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「胸は張らないし、やっぱり、今周期もダメみたい。」そう、夫に告げて見た。夫は言った。「まだ、わからないよ。」本当にそう思っているのか。そう思いたいのか。それとも、私を励ますためなのか。ずいぶん前は、この「まだ、わからないよ」に励まされることもあったけれど。もはや、そんな言葉は、何の助けにもならない。返って、その期待感が、心に重くのしかかる。夫は、まだ子どもを授かる可能性を信じているのかもしれない。そんなことを思いながら、私はしばらく黙り込んだ。
今周期も人工授精をした。でも、私の体には、なんの反応も起こらない。もし着床していたら、そろそろ胸が張らないとおかしいから。大方の予想通り、今周期も、きっとリセットするだろう。もう、ほとんど期待はしていないから、さほど大きな落ち込みはない。やっぱりそうかと納得しながら、淡々と、その事実を受け入れる。それでも、葉酸をとって、ルイボスティーを飲んで、湯船に浸かって、できるだけ睡眠をとる。そんな日常を送っている自分が、滑稽で惨めだ。あとは、
通院している病院で、子宮ガン検診を受けた。問診票には、妊娠経験の有無、回数を書く欄があった。この時の妊娠は、何週以上を指すのだろう。私だって、何回かは妊娠反応が出ているから、それは妊娠経験に数えて良いのだろうか。でも、あまりに週数が短過ぎるだろうか。そんなことを思いながら、結局、なんと記入して良いかわからず、空欄で提出してみた。そうしたら、受付の人に、空欄の妊娠経験の欄に「0回」と記入するように指示された。わざわざ、不妊治療に長く通う患者に、妊娠経験「
風邪気味で、内科へ行った。すると、「妊娠の可能性はありますか?」と尋ねられた。確かに、処方する薬にも関係するから、大切なことなのだろうけれど。「はい、(妊娠の可能性は)ありません。」こう答える心の痛みを、きっと多くの人は知らない。
姪っ子が中学受験で、その話題で持ちきりの母と義理の姉。正直、私には全く興味がない。だって、私はきっと子育てを経験しない人生を歩むから。「子育ては難しい」と意気投合する二人を見て、子育てを経験していない私の人生を蔑まされたような気がしたけれど。でも、それはきっと私の被害妄想だ。彼女たちに悪意はない。子どもと孫が中心の生活だから、そういう話題しかのぼらない、ただそれだけだ。逆に、私は不妊治療を中心に回る世界にいるから、ついつい被害妄想になりがちなだけだ。
ブログを読んで下さった方、コメントを下さった方へ想像もしていなかった多くの方に、当ブログを訪問いただき、誠にありがとうございます。少し、ブログをお休みしていましたが、治療を終える日まで、また、少しずつ綴っていきたいと思います。初めてのことで慣れなくて、きちんとコメント返しができていないけれど、全て読ませていただいています。そして、暖かい言葉に、励まされています。ありがとうございます。不妊治療を経験して、何か成長があったのだろうか。仕事まで辞めてし
不妊治療のやめどきは、自然とやって来る。今、不妊治療の渦中にいる人には、信じ難いかもしれない。でも、確実にやって来る。だから、心配しなくて良い。本気で、不妊治療のやめどきを確信したとき、心はふわっと軽くなる。そう、憑き物が取れたように。だから、現在、治療に苦しむ人たちも、心配しなくとも良い。もちろん、授かることができれば、そんなに素晴らしいことはない。一人でも、多くの人の願いが叶えば良いと思う。でも、授からなくとも、大丈夫。不妊治療のやめどきは、自然と
いつもなら、排卵日が近くなるに連れて、「人工受精のタイミングとできるだけ誤差がないように」と、いろいろ気に病む。でも、今周期にそれはない。先に排卵してしまったら、それはそれでしょうがない。なるようになる。なるようにしかならない。不妊治療に必死だった私はどこへやら。確実に気持ちに変化が起こっている。病院の待合室で、他人を観察することも少なくなってきた。不妊治療にも、不妊治療をしている人にも、関心が薄れてきた。不妊治療を終える覚悟が、着々と育っている。
今周期は、病院の年始休暇があり、体外受精の予定が組めなかった。だから、また人工受精だ。人工授精、体外受精、顕微受精、低刺激、中刺激、高刺激、、、選択肢があるほど、迷いが生じるから。だから、今回は人工授精しか選択肢がないことに、少しホッとした。また、クロミッドの力を借りて、卵を育てる。
母との電話。「子どもがいないからといって、何も不幸に思う必要はない」といわれた。言っておくが、私は不幸だなんて思っていない。子どもを授かれなかったからといって、私は不幸ではない。ただ、残念で悲しい。それだけだ。子どもがいないから不幸というのは、子どもを持つ人が、子どもを持たない人に抱く、勝手な優越感ではないのか。時代遅れな価値観が、未だ充満している。
