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郡山市に住んでいる友人に、久留米水天宮という神社に連れて行ってもらいました友人によると、郡山の原野は明治時代に開拓されたのですが、その時に入植したのが元侍や農家の次男三男。元侍は、米沢藩、二本松藩、会津藩、鳥取藩、岡山藩、久留米藩など、様々なところから入植したそうです。久留米藩が郡山市久留米地区に入植、その入植者のために故郷の水天宮の御分霊を奉遷した神社が、久留米水天宮だそうです皆さんここを拝みながら開墾作業頑張ったんでしょうか↑久留米市から寄贈された天然記念物の金明孟宗竹(きんめいも
では、そろそろ鮎川さん御自身の来し方に触れてみましょう。鮎川誠氏。1948(昭和23)年5月2日生まれ。前回(↓)申し上げたとおり、父君は米国軍人である。御母堂は日本人。久留米出身。久留米といえば有馬侯(※)の久留米藩で、氏も久留米藩のかつての藩校・明善高校に進んだ。※戦国時代のキリシタン大名、有馬晴信侯が最も有名ではなかろうか。九州だけではないかも知らんが、県立高校にやたら「元藩校」が多い。福岡藩なら修猷館(しゅうゆうかん)、鹿児島藩なら鶴丸高校。いずれも公立じゃ県下No
2022年9月21日(水)石割岳941.5m1/2回目福岡県八女市平野岳895m1/2回目〃カラ迫岳1,006m1/2回目福岡県八女市・大分県日田市樅鶴川沿いの棚田にヒガンバナ石割岳ふもとキャンプ場(休園中)を通り過ぎ憩いの森展望所が登山口です。苔むした登山道登山道に倒木石割岳三角点標柱石割岳の南斜面を激下り、上り返し10分で眼下に見えるは「日向神(ひゅうがみ)ダム」帰路で立ち寄ります。歩行距離
2022年8月10日八女市黒木重要伝統的建造物群保存地区黒木町は中世の猫尾城の城下を起源とする。猫尾城の廃城後、元和六年(1620)に筑後国が久留米藩、柳川藩に分割されると、矢部川がその境界となり、黒木の町は久留米藩の在郷町となった。黒木は、天正十五年(1587)に現在の下町が形成され、次いで慶長年間に東に続き一旦北にクランクする形で道を通し、中町、上町が町立てされたと推定される。その際に中井手用水が、次いで正徳四年(1714)に黒木廻水路が整備されて現在の町並みや水路の基礎ができ
名前の通り、東京メトロ水天宮前駅とも直結している水天宮安産祈願でとても有名なので夫婦の参拝者が多いですかく言う私も、かって参拝しました一階は駐車場、大きなコンクリートの箱のよう神社らしい雰囲気はあまり感じない建物全体を免震構造にするなど現代的設備をもった都市型神社になる前ですけど水天宮の場所は、中央区日本橋蛎殻町になります福岡県久留米市にある久留米水天宮の分社にあたるそうですご祀神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、安徳天皇、高倉平中宮(建礼
このどこまでも広がる枯れた原野が、潤う大地になったなら。ここだけではなく、日本に大きな富をきっともたらす…その夢を見たのは明治の初め、政府を率いる大久保利通卿。その場所は、福島、安積地方。現在の郡山市。安積原野は乾燥し、人々は水を求めていた。奥羽山脈を越えた向こうには豊富な水量を持つ天を映し出す鏡、「天鏡湖」と呼ばれる猪苗代湖がある。そこからの水を引けたなら…。大久保利通と福島県令(知事)安場保和は、開拓を決意。地元の商人たちも呼応。そして、国家土木予
久留米藩御原文郡にある大庄屋の次男として生まれた高松庄十郎。幼い庄十郎は兄と違い、百姓仕事にも興味を示し、農業の大切さを知る。ある年、度重なる飢きんの上の増税に農民が立ち上がった。群衆となった百姓の恐ろしさを垣間見る庄十郎。それを鎮めたのは家老の稲次因幡。藩主との調整をはかり事なきを得る。父が訪ねた稲次家老の元にあった掛け軸。「天に星、地に花、人に慈愛」父から聞かされたその言葉が庄十郎の胸に刻まれるのであった。12歳となった庄十郎は疱瘡で生死を彷徨う。一命を取り留めるも、うつ
