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安岡地区旧市内地区彦島地区中山忠光卿の墓夏には数万人の人出でにぎわった綾羅木海水浴場は、今は潮騒と松頼の音がさびしくひびいて、浜辺には人影もない。この静かな松林の中に、悲劇の青年公家中山忠光を祀った社殿があり、境内の高台に「藤原忠光卿神霊」と刻んだ墓所があって、国の史跡に指定されているが知る人は少ない。明治天皇の叔父にあたる尊い身の中山忠光卿が、いくら幕末の動乱期とはいえ、わずか二十歳の若さで暗殺されたことは、まことに痛ましいかぎりであり、暗殺の真相が謎に包まれているだけに、よけいに
「天誅組」国を想い立ち上がるも一転みなさん、こんばんはそして、おはようございます!昼間は少し暑いですが夜は寒いくらいです秋が深まってきました風邪など召しませんようにさあ、今日「9月26日」の國史を学びましょう!「天誅組、大和挙兵」文久3年(1863)8月13日(新暦9月26日)孝明天皇は攘夷祈願のため大和行幸の詔を出します皇軍の御先鋒として「中山忠光」公卿吉本寅太郎たちの尊攘派志士は五条代官所を襲撃幕府による統治排除を宣言しま
維新余話1梅里義秀下関市史は昭和三十三年市制施行七十周年記念事業の一つとして、市政制施以後の分を九百余頁にまとめて発行、それ以前の分は二冊に分けて発行できるようすでに昨年原稿はまとまり、目下整理中であるが、私はその編修の一員として明治初年から市制施行までの二十一年間を担当し、はじめは僅か二十一年間だと考えていたところが、年限は短いが、文明開花で一事一物変動した時で種々な事件や騒動が頻発し容易なことでなかった。しかしこれは非常な勉強であり、そのため今まで郷土で全然知られていなかったことや、ほん
悲劇の公家忠光卿1中山神社・忠光遭難地(下関市・豊北町)歴史はときに尊い生け贄を要求する。若き公家中山忠光もまたそうした犠牲者の一人であった。白石正一郎の日記は、維新史の貴重な証言となっているが、文久三年(一八六三)四月一日、二日の項をみると、次のように記している。一日、毛利能州惣奉行トシテ出関、旅宿新地林へ名札さし出シ勤置、其外出役衆の宿へも同断、今日昼過楢崎八十槌来訪、京都より中山公子御下向二付座敷掃除旁大ニ差込候、夜ニ入山田卯右衛門入来11日、中山侍従様御散歩入来、宮城彦輔其外両人
「明治天皇叔父の武闘派公家の血脈は満州国へと繋がっていた!」チャッチャラーーチャーラー🎺♪※ウィークエンダーのジングルアゲイン10月2日に取材ライドをしました。浮石義民関連の場所とともに中山神社についてもあらためて訪問し、ゆかりの場所や史跡を辿っています。浮石義民ネタの付け足し的取材のつもりでしたが、調べ上げていきますと当初考えていた以上に深くて壮大な話となりました(^-^)今回お伝えするのは、幕末武闘派公家「中山忠光」の人生と彼のひ孫娘「嵯峨浩(さがひろ)」の話。
平成の高杉晋作の安倍晋三さんに対し、令和の中山忠光さんの高市早苗さん!令和3年(2021年)は新世界の始まりか!!!注:中山忠光さんの天誅組は奈良で決起した。我が街のポスター(2021.9.22撮影)
武久海水浴場何年ぶりかで武久海水浴場を訪れ、あまりにも激しい変りかたに驚いた。白砂青松の地として、市民の憩いの場として親しまれていた昔の面影が、想像できないような荒れかたなのである。海岸への入口には当時の橋がかかっているが、以前の川はなく、代りによごれた溝が横たわり、それも埋立てられつつある。その昔、この橋の前後にはたくさんの店が並んでにぎわっていた。行きには唐豆の袋を買い首にぶらさげて泳ぎ、いい加減海水にふやけたころ、熱い砂の上に寝そべって食べ、帰りには冷やしアメを飲むのがきまりであった
