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「天人五衰(てんにんのごすい)・(豊饒の海第四巻)」三島由紀夫著76歳になった本多と久松慶子婦人は、天人伝説の伝わる静岡県の名勝・三保の松原を訪れ、そこで働く16歳の安永透という少年に出会う。彼の脇腹に三つのほくろがあったため、本多は彼が清顕・勲・ジン・ジャン(一・二・三巻に登場)の生まれ変わりだと考え、養子にする。昭和49年、本多は80歳になっていた。透を養子に迎え足かけ4年は平穏に見えた生活も、透が成年に達し東大に入学してからは養父(本多)に対する扱いが邪険になって行く。
自己愛スタッフもキャストも全員外国人だった日米合作映画で『午後の曳航』という作品がありました。三島由紀夫の同名小説が原作です。30年以上前に見たので映画のストーリーはほとんど忘れてしまいましたが、衝撃的で目に焼きついたシーンがありました。それは主演のサラ・マイルズがオナニーをするシーンです。なんとサラは姿見に自分を映しながらオナニーをするのです。見てはいけないものを見てしまった気持ちながらも、目が釘付けになってしまいました。わたしも自己愛が強い方ですから、この女
毎週金曜日に参加させていただいている「信州読書会」に提出した感想文です。三島由紀夫先生の作品は自分としては、その観念が掴めそうで掴められないトコが魅力です。何も解っていないじゃないか?と聞かれたら、はいと答えるしかないんですが、理解しようとして自分でいろいろ考え巡らせる作業が楽しいです。やっぱり読書は素敵です。「午後の栄光~栄光と共に墜落した竜~」栄光を夢見ていた竜二は陸に降りることで船乗りとしてのプライドを棚の上にあげ、陸の生活をすることになる。彼が見限った栄光は少年たちの殺気
《三ツ矢サイダー》《ラムネ》の世界に《コカ・コーラ》として登場した武者小路実篤の文体は、いまでは受け入れられて時代に溶け込んでしまった。レトロということでもない。その武者小路実篤の『お目出度たき人』を呼び起こすには、学習院の後輩、三島由紀夫の『午後の曳航』をぶつけるしかない。《『お目出度き人』vs.『午後の曳航』》三島の衝撃と人気が実篤を消してしまっただろうことは、ここにあきらかである。さらに、川端康成の『眠れる美女』をぶつけると、なぜ川端康成がノーベル賞なのかも明らかである。《『
《高校と大学の接続》問題を考えているときに、小学校の学校評議委員を委嘱され、《小学校と中学校の接続》問題にも取り組むことになった。πr2乗⬆半径×半径×3.14中学校の側からは、ここに飛躍があり、「ふりかえり」ができていないのでは?ということになる。では、なぜ「ふりかえり」が弱いのか?これは、微積分⬆πr2乗⬆半径×半径×3.14高校まで接続してないから、蓋
三島由紀夫と武者小路実篤との比較を続けると、…実篤の学習院での後輩が三島です。時代が前後しますが、学習院では夏目漱石も講演をしていて、「現代日本の開化」が、それ。黒船が来て、強制的に開国させられた。これが有名な漱石の《外発的開化の日本》。すると、内発的開化とは?漱石の『三四郎』の広田先生ですね!ぼくのドイツ語会話の先生は、三島由紀夫と同じ、ロベルト・シンチンガー。カール・ヤスパースの弟子。まぁ、それはともかくとして、内発的開化⬆《『午後の曳航』vs
劣等生には強さがあり、優等生には弱さがある。そして、劣等生たちの白樺派と、優等生の三島由紀夫には、それぞれ限界がある。「その限界を超えよう!」それが三島由紀夫だった。三島には、優等生も劣等生もない。しかし白樺派の総帥・武者小路実篤は、生涯、劣等生であることを誇りにしていた、ということはないのか?日本文化独自の《甘え》の問題として考えると、三島由紀夫の自決は、…不可避?
