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秦の始皇帝は、泰山にて、封禅の儀を行った後、山東半島を巡った。始皇帝は、神仙思想に染まりつつあり、そこに取り入ったのが、方士と呼ばれる者達あった。方士は、不老不死の秘術を会得した、人物を指すが、その実態は、「怪迂阿諛苟合之徒」と、怪しげな調子の良い話によって、権力者に媚び諂う者達であったとされる。その代表格が、始皇帝が、瑯琊で石碑を建立した後に謁見した、徐福である。斉の出身の徐福は、東の海には、伝説の蓬萊山等、仙人が住む、三神山があり、それを探って、1000歳と言われる仙人の
始皇帝は、中華統一後に国内にある、斉・韓・魏等の長城を取り壊した。始皇帝の時代の長城は、版築により、粘土質の土を固めて築いた、建造物であった。高さは、馬、または、人が、乗り越えられなければ良いとの程度であったため、現在の「万里の長城」と異なり、壮大な建築物ではないが、長大であったことに変わりはない。中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」がある。紀元前前214年、始皇帝は、軍事輸送のため、大運河の建設に着手し、中国の南北を接続した。長江に流れ込む、湘江と、珠江の注ぐ
木材及び、石材は、遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで、掘削した陵の周囲は、銅で固められた。その中に宮殿及び、楼観が造られた。更に水銀の流れる川が、100本造られ、「天体」を再現した装飾をし、侵入者を撃つ石弓が据えられた。珍品及び、豪華な品々が、集められ、俑で作られた、官臣が備えられた。驪山の陵墓は、驪山陵、または、後世、始皇帝陵と呼ばれる。驪山陵は、始皇帝の死後に、生前と同様の生活を送ることを目的とした、荘厳な建築物であり、現世の宮殿の阿房宮の間の80里は、閣道で結ばれた。
始皇帝は、儒者に激怒して、咸陽中の学者を尋問し、盧生の様に人を惑わすような人間を挙げるように命令した。そして、咸陽の460人の学者を見せしめに穴埋めにした。始皇帝の長男の扶蘇は、坑儒を諌めたが、始皇帝の怒りを買って、北方の防衛の任務に就かされた。しかし、儒者が、全て、殺されたのではなかった。儒者の中には、易占いの専門家として、始皇帝に仕えていたと思われる者がいる。更に、始皇帝の死の直後に、二代代皇帝の胡亥が、一人の儒者に意見を求めている。そして、前漢の武帝の時代に飛躍的
商鞅は、咸陽を中心に秦に41県を配置した。郡は、秦においては、他国を併合した際にその領域を称することが多く、県を置くのは、その後であった。そのため、秦の郡県制は、当初は、郡・県が、上下の統属関係として、設けられたわけではない。中華全土の郡・県の上下関係を整備したのが、始皇帝なのである。始皇帝は、全国を36郡(後に48郡)に分けると、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。郡の行政長官は、郡守と呼ばれ、警察担当として、郡尉及び、監察担当として、郡監を置いた。県の長官は
大河ドラマ「光る君へ」16回「華の影」の感想の続きです。中関白家(道隆の家)の栄華が極まるこのころ、都に疫病がはやることとなる。安倍晴明はそのことを察知した。一条天皇も都の疫病のことを気にかけるが、関白・道隆は疫病への対策を考えない。天皇は中国の歴史を例に取り上げ、心配するが、道隆に任せるようである。道隆の息子・伊周は道隆の弟・道兼と疫病について語る。(道兼さん、なぜか、凛々しくいいお顔になっていますね。)
他の一つは、殷の遺民を封じた、宋の様に、旧来の族集団を基本的に維持したままにして、諸侯に封じて、建国させる類型である。周王権は、その支配領域を再編し、政治的影響力を四方に拡大していった。しかし、西周時代の封建制の特質は、武装植民地型の封建制である。その結果、「中華世界」は、拡大の一途を辿ったと言える。紀元前771年、西周王朝が滅亡し、東周、即ち、春秋時代に入ると、周王に対する、諸侯の自立性が高まった。周王の権威が衰退して、封建制が動揺し始めた。春秋時代に入ると、各国間の戦争
