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「医薬両業の関係を論ず」を書いた頃の鷗外森林太郎は、公私ともに多忙の極みにあった。その動静に就いて、丸山博氏が作成した年次別と作品発表編数の統計グラフ(鷗外全集29巻月報p6)を見るとそれがよく分かる。帰朝してから間もない明治22年~翌年の時期と、陸軍医務局長に就任してから明治42年~大正2年の時期の活動が二峰性を示して居るように見えるが、前者は医学文学併せると200編以上となり、生涯の中で最も突出している事になる。言い換えると、3,4日に1編のペースであり、この数は驚嘆に値しよう。これ
鷗外森林太郎は医薬両業の関係を論じたが、「法律第10号(薬律)には議すべき所多し、されど今敢えて言はず。」と、薬律の問題点に就いては敢えて述べなかった。まあ確かに言ったところで直ぐに法律をどうこう出来るものではない。しかし別に減るものでも無いから少しくらい言っておいても良いじゃない、とも思うので、現代の視点から僭越ながら少しばかり私が言っておこう。薬剤師にとって薬律は、薬剤師が「処方箋により調剤す」と明記されて居るにもかかわらず、その附則に「医師が調剤し販売することを得」とされて居た。
鷗外森林太郎の医薬両業論には、多くの法律がわざわざ引用されている。これはその中に矛盾があることを読者に容易に指摘出来るように仕込まれているとも考えられる。「処方箋に據り調剤す」(法律第10号第14條)といふ調剤師にあらず。「単に薬品を製造し、自製の薬品を販売す」(同條23條)といふ製薬者にあらず。「薬品の販売をなす」(同第20條)といふのみなる薬種商にもあらず。売薬者は「丸薬、膏薬、煉薬、水薬、浴薬、散薬、煎薬等を調整し、効能書を附し、販売するもの」(太政官第7号布告第1章第1條)
要するに賀古鶴所と森林太郎が云わんとする所は、医薬分業の一番の問題は、分業したとしても治療さえ受けることが出来ない極貧の民が一定数存在する。その救済をどうするか。そう云った貧民は、まじないや祈祷、そして売薬者の薬で済まそうとするので、政府がこれらを排除させようとして来た経緯がある。薬律の附則は、それらの貧民に害をなすものを排除し、また分業後の貧民を救済するための準備期間であると。聖徳太子が貧民救済の為に施楽院を設け、その後光明皇后が慈善で貧民を施楽院に収容し、丹波敬三博士の先祖の平安の丹波
なにかの手違いで削除してしまったので再掲。明治22年(1889)4月に丹波敬三博士が「医薬分業に就いて」を演説し、その後も各地で遊説を行いながら、明治23年(1890)8月には富山市で講演を行った。丹波博士の講演の要旨は、「富山の売薬の信用が落ち販売高が減じている原因としては、新医学者が配合する峻力性薬物に取って代わられているためで、そうなったのは法律でそれらの劇薬の使用が売薬者に禁止されて居ることと、売薬者の不学不注意によるものの結果であるとし、それを挽回するためには地元による薬剤
薬学の独立を果たすには、医薬分業は為さねばならなかったのである。なぜなら医師が調剤権を握っている限り薬剤師は生計を立てることが出来ず、そのために薬学を志す学生は増えない。薬剤師が増えないことには現実的に分業が行えず、ますます調剤権を得ることが遠のいて行く事になり、やがては行き詰まる事になるからである。学問的見地から見ると、丹波敬三博士の唱える医薬分業論はごもっともである。しかしその演説で医家が不経済になることが論じられていない。それが医師らの反発を招くことになったのだと私は思う。先
明治22年4月に、丹波博士は大日本私立衛生会四月常会に於いて、「医薬分業の可否を素人に質し、並びに飲食色素等の取締規則の必要を論ず」の題下に演説を行った。前回(丹波敬三⑥)に続き、中外医事新報248号(p777)の雑録の中の「医薬分業に就いて」を、幾つか横やりを入れたくなったが敢えてせずに一応真面目に訳してみた。その丹波演説の要旨を簡単にまとめると、医薬分業を行えば数多くの利益があるが弊害は一つもないと云うもので、医師と薬剤師との間の問題と、そして国家国民の経済的なことに就いて述べら
