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〇明治神宮崇敬会編昭和37年刊明治天皇50年の式年に近侍の当時生存者の記録。◎出席者園池公致侍従職出仕坊城俊良侍従職出仕平松時賢侍従職出仕岡崎泰光侍従職出仕久世章業侍従職出仕山川三千子女官甘露寺方房侍従職出仕受長の弟ここでは甘露寺と表記します。穂僕英子女官山口節子女官甘露寺受長侍従職出仕方房の兄ここでは明治神宮宮司在職中により、宮司と表記します。●甘露寺三十八段の階段を
明後日は…小野市うるおい交流館エクラで連続講座です第4回ですね^^テーマは…忠臣蔵は日本の誇り。その理由講座資料作成が結構大変で…先ほど完成して主催者側に提出致しましたサイズがB4で、2枚提出…いつもギリギリですね今回は、山鹿素行のお話しが増えるでしょうね「中朝事実」を基に赤穂浅野家の者たちはどの様な思考だったのかを解説します「経世済民」解説に最も時間をかけ様等と…今のところ思ってます
本日、配信の動画はもしかすると貴重な動画になるかもしれません(笑)虎之助とふたりの雑談をYouTubeで配信してますが…収録中に…、さほど重要と思わなかった内容ですが動画を見直すと結構、重要かもしれん。と思ってしまいましたね仮名手本忠臣蔵の話しを雑談していて…その中から、虎之助からの何気ない発言です中朝事実と仮名手本忠臣蔵新生忠臣蔵を裏付ける発見かもしれない内容です全く、これまで気付いていなかったのですが…言われてみるとそうかも
今年は山鹿素行の生誕400年をむかえる。山鹿素行の菩提寺を訪ねてみた。新宿区弁天町にある宗参寺(そうさんじ)創建は、1544(天文13)年。寺に、素行の墓がある。寺は、新宿区の閑静な住宅街の中にある宗参寺の山門山門を通ると、「史跡山鹿素行墓」の石碑がある。お寺の墓地のほぼ中央に素行の墓がある。「山鹿素行先生墓所」の石碑の左側に墓はある。素行の墓墓石には「月海院殿瑚光浄珊居士」と刻まれている。会津に建つ「山鹿素行先生誕生地」石碑
昨年(令和3年・2021年)10月10日、赤穂市文化会館・ハーモニーホールに於いて石平氏の後援会が行われた。演題は赤穂で活躍した思想の巨人山鹿素行について主催の赤穂山鹿素行研究会が、後援会後の12月14日に、「赤穂で活躍した思想の巨人山鹿素行素行生誕400年記念・石平氏講演会記録」と題する冊子を発行してくれたので、後援会内容を知ることが出来た。【先ずは、石平氏について】人気著書が多数あり、テレビやYouTubeなどでも大活躍の石平氏は、1962年に中華人民共和
だいたいこの季節になるとテレビで放映されるのが忠臣蔵。ただ、この最近は不思議なぐらいドラマがなくなりました。何かの圧力がかかってると思うのは俺だけやろうか?俺の叔父が赤穂浪士47士におる潮田又之丞(高教)の家に養子に行ったんで親戚筋でもあるんです。世間一般的には江戸城内で吉良上野介(義央)に「この、田舎侍めが。」と馬鹿にされたことに腹を立てた浅野内匠頭(長矩)が感情的になって刀で切りつけその結果、幕府の処分で切腹させられた。残った家臣たちは自ら
全国義士祭TV播州赤穂コロナに喝!プロジェクト【第三部】よみがえれ!義士の心令和2年12月14日開催第三部では、よみがえれ!義士の心と題しまして・元禄赤穂事件の発端となった出来事・浅野内匠家来口上…口上書に隠された浅野家の真実など、真相にせまる映像作品をご覧頂くと共に、ゲストを交えての歌と三味線、トークなどをさせて頂きます【MC】・徳丸新作フルバージョンをご紹介しますね^^【第三部】よみがえれ!義士の心【コロナに喝!
