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春の雪山はどこに行こう。吾妻連峰の滑川温泉を歩いた時にちょっと気になっていた山栗子山1227m。登山道は無くて積雪期限定の山。米沢から栗子隧道見学に来る人がいるようだ。隧道見学のためにはゲートから4㎞ほど歩く。栗子隧道は米沢と福島の県境を結ぶトンネルで明治時代に開通した。奥羽本線開通で使用されなくなった。その後自動車道路は別ルートにて栗子トンネルの名は残る。ヤマップ記録を見ると栗子隧道より先は急傾斜もありピッケルがあった方がよさそうだが4月に入れば不要と判断。米沢
こちら、今年2月のブログに貼り付けた北の丸公園にある吉田茂像。銅像の説明が裏側にあり、大御所彫刻家・舟越保武さん作と知りました。洋服は最低限の皴表現で、単純化されているものの、顔の表情の再現性が高いのが印象的。さすが舟越さん。吉田茂というと、もう少し厳しい表情が浮かぶけれど、とびきり柔和な瞬間をとらえた銅像。(この角度だと中曽根元首相にも似ている?)これまでに見た写真を思い起こしつつ、ここまで優し気な表情をしたものがあったかな?と考えてみたところーー
※こちらの記事は、令和3年7月14日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第15回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!※記事下部に人物の読み仮名をのせています。【『青天を衝け』の楽しみ方】・第1回―渋沢家について・第2回―身分秩序について・第3回―平岡家について・第4回―
笹谷峠は宮城県仙台市と山形県山形市を結ぶ国道286号・笹谷街道の県境にある標高906mの峠です。地理的に雪が多く例年11月初旬~4月末までは冬季閉鎖になります。陸奥と出羽を結ぶ道として歴史も深く、またその道形も九十九折りの続く走って面白そうな道なので、ずいぶん以前から走って見たいと思っていましたが漸く今回行くことが出来ました。宇都宮からは、今回は鉄道輪行では無く自動車に積んで行きました。車は白石駅前のコインパーキングへ置きました。道の駅や公園の駐車場などへ置くことも考えたのですが、日帰
けのふ(昨日)の駄文&下手くそ画像の最後の『アリバイ写真』のままでは、後味が悪いので、けふ(今日)は、『その後編(=帰路編)でも・・・!』と想った次第だが、そんな中で、早速だが、読んで頂いて居る方は、この画が何を意味するか推測が着きますかな・・・(笑)この施設・・・、実は、この一帯が『ダイワリゾート』に払い下げられて、『温泉付き別荘地』になった最初の頃から営まれて居る施設で在って、然(し)かも、此方は薩摩藩領(=鹿児島県)で、道路向かいは、『島津本家(=都城藩)領・・・』
今日のNHK「ブラタモリ」は山形市でした。7時のNHKニュースのあと、なんとなくチャンネルをそのままにしていたら、あら、去年の夏休みに行った場所だわー、と気づき、興味深く視聴しました。恐らく要点を端的に示すために、かなり絞った内容ではありました。例えば、後半登場した文翔館は、山形県旧県庁舎及び、県会議事堂という2つの建物からなる文化財保護エリア。でも、取り上げたのは旧県庁舎のみで、隣接する旧議事堂の建物には一切触れていませんでした。我々は文翔館の西側からアプローチしたので
けふ(今日)は、ジジイとしては、何は然て措き、これを綴らねば『三嶋通庸公ファン・・・』の名が廃る・・・(汗)今宵のNHK-G、7時半からの『ブラタモリ』を観て頂いた方も、中には居て下さると想うが、後半の15分ほどの『明治以降の山形県編・・・』で出た、この建物と一緒に採り上げられたのが、ジジイが畏敬して已まない三嶋通庸公・・・!(画像は、山形県HPより拝借)建物は、けのふ(昨日)載せた『山形師範学校』と同じ、明治11年頃に建てられた『初代・山形県庁・・・』だが、
ひらり姉が大阪生まれの医師と接近する。その後のシナリオわすれたが、ふたりが結ばれたらいいネらんまん土佐の自由民権運動に巻き込まれ逮捕されたが、婆婆のコネで無罪放免となる。獄中の同志の反発食らう。自由民権運動はやはり土佐がメーンなのか。それなのに、板垣退助が出てこない。接点がなかったのか。わずか1年弱の郡山勤務のとき、東北の代表的活動家、河野広中の足跡を、出自の三春町に訪ねた。郡山市は県庁もない田舎勤務と思ったら、東北では事実上、仙台に次ぐ大都市圏、中核市をひとりでカバー。よって
