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【問題】【日本城郭検定準1級】秀吉の信頼が厚かった中村一氏は各地の城主に任じられたが、次の城の中で城主でなかったのはどれか。【選択肢】大和郡山城駿府城水口岡山城岸和田城【正解】大和郡山城【解説】中村一氏は羽柴秀吉時代の家臣で、天正11年(1583)に岸和田城主、次いで水口岡山城主、駿府城主を歴任し、関ケ原の戦いを前に病没した。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
天守閣は1827年に落雷で焼失しています。1583年羽柴秀吉は蜂谷頼隆を近江に転出させて岸和田城を中村一氏の配下に置き根来衆・雑賀衆・粉河衆などの一揆衆討伐を命じましたが1584年小牧・長久手の戦いの留守を狙って一揆衆連合軍の総勢3万人が岸和田城に侵攻して来ました。これに対して中村一氏と松浦宗清たちは8000人で守り切り、この功績で松浦宗清は加増されて伊勢国に転封となります秀吉は一揆衆連合を追討する為1585年に岸和田城に入城します。この合戦の後、秀吉は小出秀政を岸和
北条氏は豊臣軍の兵糧不足から長期戦を想定していたようですなんせ総勢22万人の大軍ですからそのように考えてもおかしくはないと思いますしかし小田原征伐の前哨戦となる山中城攻めを秀吉は重要視して戦い慣れた池田輝政や徳川家康・豊臣秀次・山内一豊・中村一氏一柳直末・堀尾吉晴と言う精鋭たちを投入して天下統一を決定づけた戦いとなったのでした
城攻めは攻める方の被害が甚大である為中村一氏隊のような、がむしゃらな力攻めはしません。しかし現場は屍だらけとなってしまいました。そこには豊臣秀次の絶対に負けられない理由があったようです実は秀次は小牧・長久手の戦いで失態をしていた為、汚名挽回を狙っていましたそれと、既に天下の形勢は決していて秀次の見ている前で功名を上げられる最後の機会となるかもしれないと言う武士たちの出世レースの思いがあった事が凄まじい戦いとなったのかもしれません
戦いは岱崎出丸から始まりましたそれは壮絶な銃撃戦となりましたそうした中でも先鋒隊の一柳直末隊は壊滅的な打撃を受け直末自身、流れ弾によって戦死してしまいます一方中村一氏隊も岱崎出丸に何度も何度も攻撃を繰り返して渡辺勘兵衛が一番乗りを果たすと戦いの場は二の丸→本丸へと移り圧倒的な数の前に北条軍は壊滅します城主の松田康長も戦死し正午過ぎには山中城は落城しました両軍の戦死者約2000人とも言われ戦国時代最大の戦いとなりました。美しい富士山と戦いは似合いませんね
大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。<「家康」等の出来事>できごとについては、「駿府城」の歴史の中でお話をしていきます。「駿府城」の位置↓『江戸移封前に築城後再び大御所として戻り天下普請で大城郭にした「駿府城」(
天海⑳山中城は箱根山の中腹に築かれた山城である。その岱崎出丸は箱根路に並行して作られていたため、小田原城に出るためにはどうしても落とさねばならない城であった。この岱崎出丸に対する右翼軍の先鋒が中村一氏である。中村隊は岱崎出丸から激しい銃撃を受けた。一氏の武将・渡辺勘兵衛によると将兵は屍の上を乗り越えて出丸に取りついたのである。その後も中村隊は被害を出しながらも大手口、三ノ丸と進み、ようやく本丸に辿り着いた。一方、食料危機にあった秀次隊はさらに深刻であった。麾下の武将は飢
