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田耕神社と厳島神社の合祀記念大祭田耕神社はかつて大護社と呼ばれ、明治41年に柚地にあった八幡宮と合祀し田耕神社と社名が改められた。厳鳥神社は平安時代からあったとされる古社である。写真は昭和30年、厳島神社が田耕神社に合記された際に行われた大祭での一枚。写るのは柚地婦人会の面々。どちらも浜出神事が有名であったが合祀により田耕神社に引き継がれている。〈豊北町田耕·昭和30年·提供=豊岡哲也氏〉(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)参考①田耕神社(参考)『田耕神社、下関』田耕神社(たす
下市商店街①現在の豊文館前付近から南西方向を撮影したもの。手前の子どもは交通安全運動をしているようだ。《豊北町滝部,昭和40年代.提供=下関市豊北歷史民俗資料館》上市の街並み民家が建ち並ぶ上市の道を子どもたちが登校中。近隣住民が声を掛け、登校を見守る。〈豊北町滝部·昭和40年頃·提供=堀川ミドリ氏〉滝部の歳末の市滝部の上市、下市は古くから商家で栄えていた。通りには美容院、呉服店、雑貸店などが軒を連ねる。写真では歳末の大売出しとあって多くの買物客が詰めかけている。〈豊北町滝部,昭和
滝部小学校校舎明治8年、開誘小学校として創立された。写真の校舎は大正13年に建設されたもので、設計はドイツ技師が、施工は宮大工の手によるものである。木造2階建て寄せ棟造りの本館に切妻の平屋建ての校舎が取り付けられ、昭和54年に県の有形文化財に指定された。現在は歴史民俗資料館として使用され、今もその威容を伝えている。〈豊北町滝部·昭和50年·提供=伊井賢太氏〉(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)参考①下関市立豊北歴史民俗資料館『太翔館(たいしょうかん)』(おいでませ山口へ、参考
浜出祭田耕神社に合祀されている厳島神社の女神と蛭子神社(神功皇后神社)の男神が土井ヶ浜で出会う祭事で7年に1度行われる。両神社の神輿や古式ゆかしい装束をまとった花神子行列が土井ヶ浜を目指して練り歩く。祭場である土井ヶ浜では弓矢を射る蟇目神事や、飾切神事などが行われる。上写真は神事のようす。中写真は行列に参加した面々で山伏も写る。下写真は土井ヶ浜へ向かう神輿。〈上:豊北町土井ヶ浜·昭和51年·提供=谷山昇氏、中:豊北町滝部·昭和30年,提供=藤川徹氏、下:豊北町神田·昭和30年,提供=古浮幸雄氏
参考ニシエフ遠景二シエフ下関市豊北町大字粟野4238
滝部小学校明治8年、滝部八幡宮境内に開誘小学校として創立された。写真の校含は大正13年に滝部出身の実業家,中山太一の私財で建設されたもの。昭和54年に新校含が建設されるまで使用され、現在は歴史民俗資料館とし使用されている。《豊北町滝部昭和50年代,提供=谷山昇氏》滝部小学校旧校舎で最後の運動会昭和54年の新築移転を前に旧校舎で最後の運動会。旧校舎には「思い出の連動場」「最後の大運動会」と書かれている。〈豊北町滝部,昭和53年,提供=下閃市豊北歷史民俗資料館〉(下関市の昭和より)(彦島の
阿川毛利氏の系図2022.10.8
毛利元鎮公の墓下関市豊田町大字殿居1068義民碑at浮石義民庄屋旧宅跡地亀尾山神社参道右に義民碑下関市豊田町大字浮石2023/9/25撮影参考①毛利元鎮②浮石義民『浮石義民直訴の地』①浮石義民の1回目の直訴の地宝永7年(1710)7月10日(旧暦)、浮石義民の五人が幕府巡見使に対し、1回目の直訴決行しようとした場所である。庄屋藤井角右衛…ameblo.jp
2023年6月30日からの大雨で被災した山口県内のJR山陰本線。現在も人丸(長門市)—滝部(下関市)の約22キロが不通となっています。同区間に含まれる、難読駅名で有名な特牛(こっとい)駅を訪ねました。被災した長門市—小串(下関市)の約50キロで運休が続いていた山陰本線は、今年6月22日に長門市—人丸と滝部—小串で一部列車の運転が再開しました。一方でバス代行輸送も長門市—小串で続いています。特牛駅の駅舎。一部で痛みも見えますがモダンな雰囲気です運休が続きほぼ人の出入りがな