三島通庸をご存じだろうか。おそらく、廃道マニアの方はほぼほぼよく知ってるとお答えになるだろう。三島通庸は幕末から明治を生きた官僚だ。東京都参事を務めた後、1874年に初代山形県令に着任した。そして、1882年に第5代福島県令になり、翌年からは第3代栃木県令も兼任、最終的には第5代警視総監になった。東京の銀座煉瓦街の建設を推進したのもこの人。ちなみに、玄孫の一人は麻生太郎氏。山形県令となり赴任すると「東北の発展には道路の開鑿あるのみだ!」と大号令を発し、時には住民の反対を押し
けのふ(昨日)、自分の駄文を投稿した後、メールボックスに届いたメールの削除に勤しんで居たら、斯様なTwetter投稿が現れて・・・(笑)このキャッチコピー・・・、『もしも東京の真ん中に山があったら・・・!』と耳にしたら、このジジイは、放っては措けない・・・(笑)実は、この発想を、遥か150年ほど前に、あの維新の立役者の『西郷隆盛』に進言した御仁が居たのを、Nippon国民のほとんどはご存知無いだろうが、その御仁こそ、ジジイが敬愛して已まない『三嶋通庸(みちつね)公
河野広中について書かれたものとしては、高橋哲夫の『河野広中小伝』などがあるが、あくまでも河野の出自や、政治家としての歩みが語られているだけで、河野を奮い立たせたものが何であったかについては、つまびらかにしていない。いくら伝記であるとしても、そこを掘り下げなくては、意味をなさないのである。とくに、河野の政治的な立場に関しては、もっと目を向けられるべきだろう。「行動の人」というだけでなく、大衆の一人として身を処したのである。大衆政治家の功罪を一身に背負ったのが河野広中なのである。三春の
何を云い出すとも識れない呆けジジイの駄文だが、けふの暴れ脳は、ジジイに、『あれを綴れ・・・!』と囁き掛けて来る・・・(汗)などと、嫌に勿体を付けた書き出しだが、『大河』とは、NHKが、毎年力を入れて創る、日曜、夜8時からの定番番組、『大河ドラマ』の主人公の話で、現在の『鎌倉殿の13人』の次は、『どうする家康・・・』と決まって居て、その次の2024年は、平安時代に綴られた『源氏物語』の著者、『紫式部・・・』と発表されて居るらしいが、その後は、『まだ気が早い・・・?!』と云
爆発的なコロナ渦ではありますが、自分のメンタルとキズを癒す為に湯治に行って来ました。大分、股関節の調子は良くなってはきたのですが、膝関節はちょっと歩くと熱を持ち痛みが出る状況で中々進展しなくて参っていたのでした・・・(笑)チェックインするまで時間があったので、何ヵ所か見物したことと宿の話を紹介していきますね。まずは最初にここ年々も行ってみたいと思いつつもスルーしていたところに行ってみました。天皇の間記念公園かつて塩原福渡の地にあった「塩原御用邸」の「新御座所(天皇の間)
ある朝の散歩の際、穏やかな阿武隈川の川面に映る松齢橋がきれいで、思わずいろんな角度から写真を撮ってしまった。以下写真の通り、この松齢橋は大正14年完成である。この場所はかつての福島城(現・県庁)のすぐ近くなのだが、明治以前までは渡し舟で川を渡っていた。ここの福島城側の地名は「舟場町」で、反対側は「渡利」。まさに地名に現れている。明治初期に洪水中に渡った舟が転覆して18名が死亡するという惨事が発生したという。そこで地元有志が「土木県令」と呼ばれた県令(今の県知事)・三島通庸に橋の設置
ご覧いただき、ありがとうございます。今回は、移住生活をテーマに、那須塩原市の三島地区にある三島神社をご紹介します。この三島地区は、京都や札幌のように碁盤の目状の街づくりが行われたところです。地図を見ると、以下のような感じです。赤○の所が三島神社です。右下が東北本線の西那須野駅です。地図中央部が三島地区で、碁盤の目状の開拓地となっています。なお、地図の出典ですが、国土地理院のものを利用させていただきました。こちらが、三島神社となります。参道に一輪車があります
小国町赤芝峡谷。山形県米沢と新潟県関川村を結ぶ、十三峠のひとつ宇津峠。峡谷の難所です。明治時代、薩摩出身の県令三島通庸の大号令で、道路が造られます。洋画家高橋由一の絵が当時を伝えます。「西置賜郡小国新道の内沼沢村字綱取半隧道の図」通称片洞門現在は長大な綱取トンネルができ、大型トラックが轟音を立てて行き交います。しかし、少し脇にそれると、今も昔のままの道路が残っています。ここをバスが通ったなんて信じられますか?
