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『曇天〜雨の花巡り④根津神社つつじ祭り』『曇天〜雨の花巡り③皇居東御苑』『曇天〜雨の花巡り②日比谷公園の藤』『曇天〜雨の花巡り日比谷公園のネモフィラとチューリップ』明日、出かける予定があるので…ameblo.jpつつじを見てから、ゆっくりお詣り。つつじまつり期間に、1日2回各20分だけ「三十六歌仙絵」を拝観できます。拝観券300円を買って、お祓いしてもらってから中へ。配置図の紙に、並び順と名前が書いてあります。合わせて歌も書いてあったらもっといいのにな…この前、京都の伏見稲荷
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆本朝で「琴」から真っ先に浮かぶのは、個人的には徽子女王。斎宮を経験した後に村上天皇の女御となった経歴から、「斎宮女御」と呼ばれます。父の重明親王も琴の名手でした。家集の斎宮女御集に「きむをいとをかしうひき給ふに」と記されており、そうのこと=「箏」ではなく、きんのこと=「琴」(七弦琴、いわゆる古琴)と思われます。斎宮女御が琴を詠んだ有名な歌は、『拾遺集』にも採られています。ことのねに峰の松風かよふらしいづれのをより調べそめけむ太字
令和5年2月17日(金)今回は、年休をもらっていたので、午前中に青蓮院門跡に行くことにした。青蓮院門跡は祇園八坂神社の北側に浄土宗総本山知恩院があり、さらに北側の神宮道沿いの粟田口にある。天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つで、天台宗の京都にある五つの門跡寺院の五ヶ室の一つでもある。また、青蓮院の東山山上にある将軍塚の青龍殿には国宝の不動明王二童子画像(青不動)が祀られている。青不動は不動明王の中でも最高位の不動明王と言われている。五色(青・黄・赤・白・黒)。また、青龍殿には大舞
中国に花信風という言葉があります。日本風に云うと花だよりの風でしょうか。昨日今日と寒い風が吹いていますが、水戸の市内では寒紅梅が咲き始めました。写真の梅の花、昨年の2月に周りの建物が映り込まないよう、夜に撮った我が家の梅のものです。さて、春告草の異名もある梅ですが、中国原産とされ、我が国には弥生時代ごろに、食用ないし薬用として渡来したようです。花木として、本格的に栽培・鑑賞されるようになったのは、遣隋使・遣唐使が始まった奈良時代以降のこととされています。古今集
四谷界隈に須賀神社というのがあるのですけれど、脇のところの坂は、いつも参拝目当てじゃない雰囲気を漂わせた人たちが集っています。去年あたりはパラパラと、最近では、外国語が聞こえてきて、観光客が戻ったという実感と、海外からわざわざ訪れたい場所なの???という疑問が湧いてきます。そして疑問氷解。映画「君の名は。」のラストシーンやメインビジュアルで使われた場所らしいのです。上にある神社脇から、続々と階段を行ったり来たり。いかにも聖地詣でという風情です。
▲20(火)の行動です▲千本釈迦堂から徒歩移動。★北野天満宮、奉拝飛梅御朱印いただきました◎★三十六歌仙の扁額天満宮の境内地にある天神さまの本地仏を奉る★東向観音寺、奉拝御朱印いただきました◎ちょうど昼ご飯の頃。◆★◆★◆
本当は、八大神社より手前にあったこちらの「詩仙堂」に先に行きました。🤣🤣🤣この入り口が何とも風情がありますね…。この門は、「小有洞」(しょうゆうどう)と言うそうです。上に上がっていくと、入り口です。上の写真の門が中門の「老梅関」です。詩仙堂の建物なこの窓の形が特徴的で目をひきました💕😊以下、青字は詩仙堂HPよりお借りしました。京都市左京区一乗寺にある詩仙堂は、江戸時代の文人・石川丈山の晩年を過ごした山荘跡です。詩仙堂は、正しくは「凹凸窠(穴冠に果)」(おうとつか)
『日本国記』清少納言も紀貫之も知っていたギリシャ神話限りなく真実に近いアナザーストーリー【54A】ひじかたすいげつ「紀貫之」は土佐では有名人である。「男もすなる日記というものを女も書いてみんとてするなり」と始まる「土佐日記」を書いた人物。「土佐日記」は土佐国の国司となって赴任する道中に書いたことになっている。「紀貫之」は武内宿禰の子孫の紀氏の後裔と思われる。彼は古今集三十六歌仙の一人でもある。彼の詠んだ歌に「かきくもりあやめも知らぬ大空
