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〜清道会〜少数会派ですが、ひたすら武を探求し続け「少林流金城珍作先生•一心流島袋龍夫先生•本部御殿手上原清吉先生」そして縁があり隠れ武術家から伝わった心を守り稽古を続けています。先人→知花先生→門下生へと伝わり基本を守りながらそして一人一人自分自身の武を見つけて行きます。様々な武術家の出会いで発足された琉球古武道清道会ですが一人一人の師から学んだ事は今も変わらず大切に守っています。「沖縄空手•古武道武の心を後世に清道会」事務局。まつX(旧Twitter)https://twitte
〜〜教え〜〜稽古するたびに基本が以下に重要か感じています。立ち方等皆同じ足の長さではありません。その人にあった立ち方や突き方があります。弟子に知花先生は「他人と比べるような事はせず、基本を守ればそれでいい。お前の武をこれから探しなさい。」と教えてくださいました。それはかつて知花先生の本部御殿手上原清吉先生に言われた言葉だそうです。師から知花先生へそして門下生へとしっかり伝わっています。「沖縄空手・古武道武の心を後世に清道会」事務局。まつX(旧Twitter)https://tw
〜清道会〜琉球古武道清道会は昭和63年に正式に発足し主に、少林流金城珍作先生・一心流島袋龍夫先生・本部御殿手上原清吉先生の3人から武の心得が伝わり現在の清道会があります。発足前後に、地域の武術家の出会いもありその際に伝承された古武術も保存されています。またその方の話はまた今度。「沖縄空手・古武道武の心を後世に清道会」事務局。まつX(旧Twitter)https://twitter.com/Matukazu1123ホームページhttps://seidou-kai.comアメー
「沖縄空手•古武道武の心を後世に清道会」事務局。まつ3/3は県外の清道会の仲間が沖縄に来沖しました。夕方から沖縄空手会館に足を運び、オンラインで伝えきれない分直接の練習では共有する時間を設けました。時間があっという間に時間が過ぎ…明日のスケジュールを確認しその場を後にしました。今日は琉球古武道清道会総本部に出かけます👍
前回の記事で述べたように、昭和36(1961)年の第1回八光流講習会のあと、長嶺将真(松林流開祖)が八光流門人として活動した形跡はなかった。具体的には、その後本土に渡って八光流本部で学んだり、長嶺道場で八光流を教えていた事実はない。長嶺先生の子息の故・長嶺高兆に師事されたドイツのアンドレアス・クヴァスト先生によると、高兆先生から八光流に関する話を聞いたり、また長嶺道場や長嶺先生の書斎で八光流に関する賞状や展示物を見たことはなかったという。さて、昭和37(1962)年3月に第2回八光流
WrittenandtraslatedbyMotobuNaokiIrecentlyreceivedacommentonFacebookabout"assumptions"inthestudyofkaratehistory.Youcancallthempreconceptions,preconceivednotions,orprejudices.Inshort,itisamentalattitudethatisso
先日、Facebookで空手史研究における「思い込み」についてコメントをいただいた。先入観、先入見、偏見と言ってもいい。要は固定観念にとらわれて、新しい事実を受け入れられない心的態度のことである。空手史に関する書籍を読んでいると、しばしばこのような心的態度に基づいて推論しているのではないかと思われる記述に出くわす。最初からほしい結論が決まっていて、それを「証明する」ために推論を重ねるのだが、その過程で都合のいい証拠だけ取り上げ、都合の悪い証拠は無視する。心理学では、こうした心的態度は確証バ
TraduzidoporLucasBarbozaDolivro"BunoMai"(DançaMarcial)porSeikichiUehara,1992.AutobiografiadeSeikichiUehara10PartidaparaasFilipinasAntesqueeumedesseconta,dezanossepassaramdesdequemetorneidiscípulodeChōyū
WrittenandtranslatedbyMotobuNaokiAfterUeharaSeikichi'sdeath,amartialartsmagazinepublishedamemorialfeatureonhim.Althoughtheoverallcontentofthefeaturewasexcellent,Ihadaquestionaboutthedescriptionofoneofthephoto
