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今日は、月命日で『真言宗西福寺』に御参りを〜。
道路図バス交通みんなのための施設彦島の工場彦島で店の多いところ本村の工場と町排水管彦島の地質人口の移り変わり彦島の人口と世帯数仕事しらべ彦島漁業協同組合の漁場福浦町の移り変わり明治の終わり頃角倉校区地図角倉校区地図西山校区の移り変わり明治の中頃西山校区地図西山校区地図江ノ浦校区地図本村校区の移り変わり明治の終わり頃本村校区地図本村校区地図新しくひらかれていく町田の首付近大和町方向老の山より漁港方面をのぞむ老の山より関門トンネル入口付近
今日は、お寺の日。住職さんとお話ししていたら、檀家さん達が来られ本堂から2階へ行かれておりました。ふと窓の外を見ると、大樹に惹きつけられて目が離せなくなりました。この窓からの景色をまじまじと見た事がなかったですが圧巻でしたね。【西福寺】西福寺は大正12年建立の真言宗醍醐寺派の寺院で、設立一周期を記念し、彦島八十八か所霊場を安置しそのうち26か所を合わせ祀ってある。本堂内には、長さ2mの釈迦涅槃像がある。真言宗醍醐派西福寺は、京都市伏見区の醍醐寺を総本山とする真言宗のひとつ
日明ターミナル荒田ターミナルフェリーちくぜん(昭和47年8月就航)総屯数499.10屯旅客定員250名搭載車輛乗用車12台トラック12台フェリー長州(昭和49年10月就航)フェリーふく彦(平成7年11月就航)総屯数680屯旅客定員250名搭載車輔乗用車12台トラック12台フェリーはやとも(平成11年8月就航)総屯数674屯旅客定員350名搭載車輛乗用車12台トラック12台(澤忠宏関門海峡渡船史より)(彦島のけしきより)参考2011年(平
1920年七里七浦七えびす島は七島回れば七里七里七浦七恵比寿古くから『彦島謡』の一節に、こんな文句がある。むかし、平家全盛のころ、平清盛は、平家の祈願所を設けるために、全国に『七里七浦』の地を探させた。それは、七という数字が縁起のいい数だからで、家来たちは全国津々浦々、くまなく探しまわり、結局残ったのが、長門の彦島と安芸の宮島の二カ所になった。しかし、彦島は、七浦だけは揃っていたが周囲を測ってみると六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)で、七里に少しばかり足りな
昭和20年代、木暮実千代と広津藤吉(梅光学院初代学院長)(ふるさと下関より)小暮実千代こぐれみちよ(1918-1990)大正7年、下関市彦島町で生まれました。本名は、和田つま、梅光女学院へ進み、日本大学芸術科を卒業。在学中から松竹映画に出演し、入社一週間目に菊池寛原作の「結婚天気図」の主役に抜擢され、そのまま映画界入りしています。同19年には満州に渡り、スクリーンを離れますが、引き揚げて帰ると、再び松竹に誘われ「許された夜」でカムバックしています。以後、「青い山脈」で毎日映画コンクー
1920年の彦島引島は彦島むかし、下関と門司の間は陸続きで、その下に小さな穴が開いていた。外海と内海の潮は、その穴を行き来して流れていた。ある時、神巧皇后が大軍をひきいて、三韓との戦にお出かけになろうとすると、下関と門司の間の山が、突然、海に落ち込んで水路が出来た。落ちた山は、急流に押されて西へ流れ、一つの島になった。ちようどそのさまが、山を引き分けて海峡を作ることにより生まれたように見えたので、その島を『引島(ひきしま)』と名づけた。また、こんな説もある。むかし、彦島と伊崎とは陸続き
