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↓二見城跡_説明板ふと、通りの反対側を振り返ると、二見城の説明板らしきものを発見。↓二見城跡_説明松倉重政は、元は筒井家の重臣だった。彼はこの城を出撃し、大和郡山城を救援するという活躍をした。これは、大坂夏の陣で最初の武功で、徳川家康は大いに喜んだという。↓二見城跡_説明後半↓二見城跡_縄張図城は南北に本丸・二の丸を配し、濠で囲み、その南側に馬場、西側に外郭を設け、三方には土塁を巡らせた。↓北側堀跡堀というか、河岸段丘の崖か。上の写真の崖のさらに奥。吉野川河原まで達している
明智秀満(最終話)「このままでは織田家の次期当主は信孝になってしまうのではないか。」と難しい顔つきで秀吉は官兵衛に尋ねた。「何を仰せでしょう、すでに次期当主は明白ではありませんか。」「どういうことだ。」と重ねて問うと、「信長様は先代のご当主であり、今のご当主様は信忠様でした。さすれば次期当主は三法師様以外におりません。」と官兵衛は自信満々に言った。「しかし三法師様はまだ…。」と言いかけて、はたと気づいた。「官兵衛、お前は悪党だな。神輿は軽ければ軽いほど良いのか。
幼き日の約束を胸に戦国の姫君・お市の方前回に続き、ほぼ1週遅れでようやく見ました、「どうする家康」の第30回「新たなる覇者」。1582~83年(天正10~11年)、家康は満40~41歳になる年のお話です。ここからはネタバレになりますので、まだ見ていない方はご注意ください。番組紹介|大河ドラマ「どうする家康」-NHKなお、私は歴史ドラマは「ドラマとして面白ければいい」と考えています。歴史にあまり興味がない人が興味を持つきっかけになることが一つの重要な効果だと思いま
さてさて…大河のどうするは本能寺も終えて小牧長久手に突入するようですが…織田秀信の幼名、三法師ってさ…珍しいよなと思ってさ…当時は○○丸とか○○千代とかっていうのが多かったけど、三法師か…本能寺はどこでござる?…と思いながら調べてみたら…無事三歳を迎えたから(満二歳だけどさ)三法師ということらしい…法師というのは一寸法師みたいに子供の一般的な呼称らしい…三法師以前の名前はよくわかっていないらしく…三法師を名乗ってから清須会議だったのか…清須会議の後に三法師を名乗ったのかも
大河ドラマどうする家康織田信長が本能寺で明智光秀の謀反により横死。織田信長の嫡男信忠も自害。家督を誰に継がせるか織田家重臣の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興らが清須で集まり次男信雄・三男信孝のどちらかにする清須会議が行われる。清須会議柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興が参加。秀吉の巧みな根回しで後継者が三法師に。本多忠勝井伊直政本能寺の変が終わり、堺から伊賀越えをして三河に帰還した徳川家康。織田の勢力が無くなった甲斐・信濃を、関東の雄北条氏と争う天正壬午の乱。秀
"織田家筆頭家老にして最も忠義武勇を誇ると自負する柴田勝家も、この事態には野心を隠しきれなかった。信孝が家督を継げば、その後見人として天下最大にまで膨れ上がった織田家の実権が手に入る。見る限り、信雄に信孝を上回る要素は見受けられなかった。そうなれば状況によっては、天下を伺う事もあるかも知れない。隠そうと努めてはいるものの、勝家の腹の中は誰の目にもあきらかだった。"いよいよ裁決を取る日が訪れた。柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の四人が並び、互いの推薦を出し合った。織田信孝を推し
「6月27日」「清洲会議」演出みなさん、おはようございます今日は少し晴れそうです梅雨の晴れ間は才能開花です6月も残り4日ラストスパートですさあ、今日「6月27日」の國史を学びましょう「清洲会議」天正10年(1582年)織田信長の後継者を決める会議です主な出席者は4人柴田勝家(筆頭家老)丹羽長秀池田恒興(つねおき)羽柴秀吉候補者は3人織田信雄(信長の二男)織田信孝(信長の三男)織田秀信(信長の長男「信秀」の長男)本能寺の変では信長の長
信長の秘宝レッドクロスAmazon(アマゾン)1,218〜7,274円信長の孫で信忠の子の三法師(元服後は秀信)の生き様が描かれています。武田と織田の同盟により婚約した信忠と信玄の六女松姫。三方ヶ原の戦い以降婚約は解消されますが、二人は愛を育んでいきます。そして敵国同士であるも信忠は父・信長には内密に岩村城で松姫と会うことに。その時授かったのが三法師。織田軍による武田討伐の際、三法師は信忠のもとへ、松姫は武蔵の国に。本能寺の変での脱出(といっても赤ん坊なので)以降、清須会議
