる事初めて知る。かの織田信長が、紀州征伐を仕掛けた折。本陣を置いたと言う。阪南市は、石田にある波太神社ここも、戦争十分何かあったのか…石
#豊臣秀吉による#九州征伐について解説した4コマなのに、某#ガキの使いがチラついてしまう。#今夜が山田#島津義久#島津歳久#島津忠隣#山田有信#黒田官兵衛#豊臣秀長
九州旅行2日目の日南ドライブ最後の目的地は日本100名城に行こう96番目飫肥城です。飫肥城は飫肥藩伊東氏の城ですが戦国時代は100年に渡って島津家と争奪戦を繰り広げていました。豊臣秀吉の島津家に対する九州征伐の際に豊臣方に従い、その功績が認められ伊東家に飫肥城が与えられ争奪戦に終止符が打たれます。関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍で参戦し伊東家は領土を安堵。以降、飫肥藩伊東家は五万一千石で十四代にわたり統治明治維新を迎えます。ではお城を廻っていきましょう。
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NHK大河ドラマは、来年は「明智光秀」をやるとか・・・困ったときの光秀か・・・だが、古代史も面白いのですぞ。ただ、古代史の場合、『天皇』が主役だから、何かとややこしい?いろいろ大人の事情というものは面白いことを駄目にする。正月、初詣を思うとき、なぜか福岡市の香椎宮を想い出した。香椎宮のご祭神は、神功(じんぐう)皇后である。古代史に精通している御仁には超有名な御方=『神功皇后』。じつは『古事記』『日本書紀』は、神武天皇(初代)から天皇のことを書いてある。いわば天皇紀なのである。
前回の記事‐朝鮮に帰化したサムライ・沙也可の実像その2(明治日本の「目の上のタンコブ」)‐関連記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返るその1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返るその2(大院君時代の朝鮮王朝)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返るその3(丙寅・辛未の洋擾)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返るその4(開国と征韓論)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返るその5(閔氏政権と日朝修好条規)‐‐シリー
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京より旧山陽道を下り備後国の最初の宿場の神辺本陣から約3km行くと芦田川の左岸の大渡に達する。ここに大渡橋がかかってたいが、増水の時は船で渡したと伝わる。写真①は、その大渡橋が架かっていたやや上流で、今はここから福山市民40万人の生活用水や工業用水が取水されている取水堰です。①取水堰写真②は、取水堰の下流側です。写真③は、取水堰から1km下流にある現在の大渡橋て゛昔の大渡橋はこの少し上流側にあったようだ。②取水堰下流③現・大渡橋現在の旧備後の中心は福山市ですが
【問題】≪難問≫豊臣氏の九州征伐直前、秋月種実は自身の最大版図を築いていたが、それは石高にするとどの程度のものであったか?【選択肢】4万石17万石36万石52万石【正解】36万石【解説】秋月種実は筑前の国人で、領土を接する大友氏に従属と離反を繰り返した。大友氏が耳川の敗戦で凋落すると島津氏と結んで攻勢を掛け、一時は筑前・筑後・豊前で36万石に及ぶ版図を手にした。
*12月10日付記事の続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今シリーズのテーマは九州の戦国時代。本日は、根白坂の激闘のおはなしです。あんみつ「先生、豊後府内の本拠地ノド元まで島津勢に侵攻された大友宗麟・義統親子に、関白秀吉から派遣された四国勢が援軍に駆けつけます。軍監(ぐんげん)は仙石秀久ですけど、いっときは四国を統一した長宗我部元親と比べると小者なような」ぜんざい「仙石は秀吉が小身だったころか
今年も大野川合戦祭りの季節がやってきました。合戦としてはあまり有名では無いのですが秀吉が九州統一を狙って島津軍との対決を行った戦です。大友軍を支援する秀吉軍計六千余と島津軍二万五千が激突した戦です。(2018/11/10)JRの中判田駅から会場へ向かいます。約3キロほど歩いた上に河原の土手をてくてく歩いてやっと会場が見えてきました。車の数が多いです。確かに歩いて行くにはちと場所が遠いですね。駅からシャトルバスとか出してほしいです。天気も良く河原の風に合戦の幟がきれいにはためいています。
