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おはようございます🌞9/8から日本一周しているおかちゃんです。昨日は徳島県海陽町から高知県東洋町・室戸市・奈半利町・田野町・安田町を越えて安芸市まで来ました。まずは徳島県海陽町の朝日です。この地域はサーフィンが有名だそうです。一昨日宿泊させていただいた方はサーフィンのプロの選手だそうです。そしてこの地域は太陽もすごくキレイです。徳島県海陽町を越えて高知県に入りました。高知県東洋町を越えて室戸岬のある室戸市に入りました。そしてこちらは夫婦岩です。夫婦岩は全国にもあるのですがこち
こんばんはコロナウィルスの勢いは止められそうにありませんね3月15日までJリーグ延期だしマラソン大会も3月中旬分までほぼ中止ですよね3月中旬以降に私が申し込んでいる大会がどうなるかドキドキ心配しています高いTシャツ代になるか思いっきり走れるかさて、今日は2020年5月10日に開催される第10回ゆずの郷高知県北川村中岡慎太郎マラソン大会のエントリー日でした2月25日10時エントリー開始で11時30分に締切になりました去年、高知県北川村へ
さらに55号を南下します^^室戸が近づいてきて、さてやってきました日和佐城(*´◒`*)厳密には、日和佐国といった地域感です。元々日和佐地域の豪族であった日和佐氏。室町時代日和佐肥前守による築城といわれています。土佐の長宗我部が攻めてくることを警戒して築城されたとか、、、結局は蜂須賀家政が阿波に入国した際廃城となりました。中は資料館になって、、、いないそう。想像の形の天守閣だそうです笑徳島、番外編コワイお餅が(*´◒`*)足湯がある道の駅日和佐城遠くからも見え
前回からの続きです(平成28年3月21日の蔵出しです)階段を上がっていくと最初に目にしたのがこちらの外国の方でしたラダ・ピノード・パール博士碑文日本が敗戦したとき、東京裁判というのがありましたそこでは数多くの戦犯が生まれましたが、それは戦勝国のエゴや都合?から指定された人たちも多くいると聞きますそのことをこのパール博士は言われました歴史はどの時代もその時代の権力者の都合がいいように書き換えられたり、喧伝されたりしますなので歴史は伝えられてることを鵜呑みに出来るものでは無いと思い
石塀小路こんなところに路地が。石塀小路は、撮影禁止だったのでとっかかりのところだけを。ねねの道から高台寺へつづく台所坂。ねねの道圓徳院。ねねさんが、晩年に過ごしたところ。三面大黒天。御陵衛士屯所跡。ねねの道円山公園の枝垂れ桜1ヶ月まだ早いですねぇ。こちらにも、坂本竜馬と中岡慎太郎の像があります。知恩院へ向かいます。つづく散歩・ウォーキングランキング
ちょっと、お墓参りへ。京都霊山護国神社本殿勤皇の志士達のお墓配置図坂本竜馬と中岡慎太郎のお墓。ここへ来るのは、2回目?3回目かな?合掌❗️竜馬の墓から見た京都のまち桂小五郎(木戸孝允)の墓。一番高いところにあります!竜馬は、下の方に。凶刃に倒れたし。薩の西郷は逆賊になってしまったしなぁ。。。木戸孝允の妻、幾松の墓が隣に。う〜ん、なんだかなぁ。。。生き残った者勝ちです❗️前にある霊山歴史館へ。近藤勇や土方歳三の刀、竜馬を切った刀が展示されてました❗️綺麗に輝いてまし
ん?ドンッ!武市半平太!中岡慎太郎!坂本龍馬!!この佇まいはインパクトある。龍馬先生、ちょっとふっくらしてる気もするけど(笑)今日は、コートもいらない気温22度の晴天の高知に来ています。大好きな街高知。割と大阪人と高知の人は相性いい気がするのは、僕だけかな。物事をはっきり言うし、誰でもすぐに受け入れる。気性が合うんかなと思ってます。高知講演、大阪と高知、さらに化学反応起こしてきます!やいろ亭の塩タタキと青さのり天ぷら食べたいっ。
タクシーを霊山観音で下車したのは大間違いでしたその先の坂道は結構、急で長い前日の影響で痛む足を引きずって上るにはツライ坂道(維新の道)でもね、実はタクシーの運転手さんの会話にワタクシ、限界でした寺社仏閣の案内ではなく、京都の企業の資本金とか営業内容とか・・・あんたは日経新聞かと突っ込みたくなる会話をずーーーっとたまに息子自慢最後は相槌を打つのも面倒になっていた仕事から離れて京都に来てなんで他所の経営状態を聞かせられるんだぶつく
