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呂不韋は、「仲父」と呼ばれる程の権威を得ると、多くの食客を養い、紀元前239年には、『呂氏春秋』の編纂を完了した。『呂氏春秋』は、十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。その思想は、儒家・道家を中心としているが、名家・法家・墨家・農家・陰陽家等、諸学派の説が、幅広く採用され、雑家の代表的書物とされる。天文暦学、音楽理論、農学理論等の自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史において、重要な書物とされる。また、「刻舟求剣」等の寓話や説話も収録されている。書名の由来は、1
紀元前247年、荘襄王が、死去すると、荘襄王と趙姫の息子で、十三歳の政が、秦の王位を継承した。曽祖父の昭襄王の死は、紀元前251年であるため、秦王政は、曽孫であるが、わずか、四年後に秦の王位を継承したのである。即ち、祖父の孝文王及び、父の荘襄王を間に挟んでいるが、秦は、事実上、二代続けて、名君を得たと言える。前述の通り、秦の父の異人は、人質として、趙へ送られていた。商人の呂不韋は、「異人」を「奇貨居くべし」と考えて、安国君の後継者にすることに成功する。その後、異人、即ち、子
兵士の一人、李同が、平原君に「貴方にとって、趙の窮状は、他人事ですか」と聞いた。平原君は「そんなことは無い。趙が滅びれば、私も滅ぶ」と言ったが、李同は、「今、民は、衣類及び、食料が無く、飢えに苦しみ、兵は、武器が尽きている。しかし、貴方や婦人達は、麗美な服を着て、豪華な食事を満腹になる程食べています。だから、他人事と言ったのです。何卒、婦人達に仕事をさせ、物資を放出してください。そうすれば、民は、貴方に感動し、士気は、上がるでしょう」と進言した。平原君は、李同の進言に答え、屋敷
斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君を「戦国の四君」と呼ぶ。前述の通り、孟嘗君は、斉の公族の田文、平原君は、趙の公子の趙勝、信陵君は、魏の王子の魏無忌及び、楚の春申君は、黄歇であるため、春申君のみが、王公族の子孫ではない。孟嘗君、信陵君、春申君については、既に述べたため、時代を遡り、平原君について、詳述する。平原君が、片足を引き摺っていた、食客を笑った、側室を殺害したこと、徴税官の趙奢を恵文王に推薦し、魏の宰相、魏斉を匿うことを躊躇ったことについては、既に述べている。
当初、信陵君は、5城を受け取ろうとしたが、食客に諭され、以後、固辞した。信陵君は、趙に滞在中、博徒の間に隠れていた、毛公と味噌屋に身を隠していた、薛公に対し、会って、話がしたいと使者を出したが、断られた。そして、信陵君は、自身、徒歩で、毛公と薛公の許へ趣くと、両者と語り合って大いに満足した。しかし、平原君は、その話を聞くと、「信陵君は、名声高いと聞くが、そのような者達と交わるのか」と馬鹿にした。信陵君の姉で、平原君の妻が、信陵君を訪れると、信陵君は、出立の準備をしていた。信
宴席の客達は、侯嬴の言葉の意味が、全く訳が解らなかったため、信陵君をどうでもいい用事で待たせる、失礼な爺だと、侯嬴を蔑す、一方で、嫌な顔をせず、待っていた、信陵君の器量を賞賛する。それは、噂となり、国中のみならず、他国に伝わり、信陵君の名声が、大いに高まるであろうと答えた。客達は、納得し、宴席は、大いに盛り上がった。紀元前258年、長平の戦いにて、秦軍が、趙軍を大破すると、趙の首都の邯鄲を包囲した。安釐王は、趙の救援要請に対して、晋鄙を将軍に任じ、援軍を出したが、そこで、秦から
紀元前250年、孝文王の死後に、太子の子楚が、荘襄王として即位した。遂に、呂不韋の「奇貨居くべし」が、実を結ぶと、呂不韋は、秦の丞相となった。荘襄王の義母に当たる、華陽后が、華陽太后、実母である、夏姫を夏太后とした。そして、趙に人質に残されていた、荘襄王と趙姫の息子、政が、太子となったのである。政が、太子となると聞くと、趙の孝成王は驚いて、趙姫と政の母子を秦へと送り返した。荘襄王は、昭襄王・孝文王の政権を引き継ぎ、それまでの功臣を従来通りに登用し、魏・韓・趙に対する攻略を再