季節的には既に冬の所もあるが、紅葉が見頃の地域も多いから、人によってはまだ秋という感覚かな?秋というのは「飽き(あき)る程、美味な物がある」という説もあると言うが、実のところどうなのだろうか。先日は皆既月食があったね。神子殿にとって日食や月食、彗星というのは楽しむ出来事のようだが、平安時代はどれも凶兆の対象だ。975年の葉月には日食があり、陽が昇った後に暗くなり星も見えたから大騒ぎになったそうだよ。日月食の類は天の乱れ=国の乱れと捉える。だから朝廷は大慌
この日は長崎の諏訪神社松森天満宮伊勢宮神社中川八幡神社のガイドの下見をしてきました♪↑まずは〈諏訪神社〉から↑このショットはよくパンフレットで見かける構図のマネ↑ミーアキャットにも会える♪〈以下3枚玉園稲荷神社〉↑こちらは「触っとらんたい」…な写真。(もう1枚!)↑影が線路みたいで気に入った風景なのにスマホが斜めになっていました詰めが甘いわたし、他の事においても(^^;)それなのにそれなりに生きて行けてるのがわたしのスゴい所(笑)路地へ出ます。↑珍しい!木の
和本江戸文政9年(1826)書道「近衛信尹公真蹟三十六歌仙」全1冊/古書古文書/木版陰刻摺りです。18丁。横本(23.5cm×29cm)。木版陰刻刷り。袋に傷みあり。『データ』【書名】近衛信尹公真蹟三十六歌仙【巻冊】全1冊【成立】文政9年(1826)
冷泉院の東宮におはしましける時、月を待つ心の歌男どもの詠み侍りけるに藤原仲文ありあけの月のひかりをまつほどにわがよのいたくふけにけるかな有明の月が出るのを待っている間にすっかり夜が更けてしまった。(東宮が長く東宮のままでいて、帝になったらその恩恵に与かることを期待しているあいだに私はすっかり老けてしまったよ。)有明の月はこの歌のように日が暮れてからずっと待つものではないと思う。朝早く目を覚ました時にまだ空に残っているの
ここ数年、コロナ渦でなかなか開催されなかったお祭りですが、今夜から2日間、一部を縮小し、湯澤神社例祭が行われます。おぼろ月夜の館から例祭行列やお神輿がスタートします。大湯通の入り口。久しぶりの出店も並び、準備が整っていました。日中降り続けた雨も夕方前には止みました。大湯前も。昨日厄年の男たちで組み立てられた花火寄付金奉納者一覧。今日は無事並びました。たまゆらの名前も発見しました。こちらは一昨日の稽古丸めの様子です。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる藤原敏行
伊勢寺(いせじ)は平安時代の女流歌人・伊勢姫が晩年を過ごした隠棲跡に、伊勢姫の死後の寛平三年(892年)に建立されたとされている。伊勢姫は、伊勢守・藤原継蔭の娘で、宇多天皇の寵愛を受け行明親王を生んだ。そして、天皇崩御後にこの地・古曽部の里に隠棲し宇多天皇の御魂を祀り、生涯を閉じられた。伊勢の歌は古今集にも撰ばれ、三十六歌仙の一人にもなった。当寺は、その後、天正年間に高槻城主・高山右近が織田信長に攻められ兵火に焼かれ、当時の住職・東雲和尚は、草庵を建てて寺名を伝えた。そして、江戸時代の元和元年
狛猿立木観音から帰路、猿丸神社へ立ち寄りました。🛵。。。猿丸大夫(柿本人麻呂)宇治茶販売所鳥居⛩裏参道から。手水。「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」の歌で有名な猿丸大夫(さるまるだゆう)は古来、歌道の神として崇められ、その徳を慕う多くの文人墨客がこの地を訪ねています。また、近世に入ってからは、瘤・出来物や身体の腫物の病気を癒す霊験があるとして、"こぶ取りの神"更には"癌封じの神"と篤く信仰されるようになりました。今日では、南山城地方を中心に遠方よりも広く
皐月朔日...今回も、卯月朔日と同様で新月なのですよね...不思議(゚д゚)!佃のすみよっさんに参拝した日...根津神社様が頭を過ぎりました。先日、お伺いしましたよ...その話を...躑躅苑のある、神社です...満開を過ぎていた様です(^^;少し、遅かったですね。それもそのはず...つつじ祭りは5月1日迄なのでね...それでも、所々、キレイな場所はありました!実は、躑躅祭り期間中のみ、本殿で「三十六歌仙絵」を拝観
《新古今和歌集・巻第三・夏歌》272蛍の飛びのぼるを見てよみ侍りける壬生忠見いづちとか夜は蛍ののぼるらんゆく方(かた)知らぬ草の枕に☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆蛍の飛び上るのを見て詠みました歌壬生忠見どこへ行こうとして、夜には、蛍があのように飛び上るのであろうか。行く方向も分からない旅寝の草の枕にいて。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
