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ご来訪ありがとうございます😊ファファファさんからのリブログです…ジュリーの未公開映画…あったのですね…しかも三島由紀夫さんですか…観たい…
5年前の2020年11月の事、”THEDEATHOFAMAN”(男の死)と云う三島由紀夫の写真集が米国RIZZOLIINTERNATIONALPUBLICATIONS,INC.から刊行されたと同時に、私は待ち切れず米国から直接取り寄せ、当ブログに此の写真集に就いて書いたが、もう一度別の角度から書いてみる。【2020年10月に米国で出版された三島由紀夫の写真集】写真集は三島由紀夫がモデルとなり、篠山紀信(写真家83歳没)、横尾忠則(8
三島由紀夫先生三島由紀夫氏ラジオYouTubeリンクからだと、サイトに飛べなかったので題名をコピペで検索がいいですね。(自分用。散らかっているブログです。ご覧いただきありがとうございます。彌榮!!)編集して、upして頂き、感謝致します🙏。2025/4/11に投稿されてこの視聴回数といいね👍の数は✨感動✨そのもの😭です。何年か前から三島由紀夫さんが、和多志の心の奥に居ました。その理由が今日、分かりました。投稿を心から感謝しています🙏日本の未来🇯🇵が見えていた彼の愛が溢れて
今、『国宝』という映画が評判であるようだ。これは、作家吉田修一の書いた小説を原作としているようだ。歌舞伎の世界を描いたものということで、かなり幅広い世代に見られているようだ。実は、私もこの映画を見ようという気があって、先に、原作の小説のほうを読んでしまった。(そういう順番で小説→映画という風にしたのが、良かったのかどうかはわからないが…。)ところが、最近、この映画について批判的な言説も聞く。(そんなことは、いろんな場所で、いろんな人物が言っているのだろうけど…。)(
【今回見た映画】アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方(2024加・米他)三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜(2020日)破戒(2022日)ロミオ・マスト・ダイ(2000米)お墓がない!(1998日)2ガンズ(2013米)クリミナル2人の記憶を持つ男(2016英米)バッドボーイズRIDEORDIE(2024米)二人の世界(1966日)青春のお通り(1965日)アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方★★★☆☆2024加・米・デンマーク・アイルランド。
【5月15日】(木)曇り430起床・曇り空で始まる朝。4時半でもう夜は明けている。雨が降らないとの予報だが、この曇り空はいただけない。視界も良くない。こうなると気持ちも今一つのってこない。お日様が出るのを気長に待つしかない。体調は良好。体重は今年一番重くなった。BMIは21.96。最近食欲が止まらない。体重が60kgを下回ってBMIが20台になってくるとフレイルのリスクが出てくるらしいので、今の感じをウロウロできるのがいいもしれない。「長生き体重」としてはもう少しあってもいいらしいが
1970年9月、自刃2ヶ月前三島由紀夫の「革命哲学としての陽明学」が発刊された、口述筆記による作品だ。【三島由紀夫の「知行合一」の陽明学に関する著書】文藝春秋社雑誌「諸君!」の編集者、田中健五(後に同社社長)が書いているのだが、三島が『僕は今、陽明学の事しか興味が無い、陽明学に就いてなら喋っても良いよ、但し原稿を書くのはお断りだ。忙し過ぎるのでね』と、それで同社が用意した麹町の旅館に来た三島が、『それじゃ始めますか』と云うや否や「である」調の文章体で話し始めた