人骨の出土状況(豊北町土井ヶ浜·昭和28~32年)埋葬姿勢は仰臥である。顔は西を向くように頭の下をやや高くして埋葬している。土井ヶ浜弥生人は顔が長く、ホリが浅く、身長が高い。彼らのルーツは大陸にあると考えられている。第3次調査の発掘調査風景(豊北町土井ヶ浜·昭和30年)砂丘上に墓地が営まれていたので、人骨の発掘はやりやすい。235号人骨を掘り出す人の手元も軽やかである。乾燥が速く、ピンクがかった人骨がみるみるうちに白く変化する。第4次調査の発掘調査風景(豊北町土井ヶ浜·昭和31年)調
昨夜、蕁麻疹が出た〜原因は不明数年ぶりな気がするけれど、忘れた頃にやってくるのよね〜痒みがひどくなかったので放置朝には消滅😮💨今日はドライブがてらに豊北町へ昔、寝台特急「あさかぜ」のシェフだった方↑が営む小さなレストランに入店懐かしのブルートレインだー料理の出来上がりを待つ間に写真を見ているだけでテンション上がる⤴️【和牛ハンバーグ200gのセット】他のメニューも色々ありましたが、9割以上のお客様はハンバーグを注文されるとの事デミグラスソースが半端ない美味しさでした👏
旧滝部小学校校舎明治8年、開誘小学校として創立された。写真の校舎は大正13年に建設されたもので、設計はドイツ技師が、施工は宮大工の手によるものである。木造2階建て寄せ棟造りの本館に切妻の平屋建ての校舎が取り付けられ、昭和54年に県の有形文化財に指定された。現在は歴史民俗資料館として使用され、今もその威容を伝えている。〈豊北町滝部·昭和50年·提供=伊井賢太氏〉(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)参考下関市豊北町大字滝部3153-1太翔館(下関市立豊北歴史民俗資料館、旧滝
国道191号の旧道昭和53年の津波敷隊道が開通するまで使用されていた海岸沿いの道である。この頃はまだ舗装されておらず、自転車で行く男性もなかなかペダルが進まなそうだ。〈豊北町神田上,年代不明·提供=下関市豊北歴史民俗資料館〉(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)参考津波敷トンネルと旧国道191号線津波敷トンネル北口津波敷トンネル南口津波敷温泉冷鉱泉を加温するため、食事込みで予約の事
時習館(下関市豊北町·昭和30~40年代)宝暦3年、阿川毛利7代目の広漢が、阿川に時習館を創設した。時習館の名前は、論語の「学而時習レ之(学んで時にこれを習う)から付けられた。(保存版「ふるさと下関」より)(彦島のけしきより)下関市豊北町大字阿川718参考下関市阿川(参考)『吉田松蔭の教えのルーツは下関市豊北町大字阿川』阿川毛利家は朝鮮半島と密貿易などを行っており、海外情勢については日本では最も熟知していた!吉田松蔭の母の実家の村田家は阿川毛利家の家臣とか!元々、尊王攘夷の地…
阿川毛利家最後の殿様、第14代・16代当主、毛利親彦(もうりちかひこ)が、令和5年5月26日、萩市椿東の中津江から先祖・妻子の眠る阿川毛利家墓所についに帰還した。阿川毛利家墓所、下関市豊北町大字阿川718参考
ツノシマクジラの命名1998年(平成10)9月11日、角島でイワシ漁から帰港する和田宗紀さんの船底に、クジラが衝突した。このクジラは、体長11メートルのメスで、外見はヒゲクジラに似ていたが、体長が成体の半分ほどで、新種の可能性が高まり、研究のため、砂浜に埋められた。白骨化した1年後、骨格の調査·筋肉·肝臓などのDNA鑑定を実施。上あごの骨の形態やヒゲ板の数などを、国立科学博物館などが調査し、晴乳動物では90年振りの、新種発見となった。新種クジラは、ツノシマクジラと命名され、2003年(平
