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一昨日、発掘調査の現地説明会に行ってきました~愛知県春日井市JR春日井駅から南に5~6分歩いた所にある上条城跡読みは、冗談みたいですが「じょうじょうじょう」と読むそうです!山みたいに盛り上がっているのが城を囲む“土塁”です。鎌倉時代頃に造られたといういわゆる“中世城館”でこの地域の有力者(武家)の城のような防御施設を持った屋敷地です。すごく高い立派な土塁やその外を周る堀の跡が現在まで残っていました。写真の人の居るとこ
今年も残すところあと2ヶ月という段階に突入しようとしています。ということで今日が10月最後のブログとなります。月が替わって11月1日からは46Storeで新しい書籍の取り扱いが始まるので、そのお知らせなどをさせてもらいたいと思います。新たに取り扱いがスタートするのが、以下の2冊となります↓人気のシリーズである図説日本の城郭シリーズから『奈良中世城郭事典』と、おとなり三重県の九鬼氏の通史『九鬼嘉隆と九鬼水軍』です。どちらもマニア心を大いにくすぐってくれるタイトルです。
山城跡廻りを始めてもう直ぐ3年撮った写真をパソコンで編集してA4サイズのアルバムにして80枚入のファイルに記録として残していますが、其れが既に10冊を超えました。昨年の6月30日に中尾田城跡で足長蜂に刺されて以来、夏場は蜂とマムシ、マダニと山ヒルが怖くて山行きを自粛していましたが気候も良くなって来たので、そろそろ再開しようと思って下調べを始めました。今、手元にある資料は鹿児島県教育委員会の中世城館跡分布図(1987)をネットからダウンロードしてプリントアウトしたものですが地図
訪問日:2023年2月18日所在地:東京都西多摩郡檜原村浅間嶺訪問人数:登山家の先輩と私の計2名参考文献:『多摩丘陵の古城址』、『東京都の中世城館』浅間嶺は、武田軍の侵攻に備えて北条氏が構築した烽火ネットワークの中継地点。ここ浅間嶺は大菩薩峠からの烽火を受け、古城山(檜原城の出城)へ烽火を伝達する役目を担っていました。浅間嶺は山頂が標高903mであり、払沢の滝パーキングからの比高差は605mとなります。浅間嶺は中世には軍道としても機能しており、現代では多くの登山客が訪れ
訪問日:2023年2月4日所在地:東京都青梅市成木7訪問人数:城友さん4名と私の計5名参考文献:『資料青梅市の中世城館跡』歴史不詳。何某かの家臣団の屋敷跡の可能性があり、その末裔が明治初年まで住んでいたとされる。屋敷は人里離れた山間部にあるため、その何某は山で生業を営んでいた人なのか、あるいは何らかの事情により、家臣団を引き連れて隠れ住まわなければならなかった人なのかは不明である。常盤屋敷の位置。黒山の麓、標高647m地点に位置しており、現在は林道が開通しておりますが、民
訪問日:2022年12月29日所在地:新潟県長岡市寺泊高内訪問人数:城友さん1名と私の計2名参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』歴史・縄張城主は新田一族である細谷馬之助であったと伝えられています。細谷馬之助は新田義貞に従い、各地で転戦しています。細谷馬之助が城主とのことですが、縄張は南北朝の頃のものではなく戦国期のものと思われます。城跡には郭、堀切、畝状阻塁が確認できます。当日のルート星印の場所から尾根に登り、城跡まで行きました。城跡へ向かう途中に林道があった
訪問日:2022年12月29日所在地:新潟県長岡市阿弥陀瀬字上ノ山訪問人数:城友さん1名と私の計2名参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』歴史城暦は不明で在地領主の伝承もなし。地理的に与板城の支城として機能した可能性があります。縄張城は小規模であり、堀切、土塁、郭が残ります。また戊辰戦争時には城跡が台場として使用され、主郭(北側の郭)に台場と思われる地形も残ります。当日のルート星印の辺りから登りました。登山道はなく直登となりますが、急登は特になく比較的な