昨日の続きです。五條代官所跡の史跡公園からです。公園内にはSLの展示もあります。昔この付近のJR線を走った記念です。このSLはアニメ映画「鬼滅の刃」無限列車のモデルと同じ型です。展示されているSLです。今回は長屋門内展示から天誅組その後です。五條代官所長屋門です。もらったパンフレットより長屋門内配置図と天誅組行列図です。市役所にあった旧五條代官所を焼き討ちした天誅組のあしあとは五條代官所を焼き払った後本陣を桜井寺に構えて、旧五條代官所の
この辺まで来ると、集合時間が気になります。トイレも行きたいけど、こんな街中で粗末な物を出すわけにもいかない。実は年々トイレのがまんが出来なくなってきてるん。いっぺんの量が少なくて回数が多い。歳を重ねるって経験値が上がるのは嬉しいけど、気力体力が衰えて嫌やなぁ(;>_<;)オッ❗なんだこれは❓旧イギリス領事館。ご自由にお入り下さい。って、下関太っ腹\(^o^)/トイレも済ませて中を覗けば、執務室。イラストマップ①次は何処に行こうか。田中絹代ぶんか館。イラストマップ⑭作品をそんな
幕末、討幕の魁(さきがけ)となった天誅組の変を、主将・中山忠光(尊攘派公卿)と総裁・吉村虎太郎(寅太郎/土佐藩脱藩浪士)を軸に描いた歴史小説です。「天誅組の変」(奈良県五條市のホームページから引用)文久3年(1863)8月13日、尊王攘夷の断行を祈願するための大和行幸が朝議で決まりました。当時、京都の政局は尊王攘夷派が握っており、一部にはこれを機に一挙に討幕をはかろうとする動きがありました。この機を伺っていた討幕急進派の中山忠光、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂らが皇軍の先鋒となるため、翌1
2019年12月1日散策/中山神社・愛新覺羅社昨年12月に散策した時の記事です中山神社へ行ってきましたちょっとお天気がヤバくて、ときどき小雨が降っていたから、長居すると危険傘を持って来なかったから、本降りする前に慌てて見てきたよ立派な神社ね!元治元年(1864)に暗殺された公家の中山忠光が祭神として祀られていて、他に明治天皇と天照皇大神も祀られている慶応元年(1865)長州藩(豊浦藩)は墳墓の上に社殿を建てて「中山社」と称したことが、この中山神社創立の由来だそうですそういや、そっ
2019年12月1日散策/中山忠光潜居跡昨年12月に散策した時の記事です数日後に大相撲冬巡業下関場所があるので、平日だし、ひとりで行くわけなんだけど、なにしろ土地勘無いし、絶対迷子になるし、ひとりで列車に乗るのもバスに乗るのも初めてなわけで、オッパについてってもらって予行練習してきました(笑)新下関駅で降りるのは初めてかな構内では、スーパージャンボふく鍋がお出迎えしてくれました山口県立下関中央工業高等学校(2018年からは下関工科高等学校)の生徒さんが平成22年に完成させた爪楊枝アート
御所の近くにある護王神社。いのししの神社ということで、去年連れて行っていただいた場所。(冬の京都その2)ここ、足腰の神社なんです。叔母が足を悪くしたのでお詣りしてきました。あと母は腰痛持ちなのでそれぞれのお守りを買ってきました。父のお守りは病気平癒。私の分はあとで別の場所で買います。本を読んでいたら、和気清麻呂は流罪になった時に「別部穢麻呂」と改名させられたと書いてありました。「わけべのきたなまろ」ですよ。きたなまろって。酷くないですか。去年の干支越しのねずみ。護王神社の向かいの
