ブログ記事89件
会社でパソコンを導入したのは1995年windows95が発売された年です。当時、アイテー革命と、木材の伐採による環境破壊の問題がおきパルプの原材料である木の伐採に対して反対する風潮がありペーパレスを目指すのが目的だった筈なのですが最近も同じようなことが問題になっていますね。その上デジタル庁とか。歴史は繰り返すんでしょうか。会社に初めて導入されたパソコンは当時薄いほうの電話帳くらいの厚さのマニュアル本とネットの接続等諸々で百万ほどしたと思います。ただ私はマニュアルとい
澤野由明さんの著書『澤野工房物語~下駄屋が始めたジャズ・レーベル、大阪・新世界から世界へ~』を読みました。このブログの今日の1枚で度々取り上げてアルバムを紹介しているお気に入りのジャズ・レーベル澤野工房その工房代表の由明さんが執筆(実際は書き下ろしではなく語り下ろしされた)され、2018年に発行されたものです。*表紙の画像はネットからお借りしました。BOOKデータベースで、この本と著者の由明さんは以下のように紹介されています。下駄屋が始めたジャズ・レーベル!?「広告なし、ストリ
鰯の頭のmyPickAmazon(アマゾン)大正製薬プレリアップスカルプシャンプー400mL5,110円三年以上、使い続けています。使用感が最高です。張や腰のない薄毛の男性に、ピッタリです。アマゾンジャパン合同会社Amazon(アマゾン)飲み始めて半年です。二か月目から効果を実感。明らかにウエストが絞れてきました。驚き。八丁堀の「嬋(セン)」に。眞一郎と、まり、えり、冰冰(ビンビン)らが集合。そこに、「一人の女子(おなご)」が呼ばれた。その
昨日は午前中用事を済ませた帰り道自宅から車で10分の土屋方面を一回り。最初の目的地は何でも願いを叶えてくれる土屋の辨天様こと妙圓寺このところ毎日慌ただしい日が続いているのでコロナの終息と一緒に1日も早く平穏な日常が戻ってくるようお願いに行きました。山門下の日陰にはメダカ鉢があり覗いてみるとちっちゃい子から親メダカまでいるいる~~~~我が家の狭い庭に並ぶメダカ鉢のメダカは人が近づくとすっと潜ってしまいますがここのメダカは動じることも無く
いらっしゃいませ杉くんの駄菓子屋ブログへようこそ駄菓子屋には、ボランティアで時々手伝ってくれるお友達がいます障がいのため、足も少し変形気味💦普段は足首の上らへんまである、ゴツくて履きにくい補装具の靴を履いてます🥾豊川稲荷近くで偶然入った下駄屋さん。その下駄屋さんは、鼻緒とか自分の好きな柄が選べて自分の足に合わせて作ってくれるんだってそこで、「下駄を履いてみたいけど、鼻緒がきついし履きにくいから履けないんだ~」って話したら、「調整してあげるよ👍」って言ってくれて、色々な角度で見
こんばんわ。いつも、ご訪問&いいね!等ありがとうございます。【ソース煎餅】絵・・・亮一(旦那)編集・・・里美昭和30年代ソース煎餅を焼いてくれる駄菓子屋があったそうな。しかも、下駄屋という。私は、全く覚えてない。買って貰ったことないし。私の微かな記憶では、下駄屋に文房具が売ってたように思う。小学生の時、ちょっと遠い所に文房具を買いに行くと、そこに下駄や靴が置いてあったように思うけれど。記憶違いかな~❓お店の名前も忘れた❗妹よ、覚え
(『イッピン』より)「塗下駄(ぬりげた)」について、アップしておきます。これ1足を仕上げるのに、1年から1年半かかるそうです。モザイク仕立ての絵柄を構成する素材は、なんと玉子の殻!殻の粒の形や大きさは様々なので、瞬時に選びながら、下駄の上に乗せていきます。羽の構成をよくご覧になってください。羽の軸のあたりは玉子の殻が密集していて「固い」感じを表現し、羽の先のあたりは玉子の殻がまばらで「柔らかい」感じを表現しています。【作品『麒麟』】【作品『バンビ』】――――――――――さて
