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俳人中川四明として知られる中川登代蔵は、京都西町奉行与力下田耕助の次男として嘉永三年(1850)二月二日に生まれました。生後間もない同月十五日に二条城御門番組の南城番組与力中川萬次郎(重興)の養子となっています。幼名を勇蔵といい、のちに登代蔵と改めています。諱(いみな)を重麗(しげあき)といい、明治五年(1872)、二十二歳の時にこちらを本名と定めています。兄弟は、長兄と思われる人物に『京都武鑑』に実父下田耕助と共に名前が記載される扇太郎がいるほか、弟に六蔵(耕助の四男)がおり、六蔵は
7月から書き始めて、昨日ようやく終わった『佐久間象山の暗殺』ですが、実は大きな間違いがありました。「(27)愛しき人よ」で佐久間恪(三浦啓之助)の実の母・菊を、象山が暗殺された時に死んだのではないかと書いてしまいましたが、実は菊、その後も生き続けて明治四十年80歳で亡くなっていたそうです。この話は、『新選組銘々伝』にちゃんと書いてあって、ちゃんと読んでいたハズなのですが、書き込む段になってすっかり忘れてしまっていたという・・・・・・。どこかに脳みそ用の外付けエッチデーデー売って
明けて明治十年一月、明治政府は汽船赤龍丸を鹿児島に入港させ、陸軍省砲兵属廠(旧鹿児島属廠)に備蓄されていた武器弾薬を搬出しました。これは、当時の主力装備だったスナイドル銃の弾丸が同地で独占的に生産されていたため、鹿児島の暴発に備えて弾薬を確保するのが狙いでした。しかし、これを見た私学校生徒たちは激怒し、同月二十九日、私学校党の数十人が草牟田の陸軍火薬庫を襲撃し、銃弾6万発を強奪しました。この弾薬強奪事件を契機に、それまで西郷隆盛らによって抑えられていた鹿児島私学校生徒たちの不満が爆発
明治八年十一月二十二日、身重の妻・静枝を東京に残し、佐久間恪(いそし)は単身、四国は愛媛県に着任しました。恪を愛媛県に招いたのは、当時の愛媛県権令(※1)岩村高俊でした。岩村は通称を精一郎といい、土佐藩士で、かつては中岡慎太郎の陸援隊に所属していました。血の気の多い性格だったのか、近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎が殺されると、岩村は陸援隊・海援隊の同志と協合し、「新選組に近江屋を襲撃するよう仕向けた」として紀州藩公用人・三浦休太郎を天満屋に襲撃し、更に戊辰戦争では尾張・松代など東海・
北越戦争に従軍した佐久間恪二郎(三浦啓之助)は、翌明治二年に松代藩への帰参が叶い、更に翌明治三年二月には、佐久間家の家名再興がようやく認められることになりました。『松代藩士久保三郎日記』(明治三年二月二十三日。原文読み下し)左の通り被命これ有り。佐久間恪二郎亡父修理義、先年京地において殺害致され家断絶に及び候ところ、先祖より数代奉仕の内には武芸出精の者もこれ有り、その上、修理文武厚く心がけ、ことに西洋砲術伝習、未だ世間に稀なる時に当たり、ひとり奮って原書につき研究し
河上彦斎はその後、故郷熊本で謹慎生活を強いられていましたが、大政が奉還され、いよいよ倒幕戦争が避けられないとわかると、謹慎を解かれて熊本藩の軍事掛(かかり)に任命され再上洛を果たします。そして、慶応四年(明治元年)二月、肥後勤王党の同志佐々淳二郎と二人、東北諸藩に新政府への帰順を促すための使者となり京都を発った彦斎は、佐久間象山・恪二郎親子の故郷・信州松代藩を訪れています。松代藩では新政府の特使である二人をもてなすため酒宴を開きましたが、その席である松代藩士が「我が藩には佐久間
実は今回、佐久間象山の暗殺事件について調べているうちに、ある驚くべき記事を発見しました。しかも、その記事を書いた方ご本人は、おそらくその重要性に気づいておられないようなのです。その記事というのは、この『佐久間象山の暗殺』の中で何度か引用させていただいている週刊長野記事アーカイブ「象山余聞」。その中の「15.象山の寓居」です。その中で京都の郷土史家・寺井四郎さん(故人)が地元で調査・取材し書きまとめた『京都史蹟めぐり』(昭和9年)という書籍の中の、こんな一節を紹介しています。上洛した象
新選組に籍を置きながら、父佐久間象山の仇討ちを目指すことになった佐久間恪二郎あらため三浦啓之助ですが、その後の彼にはあまり好ましからぬレッテルが貼られてしまうことになります。『新選組始末記(壬生浪士始末記)』(西村兼文)隊士の粗暴を見ならい荒々しき行状をなすといえども、元来制外の者なれば、そのままに差し置きたるが、本国に聞こえ、母堂よりしばしば諫言を贈りたれども、いささかもこれを用ゆる意なく、ついに芦屋昇と共に隊中を脱し、本国信州松本に還りたるが、例の粗暴止まず、ついに捕せられ下藩に引き
