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いよいよ2025年も押し詰まってきました。下街道歩き、その③からの続きです。第二回下街道歩きは、前回中断地点のJR中央線新守山駅から。駅から街道の中断地点に向かう途中、あ、見えた笑!郵便局のあたりから街道復帰、いざ歩き出します。歩き出してすぐに今日最大の目的地楽しみのひとつ、本日の酒蔵、東春酒造さんが近づいてきました。直売所もあるのです、嬉しいね~!新酒を一本購入させていただきました、もちろんとっくに美味しくいただきました。江戸末期創業のこ
時期:2023年11月下旬NHK「どうする家康」でどうしても気になったのが小牧長久手の戦いで家康(+織田信雄)が陣を敷いた小牧山だった。榊原康政が秀吉に心理戦を仕掛けたり、僅かな日数で敵に気づかれないように堀を巡らせたとか、小牧山がどんな城なのか見てみたくなったので、涼しくなったので11月後半に訪れてみた。小牧は「家康が天下を治めるは大阪ならずして関ヶ原にあり。関ヶ原ならずして小牧にあり」と詠まれた場所だ。NHK「100分de名著『司馬遼太郎・覇王の家』」で読んだネタだが、同書にも
「愛知の街道」(全体図)(1)愛知の街道として、12筋あげた。全体図は下記クリック愛知の街道F-Googleマイマップ愛知の街道Fwww.google.com東海道(記述済)三州街道(足助街道)記述済佐屋街道飯田街道別所街道平坂街道常滑街道師埼街道美濃路下街道上街道稲置街道(参考・中山道)
京終・紀寺界隈(奈良散歩/前編)|高坂正澄京終(きょうばて)紀寺(きでら)奈良町南の京終・紀寺エリアは、古代からの上街道が通り、奈良の七口のうち3口があるなど、交通の要所でした。明治31年に鉄道開通し京終駅ができ、人や物の運搬とともに、文化や風習が行き交った町なのでした。駅舎は2019年にリニューアル(開業当初の姿)されたようです。そんな京終・紀寺界隈を何年かぶりに歩きました。…note.com奈良町南の京終・紀寺エリアは、古代からの上街道が通り、奈良の七口のうち
大和神社ちゃんちゃん祭り|高坂正澄[大和神社とちゃんちゃん祭り]大和(おおやまと)神社は、ヤマトの国名発祥の地とされています。大和一国の地主神として伊勢神宮と並ぶ最古の神社です。4月1日におこなわれる例祭「ちゃんちゃん祭り」は、『祭りの初めはちゃんちゃん祭り』と古くからいわれていて、大和に春を告げる祭りとして、つとに有名です。「ちゃんちゃん」の名称は、お渡り(神幸祭)の時…note.com大和(おおやまと)神社は、ヤマトの国名発祥の地とされています。大和一国の地主神として伊勢
2025年3月26日愛知の街道「上街道と稲置街道」(10)「愛知の街道」(全体図)(1)全体図は下記クリック愛知の街道F-Googleマイマップ愛知の街道Fwww.google.com愛知の街道として、12筋あげた。東海道(記述済)佐屋街道地図あり飯田街道地図あり三州街道(足助街道)記述済別所街道平坂街道常滑街道師埼街道美濃路下街道上街道稲置街道(参考・中山道)今回は、「上街道と稲置街道」街道地図は下記ク
2025年3月17日「愛知の街道」(全体図)(1)愛知の街道として、12筋あげた。全体図は下記クリック愛知の街道F-Googleマイマップ愛知の街道Fwww.google.com東海道(記述済)三州街道(足助街道)記述済佐屋街道飯田街道別所街道平坂街道常滑街道師埼街道美濃路下街道上街道稲置街道(参考・中山道)
2025年2月5日(日)「上街道と稲置街道」つまみ食い街道の旅(GSV)街道地図は下記クリック下街道・上街道・稲置街道F-Googleマイマップ下街道・上街道・稲置街道Fwww.google.com上街道と稲置街道F-Googleマイマップ上街道と稲置街道Fwww.google.com始めに、上街道「東区泉1~可児市今渡」つまみ食い街道の旅(GSV)上街道上街道(うわかいどう)は、中山道と名古屋城下を結んだ脇往還(街道)。起点・「中国料理店・五福楼ウー