※天正期天守台横の堀に大量の金箔瓦が積み重なった状態で発見されました。家康が慶長Ⅱ期天守台を造る過程で破却され投棄されたようです。駿府城に行きました!パート4️⃣駿府城天守台発掘調査現場「きゃっしる」パート4️⃣安土桃山時代中村一氏編豊臣大名中村一氏慶長1期天守武田家滅亡、本能寺の変を経て、徳川家康は駿府城を居城とし、天守を築きました。秀吉は、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経て、事実上織田政権の後継者となります。徳川家康は、
※駿府城本丸徳川家康公銅像でっぷりされてタヌキおやじって感じです※駿府城本丸跡石碑後方に天守台発掘現場があります駿府城に行きました!パート1️⃣①駿府城戦国時代〜江戸幕末1.戦国時代(今川→武田時代)駿府城は、室町幕府の駿河守護大名今川氏により、国府(首都、居城)として今川館が築かれました。今川氏は、吉良氏(吉良氏は江戸時代の吉良上野介で有名ですね)と並ぶ足利一門で、「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えな
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。『<北から南へ「天守」シリーズ>プロローグ』本日から、『北から南へ「天守」シリーズ』をお届けしようと思います。まずは「プロローグ」から。「天守」については、3年ほど前に、現存、復元、復興、模擬をグルー…ameblo.jpそして2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)
【問題】天正18年に中村一氏が与えられた地は、次のうちどこか?【選択肢】越前府中駿河府中甲斐府中備後府中【正解】駿河府中【解説】中村一氏は、天正18年(1590)小田原攻めの際の戦功により、豊臣秀吉手ずから陣羽織を賜わり、徳川家康の領国と接する駿河府中(駿府城)を与えられた。
【問題】天正12年、根来衆らに岸和田城が攻められた際、城主・中村一氏をあるものが救った伝説とは次のうちどれか?【選択肢】龍神池伝説狐偽旗伝説麒麟雲伝説蛸地蔵伝説【正解】蛸地蔵伝説【解説】蛸に乗った法師と蛸の大群が、落城寸前の岸和田城を救った伝説が残る。後に夢で法師が地蔵菩薩の化身だと知った一氏は、地蔵菩薩を祀り、それが「蛸地蔵」と呼ばれるようになった。
訪問日:2022/10/1【場所】滋賀県甲賀市水口町【築城年】1585年【築城者・改修者】中村一氏【城郭様式】山城【主な城主】中村一氏、増田長盛、長束正家【見所】①石垣②堀切【廃城年】1600年【御城印の有無・販売場所】ひと・まち街道交流館【アクセス】【駐車場情報】古城山観光駐車場(無料5〜6台駐車可能)【周辺観光施設】水口城標高282.9mの古城山に築かれた山城です。羽柴秀吉公の命により中村一氏公によって甲賀郡支配の拠点とするため築かれました。中村氏の次に五奉行を
史跡巡りの記事です。今回は、滋賀県甲賀市水口町にある水口岡山城です。忍者の里の地域にある甲賀随一の国指定の史跡の織豊系城郭です。訪れた時にイベント用にバルーン天守を設置作業中でした。水口岡山城(みなくちおかやま)天正13年(1585)豊臣秀吉が、甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるために、家臣の中村一氏に命じて水口岡山城を築かせました。築城には高島市の大溝城の古材が用いられ、山頂部に高い石垣を巡らし、瓦葺きの諸建物が連立して周囲を威圧したものと思われます。山麓の市街地はこの城下町として整備さ
3月の末(3月25日)ですが、大阪府の南部に「土塁」と「横堀」が凄い中世山城「烏帽子形(えぼしがた)城」(大阪府河内長野市)があるという情報を得ていて、前々から是非登城したいと思っていましたので、丁度「難波」にある行きつけの歯医者に出かけた後に、足を伸ばしました。難波から「南海電車高野線」で「河内長野駅」まで行き、駅前のミスドでランチした後、観光協会で散策マップをいただきお城迄の道を伺いました。残念なことに「烏帽子形城」に関する資料や縄張図はなかったので、持参したお城の雑誌からコピーしてお
