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浜松市の「どうする家康大河ドラマ館」概要が決まった様です。.浜松市は観光行政がしっかりしていますね、うらやましい限りです。来年はコロナも終息し、凄い人出になると思います。家康と松潤は、最高の組み合わせであり、建設費4億9千万円の元は、簡単に取れると思います。.浜松市も頑張っていますが、著書「一言坂の戦い」もコツコツと頑張っています。.
今日は、芥川賞と直木賞の発表の日です。テレビのニュース番組で、直木賞候補の今村翔吾さんのユニークなインタビューを見ながら、この書き込みをしています。もちろん私は、作品を読んではいませんが、この方の人柄は好印象です。.12月20日の「一言坂の戦い」発売から1カ月経過しました。「一言坂の戦い」の、自費出版の印刷部数は1000部です。この1000粒の種は、撒かなければ実が付くことはありません。.この全てを、読者の手に渡すことが次の目標ですが、これがなかなか難しいのです。私にとっては本を
中日新聞2022年1月1日より.「しかみ像」は、三方ケ原の戦いと関連ない?「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し」の書き出しで知られる「遺訓」も後世に作られたとみられている。.2023年の大河ドラマ「どうする家康」をきっかけにして、見直しが進められています。二つとも、常識的に後世の作であることは明白です。.さて、もう一つの家康の伝承が「せつな糞」です。この話が「三方ケ原の戦い」の逸話ではなく、「一言坂の戦い」の後の逸話として、「三河後風土記」に書かれていることは、歴史フ
2022年は「三方ケ原の戦い」450年。そして2023年は「どうする家康」。.写真は12月に出版した「一言坂の戦い」の、見開きのパノラマ裏表紙です。.徳川軍と武田軍の、「三方ケ原の戦い」の場面を、オリジナル画で掲載しました。.#磐田市#武田信玄#どうする家康#一言坂の戦い#三方ケ原の戦い#徳川家康#本多忠勝#浜松市#本多忠勝#日本史#戦国武将#本多平八郎忠勝
(33)戦国武将・真柄十郎左衛門直隆のこと戦国武将ファンであれば、越前朝倉氏の豪傑・真柄直隆を知らない人はないでしょう。北国の豪傑として知られる人物で、講談(講釈)や軍記物にしばしば登場します。最近ではゲームの豪傑キャラクターとして有名です。諸説ありますが、真柄直隆は「姉川の戦い」で徳川軍に単騎で突入し、「太郎太刀」を振って奮戦するも、家康の家臣匂坂(向坂)兄弟の攻撃を受けて、力尽き討ち取られます。匂坂は、向坂の漢字で書き表す場合もありますが、読み方は同じ「さぎさか」で
著書「一言坂の戦い」が、いっぱい届きました。.「一言坂の戦い」著者による直売会のお知らせ.12月20日発売の著書「一言坂の戦い」を、地元の皆さんに先行販売します。.日時12月18日(土)9時30~12時まで場所醍醐荘西側駐車場(磐田市浜部155)会場みんなの販売所「浜小屋」一周年記念主催緑十字機の不時着を語り継ぐ会※雨天の場合は、南交流センター(磐田市下岡田142-1).特典があります、是非ご来場ください。.発売日まで、あと4日です。
自費出版本のお値段久し振りにAmazonで、私が自費出版した本を検索しました。2015年に出版した「緑十字機の記録」は500冊を三刷、定価2000円で、計1500冊出版しました。当然完売し、長くAmazonでは「現在取扱いしていません」と表示されていました。出版から6年が経過して出品された一冊の価格は、なんと30,180円。古本の市場価格は、どうしても欲しい方がいれば、定価を上回る価格で動きます。それで商売をしている古本業者も多くあります。テレビ朝日で番組化され、ギャラ