ʕ·ᴥ·ʔたった今、友人から連絡が入り、家の車庫のまえを白地の大きな犬が歩いていた。首輪はしていない。どうしたらいい?って尋ねられたので、そのデカさだったら、この雷⚡️に驚いて逃げちゃったんだよ。まだまだ酷くなるから、危ないから、センターに連絡してみて!って伝えたら、折り返し連絡が入り飼い主さんが探してるって!どうしよう?相手の方に連絡できるの?自分の番号伝えた?聞かれなかったから、言わなかった。って!アホか!すぐ、犬がいた場所まで戻ってみてごらん。ワンちゃ
①桃崎稲荷大明神かつてこのあたりは小瀬戸の風景の中でも最も美しい場所と言われており、対岸には高級料亭が軒を並べ、漁船に篝火をともし、捕れたての魚を客に振る舞う船遊び(小門の夜焚)も盛んでしたが、大正から昭和にかけて現在の大和町付近の大規模な埋め立てが行われ、潮の流れが変わってしまい、今はもうその面影もありません。その一角にあるこの身投げ岩は緑の木立を背景にいくつもの巨岩が屹立している場所で、地形的には老の山の山かげにあり、入り組んだ細い路地の奥なので通行人もほとんどなく、身投げ岩の存在は一
彦島の氏神【彦島八幡宮】屋根の銅板が美しい緑色をみせている「彦島八幡宮」は、彦島の氏神として、多くの人々に親しまれています。平治元年十月、河野通次が自ら祭りの主となって宇佐神宮より、分霊を勧請したものと伝えられ、別の名を「灘八幡」「子安八幡宮」ともいわれ、航海安全、安産の神様として、広く知られています。秋の大祭には、八百年前から伝えられている「サイ上り神事」が行われます。「サイ上り」とは「サァ上がらせ給え」と云う言葉が変化したものといわれ、市の無形文化財に指定されています。この神事は、彦
彦島にあるお店でお値段親切価格!モーニングもあって、昔の喫茶店みたいでしたね。な
現在昭和50年(1975年)昭和38年(1963年)
山口県下関市彦島迫町4丁目4十二苗祖(じゅうにびょうそ)むかし、彦島は『引島』と呼ばれていた。今から約八百三十年前、つまり保元二年(1157年)一月のこと。四国伊予の勝山城主、河野通次は戦にやぶれ、九州へ落ちのびようとして、この海峡を渡りかけた。その時、真紅の太陽が引島の背に落ちかかっていて、その美しさに打たれた通次は、『今宵は、あの島で夜露をしのごう』と、上陸した。翌朝、通次は家臣の主だった者五名を連れて、島内を調べたところ、この島は本州と九州を隔てる海峡の喉元にあたり、勝山
下関市彦島本村町5丁目3−1西楽寺参考西楽寺専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。
下関市彦島老町1丁目11−13貴布弥神社参考①貴布祢神社貴布祢神社拝殿(下関市彦島老町·大正15年)牛の宮とも呼ばれ、福浦家畜検疫所が全盛だった頃は毎年5万頭に及ぶ朝鮮牛の疫病予防祈願で賑わい、秋分の日の奉納角力は関西·九州からも力自慢が馳せ参じた。(.下関・豊浦の100年より)②福浦家畜検疫場(参考)農林省動物検疫所門司支所福浦検疫場に「畜魂碑」があった。福浦検疫場は、明治37年に下関牛疫検疫所として福浦海岸派出所を設置したのが始まり。福浦検疫場は昭和40年1月26日に閉
下関市彦島の海士郷町参考
高杉晋作が彦島を救った1幕末、彦島はその後の日本史を大きく変えてしまうかもしれないほどの危機にさらされていました。当時の窮地を救ったのは、若干26歳の「高杉晋作」でした。晋作が24歳の時に、上海に旅行に行っていなかったならば、今頃皆さんの家は彦島にはなかったかもしれない…というお話です。攘夷の決行1863年、長州藩は「攘夷」を決行します。攘夷とは「夷人をしりぞける」。つまり外国を実力行使で撃ち払うという考えでした。攘夷戦にそなえて、彦島にも老の山や竹ノ子島、山床(田の首)などに砲台が築か
