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ジメジメ暑いのは嫌いだけど。夏は大好き。青い空にまぶしいほどの太陽。それだけでパワー漲る。早く梅雨明けしないかなぁ。どんな服装していても結局見られるのは同じだから好きなファッションを楽しむ。そして見られる以上に暑い方が嫌だから涼しさ優先。最近は二の腕気にして夏は半袖でこんな服装を避けてたけど、、、、よくよく考えたら、二の腕とか関係なく視線向けられるから関係ないって気がついた。笑振り向いて見る人もいればチラチラ見る人もいればガン見してくる人もいる。「ジロジロ見るな
娘が生まれた次の日から仕事終わりの夫と義母が毎日会いに来ました。娘を可愛い可愛いと言ってくれました。問題は義父。義父は生まれた日に会いに来た以来1度も来る事はありませんでした。そんななか、産後2.3日経った頃義母が付き添っている私の母に電話で話している内容が電話越しに聞こえて来ます。「なんでお腹の中でもわからなかったのか?検査したんじゃないのか?なんで産む前にわからなかったのか」と。義父が怒りながら義母に言ってきたと電話で話してるのが聞こえました。そんな言われても、悲しい事も腹が
病室帰った私は意識が朦朧。私に取り付けられてるモニターはアラームがなり顔面蒼白でかすかな記憶しかありません。待機していた家族はまだ娘との対面が出来ていませんでした。夫が聞きに行くと、やっとシーツで顔だけしか見えないように包まれた娘と対面出来ました。私は意識が朦朧とするなか、夫に手術室で確認した娘の手の状況を一生懸命伝えました。↑ここまで、私達は足が片方二本指しかなく曲がっている事を知る由もありません。そして、新生児室に戻った娘を後から来た義父が、見せてもらいに行ったのです。すると
今回は、娘が生まれてからのお話を思い出して書こうと思います。。。もう、2年前なので忘れないように記録として、、、。娘との初対面は、生まれてすぐ手術室の中でした。私が、すぐに見せて欲しいと強く希望したからです。というのも、私の母は私が生まれた時病院側が母親のショックを考えてという事で生後3日たってやっと会わせてくれたそう。なので私は生まれた日の写真が1枚もない。母は看護師なので、すぐに何かあった。と感づいていたそうです。それを聞いていた私は、「どんな手でもいいので産まれた時に
昨日、見るともなくNHKのBSを視聴していたらリオパラリンピックアーチェリーのマット・スタッツマンさんが紹介されてました。初出場のロンドンパラ大会で、銀メダルを獲った人ですが、何と両腕欠損なので、足と顎で弓を射るんです。これだけでも凄いけれど、健常者を入れたアメリカランクでも8位とのこと。番組の紹介はこちらですマット選手の紹介はこちらです彼の驚異的な正確なショットを東京大学の先生方が解析してました。筋電計をつかったり、MRを使って脳内の活動状況など射る前後の状態を解析していたのです
障害に上も下もないと思う自分より重い障がいのある人を見て私はこれくらいで良かったな。と思うのは自由だし私の方がもっとスゴイと思うのは悪くないと思うけど障がいに優劣はないと思いたい。みんな、それぞれ苦労してみんな、それぞれ幸せを感じている。健常者も障がい者もおんなじ。健常者の人も苦しかったり幸せだったりするでしょ。私たちは、悩んだり辛い事が少し違うだけで健常者からみたら大変な苦悩かもしれないけど私からしたら大変でもないただの悩みや苦悩。たしかに、障がいがなければ味あわな
初めての1人での入院生活。ただただ、暇で暇で仕方なかった今思うと、もっと満喫すればよかったと(笑)その当時はやっぱり1人になるといろんな事考えちゃって不安が倍増。そして、入院中は1番最先端のエコーでまた、長い時間胎児を確認。でも、その時に急に思ったのです。両足とも内反足なのかな?と先生に聞くと「両足とも内反足だと思うんだけど赤ちゃん逆子で検診のたびにずっと右を下にして横向いてるから綺麗には見れないんだよね」となぜその時に両足ともなのか気になったのか不思議だけど今思うと左足の脛
