ブログ記事17件
友達に誘ってもらって、京都文化博物館で開催中の世界遺産大シルクロード展に行ってきました。中国🇨🇳の重要文化財のような一級分物44点を含む多くの展示物が中国各地の博物館から集められていて、とっても見応えがありました。何期分もの正倉院展を見たみたい😊写真も撮り放題。誘ってくれた友達に感謝🥰
1月13日(月曜日)成人の日の13日、京都文化博物館で開催中の世界遺産大シルクロード展(202411/23~20252/2迄)を見に行って来ました。阪急電車で四条烏丸に出て、烏丸通りから三条通を目指します。烏丸通には古いレトロな建築がたくさんありますこちらは華道池の坊のビルIkenoboですね(^^)京都銀行三条通の中京郵便局こういう道路標識もいいな京都文化博物館別館に到着京都文化博物館別館大シルクロード展は新館で開催していま
ぶらぶら散歩世界遺産大シルクロード展岡山日中平和友好条約締結から45年を記念し、日本国内5会場を巡回する「世界遺産大シルクロード展」。岡山県立美術館開催の招待券を頂き、会期末に出かけてみました。中国国内27箇所の博物館や研究機関から貸し出された約200点の文物を見る事が出来ました。日本では国宝に相当する中国最高の宝物である「一級文物」44点も含まれています。1000〜2000年の時を経た本物の宝物を見る事が出来ました。会場は岡山県立美術館です。日本三名園のひとつ、岡山後楽園から
ウの森美術館で開催中ので、兵馬俑と古代中国展最初は従者を殉葬していたのを、俑に換えた。始皇帝以前の俑は、人形って感じのちいささで、造りも素朴。しかし、始皇帝の兵馬俑で巨大でリアルになった。ただ、始皇帝後、また小さくなって、リアルさは無くなる。簡素が好まれたから、とも、人間の姿形を写し取るとは、魂も取られるというので、元々やってはいけないことだった?皇帝の4頭だての馬車は、圧巻。御者も、皇帝が乗る部分もリアル。始皇帝の兵馬俑は、最後の部屋に有ります。兵馬俑、鎧ガーゼ格好良
古代中国で、死者を埋葬する時、俑を一緒に入れましたが、特に人や馬を形どった俑は兵馬俑と呼ばれます。1970年代に西安で始皇帝陵の周辺から多くの兵馬俑が発掘され、世界的な話題になりました。そうした兵馬俑の一部が日本へやってきて、現在、名古屋で「兵馬俑と古代中国」展が開催されています。折しも今年は日中共同声明署名50周年の記念すべき年です。<本展示会のリーフレットとチケット>場所は名古屋市博物館で、私も10月初旬に行ってきました。<名古屋市博物館>この展覧会では一部を除
ぷらりとまではいかないけど京都市京セラ美術館へ行ってきました一度は見てみたかった「兵馬俑」一部ですがやはり圧巻でした高さは2m程の陶器というのがすごいです時間指定制ではあるもののかなりの入場者数で展示物をゆっくりと鑑賞するには密でしたねでも兵馬俑さん達を見れて良かった整列している兵馬俑はレプリカですが何千体と並んでるってどんな感じなんだろうそして展示会場の「京都市京セラ美術館」こちらも素敵でした次はどこ探索しに行こぉ〜かな
京都市京セラ美術館へ「日中国交正常化50周年記念兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」を見に行きました。展覧会のサイトより。ーーー会期2022年3月25日(金)~5月22日(日)時間10:00〜18:00※入場は閉館の30分前まで会場京都市京セラ美術館本館北回廊2階休館日月曜日(ただし5月2日(月)は開館)※祝日の場合は開館お問い合わせ「日中国交正常化50周年記念兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」公式サイトhttps://hei
10月の終わりに書いたきりまたまた放置…今度こそ終わりにしてまだ途中の別記事に移りたい所存です(笑)魏の動物模型水鳥🐦鶏🐓犬🐶墓門一部の大型墓では地下の墓室と墓道との間などに墓門を設けた。この墓門には盾を捧げる警備の男性と箒を持った男性が左右に彫刻されている。中国では貴人を迎えるとき敬意を表して箒を持つことがあった。一級文物揺銭樹四方に伸びる板状の枝葉には不老不死の西王母鹿に乗る仙人などのほか約400個もの銅銭を飾る。急いでいるから写真の撮り方も雑だ
