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功山寺(こうざんじ)鎌倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺(ぜんでら)様式を残しており、国宝に指定されています。また数々の歴史の舞台となったところで、毛利元就(もとなり)に追われた大内義長(おおうちよしなが)が自刃(じじん)したり、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。初代秀元(ひでもと)をはじめ9人の藩主達の墓が仏殿裏にあります。大内義長のものと言われている墓は、裏の墓地の奥まったところにあります。また、坂本龍馬の盟友、三吉慎蔵の
「らんまん」をいつも楽しく拝見している。先週は、東京大学助教授大窪昭三郎が自らの立場を明らかにし、今後の新しい展開が予想される場面があった。昭三郎のモデルの大久保三郎は、元東京府知事・大久保一翁の三男になるが、東京大学の助手になるにあたっては勝海舟の世話にもなった。三郎の斡旋を依頼された海舟にとって、一翁は幕末時に海舟を抜擢した恩人であり、上司でもある。「らんまん」に登場する大久保家は僕的には、三吉慎蔵と河島由路との二人の高祖父と若干関わりもある。三吉慎蔵は、薩長和解の見届け、京都政
朝ドラ「らんまん」はもちろん史実通りではないがなかなか面白い。次回は、明治14年(1881)開催の第二回内国勧業博覧会に造り酒屋の当主として日本酒を出品するため上京するところが描かれるようだ。実際には、このとき19歳で、顕微鏡や書籍を購入するため上京し、内国勧業博覧会の見物のほか、文部省博物局に田中芳男、小野職愨らを訪ね、日光などで植物採集し帰郷する。ところで、この第二回内国勧業博覧会には、旧長府藩士三吉慎蔵の娘登茂(トモ)もレースの勉強中のため出かけている。なおこの時は三吉慎蔵は宮内省に
「乃木神社」を出ると(直ぐ、西側が)「横枕小路」。樹葉に覆われた土塀の空間が、そのままタイムトンネルといった味わいがある路地です。その「横枕小路」の出口に「三吉慎蔵生家」跡が。つまり、中級の長府藩士の屋敷が並んでいたエリアだと思われます。そこから直ぐの「覚苑寺」参道入口に、「長門国国分寺」跡があります。聖武天皇の御世には、此の辺りが、長門国の中心部だったのでしょう。一方、「長門国総社」跡は、「長府毛利邸」の入口にあります。町名も「長府惣社町」です。碑の後方の石垣が、長府毛利家で
さてさて………………【西岸寺】がある油掛通(あぶらかけどおり)。【我国に於ける電気鉄道事業発祥の地】こんな石碑もありました。そして、ココロはてくてくと北上して到着したのは…………おお〜〜〜〜〜っここか〜〜〜〜っ【坂本龍馬避難の材木小屋跡】京都府京都市伏見区過書町(大手橋西詰北側)平成21年12月に建立された石碑慶応2年(1866年)1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長府藩の三吉慎蔵と【寺田屋】に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれた風呂場にいたお龍
維新発祥の地「長府城下町」を散策しています。司馬さんの「竜馬がゆく」でお馴染みの「龍馬のSP/三吉慎蔵」の住居跡がありました。三吉慎蔵は、天保2年(1831)生まれ。長府藩剣術師範の小坂氏の次男です。藩校/敬業館および長州藩の藩校/明倫館で学び、宝蔵院槍術の免許皆伝も取得しています。司馬さんの記述は。「慎蔵は、いかにも長州人らしい秀麗な容貌をもち、高杉が推薦したように、いかにも機敏な感じのする若者だった。竜馬は船の中でこの男と暮らしていて、すっかり好きになってしまった。」慎蔵
三吉慎蔵は世紀の改まった明治34年(1901)に71歳で長府で永眠した。慶應2年(1865)正月の龍馬と生死を共にした寺田屋遭難から35年後になり、今年は没後122年目になる。明治11年末の慎蔵慎蔵の晩年の日記は、字がミミズがのたくったかの様な筆で極めて読みにくい。年を取るに従い、筆力が弱くなったかようだ。晩年の日記には、家族の中では孫の梅子の事がよく出てくる。梅子の母友子は前年33年に病死しており、父の玉樹は東京にて大村家に奉職している。長府で一緒に暮らしている慎蔵・