Tetsu龍でございます。岸和田城は何回も行ってるのですが、今回は少し趣向を変えて。小瀬甫庵の「太閤記」に秀吉晩年の臣下、「三人之小年寄衆」として生駒雅楽助親正、中村式部少輔一氏、堀尾帯刀先生吉晴の名前が出てきます。俗に三中老と呼ばれるこの三人は、五大老と五奉行の間を取り持つように秀吉に託されたと言われていますが、家康と光成の間に挟まれて中立を取るなんて出来ません。三中老は後世の創作ではないかとも云われる、結構微妙な立場の三人です。その中の一人、中村一氏は尾
戦国無双4DXで遊んでいる方の記事を読んでいて、こんなのがあるのを思い出したんですが。どちらも確か予約特典だったか初回封入特典だったか、とにかくゲームソフトと一緒に手に入れたマイクロファイバータオルです。左が4で、右が4-Ⅱね。実は現在でも、右はPC画面、左はPSvita拭く用に使ってまして💦(何年経ってる!?)それでこの前机の上を掃除してたら、うっかりどかすのを忘れたまま掃除機かけて、PC横に置いていた右のタオルが凄い勢いで吸われました慌てて掃除機のスイッチ
戦国無双5山崎の戦いの【羽柴編】のミッションは下記の8つメインミッション一覧・渡河・天王山制圧・明智軍の猛攻・忠臣の覚悟・劣勢・形勢逆転の一手・最後の壁サブミッション一覧・潜む者・予防策・鉛の雨・裏切り者・決別・譲れぬ思いメインは進行通りに進めばうまくいくのでサブだけ説明します。その前に注意事項として黒田官兵衛中村一氏羽柴秀吉部をキャラクター選択してください。潜む者このサ
只今、「近畿地方」以西の西日本の「櫓門」をお届けしています。「櫓門」といえば、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門でした。東日本の「櫓門」の総集編はこちらからご覧ください↓『<東日本のお城>の”櫓門”前半総集編』5月9日から始めた「櫓門」シリーズは、「東日本(※)」のお城42城の「櫓門」をお届けしてきました。(※)東日本、西日本は、「中部地方」で東西を分けました。こ…ameblo.jp『<東日本のお城>の”櫓門”後半総集編』5月9日から始めた「櫓
おっすこんにちは(^^)/久し振りのお昼の更新。瀬名!!南!!まわれまわれメリーゴーランド♪わかる人居ます??ロングバケーションですよ!!90年代の名作ドラマですね!!俺は再放送で知りましたが今日は瀬名と南の話・・・じゃなかった、瀬名です瀬名。昨日、戦国無双5の第2回公式番組がありまして新武将の発表で瀬名姫がはい、こちら来ましたよ、真・三國無双で
只今、「全国の“二重櫓”を巡る」をテーマで、「現存」と「復元・復興・模擬」の「二重櫓」の多様性(構造、形式、用途、目的、名称等)を実感しながら、北から南に向けてお届けしています。本日は第19弾「岸和田城本丸隅櫓」、「柏原陣屋太鼓櫓」の2基です。①「岸和田城本丸隅櫓」(大阪府岸和田市)、復興櫓岸和田には古くから岸和田古城がありましたが、お城として体裁を備えていったのは「織田信長」が「大坂本願寺」との戦いが終わり「津田家」「蜂谷家」を配置し、その後「羽柴秀吉」の紀州根来寺・
久留美村河岸付城(三木市久留美)三木城攻めの包囲陣の一つ。久留美村川上の塁とも。中村一氏が布陣。三木市の城
今回の「日帰りお城巡り」は、先日の福井方面への小旅行に続きJR西日本の「休日ぶらり旅きっぷ」を再び使っての小旅行となりました。大阪府では、「医療非常事態宣言」が発令され外出自粛要請も出されていましたが、既にWEBで切符を発注済でしたし、人混みも無い所ですので決行しました。今回の大まかなルートは、「水口岡山城」→「水口城」→「甲賀郡中惣の城館遺跡群」→「亀山城」です。上記「休日ぶらり旅きっぷ」では、関西本線・草津線の柘植駅までしかフリー区間でないので、柘植から亀山間は別途料金片道
