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クリームたっぷりのパンを頂きました~クリームが大好きなんですけど・・・、健康診断のコレステロール値が気になるので・・・、最近は控えめにしています・・・。会社のお昼は、コロッケパン、カレーパンをいつも食べてます。さて、私は、オモニ(韓鶴子真のお母様:以下オモニ)が、勘違いされていると確信しているわけですけど。それは、メシヤの花嫁となるべくしてお生まれになった「唯一の」女性である・・・、というのが事実とは違うということです。最初の結婚も神様の摂理で
私の存在自体が、罪悪そのものです。だから、善の側からすれば、ひたすら罰し続けるしかありません。その先に何があるのか、全然見えません。私の存在が消えて無くなるのを待つしかありません。苦を感じる主体が消失するまで、苦だけが存在し続けます。もうどうしようもありません。能動的に何かしようにも、悪い事しかできないので、何もできません。生きる意欲がありません。死があるだけです。
Goodeveningeveryone.ThisisEriashinagamefromAich.今日は義祖母の卒寿のお祝い会でした。親戚一同で集まれてお祝い出来て、すごく良かったです妻が主体となってお祝いのお花を用意したり、本日撮った家族写真をプリントアウトして写真立てに入れてプレゼントしていました素晴らしいですそれではLET'SRELAX‼︎
人生、生きていると、いろいろな悩み、心配事が出てくるものですよね・・・私も昔は「宇宙人」とあだなされたこともありましたが・・・理由は分からんけど・・・一応、人間なので、人並みに悩みがあります・・・、最近は、ウクライナが心配です・・・み言を聞く前は、結構、ダーク側を応援するようなひねくれた心?もあって、アニメのチキチキマシン猛レースでは、ブラック魔王のゼロゼロマシンを応援していたりしましたが・・・。それが、み言を聞いたら、正義が大好きになって、・・・やっぱり、自分は
2018年のブログです*河合俊雄さんと田中康裕さんが編集をした『大人の発達障害の見立てと心理療法』(2013・創元社)を読みました。なかなか難しい本でしたが、かなり刺激的な本で、勉強になりました。お二人ともユング派の分析家ですが、ユングにこだわらずに、精神分析や心理療法全般にも目配りがなされており、バランスのいい本です。発達障害、と聞くと、空気を読めない、とか、自己流とか、マイペース、とかいったイメージが湧いてきますが、河合さんは、それらよりも、主体のなさや主体
昨日は、「勝共連合」のチラシを配布しました。仕事が終わってから二時間くらいしました。汗ばんできました。重たいバッグを手のヒジのところでぶら下げるようにして持っていたので、血流が悪く、脳に酸素が不足していたのか、終わりごろ非常に具合が悪くなってしまいました~。リュックにすれば良かったかな?と思いました。大きくて立派な家が多いんだな~と少々驚き、かっこいい高級車みたいのをたくさん見かけました。マンションは、オートロックの玄関がこれまた多かったですね。・・
北九州市の方の経過の有料記事を某研究者がXで6日まで無料で見られるように投稿し条例で定める非常勤の職員の災害補償を公務災害補償基金1本に絞ることを提案していました。だから反論しました。ちょっと待って下さい。北九州市の遺族の方の意図は補償が欲しかったのではないと思います。請求権が被災者や被災者の遺族に与えるべきだとは思いますが地方公共団体における災害補償は2つだけではありません。労災法の
北九州市で、相談業務に携わる非常勤職員の女性がパワハラを受けてうつ病を発症1年で退職されましたが、その数年後に自殺されました。遺族は非常勤公務災害補償に請求しました。娘さんの自死は、職場でうけたパワハラが原因しかし、当時条例で定める非常勤職員の災害補償には遺族の請求を認めていませんでした。請求棄却大臣だった野田聖子さんは非常勤の職員の公務災害の条例の改正案をだし、遺族も請求ができる
一般的には労働契約が結ばれていると災害補償は労災ですが、地方自治体の非常勤職員の災害補償は地方公務員災害補償基金の対象者条例に基づく議会及び非常勤の職員の災害補償の対象者労災法の対象者と制度が複雑です。常勤的非常勤…正規職員と同じ労働時間を月に18日以上勤務した月が12か月以上続いたとき公務上の災害は地方公務員災害補償基金が適用されます。それに満たないつまり12か月未満かあるいはパートタイムの非常勤は労働基準法別表第一
ちょっと前までどうせ生きていくなら良い影響を与えながら生きていきたいと思ってその選択を重ねてきましたがどうやらそういうエセな考えや行動は無意識の自分とたたかっていてもうヘトヘトみたいですこの疲労は何か違うんだと教えてくれているのでしょうだって好きでうれしくて楽しくて満足しているときは何時間でも何日でもぜんぜん疲れてない(笑)良いという言葉にすっかり酔っていたようです。まずは自分の主体に生命を。