豊北町にお住いのUさん。ご家庭のご都合で、今年2月よりレッスンをお休みしていましたが、いよいよ7月から復帰されました。待ってましたよ~!!でも、まだ色々な事情が万全ではありませんので、ご様子などを相談しながらフルートが楽しめるよう配慮していきたいと思います。復帰第一弾のレッスンは、アルテ1巻を頑張りました。お久しぶりのレッスンでしたが、今のUさんの精一杯の練習をして来てくださり、色々とアドバイスをさせて頂きました。やはり5か月のブランクは有りましたが、Uさんご
ほうせんぐり昔、この岩は阿川にある浄土寺の東側に流れていた沖田川の河口付近にあり、海水浴を楽しむ子どもたちが飛び込みをする岩として長く親しまれてきましたが、川の流れで海まで洗い流され現在の形になったとのこと。そしてその後、沖に防波堤が建設されたことや川の流れを付け替えたことで、海水の流れも変わり、岩は砂に埋まり海の中へ姿を消していましたが公園整備の時に公園の「象徴」としてこうしてこの場所に復活を遂げました。江戸中期に作られた『御国廻御行程記』の阿川村絵図にはこの一帯の地名として「法師ぐり
殿様から褒美を貰った名物男「倉衆の話」そう昔のことではない。京・大阪が最も華やいだ頃というから化政期、つまり文化文政の頃の話である。当時、粟野の浦には二隻の千石船がいた。庶民が納めた年貢米を大阪に運び、藩から運賃を受け取る商売をしていた。その商売も熟し、船主たちは儲けを増やすため一石二鳥の内職を考え始めていた。それが竹材の輸送である。粟野川流域の竹を切り出し、大阪の竹問屋に運ぶのである。船内には一杯の米を積み、船側の両脇に竹を束にして吊す様にして抱き、浮力を増しながら、船の内外で稼ぐのである
はじめに平成5年に「ふるさと豊北の伝説と昔話」第一集を上梓して以来、早いもので5年の歳月が経過し、引き続いて第二、第三集を刊行した。この間、豊北町は合併により下関市となっている。回顧すると、私たちの豊北地区は北前船華やかな頃や戦中戦後の一時期、農漁村が活気に溢れ、豊かではなかったが、子供たちが大勢で賑やかな時代があった。今ではご多分に洩れず豊北町は過疎化が進み、日々の喧噪がうそのように潮が引いた状態に変貌している。そこで豊北の昔日を愛惜し、かつての日々の再来を夢みてここに第四集を刊行する次第
吉吾の悪知恵昔、島戸の浜崎屋からスルメとイリコを仕入れた吉吾は、滝部村から田耕村や殿居村へ行商にでかけた。その日は年末の霰まじりの時雨が降る寒い日でした。吉吾は身体が冷えて寒くてたまりません。どこかで囲炉裏の火にあたりたいなと考えました。吉吾は悪賢く、コスイ男でしたから、どの家も警戒して居留守をつかい、戸を締めていました。吉吾はそんなことには慣れていたから田耕・川中曾のある農家に立ち寄りました。吉吾が「今日は寒いのぉー」と言っても、家の者は上にあがれともいいません。それでも強引に囲炉裏の側
はじめに第一集に続く第二集が、予想外の好評であったので、第三集を計画した。一つには新市の発足に間に合わせるためと、一つには旧町の特色を後世に残す事業の一つと考えたので、厳密な意味では「豊北町の伝説と昔話」の範疇を越えるものもあったが、急ぎ足で、多年豊北町の広報に掲載されたものや、「豊北町史」を始めて個人の出版物や、町内外からの資料の提供もあって、曲りなりにも第三集が発刊の運びとなった。其の間編集に当られた諸兄姉や、今は故人となられた関係者や、協力者に、心から敬意を表する次第である。此の挙に
かがり家・ひの家昔は、たいていの家には門名というものがあった。本当の姓の古沢とか伊藤とかは使わずに、「ふるや」とか「しんや」とかの通称を呼んだ。それが門名である。昔からの古い家柄だから「ふるや」その家からの分家であるから「しんや」、先代から先々代が出雲の方から移って来たから「いずもや」、「えびす家」はその家の持船の名で「えびす丸」ということがその由来であるが、中には随分と変ったものもある。神玉の二ノ宮さん(神功皇后神社)の社のすぐ下、土井ヶ浜海岸一帯を見下ろす所に「かがり屋」と「ひのや」と
