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2.養子に入らない方が良い人物の組み合わせ前回の冒頭、曹操は姓と名の読みが同じであることに触れました。さらに一歩進んで、姓と名が同じ漢字の人物がいるのか探してみましたが、これは発見できませんでした。ところで、三国時代に姓の違う家から養子を迎える行為は、あまり良いこととされていませんでした。しかし一切なかったわけではなく、例えば曹操の父である曹嵩は夏侯氏から養子に入ったとされており、元の名前は夏侯嵩になるのでしょう。このように異姓から養子になれば姓が変わるのであれば、仮に丁奉が甘
『中国古典一日一語』ー守屋洋●知の難きに非ず、知に処するは則ち難し(いくら正しい意見でも・・・・)✪物事を知ることは難しいことではない。難しいのは、知ったあとでいかに行動するかにある、という意味である。今風にいえば、情報を入手するよりも、その情報をどう生かすかが難しいということだろう。鄭(てい)の武公が、胡(こ)を攻略しようとしたときのことである。武公はまず自分の娘を胡の武公に贈り、胡王の機嫌をとっておいてから部下を集めていった。「領土を拡張しようと思うが、どの国から攻めたものだろ
留園(りゅうえん)は蘇州の名園ここが入り口1997年中国古典園林として世界遺産に登録されましたここは上海で見た豫園より広いガイドさんが色々説明してくれるけど中国の歴史に疎いのでわからないことが多かったな😞透かしの窓🪟ここを境に当主と奥方の部屋が仕切られている
1.三国志の登場人物の名前を思い返す〇名前の読み方を思い返す初めて曹操の名前を聞いた時、パンダの愛称のような響きや英語の「soso」を連想するため、違和感がありませんでしたか。加えて、姓も名も同じ「ソウ」と読むことを知った時、驚きはなかったでしょうか。日本であれば姓名ともに読みが「ミキ」「ミナミ」「アオイ」「タマキ」になっている名前のようです。もっとも、漢字を読む発音は中国語と日本語で異なりますし、三国時代にどのような発音だったかという問題がありますが、ここでは現代日本での発音としています
2025年11月1日、第19回「三国志祭」に参加し、三国志に関する様々な話の拝聴が中心でしたが、少し時間に余裕があり書籍を購入したところ、本ブログのあり方に考えをめぐらせることができました。〇情報を発信し続ければ、いつか誰かの心を震わせることができるか三国志に関する書籍として購入したものは「三国志群雄太守県令勢力図(上・下)」と「正史三国志人物考察(うち1冊)」になります。どちらも同人誌であるようで、著者の方は研究や文筆を生業とする専門家ではない認識です。もちろん過去に研究した経歴が
2025年11月1日、第19回「三国志祭」に参加し、三国志に関する様々な話を拝聴しまして、所感を中心に引き続き記します。〇その記憶の元は何だったのか、確認しないと危険である歴史上の人物のイメージは、小説や映像作品などで描かれた姿になっていることがあります。それは三国時代の人物も例外ではなく、実像より「三国志演義」での姿を思い浮かべることが多いように思います。時には「正史三国志」や「三国志演義」をベースに創作された作品のこともあるでしょう。(この点に関しては以前『三国志学会第二十回大
中国外交「粉骨砕身」を誤用し自ら恥をかく「教養なき戦狼外交」の末路みなさま、お元気ですか。今日は中国の、「教養なき戦狼外交」についてみなさまと話し合ってみたいと思います。最近、中国の外交部や国防部が、日本への挑発を目的として、奇妙な警告文をSNSや公式声明で連発しているのをご存知でしょうか。彼らの主張は攻撃的である以前に、日本語としても、そして彼らが重んじるはずの中国古典の知識としても、あまりにお粗末で、正直「教養がないのかな」と首を傾げてしまいます。こんな面白い「
2025年11月1日、第19回「三国志祭」に参加し、三国志に関する様々な話を拝聴しました。9月に「三国志大文化祭2025」「三国志学会第二十回大会」を拝聴した時と同様ですが、発表された内容にどこまで触れて良いかわかりませんので、なるべく核心には触れないように、所感を中心に記してみたいと思います。なお、本ブログは想察と称して、自分なりに調べ考えた結果を主に記していますが、今回はイベントに参加しての所感ですので、さほど調べませんし、聞き間違いがあるかもしれませんし、ただの感想や疑問で終わ