おはようございます!昨夜は桜吹雪がきれいでした桜吹雪で厄落とし新しい自分に向かう時かもしれませんねひさかたの光のどけき春の日に静心(しずこころ)なく花の散るらむ小倉百人一首第三十三首紀友則(きのとものり)こんなに日の光がのどかに射している春の日に落ち着いた心になく桜の花は散っているのだろうか紀友則は紀貫之のいとこ、兄貴分です36歌仙の一人で、大内記(内閣官房)です視覚的にわかりやすく哀愁も感じられますね恋人にふられた歌
定説は藤原定家撰。有力な鎌倉御家人の依頼で編纂したアンソロジーとされるが、その編纂基準等は諸説芬々定家が王朝和歌史の巨峰の一人であり、実作者のみならず歌学者としてもその才能や学識には定評があり、さすがに子規ですら「下手な歌詠み」と罵声をなげかけなかった。しかし、、、、才能ある歌人ばかり選んだ訳ではない。その歌人の秀作を選んだ訳ではない。和歌集は一首一首でなく全体として含味するものともされ、さまざまな解説書が百家争鳴状態一昨年も去年も今年も一昨日も昨日も今日もわが戀ふる君(源
百田尚樹の新版・日本国紀#32《平安時代編》第4回「平安時代の女は強かった!」2022/01/25百田尚樹チャンネルチャンネル登録者数16.7万人大江山生野の道の(行くのの道)遠ければ未だふみも見ず(まだ文も見ず)天橋立藤原定頼に揶揄われたとき、即座に返してぎゃふんと言わせた才女🥰若くして亡くなったそうですが、藤原定頼も三十六歌仙の一人なのにこのエピソードが一番有名だとか、ちょっとトホホです。
柿本人麻呂山部赤人大伴家持猿丸大夫僧正遍昭在原業平小野小町藤原兼輔紀貫之紀友則凡河内躬恒壬生忠岑伊勢藤原興風藤原敏行源公忠源宗于素性法師大中臣頼基坂上是則源重之藤原朝忠藤原敦忠藤原元真源信明斎宮女御藤原清正藤原高光小大君中務藤原仲文清原元輔大中臣能宣源順壬生忠見平兼盛
歳をとるということとどれほど関係があるのかは分かりませんけれど、若いころにはいささかも興味が無かった和モノの芸能にも関心が向きつつわるわけでして、Eテレで放送される「にっぽんの芸能」や「古典芸能への招待」を欠かさず見ているのですなあ。とはいえ内容によっては、気づけば途中で舟を漕いでいたりもしてしまい、和モノといってことごとく食いつけるものでもないという、こちらの心構えというか、趣味嗜好というか、そういう尺度もある一方で、相手側(要するに芸能の種類)によってはどうにも相変わらず敷居が
殿谷戸から再び多摩丘陵を上って、下柚木(しもゆぎ)御嶽神社にやって来ました。緑の中に突如現る丹色。鮮やかです。「映え」ます。この色を見るだけでテンションが上がります。御神木のスダジイ(すだ椎)。樹齢400年と推定されています。しかし残念なことに、1985年の大雪で折れてしまいました。それでも二股に分かれた幹は、それぞれ成長を続けています。その事実に霊力を感じる大木です。お祭り等のイベントには絶好のフラットな境内。その一段上に社殿が建てられています。創建は天文二年(1
車折(くるまざき)神社は京都嵯峨野にあり、平安時代末期の儒学者・明経(みょうぎょう)博士の清原頼業(きよはらよりなり)を祭神として祀っています。清原頼業は天武天皇の皇子・舎人親王の子孫で、和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、国の大器と称されました。その一族には、平安時代の三十六歌仙の一人、清原元輔やその娘で枕草子を書いた清少納言らがいます。頼業は1189年に逝去し、現在の社地に葬られ、法名に因んで「宝寿院」という寺が営まれました。その後、後嵯峨天
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明日は、「十三夜」、そして日本画史上最大の画派「狩野派」の「狩野孝信」の忌日ですから、私の4人目の子供真織愛(Maria9歳先天性自閉症スペクトラム)が、狩野探幽の「新三十六歌仙図帖(小侍従)」の模写をし、それに「月」と「秋の七草」も描きました。小侍従は色鉛筆で、月や背景や秋の七草は水彩絵具です。模写ですが、真織愛(Maria)の特徴的な美しい色彩で表現出来て、素晴らしいと思います。江戸時代に入り武力よりも学問や文芸で世界を治めようとした時代の流れにより、狩野派も大和絵の技法を取り入
大石神社横浜市緑区長津田おおいしおおかみ創立年代は不詳新編武蔵風土記稿に在原業平朝臣を祀ったものと伝う。神体は石でその大きさ人の容に同じく昔は相州境にあったが武蔵相模両国の百姓各々其の帰属を主張して譲らず争となったが神意により遂に武蔵に鎮座したものと言われる。1694年領主岡野平兵衛房恒等社殿を修覆し1753年社殿を造営した。1923年神明社、稲荷社を合祀同年9月関東大震災により本殿崩壊したので宮内省より御用材を賜わり再建した。