ブログ記事1,393件
『水滸伝』では五虎将として、関勝、林冲、秦明、呼延灼、董平が名を連ねていますが、董平は他の4人に比べて、重要度や活躍度が及ばない面を感じます。そこで、五虎将の人選理由を探ると、共通点として「朝廷や州・府が関わる官軍で、指揮・指導する立場にあった」が挙がりました。今回は、この共通点の検証を行います。(※1)3.五虎将の共通点「朝廷や州・府が関わる官軍で、指揮・指導する立場にあった」の妥当性五虎将に見られる共通点「朝廷や州・府が関わる官軍で、指揮・指導する立場にあった」の妥当性を確認する
https://youtube.com/shorts/nYFmoN7uZ0c?si=7tWStJlduH3BCOPh岩屋外相の訪中歓迎を「無能の証拠」とする論理は正しいのか?中国古典『六韜』の本来の意図を検証#shorts三好りょう【公式】2026年10月1日配信より切り抜き岩屋外相が訪中した際の手厚いもてなしを巡り、「中国の古典兵法書『六韜』によれば、もてなされるのは無能な使者だからだ」とする批判が出されています。しかし、兵法書『六韜』が説く心理作戦の本質を無視し、「歓迎された=無能」と単
『水滸伝』では五虎将として、関勝、林冲、秦明、呼延灼、董平が名を連ねています。この中で、董平は他の4人に比べると、重要度や活躍度がやや及ばない面を感じることから、五虎将の人選について検討を行います。(※1)2.五虎将の共通点そもそも五虎将は梁山泊における軍事面での役割であるため、人選基準が軍事や武勇と離れているようでは、妥当性に欠けるように思います。軍事や武勇という観点で関勝、林冲、秦明、呼延灼、董平を確認すると、梁山泊に加入する前に「官側の軍に在籍」しており、「軍を指揮、もしくは
今回からしばらくの間、三国志を離れて『水滸伝』について書いてみます。1.はじめに『水滸伝』の席次や人選を見て思うこと『水滸伝』を読んでいると、席次や役割分担の理由がわからないことがあります。例えば、花栄、秦明、黄信らが梁山泊に加入した時(第35回)の席次は、以下のようになっています。(※1)4林冲、5花栄、6秦明、7劉唐、8黄信、9阮小二、10阮小五、11阮小七これが最終的に108人揃うと6林冲、7秦明、9花栄、21劉唐、27阮小二、29阮小五、
10.陸遜の改名に関する一説前回(陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(八・改名の諸説と諸葛恪))、陸遜に対して諸葛恪が意見に賛同する書状を送ったものの、誰に対しても遠慮しない諸葛恪らしさが見られなかったこと。そして、陸遜が亡くなる前の孫権の振舞いと、諸葛恪の書状に書かれた「過ちを責めると恨みが生まれ、恨みが生じると讒言が入る」には重なるものを感じるということを確認しています。さて、ここから諸葛恪の字である「元遜」と改名後の「陸遜」が一文字共通することから、仮説として「諸葛恪
8.陸遜改名の背景に関する諸説陸遜が改名した理由や背景は様々な説を目にします。ただ、正直申しまして、各説の初見はどこであるのか、見た説はオリジナルなのか引用なのかわからず、さらに似たようなことを考えていた説もあります。引用元を明記しにくい面もありますので、各説をかなり曖昧な形で列挙させていただきます。(※1)「遜」の孫やしんにょうに着目する、「遜」の漢字の意味に理由がある、「議」を変えたかった、「議」は避諱して記録された、改名させられた、死後書き換えられた、改名により無名を装った、
7.陸遜が改名した時期と、呉書に関する若干の疑問前回まで「陸議(改名前)」と「陸遜(改名後)」がどのように表記されているか確認した結果、以下の範囲まで絞り込むことができました。・魏書明帝紀には、孫権が合肥新城に進軍した234年に「陸議」と表記されている。・魏書王基伝には、245年から249年の間と見られる出来事で、王基が諸葛誕に「陸遜」は既に死んでいることを話している。改名時期はおよそこの間であると考えられますが、どちらも呉の情報が魏書に記されています。改名が伝わるまで時間差
