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PS4のゲーム「人喰いの大鷲トリコ」をプレイした。「バイオハザードRE:2」の2週目もクリアして、去年の暮れから延々と血生臭いゲームばかりやっていたので、何かハートフルな作品をやりたかった。そのタイミングで以前から興味があったこのゲームのダウンロード版が安売りしていて買ったのだ。同じ上田文人さんが作った「ICO」と「ワンダと巨像」が名作だったので、このゲームも期待満々で始めた。まず映像のリアルさ美しさに驚愕!音楽も良い!人喰いと恐れられるトリコという名の巨獣と捕らわれた少年がお互いに助
『ワンダと巨像』や『大鷲トリコ』でも有名な、ゲームデザイナーの上田文人。特に、『ICO』が好きで何回もプレイした。どこか分からないけど、古代遺跡の残っている世界観がすごく良い。ストーリーもほぼ説明なしで、敵から少女を守りながら遺跡を抜け出すというシンプルなゲーム。言葉や数値を使った表現がほぼ無いのが新鮮だった。感覚や感情って、言語化できないところにあるなぁ
念願のこの日がやってきました人喰いの大鷲トリコのスタチュー化こちらのトリコさん、ただのスタチューとは違って、TORCHTORCH×genDESIGN×造形作家・植田明志氏のコラボレーションによる神スタチューとなっております以前にもブログの記事で何度か紹介しているこの人喰いの大鷲トリコは、自分の大大大好きなゲームであり、初めてPSでトロコンというのを達成した作品なのでめちゃくちゃ思い出深いゲーム、キャラクターですしかもトロコ
NHK総合にて今月から「ゲームゲノム」という番組が始まった。歴代、有名タイトルゲームを紐解く的な内容なのだが、第一回目がなんと、クリエイター上田文人氏を迎え、彼が作った、『ワンダと巨像』『人喰いの大鷲トリコ』を取り上げているではないか!!・・・って実は見過ごしてしまったので再放送希望過ぎる案件。しかしながら!この二つの作品とそれより前の『ICO』という作品が名作であることは、全てプレイしたので知っております!!「ワンダと巨像」はたしかCMで見てキャッチコ
だから、『ワンダと巨像』の老人エモンは、「古えの地」を後にする際、哀愁を込めて、こう言うのだろう。「罪深く哀れな者よ…これでこの地に二度と人が入る事は無いだろう…もし生きていたとして…閉ざされたこの地で生き永らえる事があるとすれば…いつかは報われる時代が訪れるかも知れん」……と。(終)
村人たちから、槍の集中砲火を浴びせられたトリコは、少年の最後の指示によって、「大鷲の巣」へと帰っていく。“性”が、社会から受け入れられることは無いのだ。かつての“若者”だった村人たちが、そうであったように………。
「大鷲の巣」を越えて、少年の住む村へとやって来たトリコ。トリコは少年を差し出し、少年は、村人たちの元へと帰される。しかし、トリコが受け入れられることは無い。社会にとって、恐るべきものであり、忌むべきものである“性”というものに、居場所というのは、まだ、存在しないのだ。
だからこそ、トリコを襲う大鷲たちは、自らを規定していた“核”を破壊されたことによって、自らの存在意義を失い、谷底へと落ちていく。そして、少年を口にくわえたトリコは、翼を大空に広げ、この「大鷲の巣」を越えていく。自らに宿った“性”の主体者とは、他の誰でもない、自分自身なのだから。
互いに協力し合い、「大鷲の巣」の中央にある白い塔のてっぺんへとだとり着いた少年とトリコは、そこにある、谷を支配する“核”となっていた部分を破壊する。その、少年とトリコが破壊した“核”とは、「若者に対する“性的抑圧”」そのものではないだろうか。
トリコは、高く跳んだり、ヨロイを倒したり、しっぽから雷撃を放ったりと、少年にはない強大な能力を有し、少年は、そのトリコに指示する役割を担う。その、少年とトリコの関係性は、「“理性(少年)”に従う“性(トリコ)”」と、「“性(トリコ)”をコントロールする“理性(少年)”」というふうに捉えることもできるのではないだろうか。もちろん、トリコ(性)が暴走し、少年(理性)を飲み込んでしまうこともある。しかし、少年とトリコの関係は、道を切り開くごとに、より深いものとなっていく。
そして、その「大鷲の巣」に迷い込んだ主人公の少年は、雷に撃たれ飛べなくなった一羽のトリコと協力することによって、道を切り開いていく。それは、少年が、内にひそむ自身の“性”と向き合おうとする行為とも見て取れる。
“女性器”であるからこそ、その谷には空からしか、つまり、トリコでしか出入りすることができず、“女性器”であるからこそ、電波(のようなもの)を発することによって、トリコの理性を失わせることができるのではないだろうか。
トリコとは、“性”を宿した少年の未来の姿である。ならば、「大鷲の巣」と言い伝えられる谷とはなにか。それは、“女性器”である。
そして、『人喰いの大鷲トリコ』に登場するトリコも、『ワンダと巨像』のドルミンと同じであると思う。トリコの食料であるタルの中身が少年ならば、トリコとは、少年の内にひそむ“性”そのものではないだろうか。
若い頃というのは、特にそうだ。性的エネルギーだけが盛んにあって、でも、自分が何をしたいのか分からない。だから、その膨大にある性的エネルギーが空回りして、ヘマをしでかす。それが悪いことでは決してない。人間は、ヘマをすることによって、自分自身の“性”というものの在り方を学び、成長していくものなのである。しかし、ドルミンと化した主人公ワンダは、老人エモンの手によって、再び封印されてしまう。
