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緊急事態宣言が発令されました。コロナで不安が大きくなっていることとはおもいますが、今のこの事態だけをみるのではなくずっと先のいつかのいい日にむかっているのだ。。ということを忘れないようにしたいなぁ。。目に見えないものコロナも目に見えません。そして、神さまも目には見えません。不安も目には見えないそして、愛も目には見えません。不安を否定するつもりはありません。不安だもん。。だって、どーなっちゃうんだろう??とかいつまでなんだろう??とか。。でも、そればっかりに襲われ
昨年12月には、読売新聞夕刊の「史書を訪ねて」の記事にて、『大内義隆記』を取り上げていた。なかなかに珍しい書物の紹介だと思う。また年末には、新日本風土記で、西の京とも呼ばれる山口を取り上げていた。大内氏の故郷だ。2年前の再放送だが、画面に釘付けになってみていた。僕にとっては山口というと、毛利氏以上に大内氏により親しみがある。長府毛利家に仕えた小坂家、正村家、三吉家なども身近には感じるのだが、三吉慎蔵の実母・かつ子の出た津原家の源が、大内氏なのだ。大内氏は、半島との貿易を有利にするため
BS朝日の「京都ぶらり歴史探訪」を拝見した。一昨日1/7の放送は「歴史は冬に作られた!」で、様々な事件を取り上げていた。全体的には史実に基づいた内容が大半なのだが、寺田屋事件については疑問符がつく。ま、主題は龍馬とお龍で、お龍が龍馬の命の恩人であることを強調して描くためとは思うが、一部に残念な内容もある。ご存知のように、伏見寺田屋にて龍馬と三吉慎蔵が薩長連合が成り祝杯を挙げているところを、100人の捕り方が囲む。風呂場から捕り方を目撃したお龍が二人に急を知らせる。このときの闘いで龍馬は
みなさま、こんばんは~~~西暦2019年11月13日(水)、午後8時過ぎからのブログアップでございます~~~昨日は都内浅草にて、幕末舞台劇『坂本龍馬』の第二幕第二場(長州下関白石正一郎邸)、第四場(京伏見寺田屋)の場面の稽古に入っておりました。今日は、昼過ぎに、三重県四日市市にあるヨーダレオちゃん家に戻ってまいりました。幕末の頃の、ネコちゃん、ワンちゃんは、どのように人間さまとお付き合いしていたのでしょうね。美味しい、食事、食べることができた
※注意事項このブログは超長文です車を運転しながらの閲覧は危険ですので絶対に止めてください携帯からの閲覧は目が疲れる可能性があるので休み休み見ることをお勧めします仕事の休憩時間にご覧の方は休憩時間が終わってしまう可能性があります電車内でご覧の方は降りる駅を乗り過す可能性があります出来れば、ご自宅のPCで、酒でも飲みながら「あもんって馬鹿やな~」と笑いながらご覧ください♪古来、日本国は大和と呼ばれていたと云う大和魂という言葉を調べたら日本人固有の実生活上の知恵や能力と記されてい
下関から車で20分くらいのところに功山寺というお寺があります。鎌倉時代に創建された曹洞宗のお寺です。文久の政変で京を追われた過激派公家、三条実美らは、この功山寺に匿われていました。三条実美らが住んでいた部屋です。高杉晋作は、禁門の変、四ヶ国艦隊の下関砲撃のあと窮地に立った長州藩を牛耳る俗論派から奪回するため、クーデターを起こします。このクーデターには奇兵隊も反対しましたが、高杉晋作は同志を募り、下関を襲撃し、奪回します。幕末の長州藩ほどいろん
☆☆☆☆☆6月半ばの出来事ですw瓦そばたかせ→川棚のクスの森→小野小町&虚無僧の墓→角島→ジェラートそして最後の功山寺の記録、すっかり時が経ってしまいしたジェラート屋さんを出て西の下関方面に戻りました駄菓子菓子❣️時間的に長州毛利邸や歴史博物館はアウトでした(´;Д;`)閉まってる〜次回に持ち越し決定☆てことで、功山寺に。夕陽と重なって綺麗な光景が見れるベストタイミング