今ならわかる。不妊治療の結末が、授からない、夫婦二人の人生だったとしても、それはそれで、十分幸せに生きていける。
不妊治療をやめると決めた人に、「十分に納得しているのか」と、酷なことは言わないで欲しい。心は、ゆっくりと納得していくものなのだ。授からなくて不妊治療をやめる人が、みな全くの迷いなく、治療をやめているだろうか。授からなかったことに、十分納得して治療をやめているだろうか。わからない。そういう人もいるのかもしれない。でも、きっと多くの人は、苦しみながら決断しているのではないか。やめると決断する時点で、「十分に納得している」の十分は95%で、残り5%は、まだ授からない人
「あきらめなかったから、授かった。」不妊治療で、授かった人がよくいうセリフだ。妊娠した人だけが言える、特別なセリフだ。ひがんでいるのではない。それは奇跡で、心から素晴らしいことだと思う。でも、忘れないで欲しい。あなたが授かったのは、「たまたま」だ。授からなかった人は、あきらめてしまったから、授からなかったのか。いや、そうではない。授からなかったから、あきらめるのだ。あきらめざるを得ないのだ。決死の覚悟で、その事実を受け入れるのだ。誰もが、治療を
誰もが結婚するわけではない。誰もが子どもを授かって、母親になるわけではない。誰もが孫に恵まれて、祖母になるわけではない。そんな当然のことを、なぜ多くの人は理解しないのだろう。
ふと思う。当たり前だけれど、子どもを授からなかったということは、孫だってできないということ。母になれないということは、祖母にもなれないということ。母にも祖母にもなれない私。子どものこと、孫のこと。きっとこの先、何歳になっても、この胸の痛みはつきまとう。
不妊治療をやめることは、決めている。でも、いつやめるかのか、それが、まだ決まらない。今周期も、病院に予約を入れた。だから、また、わずかながらも期待を抱いてしまう周期が始まる。何度も何度も経験してきた、希望から絶望の終わりなきループ。精神衛生上、本当によくないのに。いつやめるのか。何月でやめるのか。まだ、決断しきれずにいる。今すぐにやめる勇気は、まだない。でも、暖かくなったら。暖かい季節が来たら、もうやめよう。そう決めている。
混雑も落ち着いたころかなと、近所の神社に初詣。昨年までは、どこの神社に行っても寺院に行っても、手当たり次第、子どもを授かりたいとばかり祈って来たけれど。もう、そんなことは祈らない。不妊治療を何年も頑張って来たけれど、ダメだった。祈っても祈っても、叶わないものは叶わないから。だから、これからは夫婦二人で仲良く楽しく生きて行きたい。夫と二人で、互いの人生を素晴らしいものにしたい。どうか見守っていてくださいと。そんなことを祈った。行き交う家族連れ
実家に帰省した時のこと。私たちに、不妊治療の話題を一切出さない両親。テレビに赤ちゃんが映ったら、なぜか無言になる両親。私たちへの気遣いなのか。ありがたいようでいて、それはそれで、なぜか傷つく。子どもがいないからといって、できないからといって、私たちは、そんなにかわいそうじゃない。私たちは、そんなに不幸じゃない。子どもがいないから、大人だらけでやたらと静かなお正月。ふれない話題が、私たちの傷をそっとかきむしる。
今年こそは、年賀状を見て泣かないと決めたのに。みんなの子供が、どんどん成長しているのを見ていたら、やっぱり涙が頬をつたった。私たちには、家族が増えることはない。母親として、父親として、子どもに愛しい思いを抱くことは、もはや経験できない。とてもとても悲しいことだけれど、でも、二人で楽しく仲良く生きて行く。そう決めたから。少し泣いたら、少しだけれど、すっきりした。昨年よりは、泣かなかった。今年の目標は、二人で楽しく仲良く生きて行くこと。
やっぱり生理が来た。予定していたより、はやく来た。わかっていたけれど、それなりにショックだ。ひとしきり泣いて、泣いて、泣いて。こんな悲しい涙を、いつまで流すのだろう。こんなことなら、コーヒーを我慢しなきゃ良かった。ルイボスティーばかり飲んで、馬鹿みたいだ。仕方がない。これも、少しずつ二人だけの人生を受け入れていくための、大切な過程なのだから。
新年が明けて早々、ああ、もうすぐ生理がくる、と悟る。分かりたくないのに、私の体がそう言っている。私は、生理1週間前になると、下腹の奥がズキズキと疼く。何十年と生理を経験してきているから、それはもう、体でわかってしまう。一方で、何度か妊娠判定をもらったことがあるから、妊娠したときのことも、体が覚えている。乳首がはって、便秘気味になって、明らかに生理前とは違う症状が起こる。顕微受精や人工授精を何度もしていると、妊娠反応が出るとき何日目にどういう症状がおこるかは、体が
