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時は流れて明治三十三年(1900)のこと。京都の小さな出版社が発行した雑誌に掲載されたある記事が元となって大きな騒動が起こりました。騒動の元となったのは『近畿評論』第十七号に掲載された「坂本龍馬殺害人」で、元京都見廻組の今井信郎が、坂本龍馬を殺害したのは自分であると告白する内容の記事だったのですが、生前の龍馬と親しく、事件直後に近江屋に駆けつけて瀕死の重傷を負った中岡慎太郎や近江屋経営者の井口新助などから直接事件の経緯を聞いていた谷干城(子爵)が、この記事を猛烈に批判したのでした。
今井信郎は更に刑部省でも取り調べを受けましたが、その供述書の中の重要な部分を意訳してみました。箱館降伏人元京都見廻組今井信郎午三十歳十月の中頃、見廻組与頭の佐々木唯三郎の旅宿へ呼び出され、私並びに渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の計六人が集められた。唯三郎によると、土佐藩の坂本龍馬に不審な行動があるという。(坂本は)昨年、伏見に於いて捕縛されそうになった時、拳銃を撃って捕り手の伏見奉行所同心二人を殺
さて、億劫ですが(w)年明けの旅行の件を振り返っておきましょう。初日の1/3です。日が変わってすぐ位のタイミングだったと思いますが、乗る予定だったJAL103便が事故の影響を受けて結構になるとのメールが届いたのを確認して。とは言えこの夜中ではなす術も無いし、とりあえず元々の予定通り羽田に行こうと朝5時前に自宅を発ちました。JGCのカウンターで振替希望を伝えると3時間後の10時半発の便なら空席があるとのこと。一度それでお願いしますと言ったのですが、新幹線も利用可能ならロスも少ない
谷干城ら、坂本龍馬や中岡慎太郎と関係の深かった土佐藩の人々は、坂本・中岡を殺害したのは新選組だと信じ、新政府軍に投降した近藤勇の首を刎ねました。同時に元新選組の大石鍬次郎を捕えるのですが、取り調べに対し大石は意外な供述をします。刑部省口書一橋家来大石捨二郎(「伜」脱か)元新選組大石鍬次郎口上年三十二歳(前略)その節、伊豆太郎(※.加納鷲雄)より相尋ね候にて、京師に於いて土州藩坂本龍馬殺害に及び候も私共の所業にこれ有るべし。その証は、場所に新選組原田左之助差料の刀鞘落
慶応三年(1867)十一月十五日、河原町通蛸薬師下ルの醤油商・近江屋の二階で坂本龍馬・中岡慎太郎、そして龍馬の家来藤吉の三人が殺害されましたが、襲撃者に関しては事件直後から「新選組等の仕業なるべしとの報知也」(『寺村左膳日記』)「坂本首馬暴殺の事、いよいよ新撰(組)に相違無き向き、聞き申し候」(『大久保利通書簡』)「相手は恐らくは新選組中ならんとの事」(『丁卯日記』)などと、新選組がやったに違いないという噂で持ち切りでした。そして三日後の十一月十八日の夜、新選組を脱退し
慶応三年(1867)十一月十五日、河原町通蛸薬師下ルの醤油商近江屋二階にいた坂本龍馬と中岡慎太郎、そして龍馬の家来藤吉は何者かに襲われ、殺害されてしまいました。三人の遺体は三日後の十八日に東山霊山(りょうぜん)の霊明舎(れいめいしゃ。現在の霊明神社)に仲間によって運び込まれ、神式をもって埋葬されました。「霊明神社神霊帳」に◯同(慶応)三年卯年十一月十五日実葬ナリ坂本龍馬紀直柔神霊同三十三才◯同上十六日実葬ナリ中岡慎太郎直正神霊同三十歳◯同上実葬ナリ藤吉神霊
峰吉らに救出された中岡慎太郎はひどい重傷を負っていたものの、なんとか話が出来るぐらいに回復しました。それでも今で言う絶対安静の状態であったのは間違いありませんが、中岡は苦しみながらも力を振り絞って今何が起きたのかを語りはじめました。一方、近江屋新助や峰吉らは目の前の土佐藩邸や、河原町通東側の三条通のひとつ南の筋にあった海援隊屯所の酢屋、白川の陸援隊屯所など各所に走って急を報せ、土佐藩士の谷干城、毛利恭助、海援隊の白峰俊馬、陸援隊の田中謙助(光顕)、二本松薩摩藩邸から吉井幸輔などが次々と
