ブログ記事71件
上越、妙高エリアでオフ会をフォロワーさんの黒うささんと2年近く前から計画、そして11/3~11/5までの三日間オフ会を敢行しました。この日は二日目、黒うささんの親友のARMANIさんがこの日だけ合流し、案内のもと最初に訪れたのは上杉時代の環濠屋敷跡。車はここに停めました。車を停めた向かいが環濠屋敷で、現在も住人がおります。私を除く参加者の皆さんは説明板の所へ向かっています。道路沿いには土塁があります。この北側の道路も堀跡です。こちらが説明板で、この西側道路も堀跡だっ
名称:平井城別名:平井金山城城郭:平山城築城年:1438年築城主:長尾忠房主要城主:上杉氏所在地:藤岡市西平井237-1指定文化財:県指定史跡本丸跡復元図
【問題】上杉氏の家臣・本庄秀綱は、御館の乱でどちら側の勢力に与したか?【選択肢】上杉景勝方上杉景虎方【正解】上杉景虎方【解説】本庄秀綱は上杉謙信に仕え、主に関東方面での活動が多く見られる。謙信死後の御館の乱では上杉景虎方に付き、景虎の死後も抵抗を続けたが、最後は会津に逃れた。
3月25日付で佛教大学大学院文学研究科(歴史学専攻)修士課程を修了しました。4年満期在籍させていただいたわけですが、後半2年は仕事があまりにも忙しく、ときに心身ともに破裂しているような日常でした。しかし加澤先輩や頸城の友達、ネットの友達みなさんの激励とほたるスタッフの協力を得て、修論、業務とも達成することができました。私が研究のテーマとしたのは「戦国期越後上杉氏の城郭構造と権力体制の進化過程」なのですが、一応の修論の合格にはなったのですが、私が書きたかったことの一部分でしかなく、それも
名称:丸岡城城郭:連郭式平山城築城年:鎌倉時代?築城主:武藤氏?主要城主:武藤氏、上杉氏、最上氏所在地:鶴岡市丸岡字町ノ内68指定文化財:県指定史跡水堀石敷道路馬出大手門御書院御袋様館御蔵長屋井戸水路御風呂屋案内図加藤清正墓碑
新潟では昨晩から雪が降り始めて、積もるまではないものの、寒さが冬らしくなっております。毎年「ホワイトクリスマスになるかどうか」が関心事だったりするんですが、今年はどうでしょうかねぇ…。ちょっとは白くなっちゃいそうかな。さて、「勧修寺流藤原氏」、前回は紫式部までと、夫の宣孝・弟の惟規の子孫をご紹介しました。系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(関連)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804259307.html今回は、宣孝の
私が県外の方に「中越エリアでオススメの山城を教えて欲しい」と言われた時に答える山城の一つに六万騎城があるのですが、実は冬に行った事が無く、葉っぱが完全に落ちた状態で見たかったので雪が降る前の最後の休みの土曜日(次の週は大雪でした)に行きました。六万騎城については六万騎城①をみて下さい。六万騎山経由での一周トレッキングコースにもなっているので、結構人が訪れます。ちなみにコミュニティバスも出ているので車が無い方も是非。六日町駅からバスが来るので、坂戸城行った後にも来れますよ。こ
2023年7月3日--------------------------------------------北条早雲の謀略、、、彼は敵の心理や弱点を見抜き、効果的な策略を用いて勝利するのですね。2022年7月3日--------------------------------------------「大きな杉が二本あった。鼠が一匹きて根から齧りはじめ、ついに杉を二本とも倒してしまった」二本の杉というのは上杉氏のこと。早雲は子年だった。自分のことをいっている。ここまで強い意気
私を城の世界に引きずり込んだのが馬念さんで、その底で足をがっちりつかんで離さないのが信濃先方衆(らんまるさんとていぴすさん)である。そんなお三方とも、コロナ以来お会いしていなかったのだが、北信に格好のターゲットがあると知らせがあり再会を果たした。罪深きお三方との、もう何年振りかもわからない再会だったが、当然それは独行が厳しい城への誘いであり、そうでなければ雁首揃えるわけもなく、やはりそれはあいにくの雨もあって苦行の山行となった。どこへ行ったのって、ここ(経路は危なかったので公
今日は最近図書館で借りた本で意外に面白かった”享徳の乱”のご紹介です。戦国時代は応仁の乱から始まるという説が一般的ですが実は”享徳の乱”という関東で起きた30年戦争こそが戦国時代の始まりだ!という内容の本です。室町幕府発足当初は鎌倉府が治めていた関東地方ですがやがて関東管領の上杉氏との対立が顕在化します。その結果として室町幕府と鎌倉府という権力の二重構造による矛盾が露呈し、途中から上杉氏内部の混乱が紛争に輪をかける結果となりました。やがて鎌倉公方が古河(以降は古河公方)に移って利根川を境界線とし