157年前の今日が、龍馬と三吉慎蔵の寺田屋遭難の日時刻は旧暦の慶応2年正月23日八ツ時頃(午前2時頃)。当時の1日は日の出から日の出までなので23日。今風には24日午前2時頃。西暦では1866年3月10日。要は事件が起きたのは冬ではなく春なのだ。このとき幕府の捕吏との戦いで慎蔵が闘死していると、今の僕はいない。と云うことであれば、慎蔵が戦い逃走したことに有難みが増し、龍馬は僕の命の恩人になるのだけれど、実際には曾祖母になる慎蔵の娘・友は、事件の前年に生まれている。ま、とにかく慶
今日は、長府藩士・三吉慎蔵の妻、伊予の月命日伊予は長府藩士正村喜三郎の三女で、慎蔵が安政4年(1857)3月に三吉家の養嗣子になった翌年1月に17歳で入嫁し、明治44年(1911)1月に没している。享年71才。伊予が龍馬を見知ったのはいつだろうか。慶応2年正月に慎蔵と龍馬が初めて会ったときとの説もあるが、恐らく慶応3年2月に龍馬が長崎からお龍を伴って下関に居を移してからと思われる。長男米熊の話として以下が伝わっている。「坂本さんがよく裏から忍んで来て蔵の中で父と二人きりで終日語り明かし
唐戸市場から移動して、火の山ロープウェイに乗る。客は微妙JAFカードで割り引きしてくれました。乗車時間は数分でした。山頂に到着変なオブジェだらけです。何でもかんでもふぐ古代の船も置かれてました。景色は最高修学旅行のバスが来てました。バスに乗るときに、手に消毒はわかるが、靴の裏にも消毒してました。靴の裏に消毒の意味がわからない。ロープウェイの駅には看板あり。坂本龍馬、お龍、高杉晋作は知られてるから良いが、三吉慎蔵なんて、歴史マニアか、漫画のおーい竜馬を読んでた人しか知らん
攘夷の期限が文久3年5月10日と決まったが、5月10日の攘夷期限には長州のみが攘夷を行い他には同調する藩がなかった。下関海峡を挟んだ小倉藩も砲撃に協力せず、両岸からの砲撃が成立しないため、砲弾が届かず外国船に決定的なダメージを与えられない。従って長州は、攘夷を行わない小倉藩に対し処分を行うよう、朝廷に働きかけていく。その役割を担ったのが、萩藩士小田村文助(伊之助、後の楫取素彦)、長府藩士三吉慎蔵、磯谷謙蔵だった。〇長府藩御家記『毛利家乗』には、文久三年七月二十三日「是日藩士磯谷謙蔵三
(市報しものせき、No.31、Nov.2021)
明けましておめでとうございます。久しぶりのblog投稿で、しかも年も明けだいぶ日も経っています。歴史探訪については、いつもであれば東京へ10回、その他日本各地に同じ頻度で出かけていたのですが、昨年もコロナ禍で自粛の1年に終わりました。その中で、11月は下関市立歴史博物館にて高祖父・三吉慎蔵の没後120年の記念展示を拝見してきました。企画された博物館の館長・学芸員・関係者の皆さまにはとても感謝しております。この唯一の歴史探訪以外では、友人夫妻の車で月に一度の頻度で外国人もいない静かな各
三吉慎蔵写真原版坂本龍馬写真原版坂本龍馬写真原版伊藤博文写真原版坂本、伊藤他写真原版三吉慎蔵佩刀坂本龍馬所用鍔坂本、中岡、田中詩歌短冊合装高杉晋作詩書扇面龍馬に贈ったもの帷子西郷隆盛が贈ったもの西郷隆盛七言詩木戸孝允書状西郷隆盛所用赤間硯三吉慎蔵が贈ったもの下ノ関海戦図坂本龍馬、溝淵広之氶合作下関長幕海戦図坂本龍馬筆三吉家流旗三吉慎蔵肩章三吉慎蔵袖印坂本龍馬書状坂本龍馬血染掛軸三吉家系図長府藩達書三吉家家訓紋付小袖長府毛利家下賜坂本龍馬
新たな年を迎えました。皆様、あけましておめでとうございます。昨年も当ブログをお読みいただき、真にありがとうございました。この2年間、コロナ禍の毎日が続き憂鬱な気分で過ごすことが多かった多かったことと思います。ですが、そろそろ終焉が見えてきても良さそうな頃です。感染力の強い新たなウィルスを抑え込むには今少し時間がかかるのかもしれませんが、どんなことにも必ず終わりがあると信じて今日という一日に注力してまいりましょう。マスクやアルコール消毒は今後も欠かせないでしょうが、今では日常の生活に定着