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「ミュージアム/文化財/史跡担当者のためのICT活用事業企画の手引」発行のお知らせValuePress!(プレスリリース)弊社関連会社である株式会社ミュージアムメディア研究所(東京都新宿区、代表取締役:内田剛史)では、「ミュージアム/文化財/史跡担当者のためのICT活用...「小板橋」などを詠んだ歌人・石上露子を知ろう産経ニュース...露子の生家の杉山家の関わりなどを考える歴史・文学講演会(無料)もある。問い合わせは富田林市教育委員会文化財課(市役所代表電話0721・
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南北アメリカの歴史第11回「豊かさの軌跡:工業国化から冷戦までのアメリカ合衆国」TVer(ティーバー)番組詳細.19世紀後半に本格化する工業化ののち、1929年以来の大恐慌を第2次世界大戦への参戦を通じて克服し、世界でも群を抜く豊かな社会となったアメリカ合衆国が、その自己像を携えて冷戦に臨むが、1960年代後半にベトナム戦争で行きづまるまでを論じる。塩原の歴史と自然の企画展那須塩原市観光局塩原の歴史と自然について、総合的に紹介します。歴史分野では近代における道路と鉄道の整備や当
皆の者こんにちは御座る。大ふへん者前田慶次じゃ!我が日記帳開き大義。皆戦働きに力を注いでおるか?働くからこそ自由な刻が豊かになる。日々を懸命に生きよ!さぁ、本日も皆に歴史を伝えて参る。題目一五八七年三月一二日豊臣秀吉様、将軍足利義昭公と謁見時は天下統一を為べく九州討伐に向かう最中。豊臣秀吉様は備後(広島県辺り)赤坂にて前将軍、足利義昭公と謁見する。むむ?時代で申せばもう室町幕府って終わってますよね?と思うた其方!違ーう!!!信長様が室町幕府を滅ぼしたと覚えて
皆さんこんにちは今回は豊臣秀吉よる九州征伐終焉の地!泰平寺にやって来ました所在地鹿児島県薩摩川内市大小路町九州征伐とは☝︎1587年豊臣秀吉が島津家を服属させ九州を統一させた戦役!戦国期100年の中の約10年間の出来事和睦石薩摩の、、、いや九州のその時歴史は動いた!場所ですね現在の泰平寺ではでは
豊臣秀吉による九州征伐軍がついに豊前に上陸した。先陣を率いるのは、秀吉が最も頼みとする弟の秀長である。秀長軍は怒涛の勢いで日向口を進軍すると、島津方の重要拠点である高城を包囲した。さかのぼること約10年、島津が大友の日向侵攻の野望を粉砕した因縁の地である。高城を見殺しにすれば、戦線全体に及ぼす影響は計り知れない。島津義久は義弘・家久ら動員可能な全兵力を率いて後詰に向かった。一方、この戦いの重要性を知る秀長も、高城から川を隔てた根白坂に重厚な陣城を構築、今や遅しと島津軍を待ち構えていた。
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【問題】九州征伐で豊臣秀吉自身は九州に上陸していない。○か×か?【選択肢】○×【正解】×【解説】豊臣秀吉による九州征伐が発せられると、先遣隊が続々と九州に上陸し島津方の諸城を攻略していった。その後、豊臣秀長や秀吉自身も九州へ入り、現地で軍の指揮を執った。
先日の「耳川の合戦」から、九州のとある武将を思い出した。耳川で島津に惨敗した大友宗麟(おおともそうりん)は自ら大坂へ出向き、豊臣秀吉の袖にすがる。鎌倉以来の名家の主が成り上がりの前に平伏したのだから、当時の感覚で言えばかなりみっともない仕儀だった。(ちなみに、明治4年までは「大坂」と書き、中世~江戸時代には「おおざか」と読まれていました)ともあれ、いつかは平定せねばならない地ではあり、衰えたりとはいえ名族の帰順を得たことで、秀吉は九州派兵を決定した。島津と組んで大友氏
【問題】肥前の大名である大村純忠は、豊臣秀吉による九州征伐に際してどのような行動をとったか?【選択肢】秀吉に降るも新領主に反抗して殺害された中立を堅持したため戦後備前に転封された息子を秀吉軍に参陣させ本領を安堵された島津に協力して筑前で秀吉と戦い戦死した【正解】息子を秀吉軍に参陣させ本領を安堵された【解説】大村純忠は秀吉による九州征伐が始まるとこれに従い、自身は病身であったため息子の喜前(よしあき)を参陣させた。戦後、本領を安堵されている。