ブログ記事163件
謡林璚樹(よぅりんけいじゅ)・品格が気高く人並み外れて優れていることのたとえ。品がある人はいますね。中身までは分からないけれども常に生き方を正してるのかあるいは教育がよかったのか。特に女性は話し方から歩き方まで性格が出る気がする。食べ方から話し方まで気を付けないと品はでない。となるとやっぱり親の教育が大きな比重を占めると思う。男は品というよりかっこいいオーラを出してる人はいますね。中江藤樹は儒学の先生でやっぱり知行合一で言うことも立派なのに行動も立派で周りの人間を感化させてる
https://youtu.be/nwZHCTsktDo?si=kCp5y92_HUF7zLdU-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be~主演原田龍二他豪華俳優陣~
https://x.com/sanseishiga/status/1830501708327526597?t=zrnI5COBwnx0MFoSOwceIA&s=19x.comx.com
心学「仁」仁は死語に近い言葉になっている。しかし、人間関係の中で最も高徳な心である。人を思いやる心、人を慈しむ心、人を差別しない心、人と争わない心、人に嫌な思いをさせない心など。幅広い慈愛の相である。この「仁」の心を教えるか否かで教育が変わる。家庭での仁徳教育、学校での仁徳教育、社会での仁徳教育、企業での仁徳教育、仁徳教育こそ人間教育の原点である。当然、それを教える立場の人間が「仁徳」を修める必要がある。教育は「人に教えて育てる」こと。
湧くわく本心塾夏期特別講座吉田公平先生の『藤樹哲学と日本人の思想変還』を開催させていただきました♪陽明学♪↑明治維新を成し遂げた志士達の原動力になったとも言われる学問♪江戸幕府は儒学の中の『朱子学』を推奨して多くの武家の優秀な子弟は昌平坂学問所を目指して頑張りました♪しかし…江戸期の朱子学はすでに『学問』としては完成していましたが…逆に実践的ではないと気骨のある武士達には納得いかないという意見なんかも散見されたようです
日本の陽明学(心学)の祖と言われる中江藤樹至徳要道とは最も重要な道ある至高の徳。孔子は「天道は孝という徳を備え、神妙不測にして広大深淵な存在で始まりも終わりもない」「人知を超えた不思議な予測不能で広く大きく深く果てがない」神妙不測とは、人知を超えた不思議さは予測不能である。天地に存在する万物は、例外なく天道・天理の神明霊光の力によって生まれ育つのだから、自分の心の高徳が明らかなになれば神明に通じ、天地万物は自ずとわが心の高徳にある************
出所)AdobeStockJTFishermanさんの画像に加筆いかで我が心の月をあらはして闇にまどへる人をてらさむ近江聖人道歌どうにかして、私の心の中にある月明徳、良知の光を現し出して心の闇に迷っている人々の生き方を照らし導いて行きたいものである参考)近江聖人・中江藤樹2,「永遠の
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…中江藤樹は人を育てることに生涯を賭した人である。中でも、生来の「愚魯鈍昧(ぐろどんまい)」といわれた大野了佐(りょうさ)との逸話は忘れ難い。藤樹の伊予大洲(おおず)時代の友人、大野勝介(しょうすけ)の次男が了佐である。了佐が藤樹の後を追って小川(滋賀県高島郡)に来た時、藤樹三十一歳、了佐二十七歳。僅か四歳の違いである。どうしても医者になりたいという了佐。藤樹は当時の医学入門書『医方(いほう)大成論』を読
6月になりました台風1号が発生したり雨の日も増えて、もう梅雨なのかな?と思う今日この頃ですが、今月の御言葉を頂いてきました。江戸時代の儒学者である中江藤樹の言葉です。神道の正直を実践するには、敬愛の精神をもって過ち無きよう日々を生きることである。そんな言葉です。神社のゴボウが凄い成長してました💨こんな高くなるんですね~😲根っこしか見ないから知らなかったです「第52回伝統工芸日本金工展」に入選しました!石洞美術館2024年5/18~6/29(休館日あり、ご注意下さい。)入館料
:令和六年六月「生命の言葉」【中江藤樹】>[神社参拝の作法]手水の仕方👏ブログ&動画https://ek0901.hatenablog.com/entry/2024/06/01/084724
徳を以て徳に報いる二宮尊德一日一言わが教へは、徳を以て徳に報うの道なり。天地の徳より、君の徳、親の徳、祖先の徳、其の蒙る処人々みな広大なり。之に報うに我が徳行を以てするを云ふ。君恩には忠、親恩には孝の類、之を徳行と云ふ。さてこの徳行を立てんとするには、先づ己々が天禄の分を明らかにして、之を守るを先とす。(夜話128)【略解】「徳行を以て徳恩に報いる」は翁の根本思想ですが、その徳行に先立ち天禄の分(おのが徳分)を明確にして、それを守る