第5章曹操高陵と三国大墓一級文物石牌魏武王常所用挌虎大戟副葬品目を刻んだ板。「魏の武王(曹操)愛用の虎をも倒す大戟」と刻む曹操高陵を特定した決定材料。HPよりお借りしました。鼎把手と3つ足をつけた器物である鼎は支配者の徳を表すものとして重んじられてきた。一級文物罐4つの耳をもつ罐は三国時代頃の典型的な容器のひとつ。そうした中で本品が異彩を放つのは白化粧に透明釉をかけて高火度で焼き上げた「白磁」ということ。中国磁器文化の礎ともいうべき白磁は従来6世紀末頃
はい、8月に行った三国志展まだ終わらずしかも1週間以上間が開きましたここまで来たら意地でも最後まで(笑)しかしどこまで書いたか記憶もありませんが一級文物釜「ふ」と読むようです。調理や水汲みなど多くの用途に使われた。口縁部と胴部の銘文に黄武元年に呉の武昌の官営工房で3438番目につくったとある。画文帯環状乳神獣鏡外周に龍などの画像からなる文様帯をもち上面が輪のようになった乳(小型の突起)を伴う神獣鏡である。この形式の鏡は日本でも出土する。同向式神獣鏡神や
第4章三国歴訪続きです。めぐみの蜀鎮墓俑長い舌を胸まで垂らす。右手に細長い道具、左手に毒蛇を握る。超能力で邪気や盗賊から墓を守るため副葬された。右手を挙げて蜀の踊りの「決めポーズ」舞踏俑冠を被った女性がやや腰を落とし袖を掴んだ右手をあげ左手では上着の長い裾を少し引っ張りあげる。舞踏俑奏琴俑俑とは副葬用につくられた人形のこと。蜀が支配した益州では生動感に富み柔和な表情の多彩な俑がつくられた。説唱俑半裸の男性が片膝をつき快活に話芸を披露する。このような異形の芸
まだまだ長いなぁ(笑)第4章三国歴訪魏は漢王朝の中心地であった黄河流域に勢力を張り蜀は自然の恵み豊かな長江(揚子江)上流の平原をおさえ呉は長江中・下流の平野部と沿岸域に割拠した。異なる風土は、それぞれに独自の思想や習慣を育んだ。各地で出土する文物にも三国それぞれの特色があらわれている。一級文物「関内侯印」金印亀形のつまみを持った金製の印章。漢・三国時代では関内侯は皇帝、諸侯王、列侯に次ぐ身分で一定の収入が保証された。魏では夏侯淵は列侯となりその子が関内侯となった。
諸葛亮(181~234)字は孔明。若くして父を亡くし俗世を離れ暮らしていたが劉備の三顧の礼をうけて志を新たにしよく劉備を補佐した。劉備が崩御すると後を継いだ劉禅のもとで漢の復興に邁進し南征と北伐を敢行した。最後は五丈原の陣中で病没し定軍山に葬られた。孟獲雲南省に勢力を張った豪族の一人。諸葛亮が南征した際には7度捕らえられ7度釈放され最後は帰順したとの逸話をのこす。第3章魏・蜀・呉―三国の鼎立続きです。武士出征像中央の騎馬人物は環頭大刀をはく。周囲には
第3章魏・蜀・呉―三国の鼎立魏・蜀・呉の鼎立は後漢時代の末期に形づくられそれぞれの境界での争いは特に熾烈を極めた。220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪うと蜀の劉備と呉の孫権はこれに反発しおのおのの正統性を主張し相次いで建国を宣言した。弩機どき矛ほこ戟げき剣戟げき曹操の護衛・典韋も双戟という特殊な戟を好んだ。環頭大刀鉤じょう盾の一種で裏面に持ち手がつく。上下の棒状部位と中央の突起で相手の攻撃を受け、ときに押し返す。一級文物弩
東京国立博物館で2019年7月9日~9月16日に開催されていた特別展三国志8月27日に行ってこの後9月9日にも三国志Ⅱを書いていますがそれっきりになっていました。先日福岡を訪れた際太宰府の九州国立博物館で開催中というポスターもやたらに目についたので忘れないうちに…第二章漢王朝の光と影漢王朝は天下に比類なき巨大帝国へ成長したが二世紀末には王朝内部の政争が表面化し皇帝は求心力を失っていった。地方では道教教団が台頭して黄巾の乱がおこり漢の都は董卓によって破壊され
仕事は休みでした。家の周りは葉っぱが散乱くらいで済んでいるように思いますが10mほど先にある道路はJRが動いていないためとりあえず車で、とお考えの方々で見たこともない渋滞が起きていました。スーパーの前ではかなり大きな木が根元からぽっきり。何よりも暴風に耐えきれなかったスズメが大量に亡くなっていたのがショックでした。多分今頃は電車も動き始めたと思いますが今日は大人しくしています。上野には先日再び訪れることになったのですがまずは三国志を(;^ω^)特別展三国志第