とある事情により…ここ数日間、慌ただしい状況で事務所で作業することがないな~ブログも放置状態ですね(笑)今日は久しぶりに午後2時頃まで事務所でたまった仕事をこなしてますが…頭の中が整理し切れてない状態(笑)本日、午前中に一気に関係各位と打合せバタバタしてた感じ^^さて…今日は姫路行か~新たなチャレンジで楽しんでます!<テープ起こし>歴史研究の基本固定概念を持たずに読もう今の若い世代、忠臣蔵を知らない子が多
動き始めましたね!さて、気合い入れていこうか^^世の中、面白くなりますよ<テープ起こし>歴史研究の基本固定概念を持たずに読もう今の若い世代、忠臣蔵を知らない子が多いその知らない子が読んだ時に、どう文章を捉えるか固定概念を持たずに読むとはそういうことです今までのようなドラマとか映画とか…いじめられたのを敵をうつ日本人としては気持ちがいいところです判官びいきなところはありますからねそのような判官びいきなどを除いてありのままを読もう文
最近は忙しい日々を過ごしてます(笑)昨日は早朝から東京に向かいました。先ず…泉岳寺に行って参拝そして、ご挨拶させて戴きましたその後、明治神宮へと向かったのですが…本当にイイ時間を過ごさせて戴きました東京素行會の行事への参加でした先ず受付を済ませて資料を戴こうと思い並んでいた資料を見ると…なんと!義士魂と書かれた資料が目につき思わず…「これ、大石神社と違う!」と声が出てしまいました(笑)まさか!明治神宮でこの様な資料を戴けるとは思っ
中朝事實(乾)大正元年素行会發行その7.和綴じの準備プロの和綴じ製本(高知製本さん)中朝事実や素読とは掛離れるが、素読本の原稿の印刷(プリントアウト)に先だって、和綴じ製本のための用紙の選定と製本道具を探すことにした。手元にあるレーザープリンターはA4サイズまでなので、A4判の用紙を選ぶ。プロの製本屋さんに依頼する方法もあるが、夏休みシーズンでもあるので、手作りに挑戦してみることにした。学生時代に、情報提供会社でアルバイトをしていたが、当時はコピー機の印刷単価が高額な
中朝事實(乾)大正元年素行会發行その6.印刷用原稿少し長い時間(約1ヶ月半)を要したが、ようやくプリンターで印刷可能な「中朝事実(乾)」の印刷原稿が完成した。通勤電車の中で読んでいても、それほど見栄えが悪くないかと思います。山鹿素行の「中朝事實(乾)」は、大正元年(1912年)に素行会が発行した文献を、下記の国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードして使用しました。国立国会図書館デジタルコレクション(info:ndljp/pid/1241530)https:
中朝事實(乾)大正元年素行会發行その5.名詞の基礎知識今では、日本の歴史を「神話」と一蹴して、学校で学ばない風潮が蔓延している。少し読み始めてみると、名前、地名、風習など、当時の固有名詞を知らなければ、文章の理解はサッパリできないと思いました。読み方は中朝事実(乾)のルビが優先です。その他の単語は、中朝事実が参照した「古事記」、「日本書紀」にそって記述しました。フリガナは旧仮名遣いになっていますので、ご注意ください。天照大神中朝事実では「日本書紀」からの引用が多い
中朝事實(乾)大正元年素行会發行その4.よく見る旧字グリフウィキから旧字、異体字右図は、グリフウィキから、旧字体、異体字を適当に並べてみた。漢字マニアの方であれば、雑作もないだろうが、自分自身は仕事で使ったことのある「變」以外は、正直いってまったく読めなかった。そこはかとなく雰囲気は伝わってきたが、結局確信は持てなかった。これはすべて中朝事実(乾)に出てくる漢字だ。時折、神社の境内やお役所の看板などで、こうした旧体字や異体字を見かけることがあるが、実生活には関係がない
中朝事實(乾)大正元年素行会發行その3.漢文の訓点学校時代の復習となるが、送り仮名や返り点のない漢字だけの文を白文(はくぶん)、また訓点(返り点)の付いていない本を無点本(むてんぼん)というようだ。訓点などを付けて読むと訓読(くんどく)になり、その本を点本(てんぽん)という。更に訓読(くんどく)に従って書換えた仮名混じり文が「書下(かきくだ)し文」になるのだそうだ。中朝事実の訓点(神器章の一部)今回テーマにしている「中朝事実(乾)」は点本(てんぽん)で、これを読む