会北史談会の定期総会が来る29日午前10時から喜多方市の喜多方プラザ二階の会議室で行われますが、そのときに私が「会津白虎隊の精神」と題して話をすることになっています。白虎隊の少年たちの死は、あまりにも壮絶なものでしたが、なぜ国に殉じたかというと、そこには山崎闇斎の朱子学、さらには藤樹学の影響があったからです。いうまでもなく、朱子学は天皇絶対であり、会津藩の家訓(かきん)における「大君」という言葉は、天皇を意味するという解釈もあります。幕府を第一と考える場合にしても、その上に天皇がおられ
こんにちは。今回も前回同様、北近江から「近江聖人シリーズ」になります。どうぞよろしくお願いいたします。中江藤樹木像(玉林寺)まずは藤樹さんの菩提寺・玉林寺さんの聖人さん木像から。これは、なかなかキレイな木像ですよ。すごくイイ感じです。雰囲気も最高です。お寺さんの門にかかっていた看板。どうやら有名な方の作品のようですね。玉林寺さんの位置はこんな感じ。藤樹書院と藤樹神社の間にあるんです。このあたりは藤樹さん一色なんです。中江藤樹(藤樹書院)続いては、藤樹書院のお庭
こんにちは。今回も前回同様、北近江からになります。どうぞよろしくお願いいたします。中江藤樹(青柳小学校)前回の道の駅のほど近くにある小学校にお邪魔しました。伊予の大洲もそうでしたが、高島市や近江の小学校は二宮金次郎さん銅像よろしく少年・中江藤樹さん銅像のところもあるそうです。しかし、この銅像もまた台座がデカいのです。バックショットはこんな感じ。かなり前方はひらけた感じです。こんなモニュメントも、、、「良知に生きる」って何?道の駅から小学校まで行く途中に、こんな目立った
こんにちは。昨日は初夏となっただけでなく、今日はもうすっかり夏本番の日になってしまったココ名古屋ですが、皆さまのエリアは如何でしょうか。明日からもう新年度が始まってしまいますが、今回から今月中旬に伺った北近江&湖東エリアからやっていこうと思います。このところ記事のアップも遅れ気味になってしまってますが、どうぞよろしくお願いいたします。中江藤樹(安曇川駅)昨年の伊予遠征・大洲めぐりで感化された近江聖人さま(ゆかりの地)めぐりを敢行/観光しました。中江さん像、この安曇川=小川庄でかな
枢軸にある神道安岡正篤教学一日一言日本の歴史を通観しておりますと、儒教、仏教、キリスト教などいろいろな文化の交渉や融合、発達がありますが、この中に遠く神代の昔から連綿として、わが国の歴史の枢軸を成して発展してきでいるのは、実に神道であります。この、「生命尊重―偉人崇拝―英霊崇持―人間感化―世道興隆」が、あくまでも神道の根本観念であることを忘れてはなりません。------------------------------昔、西行法師が伊勢神宮に参拝になったとき、
17日は今年初めての三方よし講座で滋賀県高島市の近江聖人中江藤樹の勉強会で中江藤樹記念館へ。塚本理事長の挨拶藤樹記念館館長の中江彰先生の講義で日本陽明学の祖と言われる中江藤樹の考え思想を学びました。隣接する藤樹神社に参拝。続き陽明園へ。中国式庭園が見事に復元されていました。後、中江藤樹のお墓へ。続き藤樹書院へ短時間でしたが、有意義な一日でした。翌18日は八坂神社の祈年祭へ。今年の色々な事象の豊作を祈願しました。
2024年3月6日(水)の出来事です。今年はNHK大河ドラマは源氏物語の作者の紫式部の生涯です。毎回ドラマを見ています。===========今回の日帰りバスツアーは紫式部が一時期過ごした福井に行く旅です。最初の訪問地は3月16日に開通する北陸新幹線の「たけふ駅」です。ここでランチします。たけふ駅まで3時間半かかります。途中トイレ休憩。滋賀県の中江藤樹の里道の駅に寄りました。
「孝経」人生をひらく心得/伊與田覺Amazon(アマゾン)Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る${EVENT_LABEL_02_TEXT}★★★★★昨年大晦日の運命を創る/安岡正篤23365にあった安岡正篤先生お薦めの一つがこの「孝経」だった。孝経、どの本で学ぼうかな?と思って調べてみたが、伊與田覺先生のこの本がやはりよさそう。6年ぶり二回目、前回は図書館で今回は購入した。私の両親は高齢ではあるが元氣にされている。今
こんにちは。今回もこのところ続けております伊予遠征からです。ここまで、今治やしまなみ海道の島々=東予エリアからでしたが、今回は県南西部=南予エリアからになります。よろしくお願いします。中江藤樹(大洲城)中江藤樹さんの銅像、実は大洲城周辺だけで3体あるようです。まずは大洲城天守近くにある近江聖人さん像。実はなかなか景色が良いところに佇んでおられます。あとですね、「中江藤樹像」とGoogleで検索しますと天守北側・肱川沿いにポイントされます。行ってみるとこんな↓建物が、、、お
苦しみを去って楽しみを求むる道はいかん。答えて曰く、学問なり中江藤樹(1608年-1648年)中江藤樹(なかえとうじゅ、1608年4月21日(慶長13年3月7日)-1648年10月11日(慶安元年8月25日))は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した[注釈1]。ウキペディア※『#今日のひとことブログ』今日のひとことブログ苦しみを去って楽しみを