彦島大橋を仰いで【老の山】2500万年前という、とほうもない太古の貝が、化石となって現在なお姿をとどめている西山海岸を後にすると、彦島の海岸めぐりも、最後のコースとなります。彦島で海水浴を楽しむことができる唯一の場所「西山海水浴場」には、北九州からの海水浴客が訪れて、すこぶるにぎわいを見せた一時期もありましたが、最近では、その数も少なくなっているそうです。初冬の風に向かって沖を望むと、波間に多くのウキが浮かび、ワカメの養殖場を示しています。養殖ワカメは、吉見の水産指導所で5月ごろ縄に種付け
知盛、彦島に本陣1彦島福浦(下関市)京の都に栄華をきわめた平家一門も、頭領清盛の死を境として急速に衰退への道をたどり始めた。新しい勢力である武士団として興りながら過去の貴族社会へあこがれた平家は、その内部矛盾によって自ら崩壊を進め、いよいよ源氏との対決のときを迎える。まず寿永二年(一一八三)、木曽義仲が京都へ進攻を開始、五月、平家の大軍を越中国倶利伽羅峠に破って、七月には入京。このため平家の惣領宗盛は、安徳天皇を奉じて太宰府に逃れる。これに西国の豪族たちが味方して勢力を挽回、閏十月、義
青年の自主的修養の時代1語り手村岡安吉明治初年以前においては、島唯一の寺院でありました専立寺に、お寺周辺の農家の青年が会合して、ご住職より国語・算術等の教育を受けておりまして、すなわち寺子屋式の教育が行われていたようであります。明治時代になりまして部落の有力な方の住家、老部落では百合野七太郎氏の家、屋号を「上の郷」、本村部落では植田カンゴ氏の家、屋号を「奥」の宅に会合して、その監督指導のもとに青年の自主的修養が行われておったのであります。しかるに両家の事情で会合が出来なくなり、再び専立
人口増加の趨勢について1語り手安光清一彦島の人口増加の趨勢について安光清一氏からお話を伺います。安光氏は現市議会議員、山口県地方都市計画常任理事、下関市第十六連合会自治会長として地域の発展に活躍しておられます。ただいまから彦島の人口増加の趨勢について、申し述べることにいたします。これは過去の記録ならびに、現存の長老の方から承ったお話を参考にして申し上げたいと思います。彦島は明治4年の区制実施に従いまして、山口県豊浦郡第九区第三小区に編入せられ、超えて明治16年赤間関区に編入せられまして、
10月もあっという間に半分が終わった…遡って記録。先月末、姪のユナから「アイちゃん…お願いがあるんだけど…」「10/3にユナの誕生日をお祝いするから遊びに来てくれない」と電話がかわいい姪っ子の頼み、もちろん行くに決まってる緊急事態宣言もあけたし、みんなで下関へ行きました夕食はみんなでBBQ20こ下の従弟ももうすっかり我が家に馴染んでました翌朝は大西道場の階段トレーニングに参加させてもらいました朝からみんな「ちーん」でしたが(笑)頑張ってましたじじばばからのご褒美で、トレーニング後は
彦島の地名彦島の地名が初めて文献に現れるのは、720年に成立した「日本書紀・仲哀紀」であり、引島と書かれています。さらに「平家物語」では「平家は長門国引島に着くと聞こえしかぱ」と書かれ、「吾妻鏡」に初めて彦島が出てきます。「源平盛衰記」には、新中納言知盛は長門国彦島と云う所に城を構へたり。是をば引島とも名付けたりとあり、彦島とも引島とも云へり」とそれぞれ記しています。「彦島」という表記になったいきさつについては諸説ありますが、幕末に外国軍艦を砲撃する為に彦島に砲台を作った際、引くは戦いに