実はこの検診の時には中絶できる月数まで1週間切っていて考える時間はあまりありませんでした。検診では腹くくってますみたいな態度で平然を装ってたけど頭が真っ白で考えなんてなかった。その日から何日も何日もネットで内反足やエコーの正確さを調べて、調べて、期待したり、凹んだりの繰り返し。なんども、なんども、なんども、想像しました。何を?中絶した時の事を。その時に思ったんです。産んだときに障害があった時の悲しさと中絶したときに実は障害がなかった時の絶望。私はできない。と思いました。
ここからは、人によっては最低と思われるかもしれません。ただこれは私の記録です。最後と決めた妊活でついに娘を授かりました。よく、ドラマとかでは妊娠がわかって泣きながら喜んだりするのを想像してましたがまっさきに「障害はどうなんだろう。」と思ってしまいました。まだ、初期の検診では障害がわかったら早くしなければ。と思い検診に通っていました。悪阻が酷く1週間ほとんど食べれずほぼ、トイレか寝るかを繰り返している時もひたすら、「神様どうか手足がありますように」と神頼みをしていました。
娘が生まれるまでの事を記録に残しておこうと思います。私は結婚して1年で娘を授かりました。子供が欲しくて欲しくて結婚式が終わりすぐに妊活。を始めました。毎月、毎月、月のものが来るたびに悲しくてまだ、遊べという事かな!と思い今回で、妊活するのやめて自然に任せよう!と思ってた時に妊娠がわかりました。私は、妊娠前、遺伝子検査をしていませんでした。というより、、、、私の障害は「遺伝しない。」と思っていたから。妊娠当初も、産婦人科の先生に聞くと貴方のは遺伝しないでしょ?との答えをすん
こんばんは!もう、あっという間に8月になりましたね。九州は台風直撃ニュースでは被害も出てるとの事でどうかこれ以上、被害が出ないを祈るばかりです(>_<)先月から保育園に通い始めた娘。やっと慣れてきたかな?という先週でしたが日曜日から発熱し今週は見事に1週間お休み。一昨日から熱も出ずに元気満々!!やっと慣れたところでのお休みだったので月曜日からどうなるのか?振り出しに戻るのか?または喜ぶのか?本人のみぞ知る、、、、笑昨日からInstagramを公開にして始めました(*
こんばんは。娘が保育園へ通いだし2週間が過ぎました泣いたのは1週間ほど。今はすぐにバイバーイと言われ嬉しいような寂しいような毎日です近頃、Instagramを見るのが好きで世界には私みたいに手がない人がたくさんいて自分の周りの世界でしか物事を見て来なかったんだなと気づかされる事があります。私は手の障がいせいににせず強く生きてきた。と思ってたけど、、、実はやりたい事。夢を諦めるときに手のせいにして足でやるから仕方ないや。と思って来なかったか?と最近気がつきました。その、きっかけを
中学2年生になりました。ガラが悪かった一つ上の先輩達が3年生になり私の中学生活は大きく変わりました。そして、2年生になると進路の話も出るようになりそれも私を苦しめました。調子に乗っていた私は先輩達や同級生のボスグループからのいじめにあいました。廊下ですれ違うと足をかけようとされたり。睨まれたりすれ違うと舌打ちや陰口を言われたり同級生も先輩に目をつけられてる私とちょっと距離を置かれるようになりました。全て今思うと私が調子に乗った結果です。それでも、部活は楽しくて学校も楽しくて先輩