TraduzidoporLucasBarbozaDolivro"BunoMai"(DançaMarcial)porSeikichiUehara,1992.AutobiografiadeSeikichiUehara9PorqualrazãoaMotobuUdundīfoitransmitidaparamim?PorqualmotivoaMotobuUdundī,umaartequehaviaatéen
上原清吉の没後、ある武道雑誌で追悼特集が組まれた。その内容は全体としてはすばらしいものだったが、ある写真の説明文に疑問をもった。それは上原先生が取手の投げをしている写真で、添えられた文には「写真は50代前半の宗家が柔道をしている貴重な一枚。この頃の上原宗家は他武道研究も積極的に行っていたようだ」と書かれていた。相手役は翁長武十四氏(昭和18年生、昭和34年入門)であった。筆者はのちに翁長氏に何度もインタビューして、上記の写真の件も確認したが、取手を柔道と勘違いしたのだろうとのことであ
来年は宗家(本部朝正)が2003年に上原清吉から本部御殿手宗家を継承して20周年になる。この機会に、宗家継承の経緯について改めて述べておこうと思う。「達人が伝えた武の遺産、ふたたび本部家へ」『月刊秘伝』2004年7月号。もともと本部御殿手は御主加那志前の武芸(ウシュガナシメーヌブジー)と呼ばれていた。「琉球国王の武術」という意味である。また戦手(イクサディー)とも呼ばれていた。本部御殿手は取手(投げ技・関節技)がクローズアップされがちだが、主眼は武器術、しかも刀や槍といった戦場
琉球古武道清道会事務局。387箇所空手・古武道道場が存在しその半数が空手の稽古前に準備体操・予備運動を行うところが多いと聞きました。清道会では稽古後に予備運動・体操を行います。本部御殿手上原先生は稽古の時から常に武術というのが前提に置いていたとのこと。上原先生は私の師匠知花先生に「体操するから相手に戦うのは待ってよと言わないでしょ。常にどんな状況におかれても自分自身・大切な人をを守れるようにしときなさい。」といっておっしゃっていたそうです。最後に・・・・知花先生は今でも教わった先
最近の稽古会の様子。清道会20代全員が集合で稽古しました。仕事などで忙しく揃って稽古が出来ませんでしたが、基本動作や古武道まで時間が許す限り稽古致しました。1人での稽古も大切ですが、同志達と体を動かすのは気づきがあったり、素直に楽しいです。現在清道会は少数会派。少しずつ理解者が増え文化を継承していきながら稽古するのが楽しみです。清道会が絶えぬように後世に伝えていきたいです。
清道会の心得。
●清道会サイ術。私達清道会が習うサイ術は2つあります。・合戦サイ・創作サイ(佐久川のサイ)※唐手佐久川をイメージで命名。●特徴〜・清道会で習う釵術は本部御殿手の技が主にあります。・刀のように扱うイメージで。(引っ掛ける等)・創作サイは知花師が3人の師匠から学んだ技術を清道会の解釈で創作致しました。●最後に。・清道会は魅せる空手・古武道ではなく「武」の心を意識しながら取り組んでいます。
本部御殿手上原清吉先生から許可を頂き清吉先生の「清」の文字を頂き清道会(前身:本部流清道館)と名乗っています。琉球古武道ではたくさん武器術存在しますがその中にヌンチャクがあります。私達清道会は、棒術→釵術→ヌーチク術(ヌンチャク)→トンファー術→エーク術という順に基本的に学んでいきます。清道会のヌンチャクは呼び名はヌーチク(沖縄方言)と呼び本部御殿手の技を継承しています。本部御殿手のヌーチク術はよく見る他の古武道団体が演武するヌンチャク術と異なり、二丁使って稽古します。体全体で使う
●琉球古武道清道会の入門の流れ〜沖縄空手(少林系「一心流系統」)で清道会の基礎を学び、ある程度修練した後古武道・本部御殿手を学びます。※古武道か空手のみ選択も可能です。●なぜ?沖縄空手から?他の道場では沖縄空手と古武道同時進行をするところもあると聞きました。•私達、琉球古武道清道会では沖縄空手をある程度修練し古武道を取り組むと理解も深まるとの考えでこの流れで取り組んでいます。•沖縄空手と古武道は両輪という気持ちは変わらないです。※同時進行で巻藁鍛錬・小手鍛え・約束組手
沖縄県内に約387箇所ある沖縄空手•古武道の一つ会派で琉球古武道清道会と申します🙇♂️主に三人の師匠から受け継いだ「武の心」「技」を理解者に伝わり後世に伝える事を目標に取り組んでいます🙇♂️本日からアメブロでも発信していくことになりました。よろしくお願いします。🙇♂️
第50回大会まで記録競争波動への共振2022第50回崎山優成2021第49回崎山優成2020第48回崎山優成2019第47回五明宏人2018第46回香川幸允2017第45回渡辺大輔2016第44回荒賀龍太郎2015第43回荒賀龍太郎2014第42回荒賀龍太郎2021年開催東京2020オリンピック銅メダリスト【攻せん(先の先)守守(後の先)せん攻】武道は歩きのなかにあ