はじめに浜出祭は豊北町田耕地区と神玉地区との間で行われる、豊北町最大のお祭りである。従来浜出祭は史書や言い伝えでは、元寇の際の蒙古軍の怨霊を鎮めるために始まったと伝えられて来たが、県指定の際の「意見書」では、「陰陽和合の出合祭」としている。伝説や昔話では徹底的に前者であるが、民俗学的考察は別にあってもかまわない。伝説や昔話は、そこに住む人々の信仰や心情を伝えるものであり、これを大切に伝承しなければならない。今年は丁度七年毎の浜出祭の年に当たるところから、浜出祭の伝説や昔話を主に第二集を出版
白滝山の竜神田耕氏の末裔、田耕の庄屋源兵衛は横暴な地主であった。厳しい年貢をとりたてては貧しい農民の生活をより苦しくしていた。それにもかかわらず源兵衛自身は、自分が誰からも尊敬さ誰よりも力があると考えていた。田耕の滝山には大きな滝があった。そこには昔から竜が住んでいるという言い伝えがあった。信仰深い村人はそれを竜神として祭り、大事にしていた。これを聞いた源兵衛はこれを利用して、もっと自分の力を誇示しようと考えた。滝山へ登って行くと滝が見えた。大きな滝であった。なるほど滝の下には竜神様がまつ
(豊北の伝説と昔話挿し絵)維新の女傑芳女・熊女文久から元治、慶応にかけ長州の風雲はまことに急であった。神玉、矢玉浦方庄屋、本田幸三郎の長女芳、次女熊は、国家有事の時であると男装に変え、萩越ヶ浜の築防に働き、余暇をみては、香川景虎に薙刀を学んだ。この時姉妹は、弟の死を悼み(長男虎之輔、慶応2年7月4日、大里戦闘において戦死、25歳)即刻下関に出向、高杉晋作に奇兵隊入隊を請うも許されず、軸重隊を請い薙刀を携えて軍中に出入した。時に芳21歳、熊19歳であった。一日姉妹は小倉兵と遭遇、奮
(豊北の伝説と昔話挿し絵)山居の観音岩の話「田耕きゃあ三千石、中の河内ちゃあ名所、水に、お米にごほうぎ所。」といわれた中河内に伝わった話じゃが、白滝山のちょっと西の山居ちゅう山から湧きでるそりゃあ冷やいええ水が年中こんこんと流れる渓谷の、ちょっと広場になったところに大けな岩(横が五メートルか六メートル、縦と高さは三メートル位)がある。その岩の西側をけずった平らな面の真中に観音像、両横に矛か棒をもたれた脇侍仏を、まわりに天女の舞か雲かと思われるものが彫られちょるが長い年月にもう見分けが
(豊北の伝説と昔話挿し絵)中山弾正と糸桜大内家の家臣、下田藤四郎は、尼子氏との戦いに疲れ切り、石見に近い山中で、戦友の弘中馬之助と大木の下で寝ていた。明け方近く、不思議な夢をみた。尼子の兵に追われ、川を渡り、山を登って逃げるが、兵はどこまでも追ってくる。とうとう山の頂で逃げ場がない。もうこれまでか、と覚悟を定めたとき、一条の光が差し、阿弥陀如来が現れ、二人に告げた。「お前を救ってやろう、これからは仏の道を歩め」夢から覚めた藤四郎は、横で寝ている馬之助を起こし、冷や汗を拭きながら不思議な夢
(豊北の伝説と昔話挿し絵)お花と重蔵江戸時代、肥中は北前船などが出入りする重要な港だった。その人たちを相手に、鋳物師、茶屋、湯女風呂などがあった。港の丘の上にある恩徳寺に大内義隆の側室「花の方」とよばれる尼さんがいた。戦災から逃れるため身重のままこの肥中に逃れ、義隆の霊を弔うために剃髪して恩徳寺を建てたという。子どもはじきに生まれたが産後の肥立ちがわるく、子どもを残したまま死んでしまった。赤ん坊は「お花」と名づけられ、鋳物師の叔父にあずけられたが、商売がうまくゆかず、借金のかたに売られ
(豊北の伝説と昔話挿し絵)阿川、岳山の人魂岳山の麓に住む弥吉は、やっと田植えが終わったので、牛を家の前の小川につれていき、代掻きで汚れた牛を手おけで洗っていた。下腹から足の付根の泥を洗い上げ、ふと上をみると、隣の家で幼なじみの喜代がほほ笑みながら、「いつも弥吉さんは精がでるね」と語りかけた。弥吉は父を早く亡くした。母と妹で一町歩の田んぼを耕し、この秋で23歳になる。この秋には伯父を仲人口とし、喜代を嫁にとひそかに思っている弥吉であった。翌日の早朝、弥吉は露を踏み、岳山に草刈りにでかけ