明治20年(1887)、丹波敬三は、ドイツ留学から帰国して早々に帝国大学医科大学薬学科の教授に就任し、裁判化学、衛生化学、植物解剖学を担当する。製薬化学、植物学、薬品試験法、生薬学、薬舗業務は下山順一郎教授が、調剤学、有機化学、薬草分析は丹羽籐吉郎助教授が担任した。と、ここまでは順風満帆な門出に見えるが、その前途にはすでに多難が待ち受けて居たのである。つまりその年に、薬舗開業者により東京薬舗会が設立され、東京医会に対して「医薬分業に関する意見書」が投じられた。これを機に医師と薬剤師と
明治20年6月、学位令が勅令第13号として公布され、我が国初の博士の学位(博士号)が森有礼文部大臣より、医学、文学、理学、法学、工学の5種の分野に於いて各5名が選出され総勢25名に授与された。その博士号授与の選定規定は、学位令第三条に明記され、大学院に入り定規の試験を経たる者か、それと同等の学力を有し且つ帝国大学評議会の議を経た者に限られた。医学科に於いては翌月にも帝大の各教授らに医学博士号が授与されたが、薬学科教授の丹波敬三や下山順一郎はこれを敢えて拒否する。その理由は、博士号の種別
陸にありては豪気の丹波。先ず丹波敬三の生誕地に就いて訂正。「大日本博士録」に神戸市元町●丁目との記載があり、根本曽代子氏の「薬学の先駆者・丹波敬三(Ⅴ)」(Chemicaltimes、No4,p1361-1362,1975)には摂津国八部郡走井村(神戸市元町)との記載がある。また航西日記に「摂津人」とあり、ネットには摂津国走井村と散見されて居るので私はてっきり大阪であると思っていたが、当時の摂津国は現在の兵庫県神戸市を含み、その地に八部郡走水村と云う地名があったので、正しい現在の生地
次に、丹波敬三の名が独逸日記に見られるのは、明治19年(1886)11月13日の條である。萩原三圭に日本食でおもてなしを受けてから凡そ2年が経っていた。鷗外森林太郎は、同年の3月8日からミュンヘンに遷って居る。「丹波敬三、ブダペストに往きし帰途、ここに立ち寄り、この日土曜日に当たるを以て、余等を誘ひてレオニイに遊ぶ。汽車のスタルンベルヒに達するや、馬車二輛を雇ひ、湖を環りてレオニイに至る。酒を呼びて興を盡し、ここに泊す。」これを現代訳するまでもないが、一応しておくと、「丹波敬三がブ
第三回薬物展覧会、京都南禅寺金地院に於いて記念撮影。当時の薬学会の権威者らが写っている。前列左から3人目が丹波敬三で、その中央がエフェドリンのナガヰの長井長義。その右隣に下山順一郎、前列右端が丹羽籐吉郎。後列左端、飯盛挺造。鷗外森林太郎の独逸日記の明治18年1月4日の條に、「丹波敬三、飯盛挺造伯林より来ぬ。萩原の宿にて、日本食調へて饗しつ。」とある。新年早々に、ライプチヒ留学中の森のところへ、メンザレエ号の同行者であった丹波と飯盛がベルリンより来訪している。この二人は学生時代
丹波敬三(1854~1927)安政元年(1854)1月28日、摂津国八部郡走井村(大阪府豊中市)の蘭方医・丹波元礼(兵庫出身)の三男として生まれる。淡斎と号し、書をよくし「心廣體胖」の遺墨が東京薬科大学に所蔵されて居る。先祖は我が国で現存する最古の医書、「医心方」を984年に著した丹波康頼で、その30代目の子孫とされて居る。慶応元年(1865)、紀州の藩医池田良輔を通じて蘭方医華岡鷺洲に師事。鷺洲は化学(舎密)研究家でもあった。明治2年(1869)、父・丹波元礼が死去したため生家
幕末の周防の人、森静男は大庄屋の吉次家の五男に生まれ蘭医を志した。その後異例の出世を遂げ津和野藩主の侍医となる。その立志過程を見ると、決して生易しいものではないことが分かる。だが市井の、所謂俗医となる位のことは、現代とは違い幕末の時代ではとても簡単であったことは確かである。とは云え静男の時代に医師になると云っても、その職には朝廷医官や将軍家の医師、旗本医師、藩医、民間の町医や村医など色々あったわけで、それらの医師の実力がまちまちであったのは、医師免許制度が無い時代であったからとも考えられよ