6.陸遜の改名時期魏書(後編)○呉との争いにおける表記前回(陸議から陸遜に改名した時期と背景に関する一説(五・陸遜の改名時期魏書前編))は魏書の中で「誰かの言葉」に該当する部分を確認しました。今回は呉との争いに関する箇所を確認しますが、まずは今回の検討に関係する箇所を以下に記します。(※1)【魏書】概ね「陸議」と表記されているが、一部「陸遜」と表記されている(☆部)。(h)陸議・・・曹休が陸議と石亭で戦い敗北した。(228年/明帝紀)(i)陸遜(☆)・・・陸遜が廬江
人はいつになったら、本当の意味で大人になるのだろう気づけば50代になった。孔子がいうには「天命を知る」世代だ。若い頃に想像していた50代とは、ずいぶん違う。もっと落ち着いていると思っていた。迷いがなくなっていると思っていた。実際は、迷うし、失敗するし、感情的になる。どうやら年齢を重ねれば、自動的に立派な大人になれるわけではないらしい。私の母や祖母が子供の頃によく言っていた。「気持ちは変わらないのよね・・」と。60代になっても70代になっても、気持ちは若い時のままだと言って
5.陸遜の改名時期魏書(前編)○魏書における陸遜の表記陸遜の改名時期について、呉書と蜀書の内容からは、石亭の戦い(228年)以降、もしくは少し遡る可能性があると考えました。最後に魏書の内容による絞り込みを行います。魏書における「陸議(改名前)」と「陸遜(改名後)」の使い分けは、以下のようになっています。(※1)【魏書】概ね「陸議」と表記されているが、一部「陸遜」と表記されている(☆部)。(f)陸議・・・即位した曹丕が、賈詡[賈ク]に蜀と呉のどちらを攻めるか聞くと、「呉は
知人者智也。自知者明也。勝人者有力也。自勝者強也。知足者富也。強行者有志也。不失其所者久也。死而不忘者寿也。人を知る者は智なり。自らを知る者は明なり。人に勝つ者は力あり。自らに勝つ者は強し。足るを知る者は富めり。強いて行う者は志あり。その所を失わざる者は久し。死して忘れざる者は寿(いのちなが)し。人を知る者は良くて智者の程度に過ぎない。自分を知る者こそより賢い明智に達した人である。人に勝つ者は良くて力がある程度に過ぎない。自分に勝つ者こそ本当の強者である。足るを知る者
4.陸遜の改名時期蜀書編○蜀書における陸遜の表記前回は呉書を確認し、陸遜の改名時期は石亭の戦い(228年)以降とみられるものの、少し遡る可能性もあり得ると考えました。引き続き、今回は蜀書の内容による絞り込みを行います。蜀書における「陸議(改名前)」と「陸遜(改名後)」の使い分けは、以下のようになっています。(※1)【蜀書】本文は「陸議」で統一されているが、裴松之注で「陸遜」との表記(☆部)が見られる。(d)陸議・・・夷陵の戦いで、陸議が劉備を破る。(221~222年/先
安岡正篤さんが中国古典を参考に述べたものと言われているが任怨分謗(にんえんぶんぼう)という言葉がある新しい仕事や改革を行う時には必ず誰かの恨みや批判を買うがそれを恐れず引き受け同志と共に批判を分かち合って進むべきだという心構えを示す言葉である大平正芳総理がよく使っていたひとりの人間の心構えとしては任怨(にんえん)と謙譲という言葉もある任怨とともに増上慢や傲慢にならず謙虚に生きていくことの大切さを説いたものだ