今年、そして昨年の初詣は子授けにご利益がある神社にお参りした。水天宮だとあまりに分かりやすくて、知り合いに会うと気まずいからと、日枝神社にお参りした。長い行列を並んで、子授け守りを買い、長い長い行列に並んで、とてもご利益があるという赤子を抱いた雌猿の頭を、真剣に何度も何度も撫でた。でも、子どもは授からなかった。来年の初詣は、子授けというご利益の神社から解き放たれよう。そして、平穏な日常と健康に感謝して、これからもそういう日常が続くことを祈ろう。
帰省の途中。新幹線の車内は、家族連れだらけ。子どもたちの甲高い声が響き渡る。ママと呼ぶ声、パパと呼ぶ声、泣き声、笑い声、さあ、イヤホンをつけて音楽を聴こう。集中して、本を読もう。うるさいんじゃない。ただ、心を乱されたくないから。
大掃除をしていたら、求子のお札を縫い付けた腹巻きが出てきた。夏くらいから身につけなくなってしまったけれど、子授け祈願で有名というお寺で祈祷してもらってから、ずっと、肌身離さずつけたいたものだ。不妊治療がこんなに長くなると思わなかったから、洗濯のことなど考えず、紙のお札を腹巻きに縫い付けた。一万円札より一回り大きい、厚みもそこそこの結構な存在感のお札だ。でも、思いの外、長い治療になったから、そのお札はもうクタクタで、腹巻きもすっかり汚くなっている。さあ、どうしようか。まだ
習い事でのこと。後片付けをみんなでやらなければならず、遅くなってしまうときがある。そうすると、「子どもがいるから」を理由に早く帰る人がいる。何をするにも、みんな何かしら事情がある。だから、「今日は帰ります」と言えば、誰も文句は言わない。だというのに、なぜ、「子どもが風邪気味だから」「子どものご飯の準備があるから」「子どもが小さいから」と、子どもに関する詳細な事情を述べるのだろう。正直、返答に困る。そういう人たちは、たいていみな多弁で自信満々で、何かにつけ、
今年もまた年末になった。年賀状の季節だ。絵柄を選んで、プリントアウトして。でも、年賀状に書き添える言葉が見当たらない。わざわざ不妊治療も終わりに近そうだとか、そろそろ二人で生きていく覚悟ができたとか、新年の挨拶に添える文章としては、かなり不適切だし。この1年は、仕事を辞めて、不妊治療に明け暮れた1年だった。そして暗い気持ちになるばかりで、交友関係も随分と狭めてしまった。仕方がない。私にとっては、前に進むための、大切な1年だったのだから。来年は、少しず
基礎体温を測らなくなって2ヶ月。自らのホルモンに無関心な朝は、なかなか快適だ。冷静に考えてみると、排卵日は病院の血液検査で予測がつく。だから、自らの計測記録はほとんど役に立たない。唯一役立つことがあるとすれば、それは、妊娠しなかったことを告げる生理日を特定できることだ。生理がくる日の朝は、ガクンと体温が下がるから。でも、基礎体温の低下は、私自身に大きな混乱を招く。基礎体温が下がった朝は、下がった体温を受け入れることができず、何度も何度も測り直す。気温が低いから、
人工授精を終えて、わずか数分後のこと、「生理が来たら、次の治療をどうするか」と聞かれた。治療台から降りて、ナプキンをあてて服を着て、診察室の椅子に座って。最初の言葉がそれか。。長年通う私には、もはや、ほんの少しの期待を持つことすら、許されないのか。人工授精を終えてすぐ、無事に卵が育って、無事に採精できて、なんとか人工授精できたことをただ喜びたいだけなのに。その医師の言葉は、私をどん底へと突き落とす。でも仕方ない。医師にとっては、ルーティンの仕事なのだ。
クリスマスイブ。子どもがいる家庭では、子どものためにと、親がサンタクロースになるのだろう。サンタを信じている子どもの夢を壊さないように、一緒にドキドキワクワクしながら、大切に選んだプレゼントを、深夜にそっと届ける。私も、そんなことをしてみたかった。けれど、母親になれなかった私は、もうサンタクロースにはなれない。いつか子どもが生まれたら、プレゼントしたいものはたくさんあったのに。一緒にクリスマスケーキを作って、チキンを焼いて、歌をうたって。少し大きくなったら
いつもの病院。私のID番号に近い人が、呼び出された。いつもみたいに、どんな思いで、長い通院生活を送っているのだろうと、その人を見た。そうしたら、その人は、小さな赤ちゃんを抱えていた。とても愛おしそうに。そうか、二人目の不妊治療か。その人は、私がずっと不妊治療をしている間、すでに一人を産んで、育てて。そして、これから二人目を授かろうとしている。3年という、同じ時間が流れているはずなのに。不覚にも、泣きそうになった。人生はなかなか残酷だ。