中華世界では、龍山文化期から、殷代にかけての社会統合の制度は、「貢献」と呼ばれる、貢納制であったとされる。殷末から、西周期にかけて、貢納制は、更に進化し、複雑化して、封建制に展開した。貢納制は、首長・王権等の政治的中心に向かって、従属・影響下にある、各地域聚落・族集団から、礼器・武器・財貨・穀物・人物等を貢納する。更に、首長及び、王権が、主宰する祭祀・儀礼を助成すること等によって、緩やかな従属を表明する行為である。それに対し、首長及び、王権は、祭祀、儀礼の執行時に政治的中心に蓄
「従士団」とは、主君に統率された、一団の自由人男子に形成された、戦士共同体である。古代ゲルマン人における、支配・服従の関係は、被支配者の自由人男子の隷属化ではなく、誠実関係であるとされる。被支配者は、自由的身分を維持していたのみならず、「従士団」に参加することは、名誉なこととされている。職業軍人的エリートの仲間組織であったと考えられている。古ゲルマンでは、「従士団」に所属する以外の自由男子にも、兵役義務があったが、従士団は、それら半農の兵士とは、区別されて、主君の周囲に特殊なエ
中国ドラマ「始皇帝天下統一」を見始めた。これまで「三国志」「孔子」「孫子」「隋建国」的な話を観てきたがどれも面白かった。学校の勉強から何もやっていないものだから自分の無知さが悲しくなるほどにドラマが面白い。当然、史実とはずいぶん違った脚色も加わっていると思うがそれでも中国の歴史の面白さは底知れないものがある。始皇帝の話と言うとアニメの「キングダム」も見ている。「キングダム」と被っているキャラクター
【前言】中国の歴史書『宋史』のなかで、北宋の武将・楊延昭(ようえんしょう)は北辺の国境を守り、20年以上にわたり北方の異民族王朝である遼(916~1125年)に対して徹底抗戦を続けた英雄でした。その智勇と奮戦ぶりは、敵である遼軍にも知られており、同じく有能な武人であった父・楊業の六男であったことから楊六郎とも呼ばれていました。楊延昭とその一族が祖国を守って奮戦する忠義は、やがて物語になり、とくに元代以降は各種の版本によって戯曲や小説となりました。それらの物語は、人々に広く伝わり、愛され
「封建制」においては、諸侯達は、領有統治権の代わりに君主に対し、貢納、軍事奉仕等の臣従が、義務づけられ、領有統治権及び、臣従義務は、一般に世襲される。「封建制」は、日本では、平安時代中期~江戸時代末までの武家の時代である。「武家」は、平安時代中期以降には、荘園、即ち、土地を領有し、「一所懸命」と呼ばれるほど、土地に執着した。平安時代には、武家の土地所有は、京の公家達に寄進することにより、認められていたが、その立場は、不安定であった。源頼朝は、「武家の棟梁」として、鎌倉に武家政権
「中華」または、「華夏」の用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間では、「中国」と同様の自称として用いられた。「中心の国に住む優れた文化の担い手」との意味の「中華」には、地理的な意味に加えて、「漢民族のアイデンティティ」及び、「華夏文化の優越性」との要素が、共存していたのである。中華思想においては、天の意志を代行する、「皇帝」が、その徳によって、統治を行うが、徳を失えば、新たな家系に替わる。即ち、前述した、「易姓革命」の概念であり、中国では、「禅譲」及び、「放伐」による、
筆者は、「中華世界」との言葉を使用し続けたが、一般に用いられる、「中国」とは、本来、特定の国家や及び、民族を指す言葉ではない。西周時代には、中原、または、洛陽の周辺を指していた。中華世界、初期の王朝、「夏」「殷」「周」の三代には、中原及び、洛陽周辺は、「夏華」と呼ばれ、「夏華人」と自称していた。黄河流域で、黄河文明を営んでいた、漢民族の前身となる、都市を持つ、部族国家の連邦の民の国際社会では、「中国」との語は、王及び、覇者を中心とした、秩序に基づいていた。その後、「中華思想に基
中国の歴史を見ても、殆どが200年~300年で、一つの王国が終わっていますけど、600年も続く王国作り上げたのですね。*●日本ラエリアン・ムーブメント**https://www.ufolove.jp**●無限堂出版**http://www.mugendo.co.jp/index.html*