中山忠光卿の墓夏には数万人の人出でにぎわった綾羅木海水浴場は、今は潮騒と松頼の音がさびしくひびいて、浜辺には人影もない。この静かな松林の中に、悲劇の青年公家中山忠光を祀った社殿があり、境内の高台に「藤原忠光卿神霊」と刻んだ墓所があって、国の史跡に指定されているが知る人は少ない。明治天皇の叔父にあたる尊い身の中山忠光卿が、いくら幕末の動乱期とはいえ、わずか二十歳の若さで暗殺されたことは、まことに痛ましいかぎりであり、暗殺の真相が謎に包まれているだけに、よけいに悲劇の深さを思うのである。東京
中山忠光暗殺者、福永正介明治維新の偉業を成し遂げ、強大な権力の座についた長州藩にとって、泣き所ともいうべき触れられたくない痛恨事の一つに、中山忠光卿の暗殺事件がある。この事件についてはいくら時勢のせいだとしても、勤皇倒幕の大義名分を掲げた長州藩にとって、天皇直系のやんごとない尊い方を誅し奉ったのであるからいかなる申し開きもできないはずである。中山忠光の死因については諸説あるが、長府毛利藩の記録では病気で亡くなられたとしてあり、同時に暗殺の行われた田耕村に対して、一切の口外せぬようにとの
小森江西歴史クラブ一行の豊浦地区史跡巡りの最後は豊北町です。豊北は、田耕のある山間部から土井ヶ浜や角島のある海岸部まで含む広いエリアになります。今回の史跡巡りは山間部の田耕神社、中山神社、田上菊者誕生地などを訪問しました。[田耕神社]田耕神社は1908年に田耕八幡宮、松崎神宮を合祀して創建されました。弘安の役のとき、土井ヶ浜に蒙古軍が襲来したという説があり、田耕神社にはそれに由来する浜辺祭という神事があります。また、近辺には蒙古軍の大将のものと言われる首塚もあります。[田上菊者生誕
高校日本史Bに必出の「天誅組の変(1863年)」の末路です。三重県松阪市から高見峠を越えて、奈良県吉野郡東吉野村に入り、該地に達しました。訪れたのは2度目です。この訪問を機に、この出来事をどのように評価したらよいか、ずっと考えています。一般的には「江戸幕府に対する尊王攘夷派の初めての武力蜂起」という位置づけですが、中山忠光が19歳、吉村寅太郎が26歳など主導者がかなり若いことと、「八月十八日の政変」後の時勢を読めていないこと、そもそも武装蜂起する時機をもっと待てなか
文久3年(1863)、天誅組は東吉野鷲家で壊滅しますが、土佐脱藩那須信吾らの決死隊の働きにより大将、中山忠光は辛くも脱出に成功します。大和を抜け大阪の長州藩邸へ到着したのが9月27日。その後長州へと逃れました。しかし禁門の変以降、長州では俗論派が実権を握り忠光は元知元年(1864)11月15日に暗殺されてしまいます。享年20歳。政変が無ければ、もしくはもう少し後なら天誅組の運命もまた変わっていたかも知れませんし、落ち延びた後ももう少し生き延びれば長州はまた攘夷派が実験を取り返した事を思えば、
京の都にて、それまで大人しくしていた公家様方も、幕府などの行いに反感を強めて、それぞれの思うところあり、その中には戦う公家も登場してくる事となる。時代はそうゆう岐路に立たされ・・・・大きな節目を迎えようとしていた。文久3年1863年・・・・長州藩は、京都御所警備の任を解かれて、攘夷派の三条実美ら七卿は、その後長州の者に守られながら、下関の長府の地まで落ち延びる事となる。これを七卿落ちという。七卿が落ち延びこの部屋にて、高杉晋作らと会談したという部屋が、今も残され