「一言坂の戦い」、Amazonで予約可能となりました。販売日は、諸般の都合で、12月20日となっています。一言坂の戦い武田信玄、遠州侵攻す|岡部英一|本|通販|AmazonAmazonで岡部英一の一言坂の戦い武田信玄、遠州侵攻す。アマゾンならポイント還元本が多数。岡部英一作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また一言坂の戦い武田信玄、遠州侵攻すもアマゾン配送商品なら通常配送無料。www.amazon.co.jp
「一言坂の戦い」発売開始のお知らせ。.前作の「緑十字機決死の飛行」発売から5年6ケ月。やっと、新作「一言坂の戦い」が、12月9日から、書店とネット(Amazon、楽天等)で販売開始となります。価格は1800円+消費税、合計1980円です。.さらに、著者から直接、書籍を購入された上で希望される方には、副読本として、「絵物語・一言坂の戦い」を原価120円、合計2100円で購入頂けます。副読本はA5、40ページ、書下ろし、挿絵多数です。.出版を記念して、小規模の発表会と
(32)「一言坂の戦い」表紙が決まりました。12月初旬に自費出版する、「一言坂の戦い」の表紙が決まりました。書店やネットで購入可能になるのは、12月中旬頃かと思います。四六版372ページ、ハードカバー印刷部数は1000冊です。価格は1800円+税です。難しい本です。※写真の色は、本番とは若干異なります。
磐田の自宅のすぐ近くにお住まいの郷土史家の岡部英一さんのお宅に先日うかがい12月に出版予定の『一言坂の戦い』について様々お話をうかがってきました。『緑十字機決死の飛行』の執筆でも知られる岡部さん。丹念に地元磐田市について調べながらこれまで表に出てこなかった地域の貴重な歴史を著書において広く知らせてくださる…これは本当に素晴らしいことだと思います。そして、中々出来ることではないと心から尊敬しています。武田信玄の遠州侵攻の時、実は磐田市が重要な舞台になったという史実。これに
(31)あなたは右派ですか、左派ですか武田信玄の遠州侵攻「一言坂の戦い」を書く場合、右か左かはっきりさせなくてはならないことがあります。そしてもうひとつ、「が、り」と、「は、る」も、はっきりさせなくてはなりません。まず右か左かですが、甲陽軍艦の一言坂の戦い(1572)に登場する、信玄の近習の名前が「小杉右近」なのか、「小杉左近」なのかです。ウィキペディアを初めとしてSNS上では「左」が多くを占めているのではと思います。もうひとつ、一言坂の戦いで掲げられた「落首」にもいく
(30)「三方ケ原の戦い」450年12月初旬完成を目指している「一言坂の戦い」の、PR画が出来ました。1枚目は信玄バージョン。信玄の右横の武将は、「赤備え」で有名な、山県昌景です。2枚目は家康バージョンです。家康の兜は、初陣の時の金色の兜と似た配色で、神々しさを演出しています。.家康の右側が本多平八郎忠勝、その右が榊原康政です。二人は徳川四天王に数えられ、三方ケ原の戦いの時は、共に24歳の働き盛りでした。.甲陽軍艦には、無敵「赤備え」の山県昌景勢を、三町(300
(29)信玄本陣の背後を固めた仲明城私が、合代島の亀井戸城が信玄の本陣だったと考える理由がもうひとつあります。それは、仲明城の存在です。当時の天竜川の流れは幾条にも分かれ、その一部は亀井戸城近くまで迫っていました。仲明城(なかみょうじょう)は、亀井戸城の東2kmにある平山城です。土塁・切岸が確認でき、城であった事は間違いありませんが、いつの時代、誰によって築城されたのか伝承が全くないため、ほとんど知られていません。磐田市教育委員会文化財課が制作した、「ふるさと散歩豊岡編
(28)亀井戸城の信玄本陣亀井戸城は、天竜川を眼下に見下ろすことが出来る眺望地点の、鳥羽山砦、神田山砦、社山城の中心に位置します。狼煙(のろし)でつなげば二俣城攻撃部隊13000、合代島周辺に展開している8000、さらに社山城の狼煙は、袋井方面からも見ることが出来るため、久野城周辺の押さえとして配置している3000を、連携して動かすことが出来ます。歴史学者の小和田哲男氏もこの城に信玄が本陣を置いたと断定しています。私も、亀井戸城こそが信玄の本陣と確信しています。信玄が遠江