秦王政によって、中華世界は、初めて強大な一人の権力者の支配に入った。夏・殷・周の三代王朝は、中華世界の唯一の支配者であったが、周の建国当初の中華世界は、黄河周辺に過ぎなかった。しかし、西周及び、春秋戦国時代の間に、各国が、競って、東西南北に領土の拡大の一途を辿ったため、中華世界は、周建国当初と比較できないほど巨大になった。秦王政は、六国を帆乏し、中華世界を統一すると、重臣の王綰・馮劫・李斯等に「称号」を刷新する、審議を命じた。夏・殷・周・春秋戦国時代に用いられていた、称号の「王
そのため、楚の旧都の郢陳の民が動揺し、楚の公子である、昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた。そして、前述の通り、紀元前225年、李信と蒙恬率いる、20万の秦軍が、楚の国都の郢へ向け侵攻し、秦軍が、寿春に迫った時、昌平君の郢陳にて、叛乱が起き、李信の軍が、討伐に向かったが、秦軍は、壊滅的打撃を受けたのである。楚の将軍、項燕は、中国史上有名な、西楚の「覇王」、項羽の祖父である。秦王政による、秦の統一戦争の際に、秦軍に勝利を治めたのは、趙の李牧及び、楚の項燕の二人しかい
紀元前226年の秦による、燕への総攻撃は、秦の将軍、王翦、王賁、李信が、指揮した。燕王喜は、趙の亡命政権である、代国の代王嘉と同盟を結び、秦軍と戦ったが、国都の薊の陥落後、燕王喜と太子丹は、遼東へと逃れた。その際、李信は、数千の兵の進軍を指揮し、燕軍を追撃すると、衍水において、燕軍に勝利している。燕王喜は、代王嘉の勧めに従い、衍水の太子丹に使者を送って、殺害し、その首を秦王政に差し出した。その結果、前述の通り、秦と燕の和睦が成立した。なお、『キングダム』の主人公は、李信と秦王政
秦舞陽は、13歳で人を殺しており、壮士として、有名であったが、荊軻は、秦舞陽のことを頼りにならないと見抜き、遠くに住む、旧友を同行者に加えようと待機していた。しかし、しかし、太子丹が、荊軻の出発を度々、急かし、怖気づいたのではないかと疑い始めたため、荊軻は、仕方なく、秦舞陽を連れて、出発することに決めた。荊軻の出発の日が訪れると、太子丹を筆頭に事情を知る見送りの者は全て、喪服とされる、白装束を纏い、易水の畔まで、荊軻達に付き従った。彼等は、全員、涙を流し、荊軻の親友の高漸離は筑を奏
前述の通り、秦が、趙を滅ぼすと、燕は、秦の隣国になったため、秦は、燕に攻め寄せ、燕は、武力では、対抗できなかった。太子丹は、軍事力ではなく、非常手段である、秦王政の暗殺を決め、計画を練り、荊軻という、刺客に白羽の矢を立てた。荊軻は、衛の出身で、読書と剣術を好み、修行し、若くして、諸国を放浪して、遊説術を学んでいた。荊軻は、諸国の旅から、衛に帰国した後に官僚を志して、衛の元君に謁見し、旅で学んだ、遊説術に基づいた、国家議論を大いに述べたが、元君は全く聞き容れなかった。その結果、荊
季節の動きは相変わらず急ではありますがやっと春らしくなってお天気の良い日はお弁当持ってお出かけもしくは家中の窓を開けて、掃除に洗濯大会と行きたいところなのに今度は黄砂て窓もなるべく開けないで出掛ける時はマスクをして洗濯物も外には干さないでてどんなけ規制かかるんほんま黄砂ってどやさ昔、そんなに黄砂の事言ってたっけ?と思ってちょっとだけGoogle先生に尋ねてみたところ難しい事はさておきいつからこ
趙の国都、邯鄲の陥落後、幽繆王は、顔聚と共に東陽へ逃げたが、王翦・羌瘣にその地を平定され、捕らえられた。その後、幽繆王は、房陵に流され、趙は、遂に滅亡したのである。しかし、幽繆王の兄の公子嘉は、代に逃れ、自立して、王を名乗り、趙の亡命政権である、代国を建てた。公子嘉は、代王嘉を称し、趙の王統を延命させた。なお、趙を滅ぼした、秦の将軍の一人、羌瘣は、『キングダム』では、女性とされている。伝説の刺客一族「蚩尤」の後継候補で、仇を追っていた。登場当初、主人公の李信と共に、最下
紀元前231年、韓王安は、秦に南陽の地を割譲した。紀元前230年、秦王政は、内史騰を大将とし、10万の軍勢により、韓を攻めた。韓王安は、捕虜となり、韓は、遂に滅亡した。韓の国土は、秦の潁川郡となった。戦国の七雄の一つ、韓は、最弱国であったが、趙・魏との晋の分割から、226年間続き、韓虎以後、十三代目の韓王安にして、滅びたのである。秦の将軍、内史騰は、内史は、官名であるが、姓氏は不明であり、内史騰と呼ばれている。韓が、南陽を秦に割譲すると、内史騰は、南陽の仮郡守となり、その翌