意外と『縁』がある有馬記念☝️😄🐴🎫馬券を獲る獲らないではなく、レースタイトルの由来となった日本中央競馬会第2代理事長:有馬頼寧氏と☺️吾輩が17年間勤めた白金台の弁当屋で担当していたのが広尾・麻布なんだけどね、その広尾商店街の突き当たりにこの地区のランドマークといっても差し支えない臨済宗大徳寺派の古刹瑞泉山祥雲寺がある。この祥雲寺が顧客中の顧客で主に土日に4往復ほどおよそ15年くらいお伺いしていたワケですよ。有馬記念の時期が近づくと...ご住職が「○○君、ほら有馬さんのお墓に挨
東京日本橋蛎殻町にある水天宮は文政元年(1818年)に久留米九代藩主有馬頼徳が江戸の上屋敷でもお参りできるようにと屋敷のあった赤羽橋に分霊したのがはじまりその後現在の地へ現在の社殿は江戸鎮座200年を記念して平成25年から28年にかけて建替えられた近代的なビルの中に宮司は有馬家当主参道境内鳥居狛犬手水舎子宝いぬ寶生辨財天境内社燈籠本殿ご祭神(四柱)天御中主大神安徳天皇建礼門院二位の尼ご利益:安産・子授けの神として
昨日は、夕方からのブラさわき(笑)。仕事が片付いたのが5時半くらいで、お散歩には遅いかな…とも思いましたが、梅雨の中の貴重な晴れ。距離はともかく、歩くのだ!…ということで、とにかく家を出て歩き始めたのですが、はてさてどんなルートにしましょうか…しばらくは目的もなく歩いていたのですが、麻布十番の「一の橋」から5分程にある「中の橋」辺りでフト閃きました。実は江戸時代、この中の橋には「水天宮」があったのです。二代歌川広重の東都名所芝赤羽根増上寺。右側が有馬藩江戸上屋敷と火の見櫓。左
外出自粛のご時世、楽しかった過去のお出かけ日記を掘り起こして再掲しています。2年前の正月三箇日・・・・。この日はブロ友のくさせんりさん、horizenさんと久留米水天宮に初詣。九州最大の河川・筑後川の畔に建つ久留米水天宮は、全国の水天宮の本宮です。祭神は安徳天皇・建礼門院・二位の尼。境内にある空母千歳(水上機母艦から改装)の記念碑。千歳の名は、筑後川の別名である千歳川から名づけられています。幕末の水天宮の神官・真木和泉(1813~1864年)の銅像。水
「花」で、親子丼。その「花」の、斜め前にあるのが、末廣神社。祭神は、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)案内の文字は、宇賀之美多摩命。武甕槌命(たけみかづちのみこと)1596(慶長元)年以前に、稲荷祠として鎮座。この地にあった吉原(当時は葭原)の氏神として、信仰されていたとか。1675(延宝3)年、社殿修復の際に、中啓(末廣扇)が見つかったことから、末廣神社、と。「幕府に仕える武家からの崇敬も篤く、旗下火消頭に庇護や祭事の奉仕もさせている。毘沙門天の御神徳は勝運向上が有名だが、その昔当
昨日は椿姉さまが北九州よりいらしたので、東京でランチをして水天宮をお詣りして、浜町でお茶…ちょっとだけお江戸散歩久しぶりに歩いた甘酒横丁日曜なので、柳屋の鯛焼きも、重盛栄心堂の人形焼きも買えないけれどあの周辺で七福神巡りができるらしいそして、水天宮がモダンな建物になっていて驚きあ、たったいま椿姉さまからLINEがあり「水天宮の弁財天さまは、宗像大社の市杵島姫神なんだって…」うわー、やはりこの方私の女神様?笑実は水天宮に行ってみたいと言ったのは椿さん列に並んでお詣りしてか
今回は【篠山神社(ささやまじんじゃ)】のご紹介です御朱印はこちらです「晴曇院(晴姫)生誕200年記念御朱印」弘化2年新年の宴ですもう一種類同じく「晴曇院(晴姫)生誕200年記念御朱印」千代の寿になります※どちらも授与所にて書き置きをいただきます【篠山神社】久留米市の久留米城本丸御殿跡に鎮座します創建は明治10年御祭神久留米藩主の歴代藩主の神様が祀られています。初代藩主…有馬豊氏(とようじ)公七代藩主…有馬頼