訪問日:2022年11月12日所在地:東京都西多摩郡奥多摩町水根訪問人数:登山家の先輩と私の計2名参考文献:『東京都の中世城館』参考サイト:シリーズ東京の謎の城①奥多摩に眠る天空の城―水根の城山東京都の最果てにある水根の城山を訪問しました。水根の城山に関する情報はあまりにも少ないため、水根の城山がそもそも本当に城跡なのか議論が必要かと思いますが、実際にこの目で見て城郭遺構と思ったので城跡という前提で記述します。水根の城山の位置はこちら。標高1490m地点のカラ沢の頭に城
訪問日:2022年9月10日所在地:神奈川県横須賀市猿島訪問人数:単騎参考サイト横須賀市観光情報ニッポン旅マガジン猿島の場所東京湾に浮かぶ、唯一の自然島。面積は横浜スタジアムのグランドの約4倍。三笠桟橋からの約10分の船旅で、気軽に訪れることができます。猿島歴史幕末の弘化4年(1847年)、内海防備を目的に、島頂部に大輪戸台場、島北部に亥ノ崎台場、島東部に卯ノ崎台場が設けられ、川越藩の松平家が防備しました。嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリーが率いる
訪問日:2022年9月3日所在地:茨城県桜川市羽鳥字りゅうがい訪問人数:城友さん2名と私の計3名参考サイト余湖くんのホームページ竜ヶ井城山の会歴史伝承では平将門の叔父にあたる平良兼の館跡と伝わる。将門記には、「弓袋山の対陣」で将門は良兼を攻め、良兼のいた羽鳥地区周辺を焼き払ったという話が残されている。_リュウガイ城が平良兼の館だったと裏付ける資料はなく、あくまで伝承のみです。実際に城址を見学したところ、戦国時代の山城だと思いました。リュウガイ城のすぐ北側には真壁城があり
訪問日:2022年6月5日所在地:千葉県香取市油田訪問人数:城友さん3名と私の計4名参考サイト:余湖くんのホームページ当城は未整備であり、城内は藪と倒木により見学が難儀です。見学の際はそれなりの装備で行くのが望ましいです。余湖さんのHPで存在を知り、ずっと気になっていた城を訪問しました。城友の皆様、当日は御同行いただきありがとうございました。油田新城は縄張図を見るとなかなかの巨大城郭に見えることから、お城マニアさんの間ではさぞや有名なお城なのだろうと思い、下準備のた
2022(令和4)年2月20日(日)御冥福をお祈りします。御指導いただき、ありがとうございました。----------------------【訃報】令和4年2月20日萩原三雄さん(帝京大学文化財研究所長、山梨県立考古博物館名誉館長、山梨県文化財保護審議会長他)今朝ご逝去されました。萩原三雄|帝京大学文化財研究所萩原三雄(はぎはらみつお)所長・教授帝京大学大学院兼任専門研究分野中世考古学最終学歴早稲田大学第一法学部(法学士)研究テーマ日本
訪問日:2021年10月23日所在地:新潟県長岡市寺泊年友訪問人数:ほむほむさん、余湖さん、私の計3名参考文献:『日本城郭大系』、『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』参考サイト:余湖くんのホームページずっと行きたかった年友城を遂に訪問することができました。当日はほむほむさんに城内を案内いただきました。歴史貞和年間(1345~1350)に幕府方の高越後守師泰の重臣長尾平太俊朝が築城し、観応年間(1350~1352)に仁木越後守義長が居城したと伝わります。後に小木ノ城城主の
訪問日:2021年8月12日所在地:新潟県新発田市竹ケ花訪問人数:単騎参考サイト:古城址狂が行く!城址の場所新発田城の南西、池ノ端城の北東方向にあります。新発田重家の乱に際して上杉景勝からの攻撃に備えて新発田城の周囲に砦が築かれましたが、位置的にみて竹ヶ花城はその砦の一つかもしれません。城址の位置を拡大。中央の茂みが城址です。湿地帯で囲まれており島のようになっています。城址には道路が貫通しています。道路北側の茂みの中に突入!茂みの奥に塹壕のような窪みがあ
訪問日:2021年8月10日所在地:新潟県新発田市浦字城山訪問人数:単騎参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』、『日本城郭大系』参考サイト:埋もれた古城歴史新発田重家の武将山田源八郎が古城を修復強化したといわれています。修復強化の時期は新発田合戦の際と思われます。浦城遠景。比高差は約80m。縄張全体的に小規模な郭群で防御するという古いタイプの城で、いかにも南北朝期の山城という感じです。山田源八郎による強化改修の際に堀切が築かれたのではないでしょうか。
