ブログ記事16件
NHKスペシャルシリーズ未解決事件File.10下山事件放送のお知らせ“戦後史最大のミステリー”として、いまなお多くの謎につつまれる占領期最大の未解決事件「下山事件」。今回、その闇が明らかになるー。[総合]3/30(土)放送www.nhk.jp森山未來「想像をかき立てられてしょうがない」戦後最大のミステリーといわれている事件をドラマ化NHKスペシャル「シリーズ未解決事件File.10下山事件」(エンタメOVO)-Yahoo!ニュース3月25日
下山事件(しもやまじけん)は、日本が連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁内部でも捜査一課は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「
下山定則総裁1949年7月5日朝、出勤途中だった初代国鉄総裁の下山定則氏が奇妙な行動の末、失踪した。翌6日未明、東京都足立区の常磐線と東武伊勢崎線が交差する高架下付近の線路で、男性の轢死体が発見された。後に、これが前日に失踪した下山総裁のものであると判明し、騒動になった。当初は自殺かと思われたが、不可解な証拠が多数出てきたことから、他殺説も囁かれるようになった。捜査の過程で浮かび上がった物的証拠は明らかに「他殺」の可能性を示していたにもかかわらず、約1か月後、事件は強引な形で自殺
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。「二著物語:下山事件(その1)」~「二著物語:下山事件(その11)」では、戦後若しくは昭和史最大のミステリーとも言うべき下山事件を扱った書を論じた。謎が多い事件であるがために、これを題材にした小説も数多く上梓されており、その内容も事件をめぐる論争を反映したものとなっている。まず、最近のものでは、「二著物語:下山事件(その8)」~「二著物語:下山事件(その11)」で俎上に乗せた『下山事件・最後の証言』を書い
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前回「二著物語:下山事件(その10)」では、筆者(山本)なりに、事件をめぐってなお残る疑問点について分析してみた。今回は、その続きと総括である。自殺説がなお完全に否定できない根拠を幾つか挙げてきたが、まずはその続き。④“下山油”をめぐる疑念:(1)“下山油”への過剰な拘り:これまでの他殺説論者同様、柴田も下山総裁が植物油がある工場のような場所に監禁された上に殺され、その際に着衣に付着した油が“下山油”と
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前回「二著物語:下山事件(その9)」では、柴田哲孝『下山事件最後の証言』の内容から、著者(柴田)の祖父と、そのパートナーであった矢板玄の事件への関与を濃厚に示す幾つかのエピソードを紹介した。*自殺説、なお否定できずこの柴田書で他殺説が俄然有利になったことは否めない。だが、決定的になったとも言えないであろう。以下、常識感覚を働かして筆者(山本)なりの若干の疑問を提示する。①長島フクの年賀状―現物が存在せ
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前回「二著物語:下山事件(その8)」では、柴田哲孝『下山事件最後の証言』の内容の一部を紹介し、有力“容疑者”で著者の祖父の仕事上のパートナーであった矢板玄とのインタビューの模様を同書の圧巻とも言うべき箇所として抜粋した。これ以外にも、同書には注目すべき記述が幾つかある。*不気味なエピソード:著者(柴田)は、自身の周囲で起きた不可解な出来事も幾つか紹介している。いずれも、著者の祖父が事件に関与した疑惑を深
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前々回「二著物語:下山事件(その6)」で論じた諸永書と、前回「二著物語:下山事件(その7)」で俎上に載せた森書が共に言及している『彼』は自身物書きではあったが、当初は自分で筆を執って下山事件について書くことを躊躇っていた(森、198頁)。ところが、後に翻意して自らが執筆して世に問うことを欲するようになる(森、308頁)。その結果として出されたのが、柴田哲孝『下山事件最後の証言』、祥伝社文庫、2007年(単行本
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前回「二著物語(その6)」で触れた諸永書には、一緒に取材・調査を進めていた人物として、映画監督・作家である森達也が所々に登場する。その森も、森達也『下山事件(シモヤマ・ケース)』、新潮文庫、2006年という書を世に出している。何故一緒に取材・調査していた諸永との共著とならなかったのかと訝る向きもあろうが、当書には、そうなった経緯が詳述されており、むしろ、そちらの方が主題なのではないかとも思えてしまう内容
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。「二著物語:下山事件(その1)」~「二著物語:下山事件(その5)」では、下山事件を扱った1970~80年代の著書の内容を分析してきた。90年代の終りから今世紀にかけて、新証言を基に同事件を新たに洗い直す動きが出て来た。諸永裕司『葬られた夏・追跡下山事件』、朝日新聞社、2002年は、事件の鍵を握ると思われる人物へのインタビューに至るまでの渡米時の模様を綴ると同時に、当時存命であった事件関係者や周辺人物へ
