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ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。歴史ランキングにほんブログ村いつも応援ありがとうございます。会津藩関係者や会津贔屓の人は松平容保を名君と評すでしょう。しかし私は暗君とまではいわないまでも凡庸であったと評します。その上貴人特有の酷薄さを持ち合わせていました。まず鳥羽伏見の敗戦の後、家臣を見捨てて江戸に逃亡したことは非難されてしかるべきでしょう。いくら慶喜に懇願されても断り、家臣と共に粛々と大阪
※2024年1月5日訪問※福島県福島市宮町の【世良修蔵官修墳墓】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼世良修蔵は幕末の長州藩士、官軍の奥羽鎮撫総督府下参謀として会津藩討伐を強硬に主張したことから、会津の救済嘆願を反故にされた仙台藩士らの怒りを買い、慶應四年戊辰歳(1868年)閏4月20日の未明、福島城下(福島市北町)の旅籠金澤屋に宿泊中のところを仙台藩士、福島藩士らにより襲撃され、阿武隈川の河原で斬首されました。行年34歳。世良は、奥羽諸藩(仙台藩・米沢藩)による会津藩救済
※2024年1月5日訪問※福島県福島市舟場町の【世良修蔵処刑の地】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼閏4月20日(6月10日)未明、世良修蔵と報国隊の勝見善太郎は金澤屋で就寝中に、姉歯武之進・田辺覧吉・赤坂幸太夫・松川豊之進・末永縫殿之允・大槻定之進の仙台藩士6名、遠藤条之助・杉沢覚右衛門・鈴木六太郎の福島藩士3名、福島町の目明かし浅草屋宇一郎とその手先14-15名の合計24-25名に襲われた。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日朝、
※2024年1月5日訪問※福島県福島市北町の【浅草屋跡】を訪れました幕末に、浅草屋宇一郎が営む旅籠【浅草屋】が建てられており、金沢屋における世良修蔵襲撃にも大いに関わっていました。また、明治維新の立役者である木戸孝允も浅草屋に宿泊したと伝えられています。明治天皇の東北巡幸が正式に発表されたのは、明治9(1876)年4月24日のことです。当時、参議の職に就いていた木戸孝允は6月19日に福島城下に入り、浅草宇一郎が営んでいた旅籠「浅草屋」に宿泊しました。『木戸孝允日記』には、その時の
※2024年1月5日訪問※福島県福島市北町の【客自軒跡】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼金沢屋で襲撃された世良修蔵が連行されたのが、金沢屋と目と鼻の先に位置したいた【客自軒】という旅籠でした。閏4月19日、世良は福島城下の定宿金沢屋で手紙を書くがその内容は、「奥羽は皆敵」とする援軍要請の密書でした。世良は福島藩士に薩摩藩士に届けるよう渡しましたが、福島藩はこの密書の扱いについて仙台藩士・瀬上主膳に意見を聞くことにします、その瀬上の定宿が客自軒でした。密書を見た瀬上は
※2024年1月5日訪問※福島県福島市北町の【金沢屋跡】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼金沢屋は江戸時代、福島宿に有った旅籠で、幕末には新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵襲撃の場所となりました。世良修蔵は幕末の長州藩士、官軍の奥羽鎮撫総督府下参謀として会津藩討伐を強硬に主張したことから、会津の救済嘆願を反故にされた仙台藩士らの怒りを買っていました。福島城下の金沢屋に宿泊した世良が、当時新庄にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日(6月9日)に記した密書に、「奥羽皆敵