3.陸遜の改名時期呉書編○呉書における陸遜の表記陸遜の改名時期を絞り込むにあたり、最初に呉書を確認します。呉書における「陸議(改名前)」と「陸遜(改名後)」の使い分けは、以下のようになっています。(※1)【呉書】基本的に「陸遜」で統一されているが、以下箇所では例外的に「陸議」と表記されている。(a)陸議・・・陸遜伝の冒頭に「本名議(もとの名は議)」と記されている。(b)陸議・・・石亭の戦いの前に、周魴が曹休をおびき寄せる手紙に陸議と記されている。(228年頃/賀全呂周
2.陸遜が改名した時期を絞り込むにあたって○「陸議」と「陸遜」の表記を整理する陸遜が改名した時期は『正史三国志』に記されておらず、特定は困難です。しかし、「陸議(改名前)」と「陸遜(改名後)」の使い分けを見ることで、ある程度まで範囲を絞ることができます。(※1)いつ改名したかは複数の方が推定されており、目新しい話題ではありませんが、拙稿でも絞り込みを試みます。まず、『正史三国志』における「陸議」と「陸遜」がどのように表記されているか、簡単に整理します。【呉書】基本的に「陸
1.改名した人物の中で、陸遜は注目されている名前が変わった人物は、歴史上の様々な時代や地域で見られますが、三国志の世界も例に漏れません。史書を見ると、例えば以下のような人物で改名(※1)したことが記されています。(※2)王朗王厳→王朗程昱[程イク]程立→程昱[程イク]徐庶徐福→徐庶関羽(字)長生→雲長簡雍耿雍→簡雍李厳李厳→李平馬忠狐篤→馬忠王平何平→王平朱然施然→朱然陸遜陸議→陸遜(※3)これらの人物の中には、改名の理由や時期が記されている場合があり
上士聞道、勤能行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以為道。故建言有之。曰、明道若昧。進道若退。夷道若纇。上徳如谷。大白如辱。広徳如不足。建徳若偸。質真如渝。大方無隅。大器晩成。大音希声。大象無形。道褒無名。夫唯道、善始且善成。(老子)上士は道(タオ)を聞いては勤めて能くこれを行う。中士は道を聞いては存するが若く亡するが若し。下士は道を聞いては大いにこれを笑う。笑わざれば、以って道となすに足らず。是を以って建言にこれあり。曰く、明道は暗きが如し。
19.最後に龐統[ホウ統]の描かれ方を整理『三国志演義』での龐統[ホウ統]は、赤壁の戦いでの連環の計、耒陽県令となり故意に政務を滞らせてから能力を見せる、落鳳坡での落命といった、存在が際立つ場面がいくつもあります。しかし、益州攻略時に、涪城[フ城](※1)で劉璋を害そうとしたこと、劉備に涪城[フ城]を奪取する献策をしたことを除き、龐統[ホウ統]の姿は多くが創作されたものです。ここまで『正史三国志』および中間地点としての『三国志平話』と、『三国志演義』を比較することで、龐統[ホウ
18.まとめ5劉備陣営との対峙を回避まとめの最後に、『正史三国志』『三国志平話』で龐統[ホウ統]が劉備以外の陣営にいる場面を確認します。・『正史三国志』では、龐統[ホウ統]は南郡の功曹になり、後に南郡太守になった周瑜が亡くなると、亡骸を呉に運んでいる。(3.周瑜の死)・『三国志平話』では周瑜の死に旧友である龐統[ホウ統]が立ち合い、将星を留め亡骸を呉に運ぶ。その途中で諸葛亮に会い、将星を留めたことを見破られる。(3.周瑜の死)・『三国志平話』で歴陽(耒陽)から姿を消した龐統[ホ
天地之道、極則反、盈則損。天地の道は、極まれば則ち反り、盈つれば則ち損す。この世の法則は、極まればもとに返り、満つれば欠ける。(淮南子)天地盈虚、與時消息。而況於人乎。天地の盈虚は時と消息す。而るを況んや人に於いてをや。この世は四季の推移に従って盛衰する。この世でさえかくの如し、まして人間界の諸々の出来事はこの法則を免れる事は出来ない。(易経)世之欲悪無窮、人之精力有限。以有限与無窮闘、則物之勝人、不啻千萬、奈之何不病且死也。世の欲悪は窮まり無く、人の精力は