しかし、范雎は、重病と称したため、昭襄王は、やむを得ず、范雎を宰相から、免じた。紀元前251年、昭襄王は、七十五歳で、死去した。昭襄王の在位期間は、五十六年間に及び、秦国の君主としては、最長の在位期間である。昭襄王は、十九歳で、即位し、七十五歳で、死去するまで、秦の君主として、君臨し、秦国を飛躍的に発展させた。昭襄王の時代、秦は、兄の武王の遺臣、樗里疾・甘茂・向寿、また、魏冄と羋戎、孟嘗君、范雎等、様々な名臣、宰相を登用して、国力を増強した。更に、白起を将軍に起用したため、
原泰久氏の漫画、『キングダム』では、昭襄王の時代、白起を含め、秦の「六大将軍」が、存在したとする。「六大将軍」は、白起、楊摎、王齕、胡昜、司馬錯、王騎の六人である。「六大将軍」は、全て、実在の人物であるが、実際には、白起が、抜きん出ており、実際は、「六大将軍」とは、呼ばれておらず、原泰久の創作である。白起については、既に述べた。楊摎は、前述の通り、韓を討ち、西周を降伏させている。『キングダム』では、「摎」と呼ばれ、昭襄王の娘であり、王騎の恋人とされるが、無論、原泰久氏の創作
ゴールデン・スパイ2013年12月7日(土)公開「インファナル・アフェア」シリーズのアンディ・ラウ主演によるスパイ・アクション。中国の歴史的秘宝として知られる水墨画“富春山居図”を巡る香港警察特殊工作員と国際犯罪組織の攻防を描く。あらすじ中国の歴史的秘宝として知られる水墨画“富春山居図”が博物館から盗まれた。その水墨画を狙っていたのは英国の犯罪組織と日本のヤクザであることを突き止めた香港警察特殊工作員。そんな中、突然彼の前に謎の美女が現れる。中国・台湾・東京、そしてドバイと世界を股に
紀元前257年、昭襄王は、趙の邯鄲に援軍を送ったが、勝てないため、王陵を更迭して、王齕に代わらせた。しかし、邯鄲は、陥落せず、趙の援軍として現れた、魏の信陵君及び、楚の春申君によって、大敗北を喫した。白起は、「昭襄王は、私の言うことを聴かなかった。今にしてどう思うか」と昭襄王及び、范雎を非難した。昭襄王は、それを聞くと激怒し、白起を罷免して、士卒に落とし、陰密の地へと移した。紀元前256年、昭襄王は、范雎及び、群臣と論議し、「白起が、陰密へ移る時、不平不満を抱いており、承服せず
趙軍は、秦軍に完全に包囲された、長平城において、46日間も兵糧が届かずに、飢えた、兵士達は、互いに殺し合って、その肉を食らい、飢えを凌ぐ、有様であった。趙括は、焦り、僅かに残った、健常な手勢を率い、秦軍へ突撃を敢行したが、全身に矢を射られ、戦死する。趙括の死によって、残る趙兵、20万は、降伏した。秦軍は、大勝利したが、国内の総力を費やしたため、膨大な捕虜を養うだけの兵糧がなく、秦に連行するだけの余裕がなかった。白起は、そのまま、戦果を拡大し、趙の都を衝いて、趙を亡ぼすことを狙っ
孝成王は、韓の上党の割譲に対し、悩んだ末、平原君の案を採用して、上党に兵を送ると、上党を接収した。秦の昭襄王は、激怒し、紀元前260年、王齕を将軍とした、遠征軍を趙に差し向けると、上党を占領した。上党の人々は、趙の長平に逃げ込み、秦の王齕の軍勢は、上党の人々を追って、そのまま、趙の国内に攻め入ったのである。孝成王は、廉頗を総大将に任命し、長平城の塁壁を補強し、物資を運び込み、防衛体制を整えさせた。秦軍は、趙の長平に到着すると、趙軍の間で、三度、小競り合いが発生したが、趙軍は、三
范雎は、「黄歇は、人臣として、一身を投げ出して主君に殉じました。仮に、太子完が、楚の王位に即けば、必ず、黄歇を重用します。今は、黄歇を罰しないで、帰国させて、楚と親しむのがよろしいかと思います」と言った。そのため、昭襄王は、黄歇の帰国を許した。太子完は、三か月後、即位して、楚の孝烈王となったのである。黄歇は、太子完の代わりに、その弟である、公子顛を秦に人質に差し出した。公子顛は、その後、秦に留まり、昌文君を号し、秦王政の時代に、秦の左丞相になった。秦王政こそ、後の始
早いものでカレンダー2枚目📆如月(きさらぎ)という呼び名が粋ですね立春というエネルギーをカードに委ねました本日1枚目万能の力☆魔法の力正位置創造心野心自信自由自立逆位置目標の未到達計画の挫折龍が手にしている宝珠に奇跡の力が有る☆自然を操り財宝を手にする☆病気平癒の願いを叶えるそう信じて『欲』『争い』を繰り返す宝珠は人の魂そのもので自分の根源なのに外側に目が向いてしまうんですね2枚目獣自然正位置長期的な視野大局をつかむ逆位置目の前の小事灯台も