2010年は上原先生を偲んで7年忌演武会を本部朝正宗家が企画されるというので私が土曜日の稽古仲間に「皆で演武会に出よう!」と提案し先生の息子のTさんに「聖道館から私達も演武会に出させて欲しい」と話をしに行くことになりました。演武会は初め大阪の方で7年忌演武会を企画したのですが、それを聞いた聖道館のIM氏が沖縄(聖道館)が中心となって行いたいと言いだしたので私はTさんに許可をもらう為に話しに行ったのです。しかし演武会参加についてTさんにお願いしたところ思いがけない反応がかえっ
今日は空手道の技術的なことではなく、歴史の一コマ、という感じで綴ってみたいと思います。私が千唐流であることはこのブログの読者の方であればご存じだと思いますが、熊本に住んでいた頃には直接初代から教えていただいたことがたくさんありました。入門直後は初心者ですから、いろいろな先輩や先生から教わりましたが、稽古時間には1・2番を争うくらい早く着き、まだ誰もいない時には裏山まで走っていき(当時は今の総本部とは異なるところにありました)、そこで基本を一人でやっていたこともあります。今の感覚では
沖縄の本部御殿手(もとぶうどんでぃ)の上原清吉氏95歳でこの姿勢と動き。姿勢が良いのは琉球王家の武術だからなのか、と思った。と言っても、本土の剣術も姿勢が良いので全般、武道は姿勢が良いのかとおもう。上原氏は、あのブサーザール(武士猿)の本部朝基の兄で本部流嫡男の本部朝勇氏の弟子。で20歳までは基本を、その後2年で、本部流の全てを教え込まれた、という人だそうです。95歳でこの動きができるのは、相当の努力があったのだろう、と想像するのです。
私は上原先生が亡くなられて暫くしてから本部御殿手の稽古に復帰しましたがその前後にも色々なことがありましたので後日回想録に書こうと思います。さて、先生の7年忌演武会の前後から本部御殿手の流派内部では表には出ていませんでしたが”さざ波”がたち始めました。本部御殿のお墓詣りをする上原先生と本部朝正先生(前列中央)そして直系子孫(朝勇先生の孫)の本部朝達氏(上下白のレインスーツを着て帽子をかぶっている男性)と私達門弟。下の2枚の写真は本部御殿の子孫(本部朝茂
本部御殿手の現宗家である本部朝正先生は元々本部御殿手の宗家を引き受ける気は全く無かったと言います。これは上原先生もそう仰っていました。と言いますのは朝正先生は既に父親の本部朝基先生の弟子であり本部拳法を継いでいましたし本部御殿の直系子孫(本部朝勇先師の孫)が存命でしたので、その方(本部朝達氏)をさしおいて自分が本部御殿手を継承することは出来ないと考えていたからです。しかし直系子孫の朝達氏もその息子も武道に興味が無かったので上原先生が朝正先生に「ぜひ本部家の子孫として宗家
「宗家の移譲を門弟に依頼」というブログ記事の表題では分かりにくいと思いますが私が回想録を書こうと思った動機は実はこのことだったのです。上原先生が体調を崩した最晩年(亡くなる2年前くらいの頃)のある日聖道館の門弟が道場に集められ先生の息子のTさんから”ある依頼”があったそうです。その依頼とは「父親が次の宗家は自分に継がせたいと言っているので大阪の本部朝正先生に次期宗家を譲るように誰か門弟が話してほしい」という内容だったそうです。つまり聖道館の門弟は次期宗家の移譲に
ここ暫くコロナウイルスのせいで回想録をせっせと書いているが改めて気づかされることが多い。改めて記憶をたどると、そうか、あのときのあれはこういう意味だったのか・・・とかである。私は何度も書いているけれどブログの内容を知らしめたい対象は本部御殿手の門弟である。上原清吉先生にとって「本部御殿手」とは沖縄の自分の道場である聖道館に他ならなかった。それ故に聖道館で何が起こっているのか実は本土の支部道場の人達は殆ど知らず沖縄の支部道場においては全く知らない出来事だった。
私はブログを書き始めた頃から、いつか「回想録」を書こうという気持ちがありました。しかし、私の初めの予定では自分が70代くらいになって、あの人この人が天国に出かけたら書くつもりでしたが最近沖縄本部御殿手空手古武道協会が上原清吉先生のことを「開祖」と呼称し始めたのを知り次の展開が予想されたので(書き始めよう)と思うようになりました。それでも、まだ若干の躊躇がありましたが昨日の出来事でキレイごとで取り繕うおうとする「嘘」に嫌気がさし、回想録を書き始めることにしました。回想録と
今日はクリスマスイブですが私は1日1食しかとらないので昼食を食べにうるま市にあるイタリアンレストランへ行き隣接するスーパーで買い物をしていたら珍しい人に会った。それは沖縄本部御殿手空手古武道協会のAguni氏であった。思いがけない処での出会いに相手もびっくりしていたが私は挨拶もそこそこに「あなたがTを引っぱったんでしょう?」と単刀直入に言った。すると彼は、「そうではなく彼が自分でやって来たのだ。」といいながらこれまでことを話していたが、その内容は事実と違っており彼が嘘をついて