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前々回「二著物語:下山事件(その3)」前回「二著物語:下山事件(その4)」では、自殺説を代表する佐藤一『下山事件全研究』を俎上に載せた。今回取り上げるのは、自殺説を明確に唱えてはいないものの、事実上自殺説を打ち出している書である。錫谷(すずたに)徹『死の法医学・下山事件再考』、北海道大学図書刊行会、1983年の始めから三分の二ぐらいは、法医学上の死の定義や、事故・自殺・事件に見られる様々な死の形態・
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前回「二著物語:下山事件(その3)」では、自殺説の代表例といえる佐藤一『下山事件全研究』を取り上げ、その内容の一部を概説した。今回は、概説を続けると共に、その内容の問題点を若干指摘する。*遺体の列車運搬説への反証:他殺説の中で、①下山総裁を轢断した869貨物列車の田端出発が何等かの工作で遅らされ、②下山総裁の遺体は進駐軍の列車によって現場まで運ばれた、という松本清張らの説に対しては、以下の反論を行なっている:
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前々回「二著物語:下山事件(その1)」前回「二著物語:下山事件(その2)」では、他殺説の草分けとも言うべき矢田喜美雄の書の内容を紹介した。このような他殺説に対する自殺説を唱える中では、佐藤一『下山事件全研究』、時事通信社、1976年が、一番緻密で詳細な検証を行っている。著者は、下山事件と同じ年に起きた松川事件の被告として訴追されるも、最終的に無罪判決を受け、その後下山事件の検証委員会の一員
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前回「二著物語:下山事件(その1)」では、事件の概要を説明すると共に、事件直後から「他殺説」の急先鋒であった矢田喜美雄の書を紹介した。以下、前回に引き続き、矢田書の概説をする。<3>五反野での目撃証言の不確かさ警視庁捜査一課が自殺説に傾く端緒となったのは、現場となった五反野の末広旅館に下山総裁らしき人物が休憩したとの証言である。その後、その周辺でも似たような人物の目撃情報が多数寄せられた。だが、当初から、これ
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。戦後史最大のミステリーと言っても過言ではない事件である。昭和24(1949)年7月5日、当時発足したばかりの日本国有鉄道(国鉄、現JR)初代総裁である下山定則は、公用車で出社途中に運転手に三越に立ち寄るよう命じ、「五分ぐらいで戻る」と言い置いて同デパートに入るが、なかなか戻ってこない。そのようなことが日常茶飯事であったので気に留めなかった運転手は夕方までその場で待ち続けるが、国鉄本社では出社してこない総裁の安否
我が国犯罪史上において真相や犯人が分からない、いわゆる〝迷宮入り〟した事件は多々あれど、政治絡みでVIPが絡んだ大事件・・・といえば、今からちょうど70年前の今日・1949年7月5日に起きた下山事件ではないでしょうか。ほぼ1ヶ月前に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則氏は、同日朝8時過ぎに自宅を公用車で出発。出勤途上、運転手に日本橋・三越に行くよう指示し、午前9時30分過ぎに「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げて店
西郷隆盛宿陣跡資料館はてなダイアリーブログ「宮崎祝賀会」で紹介したように、10日はサンレー宮崎の新年祝賀会が行われました。終了後、わたしはマリエールオークパイン延岡を後にしました。向かった先は、宮崎県延岡市北川町川内名にある「西郷隆盛宿陣跡資料館」です。NHKの大河ドラマ「西郷どん」がいよいよスタートしましたが、延岡こそは西南戦争最後の...下山事件(1949年)の跡を歩いてみた!趣味人倶楽部事件が起こったのは昭和24年(1949年)7月6日、午前1時ころだそうです。国鉄常磐線の
今日は、初代国鉄総裁の下山定則(~1949、昭和24)の生まれた日です。国鉄は現在民営化されているJRの前身です。下山定則1901年(明治34)生まれ。兵庫県出身ですが、父親が転勤族だったようです。彼の名前そのものよりも、「下山事件」と書いたほうがピンとくる方多いのではないでしょうか。たまたまですが、先日ブログでお伝えしたように、http://ameblo.jp/nijyo-hikaru/entry-12182484092.html謀殺下山事件(矢田喜美雄
下山事件は1949年7月5~6日(昭和24年)初代国鉄総裁、下山定則が就任1ヶ月後、常磐線五反野駅付近の線路上で轢死体となって発見された。10万人以上の大量首切りの発表をした直後のことで、労働組合、共産党が疑われた。またはそのように、仕向けられた。。あらゆる証拠は明らかに他殺を示した。しかし政府はなぜか、自殺と判定し、そそくさと捜査本部を解散する。納得できない遺族に、捜査一課は霊媒師を連れてきた。下山総裁の霊が「私は自殺だ」と憑依する。。(児玉直三の証言)以後、今日まで