三島由紀夫は1925年(大正14年)1月14日、東京都四谷区永住町二番地(現新宿区四谷4-22)で、父平岡梓(31)と母倭文重(20)の間に誕生。『公威』の命名は祖父の定太郎によるが、此の名前は定太郎の恩人で土木工学博士、古市公威男爵から戴いた由、以前此れは一部当ブログに書いた。従い、本日が丁度生誕100年、没後55年となるので今年は様々なイベントが予定されている。👉1967年、三島は自刃の3年前に或る広告誌にこんな文章を書いている。参考まで全文引用する
77年前の12月24日、東大卒業後、高等文官試験に合格した三島由紀夫は大蔵省事務官の後期組として任官、そして銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。後日、大蔵省の官吏になった理由を問われた三島は、父親の梓が農林省勤務しており、大蔵省役人との予算折衝の際、常に頭を下げる事が多くそれが嫌で、役人になるのなら自分の息子には大蔵省に入る様に勧められた為、と語った由。【三島由紀夫自身は川端康成を「師」とは仰いではいなかった】終戦間もない故に当時、大蔵省は四谷小学校校舎に仮住まい中だっ
三島由紀夫が36歳の時に書いた短編小説「憂國」は1961年1月の「小説中央公論冬季号」に発表された。この「憂國」と「十日の菊」「英霊の声」を合わせて「二・二六事件三部作」と云う。しかし此の作品に限っては二・二六事件の決起将校達の義挙を讃える意図で書かれたものではなく、至上の愛によって欣然と切腹する青年将校の情史を書いている、その背景が二・二六事件なのだ。そして、三島由紀夫自身が『もし私の小説を一編だけ読みたいといふ人があったらば、広く読まれた「潮騒」などよりも、寧ろこ
『散るを厭う世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐』『益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐えし今日の初霜』(三島由紀夫辞世の句)合掌+今日11月25日は、三島由紀夫が自刃してから54年目となるが、彼が何故自刃したのかに就いては内外共に数多の論評がある。1958年3月号の
今日の時事通信ニュースで、岐阜県の指定暴力団幹部が自分で小指を詰めたにも拘らず過失による負傷として、都内の病院で国民健康保険を使って窓口負担分を除く約4万円の支払いを免れた詐欺容疑で、逮捕された。県警によるとこの種の事案での逮捕は全国初の由。こういう事をヤクザ言葉では「ちんけ」と云う由。因みにヤクザの語源は、広辞苑によると、「三枚カルタ」の博奕で、八、九、三の目が最悪の手で、役に立たない事から、八九三(ヤクザ)と云う様になった。一方、ホンモノのヤクザは”任侠道”に生きると
当ブログでは大分前に、三島由紀夫を巡る女性達に就いて書いた、勿論独身時代に交際関係にあった女性に限らず公私に亘り文壇、映画や舞台等々様々だが、三島夫人の平岡瑤子さん以外に、特に交流があった女性たちは、【平岡瑤子夫人】【女優の村松英子】【文壇】有吉佐和子/森茉莉/宇野千代【芸能関係】村松英子/越路吹雪/若尾文子/丸山明宏岸田今日子高峰秀子/石井好子【プライベート】豊田貞子/湯浅あつ子
今し方、珈琲を飲みながら『Longandwindingroads🎶』等を聴いていた、矢張りTheBeatlesは何時聴いてもいいですね。私は正にビートルズ世代ですが今から半世紀以上前1966年6月29日ビートルズが羽田空港に降り立った、日本に5日間滞在し5回のコンサート、しかし1ステージ正味が僅か30分。チケット代は¥1,500~\2,100だ、当時の若者の平均月収が20,000円程の時代だったから其れなりの値段だ。【1966年6月29日
三島由紀夫にとって、26歳年上の川端康成は文学上の師であったと云う評論家もいるにはいるが処が、三島自身は川端を決して「師」と仰いではいなかった。【1968年2月川端のノーベル受賞に駆け付けた】抑々、2人の出会いは三島の父、平岡梓の学友のそのまた友人が川端康成だった。1946年、東大生の三島が21歳の時に文芸誌「人間」7月号に「煙草」と云う小説を発表する際に川端が推薦してくれたのが契機となり文壇デビューし、二人の交流が始まった。翌1947年1月2日に