17.まとめ4超常的な龐統[ホウ統]の姿を削除する龐統[ホウ統]は『三国志平話』で、史実にはない超常的な姿を何度か見せますが、『三国志演義』には採用されることはありませんでした。今回は、これらの場面を確認します。(場面についているカッコ内の数字は、ここまでの拙稿における項番になっています)・周瑜が死亡した際、呪術で将星を天に留める。(3.周瑜の死)・劉備との面会に向かう時、帝星が荊州を照らしているのを見て、自分の主に出会えたことを知る。(5.劉備への仕官)・諸葛亮は占星をして「大
前回、涪城[フ城](※1)における劉備と龐統[ホウ統]のやりとりから、龐統[ホウ統]の人間性について考えましたが、今回は違った角度で見てみます。(場面についているカッコ内の数字は、ここまでの拙稿における項番になっています)16.まとめ3劉備の人徳を補強する益州攻略を開始し、涪城[フ城](※1)で勝利の宴会を行った際、喜んだ劉備に対して、龐統[ホウ統]は他人の国を奪って喜ぶのは仁者のいくさではないと言う。劉備が怒ると龐統[ホウ統]は恐れる様子もなく出ていくが、劉備は後悔して龐統[ホ
聖人徴於天地之動。孰知其紀。循陰陽之道、而従其候。当天地盈縮、因以為常。物有死生、因天地之形。聖人は天地の動きに徴(ちょう)す。孰(たれ)かその紀を知らん。陰陽の道に循(したが)って、その候に従う。天地の盈縮(えいしゅく)に当たって、因って以って常と為す。物に死生有り、天地の形に因る。達観した者は自然の法則を悟る。しかし、それを知る者は少ない。陰陽の循環に従って時節に則る。自然の法則から盛衰を洞察して、法則に常に則る。万物に死生があるのは、自然の法則と密接に繋がって
前回は、龐統[ホウ統]の描かれ方の傾向から、智謀が強調され、早い死が惜しまれるように描かれていることを確認しましたが、今回はどのような人間性が見られるかを確認します。15.まとめ2龐統[ホウ統]に垣間見える人間性『三国志演義』には、『正史三国志』から採用された龐統[ホウ統]の人間性を感じる、以下の逸話が見られます。(場面についているカッコ内の数字は、ここまでの拙稿における項番になっています)益州攻略を開始し、涪城[フ城](※1)で勝利の宴会を行った際、喜んだ劉備に対して、龐
【不遇は遇の前兆】6262守屋洋(ひろし)氏の心に響く言葉より…《遇と不遇とは時なり》(不遇は遇の「前兆」と思え)荀子のこの言葉は、次のような孔子のエピソードから出ている。孔子が弟子を引きつれて諸国を遊説していたときのことだ。ある国で政争に巻きこまれ、食事にもありつけないまま、何日も立往生をしてしまった。弟子のひとり子路が、この状態に耐えかねて、「君子でも、こんなみじめな思いをすることがあるのですか」と孔子に愚痴をもらしたところ、孔子は「
以迂為直、以患為利。(孫子)以苦為楽、以貧為富。(水銀真人)迂を以って直と為し、患を以って利と為す。苦を以って楽と為し、貧を以って富と為す。一見遠回りな事をするのが一番の近道なのだ。病気や不幸を利益に変えてしまうのが幸せのコツなのだ。苦労や困難を楽しみに変えてしまうのが平穏のコツなのだ。足るを知って一見貧しく生きる事が豊かになるコツなのだ。※注釈※原典では戦場に赴くにあたって、有利な地形を確保し陣取る為に、敢えて迂回し遠回りな行軍をする事によって、敵方の油断を誘
ここまで龐統[ホウ統]の描かれ方を場面ごとに見てきましたが、全体を通すといくつか傾向が見えてきます。それらを順にまとめていきます。14.まとめ1智謀と早い死を印象付ける龐統[ホウ統]に関する記述が、『正史三国志』から『三国志平話』、『三国志演義』と進むにつれ創作が進む場面があります。これらは『三国志演義』で表現したかった龐統[ホウ統]像が出やすい部分ではないかと思います。そこで『三国志演義』における龐統[ホウ統]に関する創作部分と、1箇所だけ『正史三国志』と大きく差はない部分