中村氏は武家には珍しい橘姓ともされ、一氏の時に秀吉に仕えて長浜の地で領主となり、岸和田城主から水口、駿府と出世した。一氏の子が一忠で、関ヶ原での功により米子城主となったが、無嗣断絶により米子藩は改易となった。鳥取県米子市祇園町1の感応寺の裏山にある墓は巨大な五輪塔で、墓石は江戸時代初期のもののはずだが、全く風化しておらず文字も容易に読むことができる。
近年あちこちで発掘調査がなされ今まで考えられていた定説が覆されるようなことが起こっています中でも駿府城手天守台については次々に新しい発見があり今まで考えられていた姿とは異なってきました駿府城では今現在三つの天守台が存在しますその存在について様々な学説がありますがここで私の考え(妄想)をまとめてみたいと思いますちょっと長くなりますがお付き合いください1590年秀吉の小田原征伐の後家康は関東へ移封となりますそれに伴い三河、遠江、駿河に秀吉方の武将が移ってきました駿府に来た
※2020年1月6日訪問※発掘された駿府城の【大御所家康期】天守台西辺にやってきました天守台西辺は、石垣が数段残っているので見応えがありますね発掘された石垣には劣化防止の為、ネットで保護されているとの事でした天守台発掘調査のパネルや、駿府城で見られる石垣の種類、そして発掘調査員の方の衣装についても説明してくれていますこちらの石材は直接触れる事が出来る展示になっていますそして天守台の北西角部分の石垣です青いビニールシートで、本丸の堀跡がわかりやすくなっていて、とても助かりますね家康
※2020年1月6日訪問※徳川家康公銅像の裏手に有る見学ゾーン入口から西側に少し歩くと、【金箔瓦大量出土跡】という紙が貼られたコーンがこの地点からは大量の金箔瓦が出土したそうですただし、完全な形の瓦は出土しなかったという事から、意図的に破壊した上でこの場所に破棄した可能性が高いという事ですね豊臣期と推測される天守台石垣と共に、金箔瓦が発見されたとの事で、『秀吉が築かせた金箔瓦の駿府城を、後に家康が天守台もろとも破壊した』という考え方も出来ますよねこちらは【大御所家康期】の石垣と推定
※2020年1月6日訪問※さて、今回静岡まで足を運んだ目的の一つが、この駿府城本丸跡の発掘調査において発見された【天守台石垣】を見学する事でしたでは駿府城の天守と天守台の歴史について確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼駿府城の天守は3度建てられた。まず、天正年間(1573年-1592年間)または天正17年(1589年)に建てられた天正期天守。次が、1607年(慶長12年)の慶長1期天守で、この天守は完成後まもなく焼失した。最後は、その翌年から1610年(
駿府城で新たに発見された、天守台跡について静岡市から正式発表されました。*1月7日静岡新聞夕刊記事天守と連結された、小天守の発見は全国初。県内のニュースでも放送されたので、見学する人が多くなるんじゃないかな。豊臣秀吉と徳川家康が、共に協力して築城したようです。完
2018年11月20日の静岡県掛川市・静岡市散策の続き。「駿府城跡・駿府城公園」の続き。駿府城跡・駿府城公園(その1)のレポhttps://ameblo.jp/indyaki12/entry-12534990465.htmlさぁ、「駿府城跡天守台発掘調査現場見学ゾーン&発掘情報館きゃっしる入口」です。中に入ると、「駿府城跡天守台発掘調査」の説明書きがありました。駿府城は徳川家康公が全国の大名に工事の負担をさせる天下普請で築いた雄大な城でしたが