娘の2足目の下駄ファーストシューズは下駄だった見事に履き潰してやっと買いにこれたねーーーー下駄が大好きだった娘靴を下駄と呼ぶw今回は白木の!下駄!七五三にも履けちゃう良いやつ!おしゃれな娘は大喜び今日は下駄を買いに車で往復6時間のお隣の県熊本へ!!!!!生まれて初めて高速道路の運転帰り道半分だけど怖かったーーーーーー。。。。夫が仕事で熊本へ行くのに便乗していってきました下駄と草履が買いたくて早2年ずっとチャンスをうかがってたよ特別な素晴らしい良質
加瀬建造D.C.が開発した加瀬建造D.C.セラピーのオステアローザ(骨を叩く療法)に使用するオステアローザTM(骨覚醒叩打器)の素材(一社)キネシオテーピング協会では、欠品中で、ホームページの取扱商品からも削除されています。既に加工された柄54本分、加工が必要なヘッドが確保されていますが、その取り付けには、修行(指導)が必要なため、この、お盆期間に教えてもらいます。門前の小僧、習わぬお経を読むではありませんが、下駄屋の息子、骨つぎ(
ラジオ屋(創作ノートその13)いちさんは、新町の貸家に住んでいた。新町は日立鉱山の坑道の入り口の下の方を流れる宮田川に沿って、太平洋にそそいでる。宮田川は、高鈴山系と神峰山系に挟まれた低い土地を流れてる。日立鉱山の坑道から山側に入ると傾斜がきつくなる。それが。高鈴山の尾根の高い所まで続いてる。そこが宮田川の水源なのだろうか。水源の反対側には、高鈴山は常陸太田市の方に傾斜している。ここからは、常陸太田市を流れる里川へ流れる短い川となっている。日立坑
家を作るのは、プロの仕事だと思います。手先が器用な方はDIYで作れるかもしれませんが、私にはプロのような綺麗な仕事は無理です。しかし、解体は素人でもできる?と思い、約100年前に建てられた下駄工場の解体に取り掛かっています。素人の限界があるので、屋根・梁・柱はプロにまかせます。外壁はどうするか?時間との戦いです。前回は、電気モーターを外しました。今日は、その電気モーターの動力を、工作機械に伝えるリングを外しました。ボールベアリングで回転をさせ
昔は多分、一つの商店街に一つぐらいは下駄屋さんがあったはずです。その下駄屋さんは、多分戦後に靴屋さんとなって、そしてその靴屋さんもいまや量販店に抑れて姿を消しつつあり、商店街の靴屋さんは滅びゆく商店街の象徴のようなものです。東京でも純粋な下駄屋さんは本当に貴重になりました。前回お話ししたように下駄は消耗品です。下駄の歯、特に前歯は歩くとどんどん耗っていきます。また下駄先も斜めに削れていきます。毎日履いていたら1年も保たないように思います。ですから、この下駄の台は定期的に換えていきます。一方
自宅が靴屋さんだったので中学生くらいまで周りの大人から“下駄屋の坊ちゃん“と呼ばれていた幼なじみがいるnobuです。いつもありがとうございます。ちなみに僕はのぶちゃんと呼ばれてました。ええどうでもいいですよね😂今年のカマタマーレ讃岐は選手の入れ替わりが多くて顔と名前を覚えるの大変ただ若くてイケメンが多いのでその活躍次第ではすぐに名前を覚えられると思うしファンも増えそう
みなさん、こんにちは!前橋・高崎で子宮温暖化®︎を推進♪おまたぢから®︎認定講師はらさわえりです(*^^*)生理の概念がガラっと変わる!【生理のキホン】【生理と子宮のトリセツ】参加者様、募集中です!オンライン講座のご案内去年、下駄生活に憧れて買った下駄ボロボロのゆるゆるになってしまったので市内の履物店に行ってきましたかわいい下駄がたくさん並んでてめちゃくちゃ欲しかったんだけど今回は、今履いているものを直すことにしましたこんなにかわいい鼻緒がたくさん♡自分で選んで組