金比羅狐むかし、下関の港は、北前船西廻り航路の寄港地として栄えていました。それは、奥羽、北陸地方から米や、にしん、こんぶなど数多くの塩干魚などをなどを積んだ船が、日本海を西下し、瀬戸内海を東上して大阪に向かう際に、この港が最も重要な役割を果たしていたからです。そのころの下関は兵庫の港と共に西国一を競う程の繁昌ぶりだったと言われています。一般には、下関の港、と表現されていますが、その中には、彦島の南風泊りと福浦の両港も当然含まれていました。南風泊港は、文字通り南の風を避ける為の港で、福浦港
彦島バス停留所名ロータリー水門本村黄紺川老町海士郷老山公園口卯月峠迫東圧正門前西山口三井金属前西山彦島第二保育園前波高渡瀬竹の子島東圧社宅前荒田荒田ゴルフセンター前荒田港福浦本町福浦福浦二町福浦口中部学院前青葉台入口塩浜床平彦島営業所塩浜北口田の首口田の首向井小学校前向井町民館前山中二山中杉田二杉田姫の水弟子待一弟子待二弟子待三江浦幼稚園前江の浦桟橋通堀越彦島変電所前絞荒田口(サンデン交通ホーム
金の弦岬灯台金の弦(きんのつる)彦島の南端、田の首には『カネガツル』という岬があるが、少し東よりの弟子待がわにも『金の弦岬』と呼ばれる岩山がある。むかし、この岩山に一本の桂の木が枝を伸ばしていた。春になれば紅色の花を咲かせたが、その実は不思議にも金色に輝いていた。浦びとは、この桂の木を、月からの贈り物に違いないと喜び、木の回りに、しめ縄を張ってお供え物を欠かさなかった。ところが、ある年の秋、この付近を襲った台風が、桂の木を根こそぎ抜いて海に流してしまった。浦びとたちは、嘆き悲しんだが、『
鬼の墓舞子島の西側に、大きな眼鏡岩がそびえ立っておる。むかし、この海岸は多くの鬼どもの根城であった。鬼どもは朝に夕に、眼鏡岩にのぼっては沖を通る船を監視しておった。そして、荷物をたくさん積んだ船が通りかかると、小舟を漕ぎ出して、さんざん掠奪をくり返した。そのやり方が、あまりにあくどいので、ある日、テントウ様がお怒りになり、鬼どもをこらしめることになった。その夜、鬼どもが総勢集まって円陣を組み、酒盛りをしておると、一天俄かにかき曇り大嵐となった。その上、雷までが頭のすぐ上をころげ回った。鬼
竹の子島渡し第一次世界後、ウィルソンの国際連盟が出来て、再び戦争はあるまいという平和気分が漲り、要塞地帯の下関も、かなり自由に描けた一時期があった。そのころ私は竹崎から渡船で彦島本村に渡り、西山に出て竹の子島まで歩いて度々スケッチに行った。現在は立派なコンクリートの大橋になっているが、そのころは渡し舟で島へ渡るのであった。渡し守といえば佐倉義民伝の芝居でお馴染の老爺と定まったるのだが、ここは何と十七、八の赤い襷をかけた娘さんで頗る美人。十数年前、毎日新聞下関版に、昔の絵と現在の写真を併せて
漁港閘門子鯨の話小瀬戸の海坊主テトリガンスの二つのつぼテトリカンス金比羅さまの石段竹の子島の灯台貝のうらみ海峡に浮かぶ巌流島海賊島とも呼ばれるリンゴ山辰岩きぬかけ岩の観音像平家の守り本尊阿弥陀様彦島八幡宮大鳥居彦島大橋と六連島彦島・六連島・下関駅周辺図(ひこしま昔ばなしより)きぬかけ岩むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に
高杉晋作と六連灯台文久三年(一八六三)五月、尊王壌夷の血気にはやる長州藩は、関門海峡通航のアメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦を矢つぎ早に打ち払い、束の間の凱歌をあげたが、翌六月には早くもアメリカ軍艦とフランス軍艦により、強烈な報復の打撃を受けて顔色を失い、その結果、高杉晋作が起用されて奇兵隊を結成し、その後の防禦にそなえたが、外国の近代兵器の前にはいかんともしがたく、翌元治元年八月には、英、仏、米、蘭の四カ国連合艦隊により、壊滅的な損害を蒙り休戦となったのである。ここで再び高杉