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所用で函館市総合福祉センター(あいよる21)へ。函館駅近くの若松緑地公園にあります。土方歳三ゆかりの地のモニュメントがあり……敷地内には、土方歳三最期の地碑。箱館戦争で命を落としたといわれる場所にひとつ、一本木関門がこの辺にあったということです。命日の旧暦5月11日はまだ先だけど、お花がたくさん供えられていました。そして、この1円玉は何でしょうね……??センターの前は八幡通り、日当たりいいところでは街路樹のエゾムラサキツツジがもう咲いてました。ツツジの中では一番
ワタシは新選組が好きなので、もちろん土方歳三も大好きです。ワタシの中での土方歳三は「薄桜鬼」の土方歳三。この方です🖤カッコええなぁ〜〜(//∇//)函館で絶対に行きたかった場所。それがコチラの「土方歳三最期の地」です。若松緑地という公園内にありました。実際の土方歳三もイケメンですよね!!土方歳三の最期の地については諸説ありますが、最も有力だとされているのが「一本木関門」です。一本木関門は旧幕府軍の休憩所・屯所であったといわれており、箱館の街から五稜郭、激しい戦闘が繰り広げられた
午後4時近くになって、さすがに疲れて、また寒くなってきた。五稜郭を後にする。ここからは、函館駅まで市電(路面電車)に乗る。電停まで約10分。疲れた身には、ややこたえる距離だ。市電で函館駅前にほどなくやって来た電車に乗って、8つ目の電停の函館駅前で降りた。料金は210円。時間は4時半頃。海鮮和食店に行くにもやや早い。そこで、駅のインフォメーションセンターに行き、観光案内地図をもらい、ついでに土方歳三最期の地の旧一本木関門への道を聞いた。駅から徒歩で10分ほどだ。道は広い
東京駅から北海道新幹線終着駅の新函館北斗駅まで、僕の乗った「はやぶさ7号」は北海道新幹線利用では最速の3時間57分だった。JR北海道の何とか4時間切りという執念が見える時間だ。ちなみに車内はほぼ満席で、完全に武漢肺炎を克服した。五稜郭公園へで、前回述べたように、宿のホテル・ラ・ジェント・プラザ函館北斗に荷物を預け(早すぎてチェックイン前だった)、在来線の函館ライナーという普通列車に乗った。五稜郭公園に行くつもりだったので、函館駅1つ手前の五稜郭駅で降りた。函館まで行って、ここから
函館最後の観光(?)ですやっぱり最後はここですねホテルで荷物を受け取り、リュックを背負ってやってきました若松緑地公園内にあります土方歳三最後の地碑一本木関門所説ありますが…歳さまを救いに一本木関門へ馳せ参じましたよ150年ほど遅れちゃったけど…歳さまには雪も似合いますねまた函館に来たら、必ずここへ来ますそれまで待っててね~ハコビバHAKOVIVA駅前まで戻ってきましたJR函館駅前に2019年にできた複合商業施設ホテル
【旅行期間:2022/11/10-13】五稜郭公園に入ります。箱館奉行所の関所をくぐっていくところが気分上がりますね。箱館奉行所の再現真ん中の物見櫓?が不思議な建物屋根も反っていますね。かなり忠実に内部も再現されています。五稜郭のことや、箱館戦争の歴史を学ぶことができます。奉行所見学のあと、連れがどうしても探したいものがあると。あっちこっちを行き来しました。やっと見つけたのが、これ馬屋の跡地は??