大崎近郊は旧街道跡がいくつかあります。その代表格は国内主要道の1つだった奥州街道ですが、その近郊からいくつか街道が分岐しています。その中でも大崎市岩出山の天王寺追分は出羽街道と上街道?(迫街道??)の分岐点としてよく知られています。奥の細道の松尾芭蕉さんも出羽に向かう途中一関方面からここに来て堺田方面に向かったものと思われます。追分になるのでしょうか?現在は岩出山ー鳴子温泉間は国道47号があり脇道的道路なのでしょうか?なおアルバムや映像等は【出羽街道と上街道の分岐点大崎市岩出山】
大井戸の渡し跡(承久の乱大井戸の戦い跡)の見学を終え、「上街道」を進みます。歴史ある「大井戸」の地名は地図から消えてしまいましたが、「渡(わたり)」の字名を残します。中仙道(土田)一里塚跡の碑がありました。江戸日本橋から98里。初期の中山道は土田を通り、犬山の「内田の渡し(鵜沼の渡し)」を渡っていました。その後江戸中期まで「大井戸の渡し」そして後期に「今渡の渡し」と変遷しています。その結果、ここの一里塚が廃止され、対岸に古井一里塚が造られています。
この大井戸の渡し(尾張川:現木曽川)は、鎌倉時代に起こった国内最大級の内乱・承久(じょうきゅう)の乱の口火を切った「大井戸の戦い」の場所でもあります。㊟サライよりお借りしました。承久の乱とは、承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権北条義時に討伐の兵を挙げて敗れた兵乱のことです。日本史上初の朝廷と武家政権との間に起きた武力による争いで、鎌倉軍の圧勝により支配階級が公家から武士へと移り変わる画期的事件でした。以降600年にわたり武士が政権を担い続ける契機となりました。鎌倉
「上街道」歩きは白髭神社の参詣を終え…八幡神社を経て…木曽川左岸に来ました。津島神社でしょう。あるいは水神様?堤防下に「旧跡土田(大井戸)の渡し場跡」の木柱が立てられています。江戸時代の中期頃までの中仙道(東山道)の渡河地点…とあります。江戸時代中期頃までは、中山道はここから美濃太田宿に渡っていたのです。対岸は中山道太田宿です。木曽川両岸とも整備が進み、往時の面影はありません。中山道の渡しは江戸時代後期、上流
「上街道」を進みます。曹洞宗のお寺「報恩寺」です。先に記事にした「土田のビードロ」の創業者・石塚岩三郎は、幕末に没しここに葬られています。報恩寺から主要道路に出ると、屋敷門だけがポツンと残されています。少し前までは屋敷があったようですが、今は綺麗に整地されています。ここが「土田宿本陣跡(止善殿)」があったところです。この地は旧東山道土田~善師野~犬山という経路があったことから、古くから宿駅があったようです。初期の中山道の宿駅でもありました。木
土田城跡から下山し「上街道」を進み、可児川に架かる刎橋を渡ります。先ほど登った「土田山(城跡)」…左のピークが出丸跡(標高182m)、右のピークが本丸跡(標高172m)です。比高は110m程です。旧街道にある雰囲気のある立派なお屋敷がありました。地区の有力者のお屋敷と思われます。旧街道を歩いていていつも感じることは、地域の有力者は、維新後郵便局を預かったり、たばこ販売(かっては専売)を手掛けることが多かったようです。いま
土田城跡に登ります。土田城の築城など生駒三代については、昨日詳しく書きました。「土田城」は、標高172mの土田山に築かれていました。周囲絶壁で堅固な山城だったことがうかがえます。五輪塔が並んでいます。土田城ゆかりの人物のものでしょうかね?強固な岩盤に覆われた山です。しばらく歩くと本丸への登城口(大手登城口)がありましたが、かなり荒れているようで、登城禁止となっています。どんどん奥に進んでいきます。