慶応三年(1867)十一月十五日の夜五つ半(午後九時)過ぎ頃、四条小橋の鳥新で軍鶏肉を購入した峰吉が河原町通蛸薬師下ルの近江屋に戻るまで、せいぜい3,4分ほどだったでしょうか。玄関の板戸を開けて中に入ると、土間に見馴れない下駄がありました。誰か来客かと思いつつ板間に上がろうとすると、突然背後から声をかける者がありました。「峰吉か。静かにせい。いま龍馬がやられた。賊はまだ二階におる」ギョッとして振り向くと、土佐藩下横目(目付配下の最下級役人。いわゆる岡っ引き)の嶋田庄作が抜刀し
慶応三年(1867)十一月十五日のこと。土佐陸援隊の隊長中岡慎太郎は昼八つ半(午後三時頃)に白川の屯所を出ました。四条河原町の土佐藩邸の目の前にある醤油商近江屋に下宿している坂本龍馬を訪ねるためでした。途中、河原町四条上ル東側にあった書店菊屋に立ち寄りましたが、中岡はかつてこの菊屋に下宿していたことがありました。中岡は菊屋の息子峰吉に手紙を渡し、今から麩屋町通錦小路上ルの薩摩屋という店に行ってこの手紙を渡してほしい。自分はこれから坂本を訪ねるから、返事は近江屋に持って来るようにと頼みま
主君山内容堂らと共に大政奉還の建白書に署名した土佐藩参政・寺村左膳(道成)は、慶応三年(1867)十月十四日に将軍徳川慶喜がこれを受け入れると、その報告のために一旦土佐に帰国しました。そして左膳は十一月十二日に再び上京します。その三日後の十一月十五日、左膳は同僚五人と連れ立って四条まで芝居見物に出かけました。左膳らが見たのは果たして北座だったか南座だったか。朝七つ(午前4時)頃に出かけて夜五つ時(午後8時)頃まで見たというから丸一日芝居小屋に入り浸っていたことになりますが、その帰り道、
元治元年(1864)、二十四歳の時に神奈川奉行所勤務となった今井信郎は古屋佐久左衛門という盟友と出会うことになります。ただ、古屋のことまで掘り下げてしまうと取り留めがつかなくなってしまうので割愛することにします。ただ、その古屋が仲を取り持ち婚姻を結ぶことになった妻いわのことは触れないわけにはいきません。信郎の孫である今井幸彦氏は著書『龍馬を斬った男』の中で自らの祖母に当たるいわを、まず「第七代信郎は、甲州(山梨県都留郡桂村)の豪農天野家からいわを妻に迎え」と紹介したのち、あとのページで
「では、行ってまいります」と親兄弟に別れを告げ、その武士が江戸を発ったのは慶応三年(1867)九月の中旬頃だったでしょうか。武士の名は今井信郎(いまいのぶお)といい、当時二十七歳。江戸は本郷湯島天神下に住む幕臣今井安五郎守胤の長男として天保十二年(1841)十月二日に生まれました。連れ立つ妻はいわといい、その手には生まれたばかりの赤ん坊が抱かえられていましたが、その名を”りゅう”と名付けたのは何の因果か。このりゅう、実は女の子でしたが、父信郎に万が一のことある時に備えて男として
徳川が帝に政権を返した。徳川幕府は力を失っていたのだろうか。外国人が大挙して日本に来るようになっていたのだろうか。薩摩と長州の連合は坂本龍馬がいなければできなかった。そして山内容堂の徳川慶喜への建白書を書かせたのは坂本龍馬だった。坂本龍馬は新政府の人事さえ構想していた。そこに京都見廻組が切り込んだ。坂本龍馬と中岡慎太郎は殺られた。坂本龍馬は明治を見ることができなかった。なぜ坂本龍馬は殺されなければならなかったのか。このドラマだけでは、私にはよくわからなかった。もう徳川幕府は終わりを告げていた
勝海舟の神戸海軍操練所に、多くの若い日本人が集まっていましたが、幕府に潰されてしまいます。失意の龍馬。新撰組が登場します。近藤勇に坂本龍馬は襲われますが、間一髪交わします。いよいよ坂本龍馬の死が近づいて来ます。今さらながら、嫌ですよね。そのときが来てほしくない。中岡慎太郎が現れますが、この配役が[大地の子]の上川隆也。これちょっとミスキャストのような気がしました。というのは上川隆也が俳優として大きすぎて、福山雅治が位負けしているように感じたのです。だけど思います。尊皇攘夷とはなんだったの