久留米藩有馬家の水天宮と火の見やぐら。情け有馬の水天宮。恐れ入谷の鬼子母神。むだクチ「地口」。有馬温泉と有馬記念。三田の馬と牛。三田市。化け猫騒動。みゆきの道(6)有馬さまの火と水コラム「みゆきの道(3)御蔵と御浜」から数回にわたり、東京の芝・三田あたりの大名屋敷のことを書いてきました。これまで薩摩藩島津家の強大な「薩摩パワー」をご紹介してきましたが、今回は、この大名屋敷地域にありました築後国(今の福岡県南部)の久留米藩有馬家のことを書きたいと思います。「薩摩パワー」とはまた違
東京日本橋水天宮。安産の神様として有名です。参拝した当日は平日の午前に関わらずにぎわっていました。少子化といわれてずいぶん立ちますがここだけ見ると別世界のようです御祭神は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)安徳天皇その母の建礼門院平時子水天宮の名はもとは水天。ゾロアスター教の始源神であり、最高神でした。始源神であるところから天之御中主大神と解釈されています。そして、水天を祀る意味は壇ノ浦の戦いで破れた兵士とともに入水した安徳天皇が水天皇と呼ばれ
こんばんは😃✨今日もお仕事メンバーが集まって賑やかにお仕事だったんですけどムスメが先日人形町にあるパフェのお店の冬桃パフェのインスタの写真を見せてくれていてお仕事の後の午後からそれを食べに行くことになり都心へ向かいました。ムスメには最初に大嘗宮にお付き合いいただく約束でまずは東京駅。ズンズン進むよ。景色が広いねーー♪ここまで来るともう人々が同一方向へ向かっていておおよその目的地は皇居・大嘗宮なのね〜〜と分かりやすいです。乾通りが今日は紅葉狩り
幻の東京五輪、記念の盃戦局の悪化で開催中止に美濃焼、サクラなどデザイン千葉の古物商所有毎日新聞実物を確認した富山市埋蔵文化財センターの鹿島昌也・専門学芸員は「完全な形のものがまとまった数で見つかるのは初めて」と語る。盃の存在は、戦局の悪化...奈良)ヤマト王権の地ゆかりの出土品展示朝日新聞社特別展の入り口には、初期ヤマト王権発祥の地、纒向遺跡で見つかった土器を展示。北部九州や東海、南関東の土器が見つかっており、各地域との交流を示して...今年も10月27日に第32
∂人生は引き算で豊かになる有馬頼底金閣寺・銀閣寺の住職が教える人生は引き算で豊かになる[本/雑誌]/有馬頼底/著1,408円楽天∂久留米藩藩主有馬家(赤松氏)の流れをくむ1933年2月生まれの有馬頼底氏。臨済宗相国寺派第7代管長で相国寺、金閣寺、銀閣寺の住職。禅の世界で考える事、好事をたとえに事物の表裏のプラスマイナスを説いている。人間の弱さ、人生の儚さが低位に流れ、なるほど禅の世界ではそう解釈するのだなあと言うのが、良く理解できる。人生は
本日は有馬記念館にて8月24日より開催の展示、大名の風流有馬家ゆかりの茶道具をご紹介いたします大名有馬家ゆかりの茶道具を見学できる展示され、久留米藩の陶磁器についても学べるようです芸術の秋・・・詳しくはこちらよりご覧下さい!oyama
東京都中央区日本橋に鎮座する水天宮に参拝しました。水天宮は久留米藩の有馬江戸屋敷に水天宮の分霊を祀ったのが始まりとされ、安産、子授けの神として親しまれている神社です。頂いた御朱印がこちら!お子さま連れの家族が多かったです。
現代のお殿様事情の1冊です。一応「武士の娘」ですから図書館で見つけて借りて帰りました。知ってる名前もあれば知らない名前のお殿様も。でも、思いは一緒です。一言「大変そう…」…でした。会津若松家(陸奥会津藩二十八万石)ここではある問題が取り上げられていました。実はこの番組を観ていたので記憶にありました。TBSのクイズ番組で会津城を明け渡したのが「トイレの問題」とされたことに対して市をあげて抗議をし謝罪を引き出し、殿(現当主)からの感謝のメールで幕引きをしたというエピソードが書かれてます。そこか
