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碑:松平忠正書慶応4年.明治元年・1868年鳥羽・伏見の戦い赤報隊が恭順を迫る。上田藩主.松平忠礼上洛、幕府→新政府に恭順越後長岡へ征討に歩兵二小隊、大砲隊が従軍、藩兵を率いたのは家老.師岡主鈴長岡城外榎峠で苦戦長岡、会津落城→上田へ凱旋、延べ370名余参戦、戦死者10名明治2年・1869年松平忠礼、上田藩知事に任命雑感:幕府、会津と薩摩の関係悪化を憂い、大政奉還、新政府樹立にも立ち会うことなく生涯を終えた上田藩士.赤松小三郎の無念が思われます。ab.nan
今回の偉人伝は幕末史から消された大天才、赤松小三郎を特集。もし赤松が明治の世に生きていたら、日本は違った道を歩んだかもしれない。そんな赤松がなぜ幕末史から消されたのか?動画で解説。
続きです。上田藩というのは、中山道の上州です。そこを徳川家光が、自分の配下の譜代を置きたかった。そして、9万石(実質18万石)の上田藩から配置換えで、松代藩に行かせるのだけれども、実際の収入は8万石です。何故かというと、大坂夏の陣、冬の陣で初代真田の弟が豊臣方についた借り!が残っているわけなのです。だから、その理由としてそれで、松代藩に移されてしまうのでした。その松代というところは、千曲川と犀川が重なったところで、大変な荒くれの川で、川が氾濫してしまうのです。
何故、真田幸村が豊臣方についたかと言いますと豊臣家大名『大谷吉継』の娘をもらったからそれで豊臣に忠義を果たしたのです。兄の真田信幸は徳川家の養女をそれで徳川に忠義を果たしたわけなのです。徳川にも、豊臣にも忠義を兄弟別々に果たすし義を通す…その心持ちはいかに…今回の主役である『恩田木工』兄の信之の流れの中にいるのです。幸村の兄のある信幸は生きている間に、20万両ためるのです。領地のあった信濃上田江戸幕府には9万石と登録。ところが、信幸は、コツコツと新田開発を