魏冄は、宰相として、内政のみならず、自身、将軍として戦地に赴き、軍事に優れていた。しかし、魏冄自身の封地、華陽君羋戎、高陵君・涇陽君等を富ませるための戦役が多かった。最大の評価は、白起の登用・重用である。魏冄の内政及び、軍事は、公私混同をしていたが、他国の力を大きく削り、秦の国力を大きく、肥大させた。魏冄の追放後、范雎が、秦の宰相の座に就いた。范雎は、秦から、偽名の張禄を号として、応に領地を与えられ、応侯と名乗った。その頃、魏は、秦が、韓・魏を討とうとしているとの情報を
評価:90点/作者:宮城谷昌光/ジャンル:歴史小説/出版:2015年『劉邦』は、2015年に出版された、宮城谷昌光氏の中国史小説である。本書の主人公、劉邦は、中国史上有名な、漢王朝の建国者である。劉邦を主人公とした、作品としては、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』があるため、既に、日本人には、馴染み深いと思われる。本書の特徴は、主人公の「劉邦」にのみ、焦点を当て、項羽、陳勝、始皇帝等の人物は、解説のみである。また、有名な、張良、蕭何、韓信の高祖三傑を始め、曹参、盧綰、樊噲夏侯嬰
昭襄王は、それを聞き、范雎を迎え入れて、まず、詫びると、「私は、早くから、先生の教えを乞おうと思っていた。謹んで、主客対等の礼をもって、お話を賜りたい」と言った。しかし、范雎は、辞退し、群臣が去った後に親しく、会話した。昭襄王は、范雎を客卿とし、兵事を相談した。以降、昭襄王は、范雎を日々、親しみ、その進言を採用した。范雎は、「穣侯は、今、韓、魏と結んで、斉を討とうとしているが、斉の領土を奪っても、保持することができないため、間違っています。それより、遠くの趙・楚・斉と交
楚の春申君は、昭襄王の楚の討伐に対し、上書した。春申君は、現在の天下においては、秦と楚より、強い国はない。昭襄王は、楚を討とうとしているが、秦と楚の戦いは、二匹の虎が、互いに戦うようなもので、共に傷ついてしまい、良策とは言えない。また、昭襄王は、天下の地を領有し、威力は、極まったと言える。昭襄王は、この威力を保守し、仁義の道を厚くすれば、太古の三皇及び、春秋五覇と肩を並べられる。逆に楚と和親するべきと言った。昭襄王は、それに従い、出兵を取りやめて、楚と和親した。その後、
こんばんはみなさま、お疲れ様です昨日、今日と体力的に省エネで過ごそうと自宅でNetflixとprimeビデオを鑑賞といっても2作品だけです(笑)まずはキングダム〜運命の炎〜primevideoでは無料配信はまだなのでレンタルをしました便利すぎますネットでポチッとレンタルが出来て停止もできて、自分のペースで観れる映画館は音響も素晴らしく大きなスクリーンで観れて迫力や臨場感、壮大さを体感できますがなかなか映画館までは行けずじまいキングダム1と2の時は映画館で
楚軍は、秦軍の猛攻に反撃できず、撤退した。秦軍は、長距離を直行し、迅速に漢水流域の要地鄧城を攻め取った。白起は、秦軍を率い、楚の別都である、鄢城へ向かった。鄢城は、楚の国都の郢の間近であり、楚は、重兵を集結させて、秦軍の南下を阻止した。秦の軍勢が、楚の防壁を抜くことは、困難を極めたのである。白起は、蛮河の有利な条件を利用した。鄢城の西に百里の位置に堤を築き、水を蓄え、長い河を造り、鄢城まで通した。そして、河を壊して、鄢城に水を流した。鄢城の北東角が潰破し、城中の
「藺相如殿、この愚か者は、貴方の大きな心を知らずに無礼をしてしまった。この鞭で、気の済むまで、この身を打って下さい。しかし、貴方に対し、今まで与えた屈辱を考えれば、それでも足りません」と贖罪を請うた。その廉頗に対して、藺相如は、「何を仰せられます、廉頗将軍が、居てこその趙国です」と快く許した。廉頗は、更に心打たれ、「貴方にならば、この首を刎ねられても悔いはござらぬ」と誓い、藺相如は、「私も将軍のためであるならば、喜んでこの首を差し出しましょう」と誓った。二人は、互いのために