清水寺界隈にタイトルの歴史館があります。建物入口はこんな感じ。内部は撮影禁止なので、これ以外の写真はありません。しかし、撮影禁止と書かれているにもかかわらず、スマホで撮る人の多いこと多いこと…。私は一眼レフカメラを首からぶら下げていたので、チケットを購入した時に、「写真撮影は禁止ですから」と言われましたが、明らかなカメラを手にしていなければ、口頭では言わないのかな?でも、いたるところに撮影禁止と貼り出されているのに…。ガイドブックの地図を見ると、お向かいの霊山護国神社には坂本龍馬
20200121なんかいい数字の並びだなと。1月21日121エンジェルナンバーを調べてみたら『ゆるぎない信念と自信を持ち続けてください』https://angel-number.fun/meaning-121/https://www.timeless-edition.com/archives/12706おー!!スゴイ!そして、1月21日は薩長同盟https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7%E5%90%8C%E7%9
・一人称の"たのしい"は、まだ不完全な"たのしい"です。不完全な"たのしい"。だれかがよろこんでくれることを抜きにして語る"たのしい"は、どうしてもなにか足りない。たのしいを追求していくと、最終的には"利他"に行き着くとたのしいをマジメに考えるといつもいつも思うんです。・坂本龍馬という人も、"じぶんのたのしい"を人生をかけて追いかけた人だったと個人的には思っています。土佐藩で虐げられて不自由に過ごした経験が
11月19日夜9時、NHKスペシャル『ドラマ龍馬最後の30日』11/18/17--17:57<まなかつお>訪ねてみました。明治維新史跡「旧霊山官修墳墓」坂本龍馬、中岡慎太郎をはじめ、明治維新の誕生に尽くした志士達1356名の御霊が祀られています。右下僕藤吉真ん中坂本龍馬左中岡慎太郎うーーん、撮り方が下手なので、墓がどれなのか、わかりませんねわからないついでに、下僕・藤吉について調べてみました。龍馬たちの用心棒とお手伝いをしていた雇い人(
さて、ここで少し陸援隊について書きたいと思います。慶応三年頃になり、薩長を中心にいよいよ倒幕の機運が高まると、京に潜伏している浪士たちの活動もさかんになってきました。それに対し、新選組など幕府側の探索も厳しさを増してきたので、中岡慎太郎は浪士たちを一ヶ所に集めて保護するとともに、調練を加えて鍛え上げ、いざ事ある時のために備えることにしました。こうして慶応三年(1867)六月、陸援隊が結成されることになるのです。その屯営となったのが、前年冬に土佐藩が藩兵の上洛に備えて購入した洛北白川村の藩邸
入り口京都を一望坂本龍馬先生中岡慎太郎先生のお墓と一番左は藤吉のお墓木戸孝允
慶応三年(1867)十二月七日、坂本龍馬・中岡慎太郎の両隊長のかたきを討つべく、海援隊・陸援隊の同志が天満屋を襲撃しました。狙うは両隊長暗殺の黒幕と目された紀州藩士・三浦休太郎…のはずでしたが、『勤王殉国事蹟』によれば豊永貫一郎の狙いは他の同志とは異なっていたようです。同年十二月七日夜、近藤勇ら六条油小路某宅に会す。同志の士二十人ばかり行きて、これを討つを得ず。敵は三浦ではなく、近藤勇だったというのです。もちろん三浦のせいで殺されたはずの坂本龍馬や中岡慎太郎の名前は彼の履歴書の中には
第一次征長戦争が和議に終わり窮地に立たされている長州の正義派たち(正義派・俗論派については一方から見た場合の表現であり、かつ、後世定着しているのは最終的に勝利したからです。勝てばなんとかやらです)ですが中岡慎太郎の獅子奮迅の東奔西走もあり高杉晋作等の決起、薩摩との大同同盟などにより時代は一気に維新回天へ。後半はかなりのスピード感をもって進んでいきます。ここで歴史好きの方はご存知だと思いますけど明治政府が成立する前に二人の偉人が亡くなることを。維新回天の佳境に入りスピ
慶応三年(1867)、薩土密約の締結(五月二十一日)などによっていよいよ倒幕の機運が高まってきました。しかし、それに対する幕府側の警戒もますます強まり、七月に入ると伯耆国大山にて挙兵を計画していた倒幕派志士たちが新選組によって多数検挙される事件も発生しました。こうした事態を受け、土佐の中岡慎太郎は京都に潜伏している浪士たちを一ヶ所にまとめて彼らの身の安全を確保するとともに、組織化して統制をくわえ、いざ事ある時に備えようと考えました。こうして陸援隊が結成されることになり、同年七月二十七