「新潮」元編集長・前田速夫さんには申し上げたが、学習院を起点とするとき、武者小路実篤、志賀直哉は三島由紀夫の先輩になる。そこにあるのは、実篤、志賀が劣等生であったのに対し、三島が優等生であったこと。前田速夫さんは「面白い視点だ」と言ってくださった。話は当然、『新しき村の100年ー愚者たちの園ー』の愚者とは何か?という問題になる。新しき村が賢者たちの楽園だとしたら、歴史に取り残されるのは傲慢ゆえに当たり前。しかし学習院の先輩であり、劣等生であり、愚者たちの白樺派は、優等生の三島由紀夫とコ
三島由紀夫の『午後の曳航』を最高傑作とすると、二等航海士の《塚崎竜二》という名前は、《塚》はお墓のイメージ。《崎》というのは岬かな?前には広大無辺の大海原、背後には死の影。さて、困った。「竜二は陸の持っている不動の特質、恒久的な外見を憎んでいた。しかるに船は又別の牢屋だった」《竜》というのは竜昇のイメージ。なのに《二》は次だから、《一》ではない。三島の『仮面の告白』を担当した坂本龍一さんのお父さんは、坂の下(本)から天に龍昇、天下一を願って、坂本龍一なのかな?とすると、《二》
難問が出てきたところで、原点に戻ると、桜美林学園初代理事長・賀川豊彦とマルセル・プルーストはジョン・ラスキン『胡麻と百合』を種として世界の人となった。三島由紀夫も、この世界の人となるべくしてなる流れに乗っている。その流れは現代では当たり前となり、流れを流れとして意識することができない。問題はそこで、武者小路実篤はその流れから外れている。外れていることが悪いというのではなく、その流れが行き詰まれば、外れているがゆえに新たな流れを開く可能性は残る。『午後の曳航』
三島由紀夫は、やっぱり天才ですねぇ。毛呂山の《新しき村》と比較すると、『午後の曳航』⬆《新しき村vs.横浜山手》⬆『アンナ・カレーニナ』こうなった場合、どうなっちゃうのかなぁ。
『アップルを創った怪物』ウォズニャックを理系の天才、『金閣寺』を書いた三島由紀夫を文系の天才として、Macを箱と考え、三島の『金閣寺』も歴史的な事件に材をとっているために枠があり、この枠を箱と考えれば、理系、文系の天才たちは、いかにMacを、そして『金閣寺』を設計、組み立てたか?という問題が考察可能となる。ウォズニャックの自伝『アップルを創った怪物』、三島由紀夫の『文章読本』は、その辺を明らかにしている。この観点から、三島の『金閣寺』と『午後の曳航』を比較すると、| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
日本一有名な限界集落《新しき村》の起死回生策として《人文学の復権》カリキュラムが組み上げられた、…などと言うと、新しき村では鼻白む。なぜなら、新しき村の村内会員、村外会員は、人文学のプロの人たちだから…。「いまさら、三島由紀夫でもあるまい」となってしまう。ところが、これぞ、大学における人文学の衰退の構図そのものなのだ!ぼくと「新潮」元編集長・前田速夫さんは、時を同じくして武者小路実篤《新しき村》の村外会員となった。前田さんから、新潮新書の1冊として『新しき村』を執筆中、と伺った。
わが山奥大学自由学芸七科デザイン研究所では、《人文学の復権》が成った!三島由紀夫作品を1作に絞れば、『午後の曳航』、これが最高傑作だ!となりました。三島由紀夫はお付き合い程度にしか読んでないので、ぼくの場合、「そうだったのかぁ!」の感動があり、ぼくはヴィンケルマンを読んでいると心が和むので、「やっと学問が楽しめる!」となりました。三島由紀夫は『文章読本』で、「まず声を大にして、皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します」と書いています。ヴィンケルマンを、現代
《人文学の危機》は、どうしてもたらされたか?いま日本一有名な限界集落《新しき村》を古い革袋とすれば、新しい葡萄酒としてサルトル『嘔吐』、三島由紀夫の『午後の曳航』を容れると、どうなるか?古い革袋は裂けて、新しい葡萄酒はこぼれてしまう。ここに《零落》ということが起こるのは不可避。現代性を排除すれば、時代から排除され、取り残される。しかしなが、ここに落とし穴がある。いまだ三島の『午後の曳航』が旧くなっておらず、現代性を保持しているとすれば、三島由紀夫研究となり、三島由紀夫が復活する。三
昨日、三島由紀夫『午後の曳航』へと展開しました。『新しき村』::⬆『午後の曳航』⬆『金閣寺』⬆『潮騒』⬆『仮面の告白』⬆|『文章読本』||_____________|前田速夫『異界歴程』こんな展開です。武者小路実篤と三島由紀夫とが、「新潮」元編集長