政争をみるのがたまらなく面白い。鎌倉殿の13人でも頼朝死後に権力を奪い合うために北条と比企で多数派工作を仕掛けます。それは現代でも同じの様ですけど、安倍派という最大派閥の領袖が突然去ったあとの跡目争い。歴史上何度も見てきた光景ですけど浮かんだのは織田信長亡き後の跡目の権力争いである清須会議。出席者は柴田勝家(宿老)、丹羽長秀(宿老)、池田恒興(信長の乳母兄弟)、羽柴秀吉(家老)、織田信雄(信長2男)、織田信孝(信長3男)、織田三法師(信長の嫡孫当時3歳)の7名
清洲会議に想う会議は「準備と演出」梅雨の晴れ間は「才能開花」です晴れの日が続きますね晴れの日に感謝しながらやがて降る雨に備えましょう「清洲会議」天正10年(1582)織田信長の「後継者」を決める会議です主な出席者は4人柴田勝家(筆頭家老)丹羽長秀池田恒興(つねおき)羽柴秀吉候補者は3人織田信雄(信長の二男)織田信孝(信長の三男)織田秀信(信長の長男「信秀」の長男)本能寺の変では信長の長男「織田信秀」も自害していまし
行こう!きみとその未来へ和歌山県岩出市・紀の川市にある塾のユーゼミですユーゼミのブログ担当ブロたんの桜です🌸桜のよもやまばなしにお付き合いください。今日は歴史上の人物のお話です。和歌山県橋本市向副(むかそい)は織田秀信(織田信長の孫)が亡くなった場所です。こちらには「織田秀信終焉(しゅうえん)の地」の石碑があります。※終焉(しゅうえん)とは命の終わりの意味です。「織田秀信公は、織田信長の嫡孫(ちゃくそん)で幼名(ようみょう)を三法師と称(し
出世した秀吉は、かつて目上だった連中を家来にして、さぞ威張り散らしたモノの言い方をしていたのだろうか?いや、そうでもないのかも。歴代の大河ドラマなど見てると、意外と、もとの主筋や上役は、形式上だけでも立てる、という描写が多いです。たとえば竹中直人がやった「秀吉」では、秀吉が天下を取ったあと丹羽長秀(篠田三郎)は秀吉政権の相談役のような席になりますが、長秀と秀吉は「藤吉郎、それはあまり良くないのではないかな?」「丹羽様、ここは口出しご無用に願います」みたいに、秀吉は口調だけは元上役の年長者を
映画「清須会議」が、「三法師の母は、武田信玄の娘・松姫」という設定でした。松姫を剛力彩芽がやってました。以下、この映画のネタバレになりますが。映画「清須会議」の大どんでん返しは、松姫が武田信玄の孫でもある我が子三法師を「天下人」にするために秀吉(大泉洋)を裏で操っていたのでした!っていうビックリ仰天の結末でした。映画は、剛力の邪悪な?笑顔で終わります。但し、三法師の母が松姫だというのは、三谷幸喜氏の考えたフィクション、大法螺というべきです。松姫については、大昔の大映ドラマ「おんな風林火
数年前から始まり、大門では2021年に出来上がりました、太閤秀吉功路モニュメント詳しくはこちら→太閤秀吉功路HP大門地区に出来たモニュメントを、順番にご紹介していきます「十九二万の兵で中国大返しを成し遂げる」「二十天王山をとり、山崎の戦いで光秀を破る」「二十一信長の孫、三法師を擁し清州会議を主導」に続き、「二十二大徳寺で信長の大葬儀を取り仕切る」です場所は、太閤通5丁目。二十一の道路を挟んだ向か
【坂本城】考古学者といく、光秀が築いた琵琶湖の水城「坂本城」へ-ついに判明、光秀の城門!石工集団が築いた石積み、湖に沈む城郭NHK大河ドラマに取り上げられて何かと話題の明智光秀ゆかりのツアーに参加しました。比叡山坂本駅に集合。タクシーから徒歩に行程が変わったため、街歩きではなく行軍っぽく移動。後ろの人を待つため、比叡山を見ながら焼き討ちの説明がありました。京都市内からいつも見ているお山は裏面で、表面はこっちですね。山頂に平地が広っています(ブラタモリで取り上げられていました)。
こんばんは🌉いまは、「市川海老蔵に、ござりまする」2019年放送されたものを拝見しています。録画してある羽柴秀吉✨三法師✨源氏物語を拝見して麗禾ちゃん🍒カンカンの成長を感じました。素敵な満席の劇場で、海老蔵さんの歌舞伎「勧進帳」のお舞台を拝見して7ヶ月ですが、お舞台が懐かしいです。来月が、楽しみです。海老蔵さん✨ご自愛くださいませ💚😌💚合成の誤謬、調べて意味が判りました。。。ずっと悩んできたことに光が指した感じです。
橋本市のはしもと広域観光案内所にて購入。三法師とは織田秀信の幼少期の呼び名。
1072年白河天皇は後三条天皇から譲位され、20歳で即位します。関白は置きましたが、1073年の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ、摂関家の権勢を弱めることに努めます。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる藤原教通・信長父子と藤原師実の対立がありました。父・後三条上皇とその母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持っており、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めました。白河天皇はこれに反発しましたが、生前の後三条上皇や他の