※2024年1月5日訪問※山門のすぐ側には、【仙台藩烏天狗組之碑・浅草屋宇一郎之碑】が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼烏天狗組は正式名称を《衝撃隊》と言い、仙台藩士・細谷十太夫によって結成された義勇軍。衝撃隊の隊旗には「一羽の烏(からす)」が染めぬかれ、また、その隊士の装束も黒一色という異様ないでたちであったことから、彼らは通称「からす組」と呼ばれるようになったと伝えられています。また、実際に隊長の細谷はからすを好み、一羽のからすを飼っていたとも伝えられていま
令和5年10月17日(火)14時過ぎアリオ内のノジマとキタムラへ。17時半帰宅画像は15日雨の中、福島市内散歩稲荷神社、世良修蔵襲撃事件、世良修蔵の墓福島市役所周辺福島第2小学校(私の出身校)福島第2小学校、1年先輩が梅澤富美男さん、かなり上が加藤茶さん2015年2月8日のラグ18日は昭和大学江東豊洲病院へ放射線治療後の健診もう7年経ちますが・・・・・。
「名剣士と照姫さま」でまた幕末熱に火が付いてしまい、(まあ年中くすぶっているので直ぐに火が付いたり自然発火したりしているのですが(笑))本を2冊買いました。しかし、その直後この本を教えてもらい、先に読むことにしました。これまたいい本でした。タイトルの「墓標」、北越戦争を時間的にも空間的にも広範に記した本作品の中で、今も残る主に東軍の墓標(墓石ではない粗末な状態)をしっかり書き留められていました。そして、サブタイトルの『昔々北越戊辰戦争で』に続く文が、多くの民を巻き込んだ長く激
白石川に架かる白石大橋近く陣場ヶ丘の中腹に「世良修蔵の墓」があります。(参考:白石市HPなど)世良修蔵(1835~1868)は山口県周防大島・椋野村の生まれ。武家ではなく庄屋・中司家の三男で幼名鶴吉。文久3年(1863)頃に奇兵隊に入隊、その後、島を治める浦家の家臣・世良の名跡を継ぎ、長州が参戦した幕末の主な戦いに参加しています。慶応4年(1868)奥州鎮撫総督府下参謀となり、3月に仙台藩を訪れ会津討伐を指揮するも、会津に同情する仙台藩の攻撃は進まず、東京の官軍本隊に相談に向かう前夜(
松島海岸にある「観瀾亭」は伏見城にあった建物を豊臣秀吉から伊達政宗が拝領し,その後江戸藩邸に移築,二代藩主忠宗が納涼,観月の場として現在の場所に再移築したものです。奥の「御座の間」には狩野派絵師による極彩色の床の間や襖絵があり,当時の雰囲気が満載です。観瀾亭と名付けた五代藩主・伊達吉村公が揮毫した「雨奇晴好」の額がきりりと部屋の空気を締めています。朱毛氈(しゅもうせん)が敷かれた座敷で,抹茶をいただきながら月や秋の紅葉、松島湾を眺めると,実際にこの建物内で会っていた秀吉や政宗の息遣いが聞こえて
今日はリニューアル後の白石城に来ました!白石城=片倉小十郎の城。そしてこの白石の地は、幕末の奥羽越列藩同盟が発足したところ。昨年に一度来たのですが、その時は地震で壊れた箇所の工事中で天守閣には入れなかったんですね。またオープンして良かったです〜本日お天気は晴れているのですが、時おり小雪が舞います。寒いです!!「片倉小十郎景綱」のでっかい碑が建ってる。カッコイイですね〜〜天守閣は中に入れますが、まあ、普通に戦うための櫓みたいなもんです。こじんまりとしてます。
「アームストロング砲」と「王城の護衛者」を読んで幕末ものの短編集を全部読んでしまった気になってました(7年も)世良修蔵を描いた短編「斬殺」のブロガーさん記事で他にもあったことを思い出しました。まずはその「斬殺」。その横暴な振る舞いで東北諸藩を反新政府側に団結させたとされる長州藩士(周防大島出身なので周防人)。実はそうじゃなかっんじゃないか、と思って読んでみましたが、ドラマ「白虎隊」の泉谷しげるさんの憎々し気な名演がどうしてもよぎってしまうのもあって、そうとしか読めませんでした
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、幕末の長州藩士世良修蔵の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は、5月9日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