中朝事實(乾)大正元年素行会發行その2.リアリズム山鹿流山鹿素行は寛永7年(1630年)わずか9歳にして大学頭を務めていた林羅山の門下として朱子学を学んだが、朱子学に疑問を持つようになった。素行は儒教の宇宙観である天円地方説を否定し、地球球体説、更に地動説を支持している。これは元禄元年(1688年)に井口常範が「天文図解」を著す、約半世紀前のことである。林羅山井口常範「天文図解」1688年山鹿素行当時、江戸幕府の正学であった「朱子学」を批判したことから、承応年間(
中朝事實(乾)大正元年素行会發行その1.きっかけ帝國圖書館に乃木希典が「中朝事實」を寄附以前から「中朝事実」は、明治の乃木希典大将が愛読していたと聞いてはいたが、漢文書であることから、手を出すことをためらっていた。そもそも「中朝事実」は、リアリストであった山鹿素行が、日本という国の成り立ちや統治について示した内容で、我が国の政治家や官僚が読んでおいて損はないだろう。しかしすべて漢文であるため、現代人にとって困難極まりないのも事実だ。国の明日を左右する政治家や官僚または
令和の天皇論…本当の日本が見える!今朝はまだ薄暗い早朝から電車で上京し、政経倶楽部の勉強会へ。林英臣先生による「令和の天皇論~天皇がわかると、本当の日本が見えてくる!そして、日本に生まれたことが、とてもうれしくなる!~」の講演を拝聴しました。私の師匠である、山田宏参議院議員も来られていました。令和最初の元旦を迎えたこの時に、まさに時宜にかなった内容で、予想通り大変素晴らしく、非常に勉強になりました!特に、人間心理における、君主の効用は、私も昔から感じ、訴えていたことでした。外資系企
昨日12月14日は、赤穂義士討入りの日。嘗ての日本人は皆、この日には「今日は討ち入りの日云々」と挨拶を交わしたものである。私は幼少の頃を広島市内で過ごしたが、通った幼稚園は、浅野本家の菩提寺にして赤穂義士の木像が安置される真言宗の古刹・明星院であった。なので、まだ三歳の幼い時から、父親に連れられ、明星院の義士祭に連れて行かれたが、その記憶は今も鮮明に残っており、毎年、この時期になると、幼い頃見た義士祭の記憶が去来する。「獨り楠公父子万世忠孝の鑑として、その徳、古今に貫徹す。夫れ君に忠
日本の誇りを語るvol.1本来的に、忠臣蔵は国民に受ける物語です。その理由はたったひとつなんですよ。山鹿素行の教えの中で(武士は)農工商の手本となれ!武士は政(まつりごと)をするんでね。今で言う政治家です。政治家であったり官僚であったり。山鹿素行は、農工商の手本となれ。この国を守る役割が武士にある。(武士は)手本となれという教えなんです。忠臣蔵はそういうのが日本の心の反映と言われるところなんで、武家の倫理観の中で受けたものではあり
戦前の価値観で描かれた書籍であるが、会津容保との学説を巡り論争の果て、江戸を追放されてしまい、岡山配流されてしまうといった事が明確にぁぁれており、前掲書籍より書かれてはいつもの乃分かりやすく書かれている。但し、忠臣蔵と山鹿流は歴史的に無関係とは書かれていまい。更に国軆観について、先の『山鹿素行』では、山鹿自身は勤王について否定的で有り本書では肯定的である。この相違は時代の空間相違《戦前・戦後》故であろうか?但し《中朝事実》を読むと、皇国史観のスタンダードが描かれている。これをなんと考え
秋の七草の一つ黄色の「オミナエシ」そして大好きな「吾亦紅」が忍び寄る秋の風情を感じさせてくださる。心静か整えて待つ市場さん、彼女は群馬県から来てくれる。ここに来れば必ず得られるものがあるという。それは彼女の至高の魂が欲しているもの。すべては求めているから出会うのだ。経営者の古事記にお誘いしたら、「いってもいいですか?」と逆に聞いてくれた。もちろんです!あらゆる場面で経営者として何が一番大切なのが腑におちます。そして前日「日本橋洗顔洗心塾」に参加されたところさんも来てくださつ