「上街道」土田の切通しの正面の山は「土田山」です。左に曲がりこんで見える山は…「鳩吹山」です。標高313.5m、麓はカタクリの群生地としてハイカーに人気の山です。国道をくぐると…鳩吹山大脇ルート登山口があります。1時間弱で登れそうですが、今回は登りません。で、その反対側に生駒氏三代の居城「土田(どだ)城趾」があります。今回はその城跡に登ります。土田城を築いたのは、この地に勢力を持っていた豪族・土田氏が、文明
石拾峠を越え「上街道」は岐阜県に入りました。上街道は右に進みます。道標が二つ。「左名古や」と刻まれたものと「左犬山右つがお」と刻まれたものです。元はそれぞれ近くの峠に建てられていたものと思われます。比較的新しい道標が建てられています。なかよし生き物倶楽部プチZOO…ってあります。移動小動物園企画会社なんでしょうかね。上街道の両側にゴルフ場が広がっています。街道を挟んだ両側の丘陵地にゴ
「上街道」歩きは善師野宿の善徳寺を過ぎ先に進みます。左側に今は往時の姿はありませんが、本陣日比野家があったところです。㊟概要図には禅寺野宿場とありますが、由来が良くわかりません。さらに北進すると村のはずれに、木曽街道一里塚旧跡・左犬山及小牧宿へ三里と刻まれた「一里塚跡碑」や往時を偲ぶ石仏が祀られています。「山の神」でしょうか…祀られています。「上街道」は完全に山道に入りました。この標識はなに?…うっかり入り込み間違いに
3/3日「上街道」を歩いてきました。今回は善師野宿~土田宿までです。名鉄小牧線楽田駅近くに車を停め、小牧線を利用して…犬山駅で広見線に乗り換え…前回歩き終えた善師野駅まで行き、そこからスタートです。名鉄広見線を踏み切ったところに…津島神社でしょうか、祀られています。ここから上街道「善師野宿」ですが、宿場の雰囲気は残っていません。「上街道」は「木曽街道」などとも呼ばれ、元和9年(1623)尾
「上街道」を進みます。ポツンと石仏が…左せんじの右なごや…とあります。国道41号線をくぐります。県道は地道のような道になります。ゆるく右に…善師野に向かいます。白百天龍王神…を祀りますが、どんな信仰なのか…清水交差点に「護應山清水寺」の案内板がありました。ここから250mとありましたので寄って見ようと進んだのですが、いけどもいけども…↑看板に「贈宮川潤一」とあります。この方はこの
「上街道」を進みます。茅葺かぶせ屋根の邸宅。かなり年季が入っています。梅が満開でした。前原信号交差点手前に「山神さま」が…「山神」は、山に宿る神の総称で、一般に女神とされます。中世以降口やかましい妻の呼称の一つとして「山の神」が用いられるようになったとか。農民の間では、春になると山から下りてきて田の神となり、秋には再び山に帰るという信仰がある。ここでは農業神のようですが、山の民にとっての「山神」は、山を守護する神として祀られ
「上街道」歩きに戻り先に進みます。尾張富士に寄り道したことで、かなり時間を消費してしまいました。さきを急がねば…豪農のお屋敷です。尾張徳川藩によって拓かれた「上街道」は、県道として存続しています。ところどころに蔵を残します。道なりに右に回りますと…鉄塔が林立し、大規模な変電所があります。「中部電力パワーグリッド株式会社羽黒変電所」とあります。ここでは高圧の電力を送電線をへて
中宮で一休みし奥宮を目指します。「八百比丘尼の岩」なるものがありました。八百比丘尼は人魚の肉を食べて八百歳まで生きたという伝説上の尼さんですが、八百比丘尼伝説は日本各地に残っています。この地犬山五郎丸にも八百比丘尼伝承が残ります。現地説明版によれば…かって、中宮以上は女人禁制でしたのに、その尼さんはさらに登ろうとしたら、かたわらの石に手が張り付いて離れなくなったという。そこで神様にお詫びをしたらようやくにとれたといいます。この岩には今も手形が残っています。その夜