功山寺長府毛利家菩提寺山門仏殿鎌倉時代創建で唐様建築の美しさを保ち我が国最古の禅寺様式を残した国宝です☺️高杉晋作挙兵像法堂龍馬と親交のあった長州藩士三吉慎蔵のお墓もあります🙋幕末、都落ちしたお公家さん達がいた五卿潜居の間があったりここで高杉晋作が挙兵したり…時代が動いた場所ですね❗
最近、三吉慎蔵についての投稿をよく目にします。先日も、「江戸時代、幕末の日本で坂本龍馬を護衛した凄腕の槍術使い『三吉慎蔵』とは」との題で、Japaaanマガジンの記事を眼にしました。Japaaanマガジンの幕末関係記事はあまりにも誤りが多いので読まないようにしているのですが、この三吉慎蔵の記事は先祖に関することなので、以下精読しました。https://mag.japaaan.com/archives/129092https://mag.japaaan.com/archives/129
三吉慎蔵宛ての長府藩士・印藤聿の書簡がある。「坂本先生が今朝、下関に帰ってきたそうです。夕刻までには出帆し、上方へ登るとのこと、伊藤九三より申してきました。龍馬のために大小(本差と脇差)を送るよう伝言がありました。伊藤からの使いに持たせ送るのであればお渡しください。私と夕刻までに一緒に下関まで行くがよいと思いますが、そうであれば使いに申しておいてください。四月廿一日」との内容。慶応3年4月23日に「いろは丸事件」が起きている。この書簡は、日付から、4月19日に長崎を出帆し、21
長府藩士三吉慎蔵は、幕末に2回江戸へ下っている。その最初は、安政5年(1857)。藩主毛利元周の参勤交代の先着として3月17日に江戸入りした。そして翌年江戸を離れるまでは様々な事件が起きている。まだ政局の中心は江戸だった。4月23日に井伊直弼が大老に就任し、4月25日に日米条約の儀について総登城があり、藩主のお供で初めて江戸城に登る。6月16日に日米修好通商条約が勅許を得ずに締結され、7月19日に将軍家定が薨去する。12月1日に家茂が将軍宣下を江戸城で受けるが、そのため藩主元周の
史実ほど面白いものはないたとえば、福岡藩の幕末の動き。蘭癖といわれた開明的な藩主黒田長溥の考えは、「開国し政権が変わなければ日本の未来はないが、幕府は潰さず、朝廷と合同しそのまま改革すべし」という保守的な立場をとっていた。一方どこの藩にもあるように、福岡藩内にも保守派、改革派の対立があり、幕末の状況により、主導権が動いていく。家老加藤司書・藩士月形洗蔵・中村円太・平野国臣らを中心とする勤王党は、黒田長溥とは異なる立場の「攘夷を進め、幕府を打倒し政権を天皇の下へ戻すべし」という尊皇攘夷論を
名古屋のシンゾウです京都検定を受験される方なら、らく旅の若村亮さんの「らく旅通信ライブ版-京、ちょっと旅へ-」は御存知の筈です。活きた情報を頂けるので、大いに利用させてもらっています。昨日から、「月刊!らくたび通信ライブ版-京、ちょっと一服-」が新たに始まったのを知っていますか。若村さんと森さんの2人の進行で、時事ネタを中心にお話しをしていただけるそうです。感謝、感謝です!!時事ネタは私の沢山ある弱点の一つです。本当に助かります。本日の問題です。―――――――――――――
『幕末』映画トーキー120分カラー昭和四十五年(1970年)二月十四日公開製作国日本製作言語日本語配給東宝中村プロダクション製作協力高知県鹿児島県製作小川矜一郎原案司馬遼太郎脚本伊藤大輔資料平尾道雄撮影山田一夫美術伊藤喜一録音野津裕雄照明中山治雄整音下永尚音楽佐藤勝監督助手安井治編集阿良木佳弘効果金山実装置吉田良雄装飾伊佐信三衣装福本邦彦美粧鵜飼浜四
『幕末』映画トーキー120分カラー昭和四十五年(1970年)二月十四日公開製作国日本製作言語日本語配給東宝中村プロダクション製作協力高知県鹿児島県製作小川矜一郎原案司馬遼太郎脚本伊藤大輔資料平尾道雄撮影山田一夫美術伊藤喜一録音野津裕雄照明中山治雄整音下永尚音楽佐藤勝監督助手安井治編集阿良木佳弘効果金山実装置吉田良雄装飾伊佐信三衣装福本邦彦美粧鵜飼浜四結