江戸時代の初期の儒者であり、わが国における陽明学の祖とされている中江藤樹は、その徳行を通じて近江聖人と称され、理想的人間像の典型として親しまれてきた。我が国における陽明学の祖とされる近江聖人中江藤樹は,全力・純粋な人であった。藤樹は,理想と現実,理と事,内と外の対立葛藤に正面から対決して,目覚めたものの孤独に耐えて,なお人を愛敬した。愛することは人の道であり,愛情のない人間はないと考えた。母を愛し,門人を愛敬し,村人を愛した。決して名利栄達のためではなく,道理を実現し,自己を人間として完成する
日本に変革の思想があるのだろうか。それを正面から論じたのが三島由紀夫であった。三島は「革命哲学としての陽明学」において、明治維新について「私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムのとしての陽明学によって準備された」と断じている。三島は「平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培った」と国学の果たした役割を評価したが、それ以上に中江藤樹以来の陽明学の影響を看取した。とく三島は大塩平八郎の著書『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』に注目した。西郷隆盛が死に至るまで愛読し
■次に行ったのは藤樹神社。江戸時代の儒学者である中江藤樹がご祭神の神社です。こちらが二の鳥居。今回は藤樹神社に行く予定はありませんでした。でも、なぜか前を通ってしまったので、寄ることにしました。前回はなかった渋沢栄一さんの記念碑ができていました。こちらの神社の創設に多大な貢献をされたそうです。拝殿です。狛犬が独特。お守りやお札などが欲しい人は、代金を賽銭箱に入れるスタイル。さすが近江聖人といわれる中江藤樹さんの神社です。悪人を想定していないところがスゴイ!
【学生は無料です!】今月15日(日)午後1時半から、都内文京区で講演をさせて頂きます。主催は「英霊の名誉を守り顕彰する会」、演題は、『明治中期に陽明学が何故見直されたのか』です。明治時代といえば、文明開化の時代ということで、どちらかと言えば明るいイメージの方が強くありますが、実態はというと、まるで先の大戦の敗戦直後のように、明治期の特に前半は乞食が急増した大混乱の時代でした。明治時代を語るときに忘れてはならない人物が二人います。一人は、拙著『渋沢栄一と陽明学』(ワニブックス)
第26回小中学生藤樹先生書写書道作品展藤樹の里文化芸術会館へ観に行きました。どれかな…最高!勢いがあっていい!藤樹先生の言葉『良知に至る✨』致良知陽明学では「良知」は誰もが生まれながらに持っている「愛敬」の心であり、致るとは「良知」を常に意識して、言動に現れるようにすることです。人が人らしく生きられるのは「良知」の働きによるものなので、つねにそれが十分に働くようにしておかなければならないという教えです。中江藤樹ついてtoujushoin.comhttps://ja.m.wi
四国では四国八十八ヶ所霊場巡りをしましたが、大洲城、川之江城、湯築城とお城巡りもしました。最初に大洲市の大洲城に行きました。大洲城は、元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に伊予国守護の宇都宮豊房によって築城されました。豊臣秀吉による四国平定後は、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、近世城郭として本格的な整備が行われたのは、藤堂・脇坂の時代と考えられています。元和3年(1617)、伯耆国米子から加藤貞泰が入城して以降、明治2年(1869
かつて拙ブログで、内村鑑三と彼の代表作、『代表的日本人』ををご紹介しました。(↓)同書の中では西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳という誰もが知る名前が紹介されていますが、彼らに次いで4番目に挙げられている人物(※5番目は日蓮)が、中江藤樹今日は、日本陽明学の祖にして〝近江聖人〟と呼ばれたこの儒学者の命日・没後365周年にあたります。1608(慶長13)年、近江国小川村(現在の滋賀県高島市)の農家に生まれた藤樹は、9歳の時に武士であった祖父・吉長の養子とな
思い込み♪↑コレが知識を拡げる時に大きな大きな足枷になるんだなと今回の潜学講座で気づきました♪中江藤樹♪↑日本国内では陽明学者の代表の1人のように数えられる江戸初期に近江にいらっしゃった方です♪↑近江聖人とも称される♪ところが!中江藤樹が陽明学に出会ったのはすでに近江聖人と称されるようになってからだった(驚)中江藤樹は自分自身で学んだことを藤樹書院で地元のお百姓さん等々に説いていましたが…自分自身で学んで
心学抄「惑い」藤樹曰く心の本体は惑いという砂塵が多くの耐えがたい苦痛をもたらす学問とはその惑いの砂塵を洗い流して心を安楽な状態に返す道である*藤樹中江藤樹日本陽明学の祖江戸初期の儒学者