自分が何をしたいのか。どんな人と、どんな関係を築きたいのかなんてことは、そう簡単には分からないし、分かったからといって、それがすべて叶えられるとも限らない。だから、すべての人間はヘマをする。主人公ワンダにとって、モノが、本当に、セックスするにふさわしい相手なのかは分からないし、モノが、それに同意してくれるかも分からない。もしかすると、ワンダの起こした行動は、“若気の至り”と呼ばれるようなものでしかないのかもしれない。しかし、「“性”に、ヘマはつきもの」である。
その抑圧された“性”の封印を解くために、巨像へと立ち向かっていくワンダ。しかし、すべての巨像を倒し、“性”の封印を解いたワンダは、その“性”の強大なエネルギーに飲み込まれ、自らをコントロールできなくなってしまう。“性”というのに、ヘマはつきものだ。
要するに、『ICO』、『ワンダと巨像』、『人喰いの大鷲トリコ』に共通して感じるのは、「若者に対する“性的抑圧”」である。『ワンダと巨像』に登場する、「古えの地」に封印されしドルミンとは、正に、抑圧された主人公ワンダの内に宿る“性”そのものだと思う。
もちろん、“性”というものを野放しにしていいというわけではない。なぜなら、“性”というのは、容易に人を傷つけてしまうものだからである。だから人は、自らに宿った“性”と向き合わなければならない。しかし、“性”を“結婚”という所だけに抑えつけようというのは、“性”と向き合わないのと同じであるし、人をいびつにさせるだけだろう。
つまりは、「結婚相手とのセックスだけで我慢しろ」である。そこには、「“性(欲)”というものはロクなものではない」という思い込みがある。だから人間は、“結婚”という所だけに“性”を抑え込もうとする。しかし、“性”というのは、生きるための原動力であり、“性”というものがあるからこそ、人は他人と関係を築きたいと思う。それを“結婚”という所だけに抑え込もうとしたら、生きるための原動力というのは無くなってしまう。だから、厳密に言えば、『“性”を“結婚”という場所だけに抑え込も
“性”とは、「内にひそむ、得体の知れない何か」であるがゆえに、人はそれを切り離し、自分たちの住む世界から遠ざけようとする。「霧の城」や、「古えの地」や、「大鷲の巣」のような辺境に。そして、現実世界における辺境とは、“結婚”である。
“性”とは、「内にひそむ、得体の知れない何か」である。ゆえに、人は、それを切り離そうと考える。西洋世界は、自らにひそむ“性”を、東洋世界へと切り離した。そうして出来たのが、「オリエンタリズム」という幻想である。『ICO』、『ワンダと巨像』、『人喰いの大鷲トリコ』の三作品に共通する世界観こそ、この「オリエンタリズム」ではないだろうか。
「オリエンタリズム」とは、西洋世界が、自分たちの世界を、理性的、科学的な世界であるとし、逆に、東洋世界を、神秘的、非科学的な世界であるとする思想である。もちろん、東洋世界だからといって、神秘的、非科学的なわけではなく、人々は、人々なりの理論や理屈、制度を持って生きている。つまり、西洋世界から見る東洋世界とは、西洋世界が抱える、内なる“性”を投影させたものにすぎない。
男たちにとって、“性”とは恐るべきものである。なぜなら、“性”というのが、人間の理性を失わせるものだからである。だからこそ、“性”というのは、魅惑的でありながら、恐るべき、忌むべき対象ともなる。そして、それは「オリエンタリズム」という思想にも共通する部分があるのではないだろうか。
もちろん、妊娠、出産というのは“性”の一部分でしかない。しかし人類は、長い間、妊娠、出産こそが“性”の全てであると考えてきたのではないだろうか。だからこそ、『ワンダと巨像』は、「赤子となったワンダを、母親のようにして抱きかかえるモノ」というラストを迎えざるを得ないのだと思う。
それは、男たちにとって“性”というのは、破壊しか生まないものだと思われているからである。では、女たちにとっての“性”はどうなのかというと、女には、妊娠、出産というものがある。女たちの“性”は、妊娠、出産という形で実を結ぶことができる。しかし、妊娠、出産ということが、我が身に起こらない男たちの“性”は、結局のところ、破壊しか生み出さないものだと思われている。だから、“最後の一撃は、せつない”のである。
ワンダにあって、イコにないもの。それは“性”であり、それに伴う“男らしさ”である。その“男らしさ”を充分に発揮しながら、もしくは、“性”の衝動に駆られて、巨像へと立ち向かっていくワンダ。しかし、『ワンダと巨像』のキャッチコピーにもなっているように、“最後の一撃は、せつない。”なぜ、“最後の一撃は、せつない。”のだろうか。
“モノとセックスすることによって、性的欲求を満たしたい”だと思う。そんな想いを持って、巨像に立ち向かっていくワンダの姿は、まさに“男らしい”の一言である。そして、それこそが『ICO』の主人公イコと、『ワンダと巨像』の主人公ワンダの大きな違いだと思う。
『ワンダと巨像』の主人公ワンダも、失われたモノの魂を呼び戻すために、大地の果てにある「古えの地」に、足を踏み入れるのであるが、その実質は、“セックスがしたい”だと思う。
そして、十五歳になった王女の指に、紡ぎ車の錘(つむ)が刺さると、王女は百年の眠りにつき、城は、いばらに覆い尽くされる。それから長い年月が過ぎたある日、近くの国の王子が、王女の姿を見てみたいと、城を覆い尽くすいばらに足を踏み入れる。すると、百年の呪いは解け、いばらはひとりでに道を開ける。王子は、無事に城の中へと入り込み、王女にキスをすると、王女は眠りから覚め、ふたりは結婚し、幸せに暮らした。というストーリーになっている。