古関祐而さんの楽曲を、その時々の時代背景やエピソードとともに紹介した、著者渾身の一冊★3.5刑部さんは昭和52年生まれで現在43才。この若さで昭和のことを、ここまでよく掘り起こしたものだと感心します。そして、そのずば抜けた情報収集・資料収集・調査能力に、あらため敬意を表します。とにかくすごいです。刑部さんは現在放送中の朝ドラ「エール」の時代考証も担当されています。古関祐而さんのことで私が知りたかったのは、どのようにして作曲法を学んだか?ということ。結果的には朝ドラでもあ
まったく売れない『船頭可愛や』。環先生に聴かせ歌い手として『船頭可愛や』を歌う事になる。レコーディング前から結構話題性を呼び大ヒット曲に。ってか今日は壁ドン祭ですか(笑)久志→下駄屋の娘。鉄男→裕一。久志の台詞を壁ドンしながらツダケンに言ってもらいたいと思った人はたくさん居るはず(笑)今日の語り手。盛り上げ方が上手❤
木枯氏に紹介してもらった作詞家に頼まれて『船頭可愛や』の作曲を始める裕一。音ちゃんは、椿姫の稽古を始めるが、悪戦苦闘中。レコーディング当日。何故か現場に鉄男と久志の姿が。歌い手は、芸者を呼ぶと言っていたのに、やって来たのは下駄屋の娘。歌は上手いが、全然売れずじまい。ラストチャンスだと言われていた裕一は、いったいどうする今日の語り手。癒しボイスが心地良かった❤
こんにちは。堺の三国ヶ丘の美容室DPクリエーションで働いている猫好きクリエーターの大賀康司(おおがこうじ)です。http://www.d-p-c.jp/DPクリエーションのホームページです。私の音楽の趣味は大きくハンドルを切る事になります。の続きです。実はJAZZは子供の頃父親がレコードをかけていたので耳にはしていました。ただ低音の響きとサックスの響きがパブやスナックなどオヤジがはべらす
久々に、思うことがあり…自宅出産は、そのうちにまた書き始めたいと思っています。私の職場は人間ドック。様々な方々が、毎日いらっしゃいますが、この職場で働き出した3年前から気になっているのが、技能実習生と言う名で、出稼ぎに来ている外国人の若者たち…その若者たちは、国際〇〇と言う会社所属で、初来日で検診を受けに来るのです。ベトナム、インドネシア、カンボジア、中国…毎週、20人程度の若者が、検診にきます。その若者たちの屈託のない笑顔や採血を怖がる可愛い仕草を見て私は胸がざわつくのです……
副島隆彦のサイトよりコピペ(3)コピペ元へのリンクアメリカ民主党内の改革派としてソビエトを打ち倒したあとに出現した政策思想の派閥がネオリベラル派だ。規制撤廃(デ・レギュレイション)、強欲資本主義(グリード・キャピタリズム))、バクチ金融礼賛の、えげつない派閥だ。このネオリベ思想で完全に洗脳されて、日本に送り返されたのが竹中平蔵だ。それと、高橋洋一だ。分かりますかね?竹中は、開銀のただの銀行員だった男だ。(かいはつぎんこう。今のなんとか協力銀行)竹中は、
昨日の続きだよ、お立会い!!旧松坂屋の脇をチョイ行った角を左に曲がると古い呉服屋が並んでいる。この日は其処を冷やかさず。通り抜けるとお稲荷さん。大昔、資生堂裏のデザイン事務所に勤めていた頃。自分時になるとこの路地を抜け安くて量の多いラーメンを食いに、お目当てのラーメン屋へ行った。今ほど銀座には安い食い物屋が無く安月給のアタシは、東銀座か新橋でオマンマを食っていた。てぇ訳よ・・・・。銀座はお稲荷さんの多い町だがったが、昨今は昔ほど目にしなくなった。上の写真の路