高杉晋作の像を見終えてから、長府毛利家の墓所でも見て帰ろうと思って歩いていたら、この寺で清掃ボランティアをされているお年寄りの一団に出会った。このお年寄りたちとしばらく、夏みかんのような木(この木は夏みかんの木ではない。正確な名前は聞いたが既に忘れている。)の前で、司馬さんや長州藩についての話題でしばらく盛り上がった。ここは仏殿の横であるが、清掃ボランティアの方々は仏殿を4回程一般公開した時の説明員をされていたという。先に歩いていくボランティアの方々の後ろから歩いていく。相手
三吉慎蔵が、鹿児島を訪れたときに宿泊した場所を調べている。慎蔵は、明治20年(1887年)12月6日に鹿児島にて薨去された島津久光公の国葬に参列する。北白川宮能久親王の奥方は久光公の養女でもあり、家令として宮の名代を務めた。12月7日に横浜を出港、翌日神戸に寄港したのち、10日に神戸を出港し12日に山川港に入り着港する。この時出迎えとして渡辺千秋知事始め島津殿(珍彦か忠済)が船まで来て、案内にて山下多八郎方へ止宿する。この宿泊場所が三吉慎蔵日記では鹿児島郡築町33番地。今年10月に上田
ある硯が気になっている。三吉慎蔵が西郷吉之助に贈った赤間関硯で、今は酒田の荘内南洲会が所蔵している。月に波上のうさぎが刻されている。よく使われた跡がみてとれる。慎蔵が西郷に贈ったことは記録が残っている。『三吉慎蔵日記』に、「(慶応2年3月)七日夜馬関ヘ着ス。直ニ通船ニテ拙者ハ上陸シ鶏其他赤間関硯等ヲ購シ、西郷ヲ始メ諸氏ヘ離別ノ寸志トシテ船ニ持参ス。間ナク出船、因テ厚謝シテ別ル。又タ坂本ヘハ他日馬関ニ来ルコトヲ約ス。夫レヨリ拙者揚陸シ、常宮屋六左衛門方ヘ暫時休息ノ内、伊藤九三来訪ス。
平成13年(2001)、明仁上皇は68歳の誕生日記者会見において、翌年の日韓共催ワールドカップの開催にあたり関心事を聞かれ、天皇家は百済国と血縁関係があると発言をされた。桓武天皇「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」この韓国と
僕が西村捨三に興味を持ったのは、「贈右大臣大久保公哀悼碑」の建立と京都時代祭がきっかけだった。西村は、暗殺された大久保利通のため、遭難5年後から遭難の地に「贈右大臣大久保公哀悼碑」を建立せんと尽力し、明治21年(1888)5月に完成させる。大久保が遭難した場所は、北白川宮能久親王の宮殿のある、旧紀州藩中屋敷の近くだったため、建碑の場所を巡って、北白川宮の御付であった三吉慎蔵と交渉している。その結果、北白川宮家は敷地を分与し、その場所が「哀悼碑」が建っている現在の清水谷公園だ。従って、今でも
さてさて、我々はいよいよあの【寺田屋】に足を踏み入れた【寺田屋】京都府京都市伏見区南浜町明治風情のある階段。思えばココロの歴史入門は、司馬遼太郎先生の『竜馬がいく』だった。たかだか150年ほど前に、実際にこんな人たちがいて、こんな事があったんだってリアリティーに興奮し、一気に歴史に興味を持ちはじめた。この日も、ココロや同じく幕末好きのFさんだけでなく、歴史が好きな方、坂本龍馬ファンや司馬遼太郎ファンであろうたくさんの方々が【寺田屋】を訪れていた。寺田屋2階の部屋からの眺め
【鳥せい本店】でお腹を満たし『龍馬通り商店街』をぶらりと歩く事……約10分ついにココロ念願の目的地が見えてきたっきたーーーーっ【寺田屋(てらだや)】京都府京都市伏見区南浜町またここ【寺田屋】は『薩摩九烈士殉難の跡』でもある。【旅籠寺田屋】京へ向かう船着場であった伏見京橋界隈は、維新当時大変なにぎわいで、六代目伊助となっていた寺田屋も、薩摩藩の定宿と指定されていて西国雄藩志士などの京に赴く足だまりとなっていた事もあり大変繁盛であったと伝えられている。ここでは大きくふたつの『