本多平八郎で町興し.「戦国最強の武将は誰か」.戦国時代の数多い武将の中で、かならず候補に挙がるのが本多平八郎忠勝。徳川家康に仕え、生涯57回戦場に赴き、かすり傷一つ負わなかったという猛将です。徳川四天王の一人であり、忠勝は歴史ファンの間で根強い人気があります。.忠勝ゆかりの地、千葉県大多喜町や愛知県岡崎市、三重県桑名市では、立派な銅像が建てられ歴史が伝えられています。.もうひとつ、本多忠勝の有名な地が私の住む静岡県磐田市です。忠勝の最も有名な戦いが、磐田市の「一言坂の戦い」
(25)矮小化された、信玄と家康の戦い歴史は、現在伝えられている伝承を、創作されたであろう部分を含めて、そのまま受け入れて楽しむ方法と、常に疑問を持って読み解き、隠されている本来の姿を推理して楽しむ方法の、ふたつの方法があります。歴史は勝者によって書き替えられることを、常に念頭に置いて読み解かなければなりません。450年前の信玄の遠江侵攻は資料が乏しく、具体的な内容は断片的にしか語られていません。私は、少しでも真実に近づくために、数々の推理を巡らせます。元亀三年(1572)
(26)二俣城への後詰(援軍)武田軍が二俣城を攻撃していた二カ月間もの間、家康は援軍を出さずに浜松城に籠っていただけなのでしょうか。浜松城は天竜川の西側にあり、二俣城は天竜川の東側にあります。援軍するためには、天竜川を渡るしかありません。信玄の匠な戦術は、唯一天竜川を歩いて渡ることが出来る浅瀬のある合代島を押さえることです。信玄は、「一言坂の戦い」の後、亀井戸城に本陣を置きます。亀井戸城は、天竜川を歩いて渡ることができる「川道」の正面に位置し、信玄が抑えた天竜川を眼下に見
本多忠勝「開運一心入魂手ぬぐい」限定販売本日(6月14日)の、静岡新聞と中日新聞に、本多忠勝関係の記事が掲載されました。家康と共に浜松へ移り住み、17年間を過ごした本多忠勝の屋敷があった場所と伝わる、浜松市中区田町の「遠江分器稲荷神社」の氏子の皆さんが、「開運一心入魂手ぬぐい」を制作したとのこと。限定500枚販売とのことですので、売り切れる前に買ってきました。稲荷神社のコメントは、2023年のNHK大河ドラマが「どうする家康」に決定しており、家康ゆかりの地の人気はさら
(24)神田山砦の眺望と、天龍院武田軍が二俣城を攻撃した時、天竜川流域を見渡せる神田山砦を押さえました。鳥羽山砦、神田山砦、亀井戸城、社山城、匂坂城。信玄はこれら天竜川東海岸の全ての拠点を押さえ、これらを狼煙で繋ぐことにより、家康の天竜川渡河を阻止し、二俣城援軍を防ぎました。戦国時代、味方の城が籠城している時、援軍を出せない主君は屈辱を受けることになり、遠江国衆の信頼を失い、徳川離れに繋がります。信玄はそれを狙っていました。赤→二俣城、白→鳥羽山砦、緑→神田山砦、
本日(19日20時~)放送のNHKBS「英雄たちの選択」現在書いている「一言坂の戦い」と、ドンピシャの内容です。番組の放送内容によっては全面的に書き変えるかも。私は変わり身の早い男です(笑)。今年は武田信玄生誕500年。ドキドキして放送を待ちます。「武田信玄幻の西上作戦〜対信長最終決戦〜」-英雄たちの選択今年は、戦国最強といわれた武田信玄の生誕500年。信玄が、死の直前、生涯最大の敵・織田信長・徳川家康と激突すべく西へ侵攻した「幻の西上作戦」を徹底分析する。戦国最強の
「一言坂の戦い」手作り試作品作成2023年の、年初に自費出版を目指している「一言坂の戦い」イメージを確認するために、試作品を作りました。文章は、ほぼ書き終えていますが、これからが大変です。挿絵や地図など、まだまだ作業が続きます。四六版、350ページ位、ハードカバーを考えています。
(23)社山城の眺望匂坂城を押さえた武田軍は、そのまま北上して二俣への道沿いにある社山城に警備の兵を配します。社山城は磐田原台地の西端にある標高136m(比高90m)に築かれた山城です。城からは天竜川の流れを眼下に臨み、遠くは遠州灘への河口付近まで見渡す事が出来ます。城を守っていた徳川方の兵は、匂坂城から北上する武田軍の全容を見ることができ、戦わずして退去したと考えられます。信玄は、社山城この眺望を重視し、ここに物見の兵を配置します。信玄が抑えた拠点を地図上に書き込むと、