ここ数日寒いですね1月2月より寒いんじゃないかな関東では幸が降ってますし3月というのに、変なお天気ですねまた、どこかで一気に暑くなるのかなみなさん、くれぐれもお体にお気をつけください今日はおとっつあん主体じゃないので、真面目なお話になっちゃいました「おめえ、なにか?オラが主体だったら不真面目になるつぅだか」なにもそんなこと言ってるわよ「言ってるでねえか。まあ、いいだ。今日は勘弁してやるだ。おめえら、身体に気ぃつけるだぞ」えらくあっさり
命婦も、宮の思ほしたるさまなどを見たてまつるに、えはしたなうもさし放ちきこえず。【これまでのあらすじ】桐壺帝の第二皇子として生まれた光源氏でしたが、源氏姓を賜り、臣下に降ります。亡き母の面影を追い求め、恋に渇望した光源氏は、父帝の妃である藤壺宮と不義密通に及び、懐妊させてしまいます。光源氏18歳冬。藤壺宮は離宮に下がり、光源氏との不義密通の御子を出産し、良心の呵責に苛まれていました。源氏物語イラスト訳命婦も、訳)王命婦も、宮の思ほしたるさまなどを見たて
労働組合員・組合役員のみなさん!組合のない職場でたたかっている労働者のみなさん!日々たたかっているなかで、次のことをどう考えたらいいのか、という問題に直面している人もいると思う。一方では、企業は、労働者を低賃金で雇い過酷な労働を強いている存在であり、こんな企業はぶっこわさなければならない、と思う、と同時に他方では、「人員を増やせ!賃金をあげろ!」という要求を実現するためには、企業経営陣や管理者たちと話し合いのできる関係をつくっていかなければならない、「こんな企業はつぶしてしまえ」
夏目漱石は、英文学者で長編小説の作家として知られるが、本人は漢詩で名を残したかったという話がある。森鴎外も芥川龍之介も、漢籍を題材にした小説で知られる。また芭蕉の俳句も蘇軾ら漢詩を踏まえたものも多く、北斎も唐詩選や水滸伝などを題材に多くの作品を描いた。江戸の市民が、俳諧や画業を自ら楽しんでいたことを考え合わせると、漢籍は共通の知識として広く共有されていることが伺える。寺子屋で読み書き算盤というのも、読み書きの対象は漢籍だった。様々な教訓や逸話もこうした漢籍から学ぶ。武家も藩校で孔氏や孟氏、
「今を正しく」を捉えて、失敗、嬉しさ、目標を三行日記に『ぐうたらな生活抜けずいらついて焦る気持ちが空回りして』(その日一番の失敗)『少しだが試験勉強らしくなりキーワード主体に理解とし』(その日一番感動したこと・嬉しかったこと)『じっくりとまずはリズムを雰囲気を集中力はそのうち出来る』(明日の目標)冬至次候麋角解つる(しかのつのおつる)大鹿の角が抜け落ちて、生え変わるころ。トナカイの仲間で、大鹿の角のことを鹿角といいます。(新暦では、およそ十二月二十七日~十二月三十
ヨーロッパおよび全世界のプロレタリア的左翼の同志たちが、みずからの方針をどのように解明するのかということを十分に追求していない、というばあいには、プロレタリア革命の主体をどのように組織するのか、ということを独自的に考察していない、ということがある、といわなければならない。もちろん、同志たちは、自分たちの組織の成員として獲得するメンバーを創造するためにどのように宣伝しオルグしていくのか、ということについては解明し、それにのっとって活動しているといえる。また、一定の労働組合の指導部を掌握して労
「われわれのメンバーのあいだでの内部思想闘争が成立していない」というように問題を提起した同志は、このことについて次のようにその問題性をつきだした。「二人の同志のあいだでの文書のやりとりが言い合いのようになったのは、相手の分析・把握がうまくできていないからだと私は思うのだが、それはおのれ自身のことを分析・把握できていない、つまり自分が何を考えて何を言ったのかというおのれの実践をふりかえり分析し把握することができていないからだ、と私は考える。おのれの実践をふくむ現実そのものの確定ができていない
松代秀樹「黒田寛一は、職場闘争とその主体へのリアルな現実感覚をもっていなかった。これが内部思想闘争を展開しないことの根拠である」論文が、松代秀樹・春木良編著『国際主義の貫徹プロレタリア階級闘争論の開拓』(プラズマ出版)に収録されている。この論文では、まさにこの表題のことがらがほりさげられている。みなさん!この論文およびこれと一連の文章に、ぜひ、主体的に対決してください。われわれの基本文書と英文を私のホームページに掲載しています。見てください。メイン
その時ひとりひっそりと腹を立てていたのだけど、そんなのみんな既にやってるじゃない!って思ったから。そんなこととはちょっと別な…帰宅待つ時間の主体吾になく気付く夕暮れ冷えた秋風ふっと思う時があるのだ、主体という言葉が適切かどうかわからないけれど、誰かを待つ時間って、思う存分その時間を使う!ってことができない時間で、私だけかもしれないけれど、結局待ってるという時間が無為に過ぎていく。この頃、正直それどころじゃないな、って思い始めているので、できるだけ別のことに集中しようとするの
どの宗教が正しいのか?どのマスターの教えが正しいのか?○○という経典に書いていることは正しいのか?○○という瞑想法は正しいのか?○○という人の言うことは正しいのか?このような問いに師匠はいつも同じ回答をしていました。『心が静かになればどれも正しい』『だから自分に合った方法を見つけなさい』万人が共通する方法というのは存在しません。なぜならものの見方、考え方は十人十色で同じ人などいないからです。だからマスター達は弟子それぞれに合った法を説く、対機説法という方法を使ったんです。で