乃木神社周辺は、さらに城下町の雰囲気が強く残っています。主がいないようですね。何か表示があります。龍馬の親友、三吉慎蔵。龍馬が、伏見の寺田屋で襲われた時、捕り方と応戦、龍馬と奇跡的に寺田屋から脱出、怪我を負った龍馬を、機転を利かせてうまく匿い、自分は薩摩藩邸に走り、救援を求めた。龍馬の命の恩人でもある人です。龍馬の死後、お龍を、龍馬の実家まで送ってもいます。町のあちらこちらに、立
周回遅れです。いきなり寺田屋。坂本龍馬襲撃。お龍登場。あら?三吉慎蔵くんは無視なのね。長州キャラは増やす気なしか。で、お龍が薩摩藩邸に駆け込んで助けを求める。西郷吉之助を名指しで。西郷家だらけだ。それにしても桂久武は安定のレギュラーキャラになったな。パークスの席順がこんなに高いなんて、大河史上初じゃないの?板倉勝静の席順も高い。あれ?三吉くん出てた?で、トメが川口雪篷か。幕末期のナポレオン人気の研究は最近進んでいるらしい。龍馬、お龍に薩摩藩邸で介抱、いやイチャツキ。それには
「志士の杜」が毎年実施している維新史跡巡りの第17回目は京都の第2弾で、昨年は体調の関係で参加できなかったが今回は同行させて頂いた。新幹線の中で昼食を済ませ、京都駅の到着は11時34分。早速、伏見の寺田屋に向かった。寺田屋は船宿で、文久2年(1862)4月23日の夜、薩摩藩の急進派有馬新七ら30数名は攘夷決行をと集っていたが、島津久光の命を受けた鎮撫使奈良原喜八郎らとここで乱闘になり、有馬ら9名が死亡、鎮撫使側も道島五郎兵衛が漸死した。なんとも残念な内輪同士の争いで、寺田屋騒動の碑「薩摩九
今日の大河ドラマ「西郷どん」良かった!ラストの薩長同盟締結のシーン、どのような会話などがあったか、知ってるんだけど、それでも泣きそうになったりして、も~シビれましたよ。素晴らしかったですよね。そして、いよいよ来週は、個人的に坂本龍馬さんの好きなエピソード、寺田屋でのお龍さん、三吉慎蔵さん、それと高杉晋作さんからもらった拳銃が登場し、その後、お龍さんと日本初と言われている新婚旅行をする回ですよね。楽しみ!以上、おいらでした
伏見にある坂本龍馬避難の材木小屋跡碑です。慶応2年(1866年)正月23日、寺田屋事件で逃れた坂本龍馬が一時避難したところ。同21日、薩長同盟を成立させた坂本龍馬は、同23日、薩摩藩の定宿であった寺田屋に宿泊。龍馬は恋人のお龍を寺田屋の女将・お登勢に預けており、ここで護衛役の長府藩士・三吉慎蔵とともに薩長同盟締結の祝杯を挙げていたと言います。龍馬の動きを警戒した伏見奉行所は龍馬捕獲のため役人を寺田屋に派遣。一階で風呂に入っていたお龍は外に伏見奉行所の役人がいるのに気づき、二階の龍馬ら
19長府城下町長府の変遷をひもとくガイドウォーク江戸時代には、長府毛利藩5万石の城下町として栄え、幕末には維新回天の舞台となった長府。下関観光ガイドの案内で古地図とともに長府の変遷をひもときます。期間2018年1月14・21・28日、2月11・18・25日、3月11・18日、9月9・16・30日、10月28日、11月18・25日、12月2・9日(3日前までに要予約・・・じつは3月18日に参加した際、「次回は9月
どーもーー海援隊のおすぎぜよはい、やって参りましたー今回は龍馬が京都にいる間、大変お世話になり、最愛のお龍さんと結ばれた旅館『伏見寺田屋』をレポートするぜよちょっと写真がいっぱいで載せきれないので、2回に分けますーヨロピクです笑笑京阪本線伏見桃山駅降りてすぐの商店街の入口にさっそく龍馬発見笑どんだけ龍馬をモチーフにしてるねん『龍馬通り商店街』この辺も龍馬はいつも歩いていたのかなぁ〜お店には龍馬にちなんだメニュー等が見受けられました