今年6月に2週連続で訪ねた那須野ヶ原散策一回目、三島神社の後に訪ねたのは、三島農場跡にある道の駅那須野ヶ原博物館。場所はこちら。多分ですが、駐車場がだだっ広いのに利用者が少ないから道の駅に指定してみたものの、道の駅としての物販機能はいつまでたっても追加されない為に、販売も行わず、博物館の利用者も増えないという、かなりお粗末な箱モノです(^-^;三島神社も参拝したことだし、前回と同じルートで寄ってみようか?と、10年少々前と変わらない入り口の風景。暑か
今年6月に2週連続で訪ねた那須野ヶ原散策一回目、太夫塚の円筒分水の後は昼食をはさみ、旧三島農場跡の碁盤の目状の区画を抜けて、10年と少々ぶりに参拝したのが三島神社。場所はこちら。見ての通り、神社から南東側だけ、綺麗に碁盤の目状に区分けされていて、通称『三島碁盤の目』なんて呼び方をされているようですが、三島通庸が直線好きだったことを良く知っている廃道好きには、何とも納得の地図です。そしてこちらが三島神社。10年少々前にも参拝したのですが、その時と比べると、石
残業で遅い上に早出で余裕がないのでちょいネタで。廃道マニアには有名な三島通庸さんのこんなものが発行されていましたw追記:廃道マニア以外の一般の方には馴染みのない名前かと思いますので、三島通庸(みちつね)という人物についての補足など。三島通庸は幕末の薩摩藩に生まれて、食うや食わずの貧しい生活をしていた下級武士でした。それが、明治には酒田県の県令、今でいう県知事に抜擢された後、わっぱ騒動を早期に弾圧、もとい鎮圧……も聞こえが悪いので終結させた功績から、酒田県が周囲と統合され
逆杉を存分に満喫した後さあ、いざ日光東照宮様へ行かん!と奮い立つ私を尻目に、夫はお母さんに天皇の間記念公園もどうしても見せたいと言うのでした。日光山内は本当に広くてあちこち見る所があるので日光東照宮様を存分に巡り歩きたい私はすぐにも日光へと向かいたかったのに、夫は「僕が行きたい所にだって行かせてくれてもいいじゃないか。」となぜか頑として譲らなかったので、塩原の御用邸にも立ち寄る事になりました。天皇の間記念公園については前回訪れた時に詳しく記事を書い
何も、澁澤翁たちが給された俸給を、『現代の貨幣価値と比較する・・・』なんて下世話で野暮なことに、時間を費やすことも無いのに、まったく困ったジジイで有るわなあ・・・(汗)モタモタして居る内に、今年の大河(ドラマ=晴天を衝け)は、もう最終回の直前回を迎えてしまったのでは、的外れも甚だしいわなあ・・・(汗)だが、まあ、若い頃からの大ファンだった澁澤翁の生涯を、改めて学び直して居るだけの話だから、この際、NHKさんとは縁を切って、先を続けるか・・・(笑)『晴れて・・・!』と
今年の4月に郡山市長選があって、投票所に行った。室内が、どうも騒がしい。投票用紙を受け取ってから、あたりを見まわすと、係員(おそらく休日出勤した市役所職員)の後方に音の発生源があった。ラジカセから、鳥羽一郎の「兄弟船」が流れていた。「波の谷間に命の花がふたつ並んで咲いている」作詞星野哲郎作曲船村徹演歌の王道をゆく、心にじーんとくる歌で、いい歌だとは思う。しかし、ここは国民の権利を行使する所だ。いきなり脱線するが、大泉逸郎の「孫」の、「
12月4日(土)②こんにちはコバルトアユです。12月4日の続きです。15:40診察が予想以上に早く終わったので、Googleマップを見て気になっていた、三島神社⛩に行きました。神社近くの道の駅に車を止めて歩いて行くのが、手っ取り早いかな。歩いて1分三島神社前。栃木県令などを務め那須野が原の開拓に尽力した三島通庸(みちつね)を祀る神社。通庸の五男は、日本人初の五輪短距離に出場した三島弥彦大河ドラマ「いだてん」で生田斗真さんが演じた人。鎮座地は、那