尾張富士に勧請した「大宮浅間神社」のことについては先に記事にしました。当初は山頂に鎮座していましたが、祭祀参詣に不便であり、山麓に遷され本宮とし、中間部に中宮、山頂に奥宮を祀るようになったのだそうです。せっかくですから山頂にある奥宮まで登拝します。石上げの故事にならい、塗り分けられた小石が置かれています。この小石に願い事を書き山頂まで持ち上げます。私は人生(健康長寿)の願い…黄色なんですが、あいにくありません。それだけ人生の願い事を思う人が多いということでしょうか。
「上街道」を外れ右に進みます。目指すはご当地富士の一つ「尾張富士」です。麓まで思ってた以上に距離がありました…。「尾張富士」…標高277(275?)mと低山ながら、その姿かたちは富士です。隣の山が「本宮山」…標高292m。尾張富士に比べ15mほど高い山です。邇波縣主の祖大荒田命が降臨したところとされ、麓に「大縣神社」が鎮座します。これについては先に記事にしています。ご当地富士とはいえ、麓に「浅間神社」が祀られています。社
昨年の12月13日に上街道を歩いて以来、2か月ぶりの旧街道歩きです。今回は「楽田追分」から「善師野宿」まで歩きました。そこで「上街道」についてもう一度確認です。上街道は、尾張徳川藩により中山道に出るために五街道なみに造られた官道です。↓下図木曽街道が上街道で、善光寺街道が下街道です。「上街道」は、名古屋城下から中山道伏見宿までの十里八丁(約40㎞)の道で、小牧宿・善師野宿・土田宿がありました。名古屋城下から楽田追分までは、犬山城下を結ぶ「稲置街道」と重なります。「上街道」とは
2024.01.06(土)初歩きは、東海自然歩道を歩いてきました。久しぶりの歩きなので、標高差の少ない軽めな区間をチョイスしてます。今回の区間は、町中歩きが多く、ガイドブックでも見所が少ないので、後回しにしてきましたが、足慣らしにはちょうど良いかなと…。…まあ、暇つぶしです。(^_^;)07:18愛知県犬山市にある名鉄広見線の善師野駅。今日はここから出発して、名鉄広見線の終着駅となる岐阜県の御嵩駅まで、約30kmを歩きます。まずは東海自然歩道が通っている山の中へ入っていきます。
「魚津駅前」周辺は、瀟洒なお店や、ビジネスホテルが立ち並び、活況を呈していました。魚津の繁華街は、完全にこちらに移っているようでした。魚津高校の前を出発をして進むと「大徳寺」があります。奈良期に「霊峰立山」を開いた「佐伯有頼」(慈興上人)の創建と伝わる寺で、慈興上人はここに住み立山の麓に「芦峅(あしくら)寺」建てて「立山権現」の信仰を広めたとされます。山門の横に「明治天皇碑」がありました。隆盛を清めた「立山権現信仰」も、明治の「神仏分離令」で「芦峅寺」は「雄山神社」に組み込まれ
羽黒梶原家の菩提寺「興禅寺」を拝観した後、近くにある「羽黒城跡」を訪ねます。源頼朝の重臣梶原景時が、頼朝亡き後北条氏との政争に敗れ上京中討たれたことは昨日記事にしました。その景時の次男景高の子豊丸(3才)は、乳母隅の方と七家臣に護られ、名馬磨墨とともに、この羽黒の地に落ち延びてきました。豊丸は元服し梶原景親と名乗り、現興禅寺の地に館を築き、この地に勢力を蓄えていきます。その景親が、鎌倉時代の建仁元年(1201)頃築いたのが始まりとされます。以来380年羽黒梶原氏の居城
「稲置街道」を北進します。羽黒の信号交差点を左に入りますと、臨済宗妙心寺派のお寺「興禅寺」があります。このお寺は、元々現在地の少し西に、平安時代の承安4年(1174)梶原景時が、平忠盛(清盛の父)の目代(国主の代理)として尾張国府に下向赴任し、真言宗のお寺光善寺として創建されたのに始まります。「梶原景時」は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて活躍した武将で、伊豆石橋山の戦いで敗れ山中に隠れ潜む源頼朝を発見しながらも見逃し、後に鎌倉幕府の重臣となった人物です。源義経と対立した人物として知