(22)匂坂城と匂坂兄弟元亀3年10月13日、夜が明けて木原を発った信玄以下武田軍は、見付の台から一言坂を下り、坂下の辻を右折して亀井戸城に向います。そして、途中にある匂坂城を接収します。匂坂城は、天竜川を天然の堀とする平城であり、磐田原台地の手前の平地にある居館と、詰城が磐田原台地上にありました。城の規模からして守りは極めて弱く、武田軍を相手にして戦ったとは思えず、早めに浜松城等に避難して空城になっていたと考えます。信玄は、一門衆の穴山梅雪に匂坂城を守らせ、池田の渡船を
(21)見付坂に掲げられた落首(狂歌)「家康に過ぎたる物は二つある、唐の頭に本多平八」「甲陽軍艦」の口述者である、武田四天王のひとり高坂弾正は、1578年に没しています。高坂は、間違いなく信玄の遠州侵攻に同行し、側近として「木原畷の戦い」、「一言坂の戦い」、「三方ケ原の戦い」に参加しています。なにかと間違いが指摘されている甲陽軍艦ですが、この部分に関しては本人が信玄本陣に詰めて見聞きしたことを、忠実に記録していると判断し、「一言坂の戦い」執筆における底本としていま
(20)万能の戦い(挑燈野)一言坂の西800mの場所に「旧蹟挑燈野」と刻まれた大きな石碑が建っています。石の部分だけでも1畳ほどある大きな石碑で、昭和47年6月建立との碑文があります。この石碑は、相当な思い入れがあって造られたと感じさせます。万能村の「挑燈野」には、一言坂の戦いに繋がる次の様な伝承があります。中遠昔ばなし挑燈野の戦(豊田町)www.chuen.netところが、この戦いには元亀3年説と天正2年説があります。さらには、作り話ではないかとする
(19)一言観音堂見付から池田の天竜川の渡しに向う街道横に、たったひとつだけ願いを叶えてくれるとの信仰がある小さな「一言観音堂」があります。一言坂の地名の由来は、この観音堂にあります。一言観音信仰は、遠く天平の時代に、その起源を遡ります。(興福寺内にある一言観音堂)平城遷都(710)により、奈良に都が移され、聖武天皇と光明皇后は仏教による国の鎮護願って興福寺を庇護し伽藍を整備しました。興福寺の国宝南円堂の脇に、一言だけ願いを叶えてくれるという「一言観音」が祀られていま
(18)一言坂の戦い「一言坂の戦い」は謎多き戦いです。武田方の「甲陽軍艦」に、敵ながらあっぱれな本多平八郎の戦いが記されています。「甲陽軍艦」抜粋かの平八郎、甲(かぶと)に黒き鹿(か)の角を立て、身命を惜しまず、敵味方の間へ乗り入れ、引き上げたる様子は、信玄公の御家にも、多くなき人に、相似たり。家康小身の家に、過ぎたる平八郎なり。その上、三河武者、十人が七、八人は、唐の頭(からのかしら)を掛けて出る。これも過ぎたりと、小杉右近助と申す、信玄公御籏本の近習、歌に詠みて、見付坂
(16)大久保一族、西坂の殿戦(しんがりせん)磐田原には四つの急坂があります。この内、東からの攻撃に対する防御地点として有効な上り坂は、「三ケ野坂」と「西坂」です。この西坂は、大久保彦左衛門著の「三河物語」で書き表されている旗本先手組の中核、大久保忠世の弟である忠佐と、忠世の長男大久保忠隣たち大久保一族が守りを固めていたと考えられます。その中でも、元和八年(一六二二)成立とされる「三河物語」に、木原・西島から始まり、見付の町屋への自火に続く西坂までの攻防に関する、次のような
元亀三年十月十三日。静岡県磐田市一言坂周辺で、徳川家康と武田信玄の最初の直接対決がありました。この戦いで、一躍有名となった武将は、本多平八郎忠勝です。本多平八郎忠勝は、「戦国武将マニアの最も強い武将ランキング」で常に上位10傑に入る武将です。なぜ平八郎が有名なのか、それは武田の軍学書「甲陽軍艦」に、「一言坂」での戦いぶりが書かれているからです。著者(口述)は、武田四天王のひとり高坂弾正です。高坂は、間違いなく緒戦となる「木原畷の戦い」の時から、武田軍の一員として参加し