8月14日の一読は第1章「キャリアとは何か」の「1はじめに」です。ここでは導入部ですが、興味深いトピックスが二つありました。まずキャリアの主体は必ずしも自分だけではないということです。キャリア自体は個人個人に帰属するものなので、主体は自分そのものであることは間違いないのですが、自分以外の他者が自分のキャリアに影響を及ぼすことが指摘されていました。そのことを踏まえて、次に大事だと感じたのがキャリアを例える上で「馬車に乗ってどこか遠くへ向かっているようなもの」(2ページ)だと書かれていたことで
何事においても、需要なのはキミの意志なんだか他人事でいる人が多いけれどキミが重要なんですよ。まともに向き合わないで文句ばっかりたれてる人もいる。自分でやりもしないで文句ばっかりたれてる人もいる。自分で動こうとしないで誰かがお膳立てしてくれるのを待っている人もいる。でもさキミがやらなくて誰がキミのことをやるっていうの?キミが自分から動かないなら誰もキミに振り向かない。キミが
一二三神示鎮守会2023(5)8/17第17巻4帖172号ひふみ神示第十七巻二日んの巻(ジシンの巻)(昭和20年9月10日-10月30日)(全19帖)第四帖(三八一)同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体で
今日は終業式です。我が子はいつもより少しだけかわいい新品のワンピースを着ていきました。入学当初は保育園からの持ち上がりのお友達が同じクラスに男の子一人だけで、本人も不安だったようです。就寝前には涙したりしていました。唇を剥くというチックもありましたので、私も本当に心配していました。入学後しばらく本人の希望で箱庭みたいなものを作り、一緒に遊んだりもしていました。我が子の平常心を保ちたいという気持ちがひしひしと伝わってきまし
女性と会話する時に一番心がけて欲しいことは、相手が主体で話しているかどうかになります。多くの男性が自分の事を延々と話す傾向にありますので、うっかりすると時間の9割くらい男性が話していることまであるようです。女性との会話の8〜9割ぐらいは女性の話を聞く側に徹しましょう。
皆さんは怒り、悲しみ、恐怖、喜びなどの思いを何度も体験してきました。これらの思いは自らの意思に関係なく現れ、制御できないものだと認識しているかもしれません。確かに、人は感情の動物だと言われます。複雑な思考回路がある故に、実に多様な思いが現れます。多様な思いが積み重なる故に、強烈な感情が現れます。これらを記憶として持っているのが人間です。記憶が怒り、悲しみ、恐怖、喜びなどの元になりますが、これらは常に現れているわけではありません。きっかけとなる外的な条件、つまり影響があって初めて現れ
いつも読んでくださってありがとうございます初めましての方はこちらのページも宜しかったらお読みください『はじめましての皆様へ〜TrinityLUCEのご紹介〜』はじめましてようこそTrinityLUCEへ『楽しく楽に自分らしく生きよう』~楽しむことは自分自身を生きること~あなたらしさを活かす生き方して…ameblo.jp⇒⇒新しいサイトへのアクセスはこちらからどうぞ→TrinityLUCE各種詳細はMylineupにあるご提供メニューをご覧
村上春樹『街とその不確かな壁』読了。やっと読了しました。あまりに分厚いので、発売から少し放ったらかして、着手した当初は読了するのだろうかと思ったくらい。村上春樹を読むのは久しぶりだけど、相変わらずな描写と、文章が少しナチュラルになって読みやすいところと確認できました。ストーリーというストーリーはないけれど一人称で語られる心象風景は懇切丁寧で、言おうとしていることが手に取るように理解てきる気もしたし、やっぱり何か勝手な推測しかできていないようなモヤモヤした感じもしました。ざっくり言っ
ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考5.63~5.633」には、私とは、私の世界のことである(5.63)思考し表象するところの主体なるものは存在しない(5.631)主体は、世界のうちに属するのではない。それは世界の境界なのである(5.632)世界の何処に、形而上学的主体が見付かるであろうか(5.633)という一連の記述があります。ここで言う「世界(私の世界)」とは論理的な「論理世界(論理絵)」です。この「形而上学的主体」も同じく”論理的”であるべきなので
ぼくは、「本当の自分」は主体で一つだと思っていた。しかし、状況や状態で自身の性格が変わることに気付いた。これは「自分」が仮面を着け替えているのだと考えていた。これをペルソナと言うのだろうと。しかし、何かに集中していたり、ボーッとしている時など、「本当の自分」も含め全ての「自分」が無くなっていることに気付いた。だから、「本当の自分」は主体では無いという考えに至った。じゃあ何か?と言えば、思考だと思う。これを自我とかエゴとか言うこともあるようだ。そう考えると、状況や