文久三年九月二十五日、藤本鉄石の死と相前後して、総裁の一人松本奎堂が紀州藩兵に狙撃され戦死(自刃とも)。残る吉村寅太郎は傷が悪化して本隊から離れて行動していましたが、九月二十七日、鷲家村の駕籠茶屋にいたところを津藩兵に取り囲まれ、射殺されてしまいました(こちらも自刃説あり)。また安積五郎は戦地を脱出したものの間もなく捕らわれ、翌文久四年二月十六日、京の六角獄舎にて首を刎ねられました。こうして天誅組は壊滅し、残された彼等の同志たちは、やがて倒幕派へと身を転じざるを得なくなっていくのです
5月5日散策/富海幕末史跡富海の町をぶらりお散歩防府駅からひと駅なんだけど、市内中心部とはちょっと雰囲気が違うのね江戸時代の富海は、飛船による回船業で栄えていて、幕末には多くの勤皇志士を大阪方面へ運び、明治維新に深く関わったとされている今も石垣な船蔵に当時の名残をとどめているし、飛船繁盛の証しが伺えるわ飛船は天明2年(1782)頃、河内屋平左衛門が萩の飛脚を大阪まで受けあうことから始まっていて、お米20俵が積めるくらいの小型船だったんですって多いときは60隻くらいの飛船が活躍されてい
4月29日散策/長州藩下関前田台場跡長府の城下町から下関駅へバスで移動せっかくだから「長州藩の大砲が占領されたとこが見たい、教科書に載ってるあの有名な写真のとこヽ(`Д´#)ノ」ってことで、前田台場跡へ何にもないよ?ってオッパ幕末に萩(長州)藩が築造した台場のひとつ「前田砲台跡」元治元年(1864)四国連合艦隊下関砲撃事件の舞台となった場所で、イギリス陸戦隊によって占拠され、長州藩が攘夷から開国へと方針を転換する起点となった事件に関係する遺跡なの前田砲台跡は、外国船の来航などにより
米国人、ペリーによる黒船来航が嘉永6年(1853年)。開国するのか鎖国を続けるのか、幕府に付くのか御所に期待するのか志士達は自らの信念の下に命を賭して国の将来を憂い行動する。文久3年(1863)、孝明天皇の大和行幸の詔を受けて京都方広寺に集結した39名。天誅組と呼ばれる者達の主な構成は以下。・主将中山忠光(公家)10代にして侍従の職に就いていた中山忠光。侍従とは砕けて言うと「エラい人のお付の人」で後の明治天皇のお付をしていたので御所内ではそれなりの存在。さらに
光明寺、浄土真宗本願寺派、山口県下関市細江一丁目第二次世界大戦の空襲にも偶然避けられ、久坂玄瑞が率いる光明寺党の刀傷も残っている。この光明寺党が奇兵隊のルーツとされている。参考①光明寺党(参考)長州藩、尊攘派の武装集団。文久3年5月に結成。統括者、久坂玄瑞。党員は諸藩浪人と長州藩有志等50~60名前後文久3年5月10日払暁の馬関攘夷戦に、撰鋒隊などの藩兵と共に参加、米商船を始め仏、蘭、商船を23日と26日の両日砲撃した。この報復は直ちに行われ、6月1日には米軍艦、続いて仏軍艦がや
中山忠光卿は天誅組の変に敗れると長府藩に匿われ、現在の下関市大字延行、下関北運動公園の南端に潜居した。井戸南方向、潜居の地の入口前西方向、右手の階段上に石碑南方に電波塔東方向潜居跡、中央、下関北運動公園の南端参考①中山忠光卿(参考)②下関市内のゆかりの地
下関市綾羅木本町7丁目、中山神社中山神社の由緒2016年初詣祭神、中山忠光卿中山忠光卿(藤原忠光)墓愛新覚羅社、中山神社摂社潜居跡、下関市大字延行忠光卿暗殺の地本宮、中山神社、豊北町大字田耕暗殺犯、福永正介、下関市大字福江字平松参考「天誅組の変」(五條市教育委員会)から抜粋(参考)天誅組の変文久3年、そのころの日本ではいわゆる鎖国が終わり、外国人が日本に人り込んでくるようになりました。それと同時に江戸幕府の権力が弱くなり、多くの人たちがこれからの日本はどうあるべきなのか