北京ダックのお店から、バスで45分移動「北京前門建国飯店」さんにやって来ました。読み方は、チェンメンジャンクオホテルさんこちらは、普通のホテルなのですがなんと、ホテル内に大きな劇場を有するエンタメ型のホテルなんですよ中国滞在最後の夜は折角、中国に来たので中国伝統の古典京劇を鑑賞したいと思いますこのショーは、オプションだったのでツアー代金とは別に@260元(約5600円)を送迎込みで、現地ガイドにお支払いました。ホテルのロビーでは、美女2人の演奏でゲストをお迎えしてくれてい
今日の渋谷は曇り空。天気予報は終日晴れマークが多いのだが、お昼ごろに何故かいきなりの1時間雨マーク。月曜火曜はピンポンの日で、月曜(今日)の午前中は渋谷区東の健康プラザ、夜は近所の小学校の体育館で、明日の火曜日は午前中渋谷区スポーツセンター(スポセン)で夜もまたスポセンの開放日ということで・・・真面目に全部やったら10時間以上。68歳の老体にはちょいときつい。テキトーにサボりつつ??最近始めたシェークハンドに慣れるために長い時間を・・・昨日一昨日は
今日の渋谷は雨。昨夜は・・・というより夕方7時半ごろ眠りについて、今朝は・・・というより夜中に目を覚まして、丑三つ時を中心に4時間ほど起きていた。その後二度寝のすえに8時起床。例によってYou-tubeでチュートリアル!?中国古代史や中国古代思想、禅などについてうんうんと頷きながら、恰も学生のようにメモを取りつつ・・・チュートリアルとは「新しいことを始める際に、基本的な使い方や手順を指導・解説するもの」であるが、以前学生時代を含めて一度学んだものの改めて学ぶ
15.結論項羽こそ呂布をモデルにしたのではないかここまで呂布と項羽について歴史書の記述を確認し、概略は以下のようになっています。・歴史書を見る限り、呂布と項羽が実際にどれほどの武勇(※1)を持っていたかはわからない。ただ、歴史書の記述から、ある程度高い武勇を持っていたと考えられる。・呂布と項羽は、物語(「三国志演義」と「西漢通俗演義」)が成立する過程で、最高の武勇を持つ人物像が形成された。・呂布と項羽は歴史書上に多くの類似点が見られることから、同じタイプの人物として扱われた。こ
14.呂布と項羽を比較した共通点の整理呂布と項羽は最強の武勇(※1)を持つ人物と位置付けられていますが、歴史書上に一騎討ちをしたことはほとんど記されておらず、実際にどれほど武勇が優れていたか定かではありません。呂布は「三国志平話」では張飛の方が強いものの、「三国志演義」で最強の存在になっており、「三国志演義」が成立する過程で最高の武勇を持つ人物として形成されました。項羽は「秦併六国平話」で一騎討ちをしていないものの、「西漢通俗演義」で一騎討ちをするようになり、ここで最高の武勇を持つ人
13.人物評前回まで、呂布と項羽の事績を中心に歴史書の記述を確認してきましたが、両者と同時代の人物はどのように評価していたのでしょうか。ここまで長々と続けた比較の最後として、歴史書における人物評を確認します。(※1)(呂布に対する評価)・陳登が曹操に語る評価「呂布は武勇があるが無計画で、軽々しく人についたり離れたりする。」・曹操が陳登に語る評価「呂布は野蛮な心を持った狼の子」「呂布は鷹を飼うのと同じで、腹がすけば役に立つが、満腹になれば飛んでいってしまう。」・高順が呂布に対して
12.命運が尽きる最後の戦い呂布は下邳[下ヒ]で、項羽は垓下で最後の戦いに敗れ、死を迎えます。この最後の戦いについて、歴史書の記述を確認します。(※1)(呂布)・曹操軍は下邳[下ヒ]を包囲し、呂布は袁術に救援を求めるため1000騎あまりを率いて出陣するが、敗北して下邳[下ヒ]に戻る。曹操は沂水と泗水を溢れさせて城を水攻めにし、城内の不和もあって侯成、宋憲、魏続が陳宮を縛って曹操に降伏。呂布は白門楼に登り、包囲が厳しくなると降伏した。一説には、囲みが厳しくなると、呂布は部下に自分の首