【幕末維新ゆかりの地めぐり】まだまだ三吉慎蔵のヒストリアは続きます。下関市の観光案内には「龍馬の大親友」ということですが寺田屋で坂本龍馬と一緒に命がけで戦いそして坂本龍馬の命を救い妻を何度も三吉慎蔵に預けたことから大親友だったのは本当かもしれませんね。坂本龍馬の死後三吉慎蔵は実家で3ヶ月、坂本龍馬から預かっていた妻すでに未亡人となったお龍を世話していました。その実家に行ってみよう☆彡三吉慎蔵の生家現在は一般の方のおうちになっています。
【幕末維新ゆかりの地めぐり】前回に引き続き功山寺です。高杉晋作や七卿落ちの幕末ヒストリアだけではないのです。記事が長くなるとしんどいので2部構成にしました。三吉慎蔵三吉慎蔵といえば寺田屋で坂本龍馬を守ったスゴイ槍の達人!【三吉慎蔵】長府藩の今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男として生まれ養子に。やがて長州藩校明倫館に入学し宝蔵院流槍術の免許皆伝を受ける。長府藩士・印藤肇の仲介で坂本龍馬を紹介され長府藩より京都の情勢を探るよう命じられ、薩長同盟を実現させるた
浮世絵芸術J-Stageすべての抄録を非表示にするすべての抄録を表示する.|<;<;1;>;>|.日本浮世絵協会創立10周年記念の行事を終えて.楢崎宗重.1972年33巻p.13伝統の「あぶりあゆ」作り盛んnhk.or.jp近くの富田川でとった体長およそ20センチの天然物のあゆを竹串に刺した後、特産の紀州備長炭を使って水分がなくなるまで丁寧に焼き上げます。「麒麟がくる」光秀が選んだのは将軍信長を袖に!ネット予感本能寺の変フラグ?auone.
69篠崎小竹二行書江戸時代後期の儒学者で頼山陽とも親交のあった篠崎小竹の二行書。小竹が西細江町の広江家を訪れた際に揮楽したものと考えられる。広江殿峯四男である広江秋水は、京坂に遊学した際、小竹と交流しており、同家の交友関係の一端をうかがうことができる。70頼山陽詩書頼山陽は、江戸時代を代表する学者の1人。文政元年(1818)には、九州遊歴の途次赤間関に約40日滞在しており、この書はその際交歓した原田文漁·中川鯉淵·小田南陵に贈ったもの。71永富独嘯庵書永富独嘯庵は、現在の下関市王
野々村勘九郎が江戸で剣術修行に励んでいる間に、日本を取り巻く情況は大きく変わっていました。嘉永七年(1854)、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が神奈川沖に来航し、武力を背景に日本に開国を迫ります。この圧力に屈した幕府は日米和親条約を締結、鎖国政策は終わりを告げるのです。その後、ロシア・イギリス・フランス・オランダと相次いで和親条約を結び、日本の海には日本人がそれまで見たこともないような巨大な軍艦が我がもの顔で行き来するようになります。西日本有数の貿易港下関を領地とする長府の人々
ある調査をするのだけれど、この書を取っ掛かりに進めたいと思う。中には何か所か、慎蔵の記憶違いか聞き手の聞き間違いかの箇所があるが、それも面白い。三吉慎蔵時治氏談話ノ要八月十三日豊浦毛利邸ヲ訪ヒ三重盛二氏ニ面談翌十四日ニ於テ林洋三氏ト會合ノ事ヲ約シテ去ル帰路三吉慎蔵氏ヲ訪フ其對話ノ要左ノ如シ問坂本龍馬ト御交際ノ事ハ承知シ居ル、薩長聨合一事ニ付機密ニ與カラレシナラン答否機密ヲ與リ聞キシコトナシ唯丙寅正月木戸公カ両藩聨合ノ件ニツキ上京セシトキ長府ヨリモ一人差出ス方可然トノ議ニテ人撰ヲ
僕が影響を受けた本を中心に紹介いたします。下関市立長府博物館『企画展三吉慎蔵と坂本龍馬』本というより図録ですが、まあ、一般図書ということで。この題名の展示会が開催されたのが2001年なので、まだ在職中で経営企画室長に任命された頃だったと思う。実は仕事も忙しくまた面白かったので、展示会拝見のあともまだまだ幕末趣味の世界には入り込めなかった。しかし、この企画展を契機に幕末やその時代に生きた先祖を意識し始め、幕末に関心がある人たちといわゆるSNSで交流を始めるきっかけになったのだった。幕