1513何時ものように気になる喫茶店にアルバイトに行くとマスターが昨日は時間が過ぎるのが長かったですねと言われ僕はどれだけ坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓に行き暗殺された近江屋の跡地にも行く事を期待されているのか解るのです。1時半にはお客様が切れますようにとマスターは日替わりを作るたびに小声で言われるのです。マスターの祈りが通じたのか?1時半には何時ものようにお客様が切れマスターの祈りが通じなくても何時もの事だと思っていると、今日はサンドイッチでも何処かで買い坂本龍馬と中
1512何時ものように気になる喫茶店にアルバイトに行くと僕の顔を見るなり昨日はしらけましたねあれなら伏見のストリップ劇場に行けば良かったですねと言われマスターがおはようの挨拶の前に言われるので僕は期待が大きかったから期待がはずれた時も大きいんだと思うのですが、本当に京都御所は見たい所は見れず2列行進をしに行ったようなものだと思うのです。明後日はどうしますか?と言うとマスターが2回連続で外れはつらいので坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓にしましょうか?銀閣寺は次にしましょうと
㊧(明石海峡大橋)(大鳴門橋)㊨☆2023.11月下旬・高知県室戸市☆2023年12月に入りました。今年も田舎に墓参りに行って来ました。今年はいつもの宿が何とか取れたって感じです。「アレ」때문에그런가…いつものようにお墓参りをして従兄妹夫婦の家に挨拶に行ってから今回は室戸に行きました。室戸岬灯台の方には上がらずに海岸の遊歩道を少し歩きました。「灌頂ヶ浜」縦じま模様の「タービダイト層」と呼ばれる岩。元々は海底に砂や泥が層を成して堆積した跡とされている
坂本龍馬さんの生誕日でもあり、ご命日でもあります。毎年のように、最寄りの鳥屋さんで軍鶏肉を購入。水炊き用に、丸々1羽を捌いてくれました。なので思わず聞いてみました。軍鶏のガラを廃棄されるのなら欲しいです。そうしたらに2羽分頂きました。ラッキー!!大鍋に水タップリ入れて、コトコト炊くこと3時間。コラーゲンだらけのスープ完成。このスープをベースに軍鶏鍋を作りました。中岡慎太郎と食す直前に襲撃された龍馬さんと中岡さん。今年も偲びいただきま~~
1509マスターと男同士のドライブで柳生に行き何もないので疲れた翌日とその次の日は休みなのですが、休みなのに20代後半の僕はする事がなくAVビデオも借りずに家から出たのは本屋に行ったのと昼ご飯を食べに行っただけです。その他は本屋で買った車の雑誌を見たりテレビを見たりして時間を潰し一日24時間のうち20時間は布団で過ごしていたのです。どう言う訳か同級生が結婚をしても僕は結婚を焦る気持ちもなく結婚より彼女が欲しいとは思うのですが、結婚をしたいから彼女が欲しいとは思わない
仕事の合間にちょっと京都の円山公園の紅葉を覗きに行ってきました😄🍁近くの清水あたりは大変な人出でしたが、こちらは意外と空いていました😄坂本龍馬と中岡慎太郎の像。公園の奥の方にあるので、意外と知られていません😅
高知駅のこうち旅広場【土佐三志士像】幕末の志士武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の銅像高知駅から車で1時50分くらい走って四国カルストへ🚙もうそろそろ冬季閉鎖❄️🌨️今日はまだ大丈夫らしい標高1,300メートルはさすがに寒いさむい😣🌀でもこの広大さはいつ来ても何度きても感動もの
高松の朝な港からの朝日が美しい京都の朝四条大橋からの朝日は美しい高台寺からの京都市内ニ寧坂のスタバ円山公園サギ坂本龍馬と中岡慎太郎の像昨夜の京都タワー選べる井筒の7点セット京都お土産おみやげ銘菓和菓子八ッ橋八ツ橋八つ橋プレゼントギフト詰め合わせつめあわせお取り寄せお取り寄せスイーツやつはし詰め合せお菓子お得チョコレートチョコいちご修学旅行老舗お試し福袋saleセール楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}