11.劉備と劉邦劉邦(前漢の高祖)と項羽は、最初は秦を倒すためともに戦いますが、後に天下を争い勝利した劉邦が皇帝の座に就きます。劉備は劉勝(劉邦の曽孫)の末裔と称していますが、事実であれば劉邦の遠い子孫になります。劉備と呂布は、項羽と劉邦の争いより規模は小さいとはいえ、一時期徐州で共存し、後に争う関係になりました。今回はこの二組に関する歴史書の記述を確認します。(※1)(a)兄弟関係・呂布は兗州[エン州]で曹操に敗れ、劉備の下に身を寄せた時、呂布は劉備を弟と呼んだ。(『英雄記』から
10.陳宮と范増呂布には陳宮、項羽には范増という軍師がいます。軍師は主君に適切な進言を行い、志を果たす力になる存在であるはずですが、一筋縄ではいかなかったようです。今回は陳宮、范増に関する歴史書の記述を確認します。(※1)(a)参戦・陳宮は曹操に仕えていたが、張超らと反乱を起こす。張超の兄である張邈[張バク]に世の趨勢を説いて、呂布を迎え入れるよう進言する。呂布は陳宮らとともに兗州[エン州]を攻撃し、一時期は大半を制圧する。しかし、反撃してきた曹操と濮陽、雍丘、定陶などでの戦いの末
欲して止まるを知らざれば、その欲する所以を失い、有して足るを知らざれば、その有する所以を失う。何かを欲して止まらずにいれば、当初の目的すら失ってしまう。何かを有して満足しなければ、既に有していたものすら失ってしまう。※注釈※美味しいからといって、食べ過ぎれば嫌になったり身体を壊してしまう。異性にもてたからといって、いい気になって複数の異性と関係を持てば今いる異性にあきられ去られてしまう。金儲けがうまくいったからといって、もっと儲けようとすると思わぬ大損を招いてしまう。より物を
駒込の本屋「Books青いカバ」の出先、カバのラボが近所(熊野前)にできて、気になっていて、やっと行けました。無人店舗で全品100円です。古書専門で玉石混淆です。中国古典新書を2冊見つけました、計200円。ネットで確認したところ、1冊は7,426円、もう1冊は2,630円の値段がついていました。自分の興味、専門分野なら掘出し物に出逢うかも?です。
9.袁術と英布(黥布、※1)呂布は董卓殺害後、諸勢力を渡り歩いたがあまり良い扱いは受けず、項羽は各地に諸王を封じたものの次々に背かれており、周辺との関係はあまり良好と感じられません。周辺の勢力の中でも、呂布にとっての袁術、項羽にとっての英布は、味方にもなることもあれば敵対したこともある勢力です。袁術と英布は異なるタイプのような印象がありますが、共通点を探るため歴史書の記述を確認します。(※2)(袁術)・呂布は董卓殺害後、袁術を頼ろうとしたが受け入れられなかった。・袁術は皇帝を僭称
8.ゆかりの地、徐州との関わり呂布と項羽は同じような形で徐州にゆかりがあり、その内容を歴史書の記述から確認します。(※1)(a)本拠地・呂布は董卓殺害後、いくつかの勢力を転々とする。最終的に劉備を頼るが、劉備から下邳[下ヒ]を奪い、本拠地にする。・項羽は彭城にいた懐王を義帝にした後、自立して西楚の覇王となり、彭城を都にした。義帝を彭城から長沙に移すが、その道中で人に命じて殺害させた。(b)最後の戦いの地・呂布は本拠地としていた下邳[下ヒ]を曹操に攻められ、降伏し処刑された
7.内なる敵の存在前回は呂布や項羽を明確に裏切り、去っていった人物のことを記しました(『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(六・配下との関係)』)。それとは別に、敵という表現はやや行き過ぎかもしれませんが、表面的には呂布や項羽に従っているものの、不利な方向に導く人物が見られます。例によって歴史書での記述を確認します。(※1)(呂布と陳父子)・呂布と袁術が婚姻を進めようとした時、陳珪は国のためにならないと危惧し、呂布を説得して婚姻を中止させた。・呂布が左将軍に任命された時
水墨画で描かれた人物の中に「三教図」という画がある。儒教、仏教、道教の三教の尊者が並んでいる画である。中国では、三教が根本において一致するという思想からこのような画が生まれ、一幅に儒教の「孔子」、仏教の「釈尊」、道教の「老子」の三人が揃って描かれている。前に孔子、その斜め右後ろに老子を描き、両者の間から顔だけを出す釈尊という構図のものである。日本でも室町時代の水墨画に例が多い。その中でも建仁寺両足院に所属(写真)されている伝如拙筆のものが著名。道釈画なので達磨さん風に描かれているのが、ちょっ