こんばんは、キャリアコンサルタントの中嶋英喜です。今日は、水天宮前のお客様を訪問。という訳で水天宮に行ってきました。元々は久留米にある水天宮の東京分院なんですね。久留米藩の藩邸が会ったこともあり、この地に水天宮がつくられたそうです。こちらは、境内内にある宝生弁財天。久留米藩主と加賀藩主が宝生流神楽の技を競ったそうです。その際に勝利を祈願して参ったので、宝生弁財天と名で呼ばれているそうです。芸事の神様として信仰されています。私もキャリアコンサルタントとしての大成を祈願しました。
兵庫県立人と自然の博物館はイベント充実!駐車場情報も|兵庫県cozre(コズレ)発掘された恐竜の化石や昆虫の標本などが分かりやすい解説と共に展示されており、子どもも参加できるイベントやセミナーなども充実しているので、親子で楽しく...小江戸ブランドでレシピコンテスト栃木市、小中学生が対象下野新聞【栃木】市の「とちぎ小江戸ブランド」に認定された食品を使ったレシピを募集する「とちぎ小江戸ブランド小中学生調理レシピコンテスト」(栃木地区農業教育連絡協議...江戸時代の武士の話
15年前まで、福岡市の親不孝通りにあったカレー屋さん「タージ」ここのサグカリーが大好きで、わざわざ大川市まで食べに行ってきた。行列待ちの間にたまたま手に取ったチラシに「藩境のまち」という地図があってなんじゃこりゃ??と興味がわいた。久留米(有馬)藩と柳川(立花)藩との境目が観光地化されていたなんて、まったく知らなかった!この石が藩の境目に置かれてたんだそう。石に穴が開いてるので、木を通して柵にしてたのかな。江戸時代の街並みが残っていて、なかなかに趣が
今日は、筑後川昇開橋を渡って大川市側に行って、街を散策してきました。まずは、大隈重信記念館前を通過。閑静な住宅街にあり、雰囲気はいいです。そしていつもの旧佐賀線跡です。当時の運賃。時刻表プレートがそのまま取り付けられています。コースは、すっかり初夏の雰囲気となっていました。今日は、湿度が低くとても気持ちいい風が吹いています。みつのり駅到着。給水ポイントで、給水。麦刈りが終わった畑を、トラクターが耕しています。よ
Marさんのアニマルコミュニケーションセッション記録しゅう編です。今では、こんなキュートな佇まいで私たちを癒してくれたり・・・クールなゆきと対照的に、お笑い担当キャラとして・・・活躍中?のしゅうですが出会ったころはこ、これ・・・・・チワワ?当時の状況を振り返ると・・・ゆきを迎えて約半年、新たなライフスタイルに一喜一憂していた頃「3年位したら妹が欲しいね~、色は真っ白かチョコタンのどっちかだよね~」と事あるごとに夫婦で話を
九州ドライブの最後はJR久留米駅へステンドグラスのとっても綺麗な駅です正面エレベーターをあがるとまっすぐな美しい通路があって久留米は椿の産地のようで様々な椿の鉢が並んでいました新幹線乗り場です数年前に八代→博多まで乗ったことがあるので一度通過してます駅舎を出ると大きな太鼓のような時計がありました説明文を読んで『田中久重(たなかひさしげ)』が久留米出身とわかりびっくりHPによると「からくり儀右衛門」こと田中久重は、江戸時代の終わりに、久留米城下の通町十丁目に生まれました。幼い
こんにちは今回は、祥雲寺の黒田長政の墓を紹介します。↑祥雲寺は、黒田長政の息子の、忠之が長政を弔うために、建立しました。境内には、岡本玄治や森長成や久留米藩有馬家の墓などが、あります。↑黒田長政の墓です。長政の正室の栄姫の墓も、あります。↑黒田長政の墓標です。だいたい、6m程あります。今回は、これで、終わりです。では、さようなら
岡田邸について書いたついでに・・・、柿衛文庫を御造りになった岡田さん先代は、伊丹市長や聖心女子大の教授(当時は宝塚に聖心女子大の分校(教養課程?短大部?)があった)を歴任されたが、同じ教会の信徒だったので、御姿は何度も拝見したことがある。戦後の混乱期、地方にでかけ、酒1升と芭蕉や蕪村の色紙・短冊などとを交換して柿衛文庫所蔵の資料を収集なさったと周囲の人から聞いたことがある。柿衛文庫のHPより柿衞は伊丹の醸造家で、岡田氏、幼名真三、利兵衞(りへえ)を襲名。京都帝