このページの内容は概ね1,2年前くらいに投稿された記事で現在までに最も多くよまれた記事リストです・・・・今回は2020年01月中に掲載した記事でこの時点まで最多閲覧された記事戊辰戦争世良修蔵の墓宮城県白石市・・・を追加しました。まだまだ始まったばっかりですが以外と歴史内容が多いようですね。戊辰戦争世良修蔵の墓は下記リンク先をクリック願います。20年12月【戊辰戦争戦場跡稲荷山・・・20年01月【戊辰戦争世良修蔵の墓・・・19年12月【最上街道軽井沢越え加・
『青天を衝け』11話。生まれた子を抱きもしないで攘夷に夢中のポンコツ渋沢栄一Yahoo!ニュース吉沢亮主演、大森美香脚本の大河ドラマ『青天を衝け』第11話。大望を抱いているのはいいけど、夫としてはクソ感の漂っていた渋沢栄一。今回、...「会津のロケ地」マップに冊子を作製、観光や特産品情報も掲載福島民友...ネバーランド」が撮影された猪苗代町の天鏡閣、放送中の大河ドラマ「青天を衝け」が撮影された南会津町の奥会津博物館などが掲載されている。幕末知る樹木伐採へ世良修蔵暗殺
列藩同盟では世良襲撃は会津藩中心の襲撃予定でした。仙台藩士首謀のため政府軍に対して仙台藩は立つ瀬がなくなってしまったのでしょう。以後も降伏嘆願を政府などに試みたようですが取り扱ってもらえなかったようです。この後政府軍と列藩同盟が戦に入っていきます。仙台藩の参戦はこの世良襲撃に端を発しますが、仙台藩は政府軍の東北に対すつ態度等にも不信感も感じたのでないでしょうか??うがった見方でここで薩長を破って政宗以来の天下に仙台藩を・・・・はないと思いますが!!なお世良修蔵は終戦後参謀に昇格したよう
閏4月(この年は4月名が2回です)4月19日世良修蔵暗殺される世良修蔵1835年天保6年34歳(事実上の宣戦布告か?)(首謀者等、翌年死刑に処す、また世良は死後参謀に抜擢されたようです)20日会津藩等が白河城占領(列藩が事前準備?当時二本松藩等が管理中)5月1日白河城政府軍が占領以後同盟軍の奪回ならず3日奥羽列藩軍事同盟成立事実上の奥羽戊辰戦争開始6日
当たり前のことだが、偶然というものはある時は重なるので世の中面白いものである。以前NHK「鶴瓶の家族に乾杯」の番組の中で、鹿児島のロケの番組だったが、鶴瓶師匠がたまたま訪問したお宅が、大変有名な陶芸家「沈寿官」氏の自宅で、という件があった。そのお宅は、以前司馬遼太郎氏も来られて沈氏一族の歴史に翻弄されたのを題材にして文章を書かれていた、という番組ををたまたま観ていたこともあり、先日から文春文庫『故郷忘じがたく候』を借りてきて読んだ。沈氏一族は、秀吉の朝鮮出兵の際に島津藩が日本に拉致し
丸信らーめんで、大満足のチャーシューメンを平らげた後は、レンタカーを借りて、福島稲荷神社へ。福島駅から歩いて行ける範囲ですが、午後になっても雪は降りやまず、車で数分ほどで福島稲荷神社へ。午前中でやむ予報だったのに1時半になっても全くやむ気配なし。でもうっすらと雪が積もった神楽殿をみるなんてのも粋でないの。てか、人っ子ひとりいないほど寒いし、大雪だよぁ〜社殿でしっかりお祈り。維新期の長州藩士・世良修蔵の墓なんてものも
戊辰戦争のさなか仙台藩士などによって襲撃されなくなった長州藩士の世良修蔵の墓が宮城県白石市の奥州街道からちょっと外れた場所にあります。ここには伊達政宗の陣屋跡もあります。世良修蔵は東北連盟軍が出した会津藩降伏の嘆願書を破棄したため仙台藩士などによって福島で襲撃されてなくなりました。ここにはまたかの木戸孝允(前桂小五郎)による世良修蔵慰霊碑もあります。ただ東北関連ではこの世良修蔵の評価は低いようです。大崎バックグランドなおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の【戊辰戦
●日本人とは?未来の世界で「日本人だけがリアルな人類として生き残ることができる」理由日本人というと、権威や権力に阿る傾向が強いというイメージですが、実は真逆で世界的に見てもそういう傾向は低い事が調査で判明。では何故そうとは思えない様に見えるのか?InDeepの岡さんが分析。日本人はエイリアン:核DNAの解析の末「オリジナルの日本人が周辺アジアのどこにも見つからない」ことで日本人の出自が完全にわからなくなっている今だからこそ言ってみる「日本人は他と違いすぎる」:世界120