興一利、不若除一害。生一事、不若減一事。一利を興すは一害を除くに如かず。一事を生やすは一事を減らすに如かず。一つ利益になる事を始めるよりも、一つ有害になっている事を除いた方がいい。一つ何かを増やすよりも、一つ何かを減らした方がいい。※注釈※生きる為に必要な資本として、心(精神)、身体(体力や健康)、時間、人、経済などが特に重要で、何かを始める事は、その資本を消費する事になります。消費が過ぎて浪費を招く事もありますし、その消費や始める事は本当に必要な事でしょうか?良か
『中国古典・一日一話』ー守屋洋●善く戦う者はこれを勢に求めて人に責(もと)めず✪戦(いくさ)上手は、まず何よりも勢いに乗ることを重視し、ひとりひとりの兵士の働きに過度の期待をかけないのだという。『孫子』は、さらにこう解説している。「勢いに乗れば、兵士は坂道を転がる丸太や石のように思いがけない力を発揮する。(中略)勢いに乗って戦うとは、丸い石を千仞(せんじん)の谷底に転がすようなものだ」『孫子』に則(のっと)れば、組織の管理も大切だが、もっとも大切なのは組織全体を勢いに乗せることで
6.配下との関係呂布、項羽はともに主君の殺害や裏切りをしており(『呂布が最強になったのは項羽をモデルにしたのか(三・裏切りと主君の殺害)』参照)、配下として忠義を尽くさせるのは難しいタイプです。一方、両者の配下にどのような振る舞いがあったのか、歴史書における配下との関係性を示す記述を確認します。(※1)(a)呂布からの離反・陳宮と謀り、郝萌[カク萌]が反乱を起こす。・曹操軍に下邳[下ヒ]を包囲されていたが、侯成、宋憲、魏続が陳宮を縛り降伏する。・呂布は配下の将を厚遇していたつも
『中国古典・一日一話』ー守屋洋●聖人は微(び)を以って萌(ほう)を知り、端(たん)を見て以って末を知る(芽を見てその花を知る)✪国を滅ぼした殷の紂王がはじめて象牙の箸をつくったとき、重臣の箕子(きし)はひそかに恐れた。なぜか。彼はこう思ったのだという。「象牙の箸を使うようになれば、汁を盛る器も、粗末な土器をやめて玉でつくるようになる。そんな立派な器を使うようになれば、食べる料理も粗末なものはやめて天下の珍味を求めるようになる。そうなると今度は、錦の衣を着て立派な宮殿に住みたくなるに
『中国古典・一日一話』ー守屋洋●百戦百勝は善の善たるものに非(あら)ず✪百戦百勝したとしても、最善の策とはいえないのだという。つまり、戦わずして勝つのが理想であって、その方法としては次の二つが考えられる。①外交交渉によって相手の意図を封じこめる。②謀略活動によって相手を内部から崩壊させる。中国は、武力だけでは抑えこめないほどの広さを持っている。だから、天下を取るようなリーダーは、まず戦わずして勝つことを考えざるを得なかった。戦いを起こせば、たとえ勝っても味方も血を流す。また、相
『中国古典・一日一話』ー守屋洋●曲(きょく)なれば則(すなわ)ち全(まった)し✪略して「曲全」ともいう。これも『老子』の処世哲学をもっとも端的に表している言葉である。曲がっているからこそ、生命をまっとうできるのだという。『老子』の根本思想は、昨今の「目立ちたがり屋」の対極にあると考えていいだろう。目立ちたがり屋は、つねに先頭に立ちたがる。だが、『老子』はもっと曲線的な生き方を好む。先頭に立つより、あとからついていくほうが危険な目に遭うこともなく安全に生きられる、と説く。しかし、だか
5.貂蝉と虞(虞姫、虞美人)呂布には貂蝉、項羽には虞とのエピソードがありますが、歴史書上で両者と女性との関わりはどのようになっているか確認します。(※1)(呂布)・曹操軍の攻撃に対して出陣しようとする呂布に、呂布の妻は「陳宮と高順は仲が悪く、城を守り抜くことはできない。間違いがあれば呂布は根拠地がなくなる。(『英雄記』からの引用)」「曹氏は陳宮を大事にしていたが見捨てた。呂布は曹氏ほど手厚くない。変事が起これば呂布の妻でいられない。(『魏氏春秋』からの引用)」と告げ、呂布は出陣を決