坂本龍馬座像写真坂本龍馬。天保6年11月15日(1836年1月3日)-慶応3年11月15日(1867年12月10日)江戸時代末期の土佐藩郷士。海援隊を結成し、薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなどして、倒幕および明治維新に大きく影響を与えた志士です。このブログの作者である私が、最も尊敬している人物の一人でもあります。北辰一刀流で塾頭を勤めたともいわれる剣の腕前は、現役の頃ならば間違いなくこの時代でトップクラスの剣豪であった事は間違いないと思います。しかし、ある説によれば、龍
2017京都序壱弐参慶応二年(1866)に龍馬さんが京都奉行所の役人に襲撃を受けた時、お龍のとっさの機転と護衛の三吉慎蔵さんの槍の活躍と高杉晋作さんより貰ったピストルのおかげで何とか逃げる事が出来ました寺田屋から屋根を使って逃走した龍馬さん達は、川沿いの木材屋に隠れます。役人から逃げ切れないと思った三吉さんは切腹をしようとしますがそれを止て、薩摩藩邸へ行くように指示を出します。龍馬さんは役人との応戦の際に、左手の指を負傷してしまった為出血がひどく、この場に残りま
2017京都序壱弐竜馬通り商店街を抜けて川沿いの寺田屋へ到着。寺田屋は、大阪と京都間の通船三十石船の京側の発着地「寺田屋浜」という船着き場を持つ大きな船宿でした。今も泊まる事が出来る旅籠ですここ寺田屋を舞台とした騒動(事件)が幕末に二件起きています。一つは文久二年(1862)。薩摩藩主の父にあたる島津久光は雄藩連合による公武合体立て直しを目指して上京。薩摩藩尊攘派の士有馬新七らはこれを機会とみて京都に集まり佐幕派の関白九条尚忠、所司代酒井忠義殺害の計画を立てます。この動
所在地広島県三次市畠敷町特徴城主の三吉氏は藤原北家を祖とする備後の国人領主で、尼子・大内・毛利氏などと合従連衡したが、比熊山に城を移して廃城となった。居館の石垣や深い
功山寺にやってきました1327年臨済僧虚菴玄寂(こあんげんじゃく)が開創。1557年戦乱の中大内義長が当寺で自刃、荒廃したが、1602年長府藩初代毛利秀元が再興、曹洞宗に改宗。なんだか森に守られているような雰囲気こちらの総門は室町時代の建造物と考えられています入り口横にある碑は・・・「高杉晋作回天義挙之所」とあります緑が多くて少し涼し気に感じます季節にって姿が変わりそうですね左手には経蔵山門二重櫓造りの功山寺山門は、安永二
連絡船に乗ってすぐ!本土に着きました行きたかった唐戸市場にキタ━(゚∀゚)━!太田和彦さんの番組で紹介されててずっと来たかったのです活気溢れていますクジラの竜田揚げとヒレ酒が合うー!水分補給した後は、バスで長府へ5年前にも壇ノ浦砲台に連れて来てもらいました。あの時もすごーく楽しかったな♪長府の観光会館で観光マップをもらい楽しい幕末史蹟巡りの始まり~始まり~♪↑↓龍馬さんと長府のパイプ役として支援した印藤生家跡。笑山寺には三吉慎蔵さんのお墓があります。龍馬伝では筧利夫さ
京都市伏見区の城南宮の宮司さんが、京都市内の古書店で購入したのが薩摩藩の伏見屋敷の絵図↓↓実にお宝発見伏見の薩摩藩邸と言えば、龍馬さんが寺田屋で長府藩士・三吉慎蔵(龍馬伝では筧利夫さんでした)と密談中に幕吏から襲撃され、手に深傷を負いながらも木材屋に逃げ隠れ、その後薩摩藩邸に運ばれ匿われた寺田屋事件。この絵図の発見によって龍馬さんがどこで治療を受けたなど判明する手がかりになりそうです
4月30日散策/本陣伊藤邸跡古くから栄えた港町現在の唐戸一帯は、明治以降の埋め立てで、随分地形は変わってしまったのかもしれないけど、下関の中心部ともいえるこのエリアには、幕末史の痕跡が数多く、今なお残されている新旧のスポットが点在する唐戸エリアにはレトロな建物が沢山あって奥深く、魅力がいっぱい散策していて発見が尽きないの明治維新の主役のひとりでもある坂本龍馬が、はじめて下関に登場するのは文久2年(1862)その後、慶応2年(1866)薩長同盟の成立という大仕事を成し遂げているよね高