訪問日:2020年10月24日所在地:新潟県柏崎市善根字飛岡訪問人数:城友さん2名と私の計3名。当日は安田越後守さんに城址を案内して頂きました。参考文献:『新潟県の合戦-長岡・柏崎編-』、『日本城郭大系』当城の城域は未整備であり道がなく藪で被われていますので、それ相応の装備で見学することが望ましいです。歴史城主は安田毛利氏から分家したとされる善根毛利氏です。ちなみに越後毛利氏は安芸毛利氏と同族で大江広元を祖としています。城址は一豪族の城にしてはかなり巨大ですが、上杉謙信が
訪問日:2021年10月9日所在地:栃木県鹿沼市下粕尾訪問人数:城友さん3名と私の計4名参考サイト:余湖くんのホームページ、栃木県の中世城郭歴史不詳*当城の見学は山の所有者様の許可が必要です。所有者様から入山許可を頂いた後に害獣柵の入口を開錠して入山する流れとなります。*当城には山蛭が生息しています。見学の際は山蛭被害に遭わぬように山蛭撃退スプレーなどを携帯することが望ましいです。土木量が半端ない山城が2017年頃に鹿沼市で発見されたという噂を以前から聞いてお
訪問日:2021年8月11日所在地:新潟県岩船郡粟島浦村字八幡山訪問人数:島民の方1名と私の計2名参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』、『図説中世の越後』、『本庄氏と色部氏』粟島の位置、歴史に関しては「越後・内浦城(粟島要害)」にて記述したので本頁では省略します。釜谷城の場所南西部の最先端に位置します。城の西側の浜辺はかつての船着場であったことから、船着場と付近を往来する船を監視するために機能した可能性があります。また、城からは佐渡方面を見渡せるため、色部
訪問日:2021年8月11日所在地:新潟県岩船郡粟島浦村字要害訪問人数:島民の方5名と私の計6名参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』、『図説中世の越後』、『本庄氏と色部氏』粟島の位置お城を紹介する前に粟島の位置を紹介します。粟島は村上市から北西に35kmの海上に位置する島です。岩船港より、フェリーまたは高速船にて移動することができます。岩船港から粟島を望む粟島の歴史粟島観光協会様の資料からの転載です。「明治期の3度の大火により粟島の歴史
訪問日:2021年5月1日所在地:山形県鶴岡市大字藤沢字荒沢訪問人数:城友さん1名と私の計2名参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『最上義光の城郭と合戦』藤沢楯は湯田川三楯の一つ。楯の歴史と場所については七日台楯の頁で記述したので、ここでは省略します。藤沢楯の縄張主郭取り囲むように破壊痕が残ります。そして主郭中央部に線状の溝を堀り郭を潰しています。大手と思われる南西方面を帯郭で、尾根を堀切で防御するシンプルなものです。出典:『山形県中世城館遺跡調査報告書』
訪問日:2021年5月1日所在地:山形県鶴岡市大字湯田川字岩清水訪問人数:城友さん1名と私の計2名参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『最上義光の城郭と合戦』石堂山楯は湯田川三楯の一つ。楯の歴史と場所については七日台楯の頁で記述したので、ここでは省略します。石堂山楯の縄張郭を潰す破壊痕が際立ち、城全体がミミズのような形をしています。破壊痕は33条あります。七日台楯は郭よりも尾根道の占有面積が大きい為か、尾根道が切り刻まれていましたが、石堂山楯は郭の占有面積が大き
訪問日:2021年5月1日所在地:山形県鶴岡市大字田川字七日台訪問人数:城友さん1名と私の計2名参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『最上義光の城郭と合戦』参考サイト:春の夜の夢七日台楯は湯田川三楯の一つ。残り二つの楯は石堂山楯と藤沢楯を指します。歴史永禄18年(1568年)に越後北部の国人領主、本庄繁長が武田信玄と内通し上杉謙信に対し謀反を起こしました(本庄繁長の乱)。本庄氏の盟友であり、庄内地域を支配していた国人領主の大宝寺(武藤)氏も本庄氏に同調し上杉謙信