秦王政は、新政の開始時、李斯や及び、尉繚等の協力の許、「諸侯を滅ぼして、帝となり、天下を統一する」との策略を立てた。具体的な措施として、遠国の燕及び、斉は、籠絡し、魏と楚とは、穏住し、韓と趙を滅ぼすことであった。「遠交近攻」である。紀元前236年、秦王政は、中華の統一に本腰を入れ始めた。前述の通り、同年、趙の将軍、龐煖が、燕に侵攻し、秦は、国内が、手薄になっている、隙を狙って、趙へ侵攻した。秦の総大将は、王翦、副将は、桓齮、末将は、楊端和である。秦軍は、鄴の周辺の9城を
『韓非子』の作者、韓非の出自は、韓の公子であり、後に秦の宰相となった、李斯と共に荀子に学んだとされるが、別説がある。韓非は、生まれつき、重度の吃音であり、幼少時代、王安及び、横陽君成を含む異母兄弟から、「吃非」と呼ばれて見下され続けていた。しかし、非常に文才に長け、書を認める事で、自分の考えを説明するようになった。韓非は、荀子の許を去った後、故郷の韓に帰り、韓王に度々、建言するが、容れられずに鬱々として、過ごさねばならなかった。韓非の建言は、韓が、弱小国であったためである。
紀元前238年、公子顛は、人質であったが、秦王政に仕え、前述の通り、嫪毐が背くと、甥の昌平君と共に叛乱を鎮圧した。その功績によって、秦王政から、昌文君に封じられると、秦の左丞相となった。甥の公子啓は、紀元前271年、前年に春申君と共に秦に人質として、秦に入っていた、楚の太子完と昭襄王の娘の間に生まれた。紀元前263年、春申君が、太子完を楚に逃がすと、公子啓は、楚の孝女である、華陽夫人に養育された。荘襄王元年、即ち、紀元前249年、公子啓は、秦の朝廷に出仕する。そして、紀元前
私は、血脈を鋭い鍼で刺し、劇薬を投じ、皮膚を裂きました。そのため、しばらくして、諸侯に名声が聞こえ出たのでございます』。文侯は、『そうか。病が大きく、露見してから、対処するとの扁鵲のやり方によって、斉の桓公が、側近の管仲に医術を行わせていたならば、桓公は覇者となることができただろうか』。凡そ、この様に、本当の名医は、病がないところに病を見てとり、名の無いうちに治し、形の無いものを使って、最上の功能を成し、根底にあるものを自然と呼びます。そのため、優れた医者は、その造化の本質に従
小国の殷、周、呉の勝利こそ、孫子の『戦わずして勝つは、善の善なる者なり』であり、また、道家思想に言う、『陰経の法・夜行の道・天武の類』です。現在、百万の屍が散乱し、流血は、千里に及び、未だ、勝利していません。軍功があっても、計略が常に及びません。そのため、聖人は、昭然として、独り思索し、欣然として、独り喜ぶのです。しかし、今の人は、一度、耳に金鼓の音が聞こえれば、武功を希み、旌旗の色を見れば、軍陣を希み、軍刀の柄を手に握りしめれば、戦を希み、出征し闘い合えば、勝利を希みます。
秦と五カ国の合従軍との函谷関の戦いの際、趙軍を率いていたのは、老将の龐煖であった。龐煖は、若い頃、楚の深い山奥で、道家の隠者、鶡冠子(かつかんし)、即ち、「ヤマドリの羽根の冠をつけた先生」の許、学問を学んだ。龐煖の師及び、王侯との対話が、道家の書、『鶡冠子』全十九篇の内、七篇に収録されている。龐煖は、道家出身ではあるが、若年の頃から、軍事に強い興味を持っていたようであり、師への質問は、天と武の関係を問うものが多い。趙人の劇辛が、龐煖は、燕の昭王に仕える以前に親しくしていた。
秦王政の親政開始頃、趙には、戦国四大名将の一人、李牧がいた。李牧は、元々は、趙の北方の代郡・雁門郡に駐屯する、国境軍の長官であった。李牧は、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して、備える任についていた。李牧は、警戒を密にし、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた。李牧は、匈奴の執拗な攻撃に対して、徹底的な防衛及び、籠城の戦法を採ることによって、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。李牧は、兵士達に対して、「匈奴が、略奪に入ったら、