本日は2つブログ書くんだな。なぜなら、裸の大将について書くのはぼ、ぼくのライフワークだからです、おわり。というわけで裸の大将ですよ!今日は下駄の鳴る丘タイトルがまた素敵ですね~。浜名湖周辺を旅していたきよしの下駄が割れて下駄屋の一人暮らしのおじいちゃんの家に居候することに。おじいちゃんには唯一の肉親の孫娘がいるのですが孫娘は歌手になりたい!とおじいちゃんの反対を振り切って出て行った!でも実は夢やぶれて帰ってきて近所のうなぎ屋で働いているのを知ったきよしが仲
今日は、北品川で木内のひろ君と下駄屋に寄ってからの天ぷらランチ🍽からの、整体モニター😊いつも、するっと懐に入るのはさすがだなぁ。ついつい、色々喋ってしまう😁整体は、どんどん軽くなったり、昔のものが浮上して痛みが出たり、最後は、オーラを撫でられてる感じで氣持ちよくて寝落ち。終わった後は、変態爆笑トーク。色々バレてますわ。楽しかった〜。毎月お願いしちゃおうと思ってます。モニターは4,000円からのドネーションで、話すだけで軽くなるのに、整体までしてくれるので、おススメ😊
前回のAnswerクイズ英作文練習ー25の回答は、豆腐屋Theowneroftofushopでした。or
【永遠の皇室】紀子様が抑えきれずお見せになった本当のお姿に国民衝撃ww下駄屋を営み、何畳一間の生活だった祖母紀子様が長女眞子様のご結婚について問題解決を行っていたころの話。今までは出るはずがなかった本当のお姿を語れることになってしまった事が最大の誤算だった事でしょう。頼むから税金泥棒をこれ以上広げないで欲しい国の恥だからグレードが低い秋篠宮家に海外皇室お付き合いをさせないで欲しい秋篠宮家は海外豪華観光ぐらいにしか考えていない秋篠宮家を存続させたければ国内に限定してお駄賃無
「買わないなら履くな」ウィンドウから下駄を出して履こうとした時に止められた!門前仲町交差点。門前仲町駅そばにある、創業107年、鈴木屋履物店何年か前にここに初めて訪れた時「履いてもいいですか?」と聞いたら、ご主人に怒られた。実に、7年ぶりに訪れました!7年も経っていたなんて信じられない。鈴木屋履物店3代目のご主人、80歳。元気、元気♪7年の間にいろんな事があったようです。私が書いたYahoo!ブログを見て何と、『暮しの手帖』の取材もあり、全国からお客さんが来てくれ
タケコです~月イチの楽しい楽しいこの日ー。6月の着物でランチ日航ホテル弁慶さんでした。かなり暑い・・・ですされどーーーはんなりと~11名様「暑くても涼しいお顔で着なさい」先輩フレンドの掛け声ーー(単小紋ポップな夏帯)ホテル内は涼しい~ランチ後ダイエット「下駄屋さんまで歩こうぜーーー」>お調子者6名下駄屋さんで・・・・>歩きが止まれば大、大汗いやはやーお調子
清水港付近にある珍しいミュージアム『清水すしミュージアム』へ入館した話の続き日本初のすしのテーマパークとして誕生したこのミュージアム江戸時代の清水の街並み宿場通り下駄屋すしの屋台昔のネタはデカかったんやねヘイ!いらっしゃい火の見櫓と龍吐水すしの歴史と文化を学べる展示室が『鮨學
★植田正治作品展砂丘劇場1992年発行図録サイズ:24.0×25.0cm全体的に薄くヤケがありますが、状態はほぼ良好です。その他の出品はこちらhttp://openuser.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/nuchie_jp?alocale=0jp&mode=1植田正治(うえだしょうじ、1913年3月27日-2000年7月4日)は、日本の写真家。出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く活動。前衛的な演出写真[1]は「植田調」として知られ、写