三島由紀夫に、或る文芸評論家が一番嫌だと思っている事は何ですか、と尋ねたに対し、三島は『人間関係のネバツキです』と答えたので更に続けて屡々言及される義理と人情に就いてのお考えは、と質問した。【三島由紀夫の「葉隠入門」にも人間関係の記述が多い】三島はこう答えた、『義理はマナーであって、モラルではないと思います。私の場合で云うと、一度でも恩義を感じた人、親しくした人の悪口は、口では言っても文字にはしません。私は物書きだからね。人
学生運動とは?全共闘とは?1962年生まれの自分にとっては“学生運動”や“全共闘”は永遠の謎である。高校から大学に通っていた1980年前後、学生運動が収束してから10年近く経過しており、我々はシラケ世代とか新人類とか言われ政治的な思想には全く無関心だった。大学浪人時代に駿台予備校の物理の授業で東大全共闘議長だった山本義隆の授業を受けたが目の前で淡々と講義している人が東大全共闘のトップだとは思えなかった。社会人になった時、一回り上の世代の上司たちはまさに
1970年11月三島由紀夫自決直前、親友のドナルド・キーン氏(DonaldKeene日本文学研究者、2019年96歳没)宛に、正に遺書とも言うべき手紙を書いていた。この手紙は三島が直接キーン氏宛に郵送したのではなく、三島の自刃後に、瑤子夫人から直接手渡されたのだ。此の手紙には11月とあり日付は書いて無かった。『前略、小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました(中略)小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました』末尾には『この夏下
三島由紀夫は、15歳の時に書いた短編小説『彩絵硝子』の新感覚派的文体から始まり、17歳の『みのもの月』の日本古典の文体、23歳の『盗賊』のラディゲ的表現法(20歳で世を去ったフランスの天才小説家RaymondRadiguet)、そして以前にも当ブログで触れた通り、1956年8月号の「文学界」に「自己改造の試み、重い文体と森鷗外への傾倒」と云うエッセイの中で、「金閣寺」「禁色」「沈める滝」の3作品は全て鷗外の文体の影響を受けていると三島自身が語っているのだ。【森鷗外
三島由紀夫に就いての評論は、生前から国内外で多くの文学者や文芸評論家等が様々に書いている。当方も様々な評論集を読んできた中で秀逸なのは西尾幹二氏(88)の著作ではないかと思っている。西尾氏はドイツ文学者であり評論家で、特にニーチェの研究では第一人者だ。彼は雑誌や対談などでも三島由紀夫に就いて多く語っているが、集大成としての評論に「三島由紀夫の死と私」(2008.12.9発刊)がある。三島の親友でもあった仏文学者の澁澤龍彦氏(1928-1987)は、
三島由紀夫は、事ある毎に太宰治と松本清張の二人は全てが嫌いだと公言していた。このテーマに就いては過去当ブログでも若干は触れた、因みに太宰と松本は同年1909年生まれだ。先ず太宰治に就いては、『私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は一種猛烈なものだ、第一にこの人の顔が嫌いだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味が嫌いだ。第三にこの人が自分に適しない役を演じたのが嫌いだ。女と心中したり
三島由紀夫が自刃する3年前の1967年に出稿した“葉隠入門”に、『戦争中に読みだして以来、座右の書とした山本常朝の”葉隠”こそ私の文学の母胎である』と書いている、そして更に、『初めて”葉隠”が私の中ではっきり固まり、以後は”葉隠”を生き、”葉隠”を実践する事に情熱を注ぎだした』と葉隠精神を賞賛している。【右は1967年9月、光文社から刊行の「葉隠入門」と全集版】”葉隠”は1700年代初頭、佐賀県鍋島藩藩士、山本常朝が語るところを、若い藩士の田代陣