人生の振り返り③から長く期間ががあいてしまいました。今回は中学時代のお話。。。中学校に入学しドキドキワクワクの中学生活が始まりました。私は部活が楽しみで仕方がありませんでした。ただ、、、できる部活がありません。小学生のころはソフトテニスをしていましたが中学生のレベルにはもうついて行ける自信もなくなにより女性だけの部活は怖いからNG。そんななか、私が入ったのはサッカー部。しかもマネージャーで入れてもらいました。中学でマネージャーがいるところは私の田舎ではどこもありません。私の中学
こんにちは(*^^*)今週から娘がついに保育園にまだ、慣らし保育なのですが1日目、1時間〜泣くこともなくすんなり遊んで帰って来ました。2日目、ママが居なくなることがわかり1時間半の泣き暴れ大変だったよう(^_^;)3日目、別れ際、泣いたが後は泣きやみ先生に抱っこされながらの1時間半4日目、別れ際も泣くことなくバイバイと言い友達と遊べた2時間。少しずつ慣れてきたところで土日のお休みでまた月曜日から振り出しに戻らなければ良いなと思っていますそんな感じで、私がお迎えに行くと10人
こんばんは今日は娘と自分のリハビリの日。帰るときに起きた出来事のお話リハビリを終えて車に娘とベビーカーを乗せているとずっーと見てくるおじさんが。↑この時点では何よ?とイライラ。。。早く乗って帰ろうとドアを開けた時、、、あなたは凄いね。と声をかけられました。。。ありがとうございます。と言うとおじさんの息子さんが機械事故で片腕がなくて。との事。でも、あなたを見たらおじさんもまだまだ頑張って生きていかないと。ありがとうね。元気が出た!!と言われました。外に出ると、たくさんの人
私は田舎育ち。通っていた小学校はもう閉校してしまいましたが当時の全校生徒30名ちょっと。同級生は6名。2学年一緒の複式学級で前と後ろとで別れて先生が行ったり来たりと授業をしていました。そんな、小さな小さな小学校だったので全校生徒みんなお友達でした。有難いことに手がない事でのイジメや差別を受ける事なく先生達も他の子と変わらずいろんな事をさせてくれました。ただ、小学〜高校卒業まで人に恵まれる一方で本当に最悪な先生にも出会いました。まずは小学2年生の担任。私だけでなく同級生みんなが忘
ふと、世の中に私のように親も子も先天性の障がいがある方はどれくらいいるのたろうと考える時があります娘が産まれた時。障がい者が産むからだと世間から言われるんじゃないかと思って怖かったなんだろう。私は両腕がなくて良かったことがたくさんあるのに。お腹の中で内反足がわかった時も。片腕が見えないと言われた時も。左手は手首までしかないと言われた時も。子供には五体満足で。と強く願っていたのが事実。でも、結果的に娘は私よりも重度で軽度。私とは違い左手は肘もあり指が二本着いて物をつかめ
①の続きです。私が小学校に入学する17年前はまだ、障害者は養護学校が当たり前。の考え方が多く私も地元の小学校へ入学するのに苦労しました。私の両親は私を地元の小学校に入れてもらえるよう卒園の1年ほど前から動いていました。両親は私に選択させてくれました私は迷わず地元の学校を選びました。でも、教育委員会は新年度から開校する養護学校を強く勧められました。トイレや着替えの手伝いはどうするんだ?あれは、これは、といろんなことを言われました。なかでも1番記憶に残ってること。教育委員長や部下
私は今24歳。この、24年間人より少し苦労した事も人より少し幸せだった事もあったような気がします。物心がついた時には両腕のかわりに両足を使って生活をしていました。教えたわけでもなく自然に足を使うようになったと両親は言いますがきっとすごく練習をさせたんだと思います。笑そんな私は幼少期からただただ、「負けず嫌い」の女の子。両腕がないからだ。とか足でやってるからだ。とか絶対に言われたくなかったから必死に友達が出来ることは自分も出来るように頑張りました。そのおかげ、3.4歳頃で足でお