霞城公園として整備されている山形城址。そこには山形が誇る名洋館建築があります。城址の南側、木々の間を抜けて行くと、美しい塔の洋館が現れます。◆旧済生館本館(山形市郷土館)◆(国登録重要文化財)明治11年(1878)竣工の旧県立病院で、時の太政大臣・三条実美により"済生館"と命名されます。医学校も併設していて、オーストリア人医師ローレツが医師兼教師として採用され、山形の医学の中心となります。惚れ惚れする三層楼。1層が8角形、2層は16角形のドーム型屋
上の写真は天狗岩です。遠くから見ても切り立った崖がすごかったです❗大分日にちがたってしまった塩原への旅行ですが、こうして思い出しながら少しずつ日記を書いていると楽しさが蘇るし、記念にもなるから良いことづくめですね。これもみんなアメブロを始めたお陰です。アメブロさん、ありがとうございます❗天皇の間記念公園を堪能した私と夫は、塩原温泉ビジターセンターまで車を取りに散策路を戻りました。いつも旅行の時は行き先をあまり決めずに気が向いた場所へ向かうのです。
上の写真は塩原御用邸の外観です。もみじ谷大吊橋を出た私達は、食事する為にすぐ斜め前にある「みかえりの郷」という施設に立ち寄りました。回顧(みかえり)の滝のすぐ近くです。館内にはみかえり温泉彩花の湯という温泉施設と、畳敷の大広間とがありました。泉質はカルシウムナトリウム硫酸塩酸泉です。入らなかったけれど案内の写真を見たらお風呂は見晴らしも良く、広くて快適そうでした。新しくて綺麗でした。私達以外はみんな地元の人のようでした。回数券も販売していました。人気
2014夏山口の旅その128/12(火)③瑠璃光寺から少し下がったところに建つ枕流亭は、坂本龍馬の立ち会いの下、薩長同盟が成った歴史的な場所という。ファンにはたまらない聖地じゃないかと思いきや、瑠璃光寺からこちらに回る人は少なく、ここを目当てに訪れる人もまれなようで、二階は昼寝に最適。座敷に上がると、すぐそれを考えてしまう我々であった。枕流亭にて。背後に五重塔が見えるすぐそばに建つ露山堂ともども、建築としてどうとかいうほどのもの
旧山形県庁今は郷土館『文翔館』となっています。とても趣のある建物。国の重要文化財にも指定されています。明治10年、初代山形県知事三島通庸によって建設されました。中央階段。英国近世復興様式を基調としています。政庁の間、主に辞令交付で使用されました。貴賓室旧知事官房、初代山形県知事三島通庸のもの。知事室内務部長室議場ホール明治16年に完成した山形急流県会議事堂。旧山形県会議事堂ご覧になった方は1票の投票をおねがいします。下の3つのうちいずれかに読んだよのクリック
今月のトランヴェールの特集は、明治時代の擬洋風建築です。特に、山形県や福島県の建築物が多く取り上げられています。どちらかというと、日本史では福島事件とかで有名な三島通庸が県令として積極的に擬洋風建築を進めたためのようです。ちなみに、宮城県については、こんな感じ。朝ドラで、少しは知名度が上がったと思われる登米の小学校などが載ってます(^。^)。で、何気なく、眺めているうちに、ふと気づいたんだけど。山形の旧済生館本館。なんか、どこかで見たような名前。どこで見たんだっけ。
どうして大連は今なお日本とのつながりがこんなに深いのかニコニコニュース建築文化、言語文化、飲食文化など様々な日本の文化が大連の現地文化に大きな影響を及ぼしてきたとし、今や大連名物となっている海鮮料理、さらに...観光名所「八幡堀」で76歳男性の遺体発見シニアカー運転中に転落か滋賀・近江八幡47NEWS30日午前6時20分ごろ、滋賀県近江八幡市生須町の八幡堀で、男性の遺体が浮いているのを通行人が見つけた。滋賀県警近江八幡署によると、...【青天を衝け】円四郎暗殺、あえ