「この鬼義重が本丸一番乗りぞーっ!!」大友家最後の城、秋月城本丸に佐竹義重の声が響き渡る。それは一時は九州・四国に覇を唱えた大友家の終焉を告げるものであった。原田家に大打撃を与えた後、会津松平家は豊後府内城を橋頭堡に九州へ上陸する。まずは敵の精鋭達が籠もる城井谷城から兵が届かない肥後・日向の諸城を攻め取った後に北上、数々の死闘の末ついに大友家を滅ぼしたのである。当主の宗麟はキリシタンであり自害が許されない、との事であったので本人の希望で腕利きの介錯人によって首を落とされた。また、立花道雪・鍋
2013年に放映された大河ドラマ「八重の桜」。綾瀬はるかさんが演じた新島(山本)八重の姿を覚えている人も多いだろう。さて、「八重の桜」では強面の俳優・小沢仁志氏が長州の世良修蔵を演じていたのだが、その演技もまた秀逸であった。この大河において、彼は世良の品性の下劣さ、粗暴さ、チンピラっぷりを余すことなく演じ切っていた。物語の演技を見て、ここまで登場人物に殺意を憶えたのは、最近では「魔法少女まどか☆マギカ」で視聴者を殺意の渦に叩き込んだキュウべえ(QB)以来である。出番としてはわずかではあったが、
福島城下で無惨に殺された奥羽鎮撫総督府参謀の長州藩士の世良修蔵は、本当に悪逆非道な発言や振る舞いがあって仙台藩士を激怒させ暗殺されたのか?常々、疑問に思っていた。疑問点を列挙すると(参考):⑴当時、標準語のない時代、長州人と東北人では会話は出来ず、通訳を介すか、文書を交換するしか交渉出来ない。互いの思惑の行き違いがあったのか、殺した側の言い訳とも考えられる。⑵奥羽越列藩同盟の起爆剤となった世良から大山宛の密書の原本の存在も真偽も現在においても分かっていない。ただし、大山宛の密書の中に西
<奥羽の義戊辰150年>(14)新政府との衝突不可避に河北新報明治になって建てられた世良修蔵の墓。削られた右の行の中央部分の文字は「為賊」。「賊」である奥羽諸藩のために殺された、と記されていた=白石市の陣場山.【名護屋城博物館】高橋是清と辰野金吾唐津藩洋学校耐恒寮をめぐる人々西日本新聞明治維新を機に社会の近代化が進められる中、唐津では1871(明治4)年に洋学校「耐恒寮」が開設された。このとき英語教官として赴任したのが、のちに大蔵...「西郷どん」“禁門の変”を経て変化
東北の城めぐりの旅ですが宮城県の白石を訪れます。初めてやってきましたがとにかく多くの歴史の舞台となっていますので一度は来てみたかったです。とにかく猛暑の中ですので効率よく見て回りたいです。今回米沢からJRで白石にやって来ました。まだ午前中なんですがとにかく暑いです。そうです。一度来てみたかったのはこれですね。伊達政宗の名参謀の片倉小十郎の城と真田信繁の末裔の史跡の地と戊辰戦争の重要な東北の拠点だったこともでもあります。度々歴史舞台に登場してきますし歴史好きにはわくわく半端ないです。駅舎内で
須坂を知る副読本〜須坂市教委が改訂須坂新聞学校・教育icon須坂市教育委員会はこのほど、新年度から使用する小学校社会科の副読本「わたしたちの須坂市」の全面改訂版を発行した。教員らで構成する編集委員会(天野義孝委員長=現小山小校長、17人)が、企業や団体からの資料提供、取材協力を得て約2年がかりで編集。地形や暮らし、歴史など、地域を知る...「ダンス」の歴史的背景と熱量がテーマ。記憶の反復、循環、共鳴を映し出す松原健が個展を開催|美術手帖美術手帖「記憶」をテーマに映像や写真作品
JR東日本では、「行くぜ、東北。」というキャンペーンをやってまして、特に冬は「冬のごほうび」と銘打って展開してます。http://ikuze-tohoku.jp/ikuze2017-gohoubi/個人的にも、これに乗っかって、旅してみようと思い立ち・・・第一弾は仙台およびその周辺を・・・第二弾として、1月27日~28日に福島市に行ってきました。「行くぜ、東北。冬のごほうび」な旅~福島編です。福島市観光は、二日目・・・世良修蔵という人物に関するスポットを回ってみました。・・・
昨年『古地図を片手にまちを歩こう』企画で阿月(あつき)・遠崎(とおざき)コースに参加したRieruです★(遠崎は以前の記事に書いた通り)後半の阿月の記事を・・・m(__)m03阿月柳井にっぽん晴れ街道を歩く江戸時代末期、柳井市阿月地区には克己堂があり、世良修蔵、赤禰武人をはじめ、明治維新に貢献した数多くの人材がここで学びました。古地図を片手に明治維新ゆかりの地を巡ります。期間リーフレット参照