今日は天気が良かったので室戸までドライブしてきましたイチローも一緒途中、イチロー休憩中岡慎太郎の生家明治40年に台風の為、流失して昭和42年に復元された家でした。室戸岬は、ちょっと遠かったので行かなかったイチロー休憩とりながらのんびり帰ってきました高知へ来てから、司馬遼太郎の竜馬がゆくを読んだら幕末の歴史にハマりました読み終わったあとは龍馬ロスになったけど次は、燃えよ剣を図書館で借りて読もうかな
【内容情報】(「BOOK」データベースより)土佐・北川郷に生まれ、幼くして四書五経を学び、鏡新明智流武市半平太の高弟である剣術が土佐随一を自他共に認める腕前の慎太郎は、土佐脱藩後、長州三田尻招賢閣を拠点として長州・京都間を東奔西走する。禁門戦争、馬関戦争への参加などをとおして、日本が歩む道を見定め、高杉晋作、久坂玄瑞、公家、商人たちと共に新しい日本の維新回天に命を賭けた幕末の快男児中岡慎太郎を描く。幕末維新を語る際には必ず出てくる名前です。当然に中岡慎太郎という名はほとんど方が知っ
文久三年(1863)、兄・豊永伊佐馬が新選組に殺された時、嘉永二年(1849)生まれの貫一郎は、まだ満14歳(数え年で15歳)でした。2年後の慶応元年(1865)、貫一郎は故郷土佐を脱走し、京に上ります。『勤王殉国事蹟』には彼自身が書いたと思われる履歴が掲載されているのですが、簡潔にまとめられたその中に垣間見えるのは兄を殺した新選組に対する憎悪です。慶応二年、三条大橋西詰の制札場に掲げられていた、長州藩を非難する内容の書かれた高札が、何者かによってたびたび壊されるという事態が発生しま
こちらから、スタート。朝陽がまぶしい。嵐の翌朝、気持ちいいね(^-^)鴨川、清々しい。八坂から、円山公園。お、いらした。龍馬さん&慎太郎さん。知恩院を覗く。梅は咲いたか。伊藤甲子太郎。役で演じたな。高台院。北政所、ねねさんですね。通路まんなか、唐門がある。一乗谷を思い出す。霊屋。秀吉公とねねさんを祀る。改装中。帰り道。お二人を間近で観れますよ。ゑびす神社にて。ちょうど、ゑべっさん、だったので、寄ってみた。家内安全、無病息災、商売繁盛。よい一年になりました
太平洋を眺める中岡慎太郎です。国道沿いに立ってます。
今熊観音寺からのつづきです次に訪問させてもらったのは、前から気になっていた、大谷本廟一体ここは、何の寺かと思ったら、分かりました浄土真宗本願寺派宗祖親鸞聖人のお墓でした。本堂?綺麗に花が💐🌼🌸が盛られていました😊やはり、人気ポイントで、皆さんスマホ🤳で撮りまくっていましたねww沢山の方が、お参りされてました。ここは、浄土真宗なので、御朱印はございません。次に向かいました🚶♂️🚶♀️次に訪問したのは、誰もか知ってるあの有名なお寺さんです清水寺相変わらず、外国人さ
京都にある霊山には幕末の志士の墓がたくさんある。一番よい場所に桂小五郎こと木戸孝允の墓が奥さんの幾松とともにある。維新の元勲として成功したからということもあろう。実際、木戸孝允はかなり霊格の高い魂らしい。中腹には坂本龍馬と中岡慎太郎の墓がなかよく並んでいる。中岡はどうも今世に転生しているらしい。龍馬は転生したがってるが、まだ出番ではないらしい。近所には資料館があり、日露戦争開戦前に照憲皇后の枕元に坂本龍馬と名乗る武士が立ったエピソードが紹介されている。今も維新の志士達は日本を見守
こんばんは🌟2019年もいよいよカウントダウン出かけて楽しかったこと残しておきたいことは2019年の(備忘録)ブログにちょーっと前になりますが・・・まだ書いていなかった旅の思い出です😆さてさて久しぶりに?ここはどこの海でしょうか😆高知県の室戸阿南海岸国定公園『室戸岬』😊MUROTOはでっかい海でした。日本八景『室戸岬』『室戸世界ジオパーク室戸岬サイト』の説明がよくわかる案内所の上は展望所にでっかい海ぐるりと水平線を眺めました「歓鯨」🐳😆🐳←可愛
前回ブログの続編いよいよ龍馬暗殺と新撰組ファイナル突入永倉君いよいよ謎が明かされる時がきたんかや、、これで慎太郎も喜ぶぜよ❗おんしは大した奴じゃのう。。そして昭和53年6月謎の全容の新資料が発見されたのだ❗ついに、ついに、、この日がやってきた❗❗この暗殺に加わった京都見廻り組隊士渡辺篤の手記が、、ついに長年、沈黙を守っていた渡辺篤の子孫によって公開発表されたのだ❗ひぇ~その全容とは❓❓それによると一味は増次郎と言う者を乞食に仕立てて
2013年の昨日は・・・坂本竜馬・中岡慎太郎遭難の地・・・近江屋跡へ・・・時代を経て・・・今は回転寿司屋さんに(笑)
近江屋で坂本龍馬と共に暗殺された中岡慎太郎。室戸岬近く出身なんですかね?