藺相如は、終始、上述の様にして、機転を利かせ、常にやり返したので、最後まで、秦は、趙を格下扱いに出来なかった。藺相如は、趙へ戻る際も、警戒を怠らなかったので、秦は、手出しできず、恵文王達は、無事帰国できた。藺相如は、秦に外交の対等の儀礼を守らせ、趙王の身を守り、更に趙の面子を守ることに成功したのである。当時の趙国には、白起、王翦、李牧と並ぶ、戦国四大名将の一人、廉頗がいた。廉頗は、紀元前283年、将軍に任命されると、斉に侵攻し、昔陽を奪った。更に翌年の紀元前282年、斉を討
藺相如は、胆力と知恵だけを武器にして、強国の秦に対し、一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子を保った、まさしく、「完璧」な対処と言える。なお、中国語では、「完璧帰趙」と言われる。「完璧」は、英語では、「Perfect」と翻訳されているが、日本における、「完璧」の言葉は、藺相如の活躍を由来としているのである。翌年の紀元前279年、昭襄王は、趙の恵文王に黽池にて、両国の友好を祝おうと招いた。しかし、黽池は、秦の国境の内部にあり、更に、趙との国境からは、遠く離れているため、万一の場合、
繆賢は、藺相如の言が、正しいと考えため、自身の去就に狼狽した。藺相如は、更に繆賢に対して、自ら、処刑台に乗って、進んで、恵文王に罰を請えば、許されるかもしれないと勧めた。繆賢は、藺相如の言葉に従い、その通りに許されて、恵文王の信頼を取り戻した。恵文王は、繆賢の話に納得したため、藺相如を呼び、この国難への対応方法を質問した。藺相如は、秦は強く、趙は弱いため、和氏の壁を渡す、要求を受けざるを得ない。超は、要求を受ける形にして、何かあった際には、非は、秦にあるようにすべきであると
紀元前285年、昭襄王は、蒙武を登用し、斉に侵攻した。また、蜀侯の綰に謀反に疑惑が、持ち上がったため、綰を誅殺した。以降、蜀には、侯を置かず、蜀郡郡守を置くのみとした。紀元前284年、昭襄王は、都尉の斯離に命じて、韓・魏・趙及び、燕と同盟を締結すると、斉を討ち、済水の西で斉を破った。済西の戦いである。前述の通り、燕・韓・魏・趙・秦の五カ国連合軍を率いたのが、燕の名将、楽毅である。済西の戦いの際に、昭襄王は、魏王と宜陽で、韓王と新城にて、会見した。紀元前283年、昭襄
白起は、伊闕の戦勝の功によって、国尉となった。同年,白起は、韓・魏の伊闕の戦いの惨敗を利用し、兵を率いて、黄河を渡ると、安邑の東側の乾河等の広大な領土を占領した。秦が、魏と韓を伊闕に勝利したことを聞くと、東周は、秦に攻められることを恐れたため、使者を派遣して、和議を講じるようになった。昭襄王は、白起を国尉に昇格させ、更に翌年に白起を大良造に昇格させた。そして、白起に再度、魏を討たせた。白起は、垣の地を取り、大小61の城を落とし、魏の国力を大きく、傾かせることに成功した。
その後、前述の通り、孟嘗君は、讒言によって、昭襄王に謀殺されそうになったために、紀元前297年、食客の力を借りて、斉に逃亡した。その時の逸話が、「鶏鳴狗盗」である。翌年、斉の宰相となった、孟嘗君は、斉・韓・魏を主力とし、趙・宋の軍と合わせて、秦に攻め込んで来た。秦は、函谷関において、敗北したのである。昭襄王は、敗戦後の処理を、孟嘗君に代わり、宰相となっていた、楼緩に対し、「河東の地を割いて、斉・韓・魏の三国と講和したいと思うが、どうであろうか」と尋ねた。楼緩は、「国の大事を
今日発売早速買ってきたぞ~まだざっとしか読めてないけど今見てるドラマもう見たドラマこれから放送のドラマなどなどてんこ盛りゆっくり読もうっと『『中国時代劇で学ぶ中国の歴史2024年版』』明日本日表紙全解禁🎊「必見最新ドラマ」はGUCCIの広告も話題の#シャオ・ジャン主演『玉骨遥(ぎょっこつよう)』『サンシャイン、私のそばに』#SEVENT…ameblo.jp
実は私、自宅にTVを置いておりません。なので流行り物にはトンと疎く、今のドラマやCMが分からない情報は毎朝必ず聴くNHKラジオで大体の時事ネタはわかるし、LINEニュースでおおよそは理解している。(つもり)みなさまこんばんは三重県津市でエステティックサロンLotusLandを経営している香月ですドラマを全く見ない私が今どハマりしているのが、YouTubeで見つけた『三国志』2010年の制作で、総製作費25億。中国史上最大の大河ドラマらしいのですがめちゃくちゃ面白い