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雛飾りに無縁な家族私の子供・長男(孫の男の子1人)次男(孫の男の子2人)全く寂しいですが仕方が有りませんねで・おひな様には無縁です15年ぐらい前かな~愛知県の足助でミニのひな飾りを買いましたこの時期になるといつも、神様は不平等だと、少しだけお恨み申します。神様・・五体満足での男の子で何が不足じゃ・爺さんよ!パソコンの上にも乗る、ミニ・ミニ
踏査地:都営霊園踏査数:1軒姓:よみ:….鹿児島県鹿児島市・(確認)ちゅうま.ちゅうまん.なかうま分類:①地名姓・広島県安芸高田市吉田町中馬発祥②特記による分布:全国724軒/鹿児島県鹿児島市127軒/鹿児島県垂水市海潟17軒ランキング:①村山・2521位/1328軒②名字由来・2780位/4,900人家紋:右三つ巴地名:1市広島県安芸高田市吉田町中馬・ちゅうま地名の姓分布:広島県安芸高田市0軒特記:鹿児島県垂水市海潟江戸期の門割制度・中馬門による
中山道信濃路歩きは、追分宿を過ぎ先に進みます。ゆるい上り坂を上りきったあたりに「追分一里塚」が現存していました。開発が進む中、両側の一里塚が残っているのは珍しいですね。頂上付近は標高1003mです。この先下りです。旧道は、追分そば茶屋のところで右に入ります。「従是左上州くさつ・大さく・あがつま道」とあります。大きな「馬頭観音」文字碑があります。ここからの集落は「借宿(かりやど)」という地名で、江戸時代は「追分宿」と
愛知県豊田市の足助(あすけ)というところへ連れて行っていただきましたちょうどおひなさんが始まってると!足助の民家や商家に古くから伝わるおひなさんや土びなが飾られてあってお店をのぞいたり散歩しながら楽しいひととき◯大正初期漆喰のおひさん味わい深い産着は一度、布団皮になったそうなのだけどもったいないと着物に戻したのだとか触らせていただくと、とろける感触ずっと触っていたい元銀行の建物には当直用の部屋が昔はSECOMなんてなかったもんねぇでも当直なんてこわいわぁ!!お軸のおひ
皆さん、ご無沙汰してしまいました。半年越しのブログ更新ですざっと前稿までのおさらいです。「三河湾沿いの大浜・棚尾(碧南市)・生田(一色町)・饗庭(吉良町)などでとれた塩は、矢作川を古鼠(豊田市)まで、また支流の巴川をさかのぼって平古(豊田市)まで運ばれ、そこから馬の背で足助の塩問屋へ送られてきた」(『愛知史跡郷土史』講談社,1982。引用文中の「古鼠」は“ふっそ”と読む)「矢作川の場合は、下流の平坂・鷲塚で川船に積まれた塩・大豆・干鰯・綿実・繰綿などの諸物資は途中、岡崎などの各土
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中馬(ちゅうま)という、現代ではあまり使われない、耳慣れない用語。その意味は、「馬による運輸業」のことであり、それに関わる人々や、運輸慣行全般を指しているそう。「中馬」の由来は、“運賃を稼ぐ馬”、“荷主と買手の中継ぎをする馬”だとされています。先日来、触れてきている矢作川(やはぎがわ)は、現在でも「西三河」「東三河」の境をなす大河ですが、この矢作川舟運によって下流の三河湾方面からの上り荷として、鉄・大豆・干魚・醤油・味噌・酢・酒・〆粕・干鰯・陶
「令和」の年となりました。改元の時は、年越しの時以上の盛り上がりを見せましたね。さて、このブログも、平成の時代からたいへん…たいへん…ご無沙汰しており、改元早々お詫び申し上げます。前回。塩の道と称される街道が、愛知県にはあることをお伝えしていました。それは愛知県側からは、飯田(いいだ)街道・伊那(いな)街道とか、善光寺(ぜんこうじ)街道などと呼ばれたりした道です。三河湾で採れた海水で精製した塩を、東海道の宿場である岡崎宿まで矢作川
中馬ぬくもり街道「ひな祭り」に合わせて、お雛様を飾りました。水引きの吊るし飾りも一緒に✨とても華やかになりました😊
中馬のおひなさまに行ったお土産をもらいました〜ん〜〜最中大好き〜❤️❤️❤️餡が黄金色甘さ控えめでもっちり餡、サツマイモか❓美味しゅうございました
平成29年度は2/11より募集開始だそうです。描き上がったので、しばし手元に保管。今週土曜日が満月なので、その日に出そうかな?にしても、満月が近いせいか今日の月はとーっても綺麗でした!一瞬、寒さを忘れた。その時の感動を絵手紙にしたいけれど、今日は無理そうなので、明日描こうかな。月の周りがレインボーで本当に素敵でした!