訪問日:2021年4月16日所在地:千葉県市原市訪問人数:単騎参考文献:『日本城郭大系』参考サイト:余湖くんのホームページ歴史吉沢城は平蔵城の支城。伝承では、承平年間(931〜938年)に土橋平蔵によって築かれた城ですが、巨大岩盤堀切で尾根を断ち切る構造から見て、戦国期の里見氏、正木氏関連の城郭と判断していいかと思います。当日のルートです。鳳来寺観音堂を見学した後に、1の場所から侵入して南方へ進み、2の位置から下山しました。先ずは鳳来寺観音堂を見学。この観音堂は
訪問日:2020年12月29日所在地:広島県広島市安佐北区上深川町訪問人数:単騎参考文献:『広島の中世城館を歩く』歴史は不詳。城址の眼下に吉川興経の居館跡がありますが、吉川興経が築いた城か、または毛利軍が吉川興経の居館を監視するために築いた城か、どちらかだと思うのですが真相は謎です。七曲城への行き方ですが、当日は高陽自動車学校裏手にある谷戸から登りました。谷戸を北に向かって進むと石組みされた畑のような地形が見えてくるので、そこで右折し幅が狭い(幅1m程度)沢を渡ります。
訪問日:2020年8月11日所在地:滋賀県甲賀市水口町訪問人数:単騎参考文献:なし歴史現地案内板に書いてあること以上のことは調べていません。神社の方に歴史について色々とお聞きしたかったのですが不在でした。柏木神社本殿は三方の空堀によって取り囲まれていますが、天正8年に織田信長の軍勢に攻められた際に城砦化したのではないでしょうか。安土城摠見寺の現存仁王門は柏木神社の楼門を移築したものですが、甲賀攻めの時に掻っ払ったのかな。。。現地案内板入口に「甲賀郡中惣起請の
訪問日:2020年3月7日所在地:神奈川県厚木市七沢訪問人数:城友さん2名と私の計3名参考文献:『神奈川県中世城郭図鑑』、『日本城郭大系』歴史宝徳2年(1450年)の江ノ島合戦の際、上杉憲忠方の長尾景仲、太田資清らが七沢山に要害を構える。長享2年(1488年)の実蒔原の合戦の際には、扇谷上杉朝昌が守る。-七沢城は昭和40年のリハビリテーション施設の建設に伴い城跡は全壊し、現在は城跡碑があるだけというのが通説だと思いますが、縄張図をよく見ると堀切がしっかりと残っています。
訪問日:2019年9月17日所在地:兵庫県豊岡市伊賀谷字城山訪問人数:城友さん3名と私の計4名参考文献:『近畿の城郭』歴史詳細は不明。-城址の場所はGoogleマップに登録されているので気になる方は調べてみてください。縄張図は一緒に見学した城友さん「タムディ・マーキュリー」氏よりご提供いただきました。直登ルート付きという優れものです。*縄張図の転載は厳禁です作図:タムディ・マーキュリー城址の南側に三柱神社があり、神社の裏手から急峻な切岸を直登します。5〜
訪問日:2020年9月20日所在地:兵庫県養父市八鹿町大江堀訪問人数:単騎参考文献:『近畿の城郭』、『図説養父市城郭事典』参考サイト:山城攻略日記当城の縄張図を入手したので、2021年11月15日に加筆修正しました。歴史詳細は不明。麓の住民の方にお城についてお聞きしたところ、お城の存在は認識しているものの、城史については一切分からないとのことでした。縄張が豊岡市の伊賀谷城と似ていることから、毛利氏の陣城の一つかもしれません。縄張図は持っていないので、「山城攻略日
訪問日:2019年11月17日所在地:山形県西川町大字岩根沢字要害訪問人数:城友さん1名と私の計2名参考文献:『山形県中世城館遺跡調査報告書』、『全国国衆ガイド』歴史(現地案内版より抜粋)当楯の築城者は、沼の平楯の楯主東海林隼人佐の弟、東海林昌盛により天正年代(1570年頃)の築城であるとの伝承が残っている。それらの伝承から、当楯は沼の平楯の副城的な役割を持っていたと考えられる。しかし、当楯の北側は月山参詣の山道が見渡せる景勝の地であり、戦国期以前の築城も考えられる。-縄張
訪問日:2020年3月21日所在地:秋田県羽後町訪問人数:城友さん1名と私の計2名参考サイト:余湖くんのホームページ歴史は不詳。小野寺氏関連の城でしょうか。-*この城を見学する際は地権者様の許可が必要です。羽後町に大規模な畝状竪堀の城があるということで、ずっと訪問したかった城です。当日は東側の斜面からアプローチしました。麓に鳥居があるので、そこを起点に登ります。東側に林道はなく比高90mを直登する必要があります。ちなみにお城の場所はGoogleマップでヒットし