#織田秀信まぁ簡単に言うと三法師信長の孫ですね😊
まいどです☆2日前の雨の日の話。「今日雨降ってるから、畑仕事休み?」の連絡を受け、知り合いの方に、どこに向かうかも教えられずに連れていかれた笑↑ここへ。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、織田家の跡取りを誰にするか。それを決める会議が清洲会議。そこへ、秀吉が突如連れてきたのが「三法師」。(1:40三法師は、勸玄くんも演じています)秀吉は、この三法師のお陰?で天下人になります。
今日は晴れて行楽日和♪娘ちゃんとリベンジを!!連休に大判焼三法師さんへ立ち寄り2時間待ち!とても待てないので一週間後にリベンジしてきました(笑)金沢から車で40分ほどの白山市にあります新緑の綺麗な場所白山ろくテーマパーク吉岡園地で少し遊んで待ちました!娘ちゃんとても楽しかったご様子😊あっという間に時間となり豆乳クリーム小倉(MIX)チーズおぐらカスタード11個購入しました(笑)母親も前回見ただけで美味しそう〜〜と言ってたので『お福分け』するために大量購入で
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は「歴史の裏側教えます!!」シリーズです。戦国史上、天下分け目の戦いと呼ばれる「関ケ原の戦い」ですが、それより前に、「天下分け目の戦い」と一部では呼ばれている「小牧・長久手の戦い」について紹介したいと思います。近年、小牧・長久手の戦いは、結構注目されてきている戦いですが、この戦い「勝敗」という意味では、様々な意見がありますね。戦国時代、戦の勝
昨日は、「織田長益(有楽斎)」の息子達の家が、幕末まで続いた居城(陣屋ですが)をお話しました。ここで、「織田信長」周辺の織田家の人達と、その統治の中心の居城について纏めてみました。(「江戸日本を創った藩祖総覧」(武光誠著)を参照系図して下記系図を作成)「信長」の兄弟は主に5人いましたが、弟の「信包(のぶかね)」と「長益(ながます)=有楽斎」は、江戸時代になっても大名として領地が与えられました。しかし、「信包」の系統は、「信重」と「信則」で絶えています。一方の「長益」の系統は、昨日記
秀次が切腹した後、秀吉は各大名に豊臣政権への忠誠を誓わせるため起請文を差し出させています。起請文を差し出した大名は、前田利家・宇喜田秀家、玄以が先に仕えていた織田信雄らでした。名だたる大名らが差し出した起請文の受取人は六名いました。名を挙げると、宮部継潤・前田玄以・富田一白・長束正家・石田三成・増田長盛。六人はのちの「五奉行」のルーツとなります。つまり、玄以はこのころから、豊臣政権の中枢を担っていたのです。玄以は丹波亀山城で五万石を領し、秀吉の死後、政情が
清洲会議において、玄以が命懸けで守った三法師を盛り立てようとしたのが羽柴(のち豊臣)秀吉でした。『名将言行録』には秀吉と玄以との逸話がこう記されています。秀吉「わしが天下を取ったら、そちは何が望みじゃ」玄以「それがし(京都)所司代になるとうござる。かねて京の者の横柄なるところを憎く思っておりますゆえ」おそらく、のちに玄以が所司代に任じられたことから後付けされた話でしょう。しかし、玄以は内典下(ないてんげ)典(てん)に通じ、才知に優れています。所司代
玄以の出身地には尾張と美濃の両説あります。それについては「岐陽(岐阜)」出身とする南化玄興の証言を信じようと思います。玄以が京都所司代になる前の経歴もよくわかりません。かろうじて織田信長、次いで、その嫡男織田信忠に仕えていたことがわかるだけです。こうなったら、江戸時代の伝記を参考にするしかありません。幕末に編纂された『名将言行録』には天正一〇年(1580)、信長が本能寺で討たれたときの話が掲載されています。京の二条御所で明智光秀の軍勢に包囲された信忠は玄以
姿勢を保つこと。大切なお稽古ですね。かんかん、三法師の姿、源氏物語での歩く姿、綺麗な姿勢でしたがんばれー✊❗
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皆様こんばんは〜最低気温23.5℃最高気温28.5℃最小湿度59%風があり涼しく感じる事が出来てお出掛け日和でした昨夜のお月様です雲が出ておりました明日が満月です東京では見られないと思います本日は歌舞伎座昼の部を拝見いたしました三國無雙瓢箪久(さんごくむそうひさごのめでたや)今回の上演のきっかけは海老蔵様のお祖父様とお父様の共演のお写真がきっかけとなり作られた作品とのことですこの一枚の御写真により復活を遂げられました