中国海警局艦船が連日の様に尖閣諸島領海侵犯ギリギリの行動を繰り返し、一方で北海道の航空自衛隊基地の隣接地や、貴重な水源地や農耕地までもが中国資本に買占められている憂うべき現状など、既に繰返し当ブログでも書いている。領海侵犯の度に日本政府は、「遺憾だ、中国政府に厳重に抗議する」と云うだけで行動が伴っていない。プーチンのウクライナ侵攻で右往左往している現状、火事場泥棒然として習近平は尖閣諸島を虎視眈々と狙っている。又埼玉県内の或る大規模団地では住民の大半が中国人と言われている。
三島由紀夫を巡る女性たちに就いて、今迄幾度か当ブログに書いた。独身時代の三島が交際した一般女性の他に文壇、映画や舞台等々を通じてお付合い、或は単なる交流をした女性たちを含め、こんな女性達がいた。(敬称略)文壇関係)有吉佐和子/森茉莉/宇野千代/瀬戸内晴美映画芸能関係)村松英子(女優)/越路吹雪(歌手)/若尾文子(女優)/美輪明宏(当時シスターボーイと云われた丸山明宏)/岸田今日子(女優)高峰秀子(女優)/石井好子(歌手)プライベート)平岡瑤子
2年前の2月に89歳で逝去の石原慎太郎は、三島由紀夫より7歳若いが同時代を文壇で生きて来た。三島は「石原慎太郎文庫」などに解説を書いている通り、石原の良き理解者だった。【三島由紀夫44歳、そして石原慎太郎37歳での対談】石原が昭和30年「太陽の季節」で文壇デビューしたが、三島はこうコメントしている、『氏の独創は、恐らくそう云う生の青春を文壇に提供した事であろう』そして、三島は石原と生涯3回対談をしている、最初は1956年、1
1970年8月31日、三島由紀夫は羽田空港国際線ロビーに居た、澁澤龍彦夫妻(仏文学者で小説家。渋沢栄一の遠縁)が欧州旅行に出発するのを見送りに来たのだ。三島が空港に見送りに出向くのは非常に稀な事だ。【三島由紀夫と澁澤龍彦の交流は深かく長く自刃まで続いた】【遺作となった“高丘親王航海記”は文藝春秋社から1987年発刊された】三島の遺作、豊饒の海(四部作)は1970年11月25日自刃当日
以前当ブログで、『三島由紀夫を巡る女性たち』として「其の1」から「其の12」まで12人の女性に就いて書いたが今回は、若かりし頃の三島由紀夫が交際していた当時18歳の女性、紀平悌子に就いてもう一度書いてみたい。紀平悌子(1928-2015)は、婦人参政権運動家の市川房枝(1893-1981)に師事し、1989年に参議院議員に当選、日本婦人有権者同盟会長だった。彼女は三島の妹美津子と聖心女学院で同級生だった関係で三島と知合い、終戦直後の1946年から1948年迄、当時21歳の三島
三島由紀夫の誕生日は1925年(大正14)1月14日生まれなので、生きていれば今日で99歳、白寿だ。1924年に30歳の平岡梓と、19歳の橋倭文重が結婚し、翌年の今日、平岡公威(三島由紀夫の本名)が、現在の新宿区四谷4-22で生まれた。【学習院中等科時代の三島由紀夫】【三島由紀夫の父、平岡梓の”倅・三島由紀夫”】祖父の定太郎が家族の前で、奉書に『公威』と書いた。命名の由来は、定太郎の同郷の恩人である土木工学権威の工学博士、古市公威男爵の名前から頂いたと語られ
国内外共に波乱の令和6年も今日で終わり、そこで今年最後の当ブログでは三島由紀夫最期の年末はどうだったのか。何年か前にも当ブログで触れたことがあるが、三島の言動からは、少なくとも表面的には翌年の自決を感じさせるものは殆ど無い。1969年(昭和44年)12月8日作家野坂昭如(1930-2015)と、雑誌「宝石」の主催で”剣か花か”に就いて対談。野坂が「エロ事師たち」発表後、三島は『プレーボーイと空嘯いている野坂氏がこんなに辛辣な
映画「エデンの東」や「理由なき反抗」に主演した米国の俳優、ジェームス・ディーンが1955年に自身の運転するクルマの事故で24歳の若さで無くなった。翌年の1956年に彼の死に関連して、31歳の三島由紀夫が雑誌”映画の友”(1968年廃刊)にエッセイを書いている。其処には「死」に就いて触れているので少し引用する。【24歳で夭折したジェームス・ディーンに就いて三島が語った】『ジェームス・ディーンの死が、只の事故死か自殺かという事は随分騒がれた。しかし彼が