前回の続きということで、霊山護国神社多くの幕末の志士達が合祀された、我国初の官祭招魂社なので、佐幕派の人々は、祀られてないそれと、やはり西南戦争のせいか、薩藩出身者も祀られてないようだ・・・偶然あった龍馬祭11/15というと、龍馬の命日・・・同時に襲われた中岡慎太郎は、17日に死去してる実質、このイベントは、龍馬にゆかりのあった県の、観光アピールと物産展だな数年前に来た時は、この龍馬の像は、なかったと思うんだが・・・本殿には、垂れ幕と献酒、龍馬と中
はじめに訂正させていただきます。前回、石碑が隣に立っている理由のもう一つの説として、井口家から店を借りた借り主が石碑を建てるのを拒否したと書きましたが、借り主ではなく井口家から店を購入した人物だったようです。訂正させていただきます。申し訳ありません。さて、その近江屋は二代目新助が主となって塩屋町に店を構えてから醤油商になったと思われます。醤油屋といっても自家醸造していたわけではなく、醸造元から仕入れて販売する小売店でした。また販売する方も、店頭販売も行っていたかも知れませんが、場所柄を
2023/11/03~052泊3日でドライブ旅行してきたお話の続きです2023/11/03(金)室戸岬の普通の観光もしましたまずは室戸スカイライン山頂展望台別名高岡園地展望台駐車場もトイレもあって階段をちょっと上がるだけで360度パノラマの絶景展望台こんな登り口からこんな階段を上がってこんな絶景を楽しめます室戸岬を訪れる人のほんの一部が訪れる場所だと思いますがおすすめです駐車場の端には猫の住処があってたくさんの猫が住んでいるのも知る人ぞ知るチャームポイン
11月15日を迎えました。毎年この11月15日に皆さまへお届けしたいお話、お伝えしたい想いを令和5年に綴ります。◇慶応3年(皇紀2527・西暦1867)の「11月15日」。京都河原町の近江屋井口新助邸において、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されました。世にいう「近江屋事件」が起きた日です。坂本龍馬は33歳、中岡慎太郎は30歳という若さです。実に大政奉還(10月14日)が行われた1カ月後、王政復古の大号令(12月9日)が出される1カ月前の出来事でした。今でも深い謎に包まれた暗
「坂本龍馬」七五三を祝おうみなさん、おはようございます今日は七五三の日ですおめでとうございます子供たちに美し日本を引き継ぎましょうさあ、今日「11月15日」の國史を学びましょう「坂本龍馬、暗殺」慶応3年(1867年)京都河原町の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されました龍馬は享年33歳、龍馬の誕生日でもありました中岡は享年30歳龍馬の家来・藤吉は享年20歳でした犯人は、新選組、京都見廻組、土佐藩、薩摩藩、紀州藩と各説ありますが現在もナゾのまま
あなたの可能性を引き出す行動へと導く心動家・行動メンタルコーチ野村ユースケです「最後を決めよう」11月15日が来ると、中岡慎太郎、坂本龍馬を思いだす。彼らを思い出すと故郷を思い出す。人生は連想だ。何を連想するかは、あなたの思考・観念だ。すべてのことをいいことに連想できれば最高だ。だからいつも伝えたいのは自分を
慶応三年(1867)十一月十五日の夜、河原町四条上ル(蛸薬師通下ル)塩屋町の醤油商近江屋新助方二階に潜伏していた、土佐藩士で海援隊長の坂本龍馬(31)と、その龍馬をたまたま訪ねて来ていた、同じく土佐藩士で陸援隊長の中岡慎太郎(29)が襲われ、龍馬の家来で元力士の藤吉共々に殺害されました。世に名高い近江屋事件です。現在、塩屋町330番地の最近までかっぱ寿司があった建物の前に事件の跡地であることを示す石碑と案内板などが立っています。しかし、これには少し事情があって、実際に近江屋があったのは
皆さんは、中岡慎太郎をご存知でしょうか?土佐勤王党の一員であり、その後、坂本龍馬が海援隊の隊長で、中岡慎太郎は、陸援隊の隊長であり、坂本龍馬と共に襲撃を受け命を落とした人物である。中岡慎太郎は、現在の高知県北川村の庄屋でもあり、現在でも生家が再建され、見学できます。中岡慎太郎館前にて、ランチ。サラダ、揚げ物には、ゆずの果汁がかけられていました。ご馳走様でした。