【問題】伊達氏、蒲生氏、上杉氏と城主が変遷したのは、次のうちどの城郭か?【選択肢】仙台城米沢城新発田城盛岡城鶴ヶ岡城【正解】米沢城【解説】米沢城は鎌倉期の築ともいわれるが、戦国時代には伊達氏が入った。その後、蒲生氏の支城となり、その移封後は、上杉氏が入り明治維新まで同氏の居城となった。
【問題】小島職鎮は、上杉氏の家臣となる以前、次のうちどの大名の家臣であったか?【選択肢】蘆名氏神保氏姉小路氏佐野氏【正解】神保氏【解説】小島職鎮(もとしげ)は、越中神保氏の家臣である。神保長職に仕えたが、長職の死後は主家から離れ、上杉家臣として越中衆の筆頭に挙げられている。
上杉氏館『別名』上杉館、深谷館、南方遺跡『所在地』埼玉県熊谷市千代471『城主』深谷上杉氏『遺構』土塁、堀跡『城郭形態』館『駐車場』なし『歴史』上杉氏館の歴史は不詳ですが、深谷上杉氏が深谷城を築城する以前の居館だったと言われています。土塁堀跡
オッサン的に、甲斐は竹田氏。駿河は今川氏。相模は北条氏。尾張は織田信長。奥州は伊達政宗。越後は上杉氏。越前は?朝倉氏と思っています。昨日の移動距離。ほとんど動いていない。永平寺に参った後に、一乗谷を見学。足利義昭はどのような気持ちでここに来てどのような気持ちでこの地を離れたのだろうか?人生は毎日が選択の日々だね~。
前回の続きです。今回は菱門橋から上杉伯爵邸です。下図⑱から⑲方向の菱門橋です。菱門橋の解説板は(上が北です)厳重に取り締まられたことから、「秘し門」橋とも言われました。江戸時代の菱門橋です。(右が北)菱門橋は本丸側が二重門で、橋を渡るとそこに馬出がありました。(伝国の杜展示より)⑱から西(左側)は⑱から西側の内堀です。内堀の向こう側にある民家附近は、下図から城代屋敷のあった所です。この反対側は菱門橋から東側の内堀です。下図
「一条家」「二条家」「三条家」と、計らずも「○条家」紹介のシリーズと化してしまった当ブログ。だったら「四条家」もやってしまおうと、今日はそんな試みです。自己満足もここまでやるとかえって清々しいってもんよ。四条家は、大河ドラマ『平清盛』と『鎌倉殿の13人』の時代ドンピシャ(ちょっとオーバーするけど)なので、今年のうちにやるとちょうどいいですしねw四条家は、藤原氏善勝寺流の流れをくむ家です。善勝寺流は、以前に紹介した奈良時代に左大臣にまで登り詰め、そして失脚した藤原魚名の
今回から米沢城の紹介です。2022年10月23日に訪問しました。1回目として、米沢城の歴史です。鎌倉時代鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)に初めて築城されたと伝わります。鎌倉幕府の重臣文官だった大江広元の次男だった、長井時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたとされます。大江広元はNHK大河でも、北条家の忠臣であったので、鎌倉殿の13人のように、滅ぼされずに生き延びます。大江氏の起源は桓武天皇が791年に、縁戚関係にある土師諸上らに大枝の
所在地〒945-1118新潟県柏崎市上条特徴上杉氏の一族が居城とした平山城で、広い台地上に単郭の遺構が残る。入口側は改変が大きいが、奥に堀跡と虎口跡が残る。感想石板製の説明板は高価なのに読み難い。
所在地〒953-0104新潟県新潟市西蒲区岩室温泉(岩室神社から)特徴清和源氏頼政流小国氏の山城で、戦国時代は上杉氏の配下となった。神社から腰郭を経て15分ほど登ると主郭だが、周辺は藪に埋もれている。感想遺構は小規模な上に分散していて見所は少ない。
●上杉謙信の家系図①渡来系・東漢氏(やまとのあやうじ)(半島系朝鮮人)。坂東平氏。相模国鎌倉郡長尾庄(横浜市栄区長尾台町)長尾氏。◎桓武天皇(かんむてんのう。50代。737年~806年)葛原親王(かずらわらしんのう)高見王(たかみおう)平高望(たいらのたかもち)①平国香→平清盛⑤平良文(たいらのよしふみ。村岡五郎)平良文(?~?)数代鎌倉景明大庭景宗(おおばかげむね)長尾景弘(ながおかげひろ)長尾景弘(初代長尾氏)数代長尾景為(6代)長
埼玉県川越市、川越城へ。(6月の話ですが)川越城と言うと、この本丸御殿が有名。それ以外には何も残っていないように思われがちだが、実はいろいろあるのです。川越城の全景左下が川越駅方向左端の大手門あたりが現在の市役所川越駅東口からバスに乗り、川越市役所前からスタート市役所前に大手門跡の石碑と、太田道灌の像川越城は太田道真、太田道灌の父子によって1457年に築城されました。太田道灌は他にも江戸城をはじめ、藤沢市の大庭城、川崎市幸区の加瀬城など、多くの築城実