父佐久間象山が殺されたあと、恪二郎には過酷な運命が待ち受けていました。松代藩士の北沢正誠ら在京中の象山門下が集まり、事件の翌日(元治元年七月十二日)には事件の報告書や検死報告書、死亡届、更に恪二郎の家督相続願いなどを松代藩・京都藩邸に提出しました。しかし、その日の夕方には「白昼路上で背中傷を負わされた上に死ぬとは士道不覚悟である」との理由で、佐久間家は家名断絶になると口頭で告げられてしまいます。この点については再三このブログで取り上げましたが、町方が作成した検死報告書には背中傷などひ
佐久間象山には恪二郎という息子がいました。嘉永元年(1848)生まれで、父象山が殺害された元治元年(1864)には17歳になっていました。恪二郎の生母は象山の妾で、名は菊(※1)といい、江戸蔵前の札差商(※2)和泉屋主人近藤九兵衛の長女でした。長男(早逝)と二男の恪二郎を生みましたが、嘉永五年(1852)に、当時まだ4歳の恪二郎を残して佐久間家を去りました。菊が離縁された理由は伝わっていないようですが、この年、象山は勝海舟の妹順と正式に結婚しているので、跡取り息子の実の母親が佐久間家
「神秘の国」三星堆遺跡、新たな発掘計画始動へ四川省AFPBBNews特に「青銅神樹」「青銅立人像」などは他に類を見ない貴重な文化財であり、優れた歴史的・芸術的価値を持つ。同遺跡は今から4800〜2600年前の古蜀文化の...「義の心」宿し前夜祭地元の児童・生徒200人でちょうちん行列謙信公祭24日開幕上越タイムス社メーンは春日小、高志小、春日中の児童と生徒約200人によるちょうちん行列。上杉家の家紋と「毘」の文字入りの手作りちょうちんを持ち、埋蔵文化財センター...
少し間が空いてしまったので、おさらいをしたいと思います。元治元年七月十一日朝、佐久間象山は国事御用掛に就任して間もない山階宮晃親王に世界地図を披露するために、三条木屋町上ルの自宅「煙雨楼」を出て、御所の北側、今出川御門近くにある山階宮邸へと出かけました。佐久間象山寓居“煙雨楼”跡。(三条木屋町上ル)西洋風の馬具を装備した愛馬“王庭”に、象山自らも洋装にて騎乗し、供は若党の塚田五左衛門、坂口義次郎に、馬丁の半平、草履取りの音吉の4人でした。しかし、あいにく山階宮
さて、佐久間象山が殺害された時の状況について、象山の家来たちとは異なる記述を残した人物がいます。その一人が、京都所司代与力佐野正敬です。『佐野正敬手記』元治元年七月十一日元真田信濃守殿家来当時御旗本に御取り立て右木屋町三条上ルところに旅宿。今十一日馬乗りて同町を上へ参り候ところ、何者とも相わからぬ浅黄羽織着用侍二人待ち伏せおり、やにわに切りつけ候ところ、切られてから木屋町通を二条へ、二条通河原町下へ三条東へ、また木屋町自分旅宿へ入るべきところ、未だあとに引き添いおり候に付き、
新撰組のメンバーで好きなのは?新選組のメンバーで好きなのは三浦啓之助です。ウソです。むかし書いた啓之助坊っちゃんの絵、やっと日の目を見る事が出来ました。・・・だいぶ手抜きですが(笑)今見ると顔色がだいぶ悪いみたいですが、以前持っていたパソコンのモニターだと、これがきれいな肌色になったんです。中古で購入した安モノのモニターだったので、色具合が悪かったんですね。啓之助坊っちゃん、まるで肝臓悪い人みたいな顔色です。修正しようと思えば出来るのですが
幕末です150年前の本日は、慶応2年7月5日。この日勝麟太郎さんが、勇さんと歳様、会津藩士山本覚馬さんにそれぞれ謝礼金を贈っております五日(中略)近藤勇・土方歳三へ五百疋、山本覚馬へ五百疋、佐久間恪二郎世話いたし呉候為挨拶とし遣す。(海舟日記)この日、勝さんは京から大坂へ戻りました。ま、その戻りがてらに「お礼」の意味で贈ったのでしょうが、明らかに「迷惑料」でしょうねぇその金子が届けられた屯所では…「入れ」総司が声をかけるより早く、部
一昨夜・昨夜に続いての、幕末でございます150年前の本日は、慶応2年6月24日。この日夕刻、勝さんが大坂から上京しました此日上京。内御用被命、夕刻乗船。(海舟日記)先日もお伝えいたしましたように勝さんの目的のひとつは、会津藩と薩摩藩の紛争の調停です。まぁ当然のことなのですが薩摩藩はこの翌日にも、島津茂久さんが先月に引き続き、出兵辞退を申し入れております。これが、自分たちが長州に赴くことができない会津藩士たちにとってはきっと我慢のならないことでもあったのでしょうね。
本日未明、夢うつつの中ですっごい雨が降っているなぁ…と思っていたらいきなり、おっきい雷の音絶対どっかに落ちたぞそれからは豪雨と雷で、ほとんど眠れず通勤・通学時間帯にはお天気になってきましたがまたお昼くらいには大雨変なお天気の一日でした。少しは水不足の解消に役立ったのかしらさて、本題150年前の今頃、つまり慶応2年6月末頃。こんな出来事が、あったのかも「土方副長」夜半の屯所副長室の前の廊下で、密やかに声を発した者がいた。刹那、襖が開かれる。「どうした?」