山鹿素行は、朱学や王学の立場を超えて端的に孔孟の学に帰るという新しい立脚地に立ち、ために幕府の忌避に触れつつも、そこから尊皇の道を説くに至った。従って宋儒の形而上学からの脱却、歴史的理解の尊重などが、彼の尊皇思想の特徴となるのである。素行の『中朝事実』は、宋学からの脱却のみならず、一般にシナ崇拝からの脱却を標榜している。わが国を中国と呼び、シナを外邦・異朝などと呼ぶのは、その一つの現われである。が、それだけならば闇斎にも同様に見受けられる傾向であって、必ずしも素行に限らない。素行の特徴をなす点
この物語は…元禄赤穂事件を基に構成されたフィクションです。☆------------------------------------------☆「学者の…、とな」思うところがあったのか親父の弥兵衛が言った。「ああ、そうじゃ、学者…。学者の…、我らが師、学者の…。素行先生の声が聞こえた…」「素行先生」「なんと、素行先生」等と数名の者が呟く様。「ような気がした。予定を変えることなく吉良の首を討てと…」と、武庸が即座に言葉を付け加えた。◆推参③
この物語は…元禄赤穂事件を基に構成されたフィクションです。☆------------------------------------------☆◆推参②数々の思いを巡らせながら内蔵助は同志の待つ大茶屋に向かう。江戸で行動を開始して以来…ご公儀の者に知られているのではないかと思う節はいくつかあった。ただし、目付の多門伝八郎との出会いはこれまでのものと意味合いが違う。到着早々の内蔵助は同志の者らに其々の様子を聞いた。「城下の様子が何やら変だと思わぬか。
この物語は…元禄赤穂事件を基に構成されたフィクションです。武庸…、必ずや、吉良の首を討て☆------------------------------------------☆◆推参①吉良邸推参まで残り十二日間となり…僅かな日を残すのみとなった。この頃…、深川八幡宮前の大茶屋に同志の主要な者が集合することになっていた。間もなく吉良邸推参を控えて大切な会議になると同志ら全員が認識している。内蔵助は余裕を持ってその場所に向かったが
この物語は…元禄赤穂事件を基に構成されたフィクションです。☆------------------------------------------☆◆口上③「待て…、武庸。おぬしにだけ話したいことがある。同志ゆえに…」「なんじゃ、広沢殿、遠慮は要らぬ、何でも申してくれぬか」「武庸、おぬしは、主君を裏切る男を信じることが出来るか」聞かれるほどのことではないが、真に言いたいことの重要さを武庸は感じさせられていく。「そのよ
この物語は…元禄赤穂事件を基に構成されたフィクションです。☆------------------------------------------☆◆口上①着々と準備が整う中…同志の堀部弥兵衛が残書(遺書)を子孫のために認めた。その残書を持って…堀部弥兵衛の息子の堀部安兵衛武庸は学者の細井広沢に会いに行く。この細井広沢は、武庸と共に堀内道場に通っている縁があり、ふたりだけが通じ合えるほどの深い信頼関係があった。自分の日記を細井
この物語は…元禄赤穂事件を基に構成されたフィクションです。☆------------------------------------------☆◆八咫烏⑦広島の本家浅野家に引き取られることによって、大学長広による赤穂浅野家再興への道は閉ざされた。これを受けて十日後の二十八日。同志らは京都の円山で再び会議を開く。内蔵助はこの円山会議の席上で吉良の首を討つことを表明した。「吉良の首を討つ。そのために今年十月に江戸へ向かう」内蔵助の
この物語は…元禄赤穂事件を基に構成されたフィクションです。☆------------------------------------------☆◆八咫烏⑥「皆の者、天に命を預けぬか。命が惜しいものを引き留めはせぬ」「相、分った」「元より、天から授かった命。預けて当然であろう」内蔵助は那智大社の牛王符を用いることだと悟っていた。熊野の修験者波多野はやはり未来を見通していたのだと思わずにいられない。この先、前途多難。だが偉業を成すが