そういうわけでもありませんが、21日(水)、たまたまほんとに久しぶりに、市内の宮原にある宮原御所跡だというお寺の前を通りかかりましたが、たまたま花が見えたので、緊急停止して、恒例でスマホで撮影した次第でした。花が見えたので、スマホで撮影でした。宮原御所跡ですが、現在は、明照院というお寺が建っている。場所は、姉崎~今富~新生~茂原方面に向かう県道の海上農協付近は、下の広大な養老川下流域の平野部からみると高台になっ
「大きな杉が二本あった。鼠が一匹きて根から齧りはじめ、ついに杉を二本とも倒してしまった」二本の杉というのは上杉氏のこと。早雲は子年だった。自分のことをいっている。ここまで強い意気込みで取り組んで、ついには関東公方の管領をつとめていた上杉氏を倒してしまった。有言実行。はじまりは、言葉にすることから。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
鼓岡城郭と堀の位置を示しました。ケバは入れていません。郭1は、郭2に対して土塁を備え、二重堀切で遮断している。したがって、1が主郭で、2は主郭の北を守る郭となろう。切岸、堀鋭く、横堀と竪堀のコンビネーションもあり、小城ですが、気鋭の城です。南から主城域(大山祇神社社殿から7分)鋭い薬研の堀切が尾根を遮断する。両側面は、鋭い切岸と横堀で備えている。その横堀は竪堀とのコンビネーションが巧い。主城域南の尾根遮断堀切堀底東から。左(西)側面横堀との接合部遮
修論、能登を書いているのですが、北信濃に憩います。矢筒城の出入口構造矢筒城は2011年に歩いていて、その時の私には城郭遺構がよくわからなかった。11年も前かぁ。で、11年の時を経て、出入口構造(下図赤囲い部)を確認しに、再チャレンジ遠藤先生の(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」における評価この虎口は、形態は直方体形虎口で、入り口には段状構造が設けられ、形の面からは上杉氏領域の天正期の形式である。ただし、虎口部を形成する土塁に石材が使用され
〖蔓延防止対策も明けましたが、まだまだ警戒しましょう〗⚫そろそろまた頑張ってみようかと、復活。⚫【戦国庵】紋次郎のオリジナルアイテム通販↓こちらから!↓【戦国庵】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞〖ニッポン城めぐり歴史クイズ〗【本日の問題】水原親憲とは、次のうちどの大名の家臣か?○毛利氏◎上杉氏○南部氏○筒井氏○大友氏○今川氏答え:◎上杉氏【解説】水原親憲(すいばらちかのり)は、上杉氏の家臣である。大関氏の出で、断絶した水原家の名跡を継いだとされ、主に景勝期に多くの武
指崎城湯山城の南東約2㎞に位置するYahoo!地図-航空写真・地図検索・郵便番号検索・乗換検索ならYahoo!地図雨雲レーダー機能も搭載!Yahoo!地図は日本最大級のポータルサイト「Yahoo!JAPAN」が提供する地図サービス。ルート検索・路線の乗り換えも。スマートフォン向けサイトや地図アプリもサクサクで便利。日本地図ならYahoo!地図で。yahoo.jp『氷見の山城』(1)では、縄張に見られる食い違いの防御線に注目し、天正4年(1576)9月に謙信が湯山城を攻めた際
参考文献…略記は本編1に同じ中村城本編1:城中枢|えいきの修学旅行(令和編)(ameblo.jp)中村城平面図(氷見市56より切り取り引用・赤加筆)上方が北スケールは本編1に掲載本編3では、南と東の尾根先方の防御施設を辿ります。ネタばらしになっていたので2023.2.25に一部削除・修正しました。〇南尾根は、佐伯先生が大手とするルート(赤矢印に逆行)で、ルートに沿って西側にD・E、さらにH郭を置き、終始横矢が掛かる計画的な防御施設が備えられたルートが設定されている。2筋の
参考文献…略記は本編1に同じ中村城本編1:城中枢|えいきの修学旅行(令和編)(ameblo.jp)中村城平面図(氷見市56より切り取り引用・赤加筆)上方が北スケールは本編1に掲載本編2では、北西の尾根先方の防御施設を辿ります。本記事で先方完結の予定でしたが、盛りだくさんになたっため、南、東の先方は本編3に別立てします。北西は、主郭切岸下に郭Fを置き、外周を堀切12で遮断、その南に畝状竪堀群7-11を設け侵入を防ぐ。堀切12と連続竪堀14に挟まれた郭F北尾根は、防御施設が無
不動山城の1・2で撮り漏らしていた別の個所の畝状竪堀と石積の写真です。★不動山城2城内北東竪堀構造https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496903662.html★不動山城1要害集落から三郭への城道に対する備えhttps://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882241.html不動山城上越市史専門委員会中世史部会編(2004)『上越市史叢書9上越の城』(1)より引用、切取り・赤加筆.V