最後の新選組の局長は、と問われて、答えられる人はそうはいないだろう。かく言う僕も、そう問われれば、「さあ?」としか言えない。土方亡き後、新選組隊長として降伏文書に署名そして、つい最近までこの名は知らなかった。相馬主殿(そうま・とのも)という(新選組時代は相馬主計と名乗った=写真)。新選組が京の街で肩で風を切って歩いていた時は、まだ加入していなかったらしい。だから、映画やテレビで描かれることもなく、したがって無名だ。しかし相馬は、土方歳三と共に箱館戦争にも
今日は所用で、函館駅近くの総合福祉センターへ。車道の雪はほとんど融けていますが、歩道はカチカチのテカテカ。両端の少し残った白い雪のところを注意深く歩きます。土方さんの大きなモニュメントがお出迎え。しかし、玄関で今日の会合が感染拡大のため、中止になっていたことを知る……orz函館、一気に自粛モードに入っているようです。せっかく来たから、敷地内の土方歳三最期の地碑にお参りして帰りましょう。このあたり、土方さんが銃弾に倒れた一本木関門があったところと言われています。
土方さんの最期の地、一本木関門跡ベンチに腰掛けている人が一人いただけで、いつものように静かな夕方の公園でした。花と線香を手向け、今年も色々お話ししてきました。やはり一年に一度ではなく、いつかちょこちょこ訪ねられるようになりたいですね。自分にとって今住んでいる場所より、この地がしっくりくると言うのもあります。不思議なんですけど。これが縁というものなのでしょう。今年も慰霊の旅が無事終わり、運転手さんには今日のお礼と来年もまた宜しくお願いしますとしばしのお別れをしました。本当に良き人と縁あ
またまた昨日「にっかり青江単騎出陣」で函館にいるリオン君(加古臨王)からお便りが❗️ちょっと💦ちょっと💦写真見て一気に興奮しました🤩一本木関門ですよ💦💦💦💦💦土方歳三さん最後の地まだ行ったことない💦明治2年5月11日150年前、、正確には152年前..ここで、、土方さんは、、まだ本当に最近の話ですよね。写真見て声出ちゃいました。😳またまた素敵なお便りリオン君ありがとう😂写真嬉しいです☺️オーディション終わったタイミングだったからリオン君のおかげで良
「おれは函館へ行く。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦(あ)きた者だけはついて来い」(原文ママ、中略)これ以上は進めない。が、ただ一騎、歳三だけがゆく。悠々と硝煙のなかを進んでいる(中略)みな、茫然と歳三の騎馬姿を見送った。五稜郭軍(chu注旧幕府軍)だけでなく、地に伏せて射撃している官軍(chu注似非です)の将士も、自軍のなかを悠然と通過してゆく敵将の姿になにかしら気圧されるおもいがして、たれも近づかず(原文ママ)、銃口をむけることさえ忘れた。歳三は、ゆく。ついに函館市街の
奥羽越で終わったかに見えた戊辰戦争の延長戦、「旧幕府軍」と「新政府軍」間で勃発した蝦夷地での攻防戦「箱館戦争」、それに関連したお城シリーズを投稿中です。昨日の予告では「戸切地(へきりち)陣屋」の紹介予定でしたが、本日は予定を変更して、「五稜郭」を中心とした箱館市街地の「箱館戦争」に関わる陣屋他をお届けしたいと思います。1700年代後半から、ロシアによる「蝦夷地」(北海道)来航が相次いだので、江戸幕府は「蝦夷地奉行」(後に箱館奉行)を置いて海防対策を取るようになりました。更に18
今宵も「爺ィの夜話」をどうぞ!第133話は・・今日5月31日は土方歳三の誕生日。1835年5月31日(天保6年5月5日)武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)に農家の土方義諄(隼人)と恵津の間に生まれました。長じて、新撰組副長として、又、蝦夷共和国の幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねました。そして明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立。歳三は救出のためわずかな兵を率いて
「Webで函館散歩」6回目は~箱館戦争・兵たちの足跡~その2です。(画像は過去に撮影したものです)※一部資料除く明治2年5月11日(新暦1869年6月20日)、侵攻を続ける新政府軍は、別途箱館山裏手より上陸、奇襲攻撃で箱館山を占領、西部地区を次々に制圧した。このとき、土方歳三は一本木関門付近にて新政府軍の銃弾に倒れる。敗走を続ける旧幕府軍に対し、12日(新暦6月21日)には五稜郭に向けて新政府軍による艦砲射撃が箱館港からはじまる。ついには16日(新暦6月25日)、中島三郎助は2
新型コロナウイルス感染拡大で、5月22日公開が延期に!岡田准一主演映画『燃えよ剣』原作は、歴史小説界の巨星・司馬遼太郎主演の岡田准一ら豪華キャストが魅せる歴史スペクタクル超大作となっている。土方歳三の知られざる真実を描く監督原田眞一が務める。『新選組』土方歳三を演じるのは、岡田准一。豪華俳優陣お雪/柴咲コウ近藤勇/鈴木亮平沖田総司/山田涼介芹沢鴨/伊藤英明新選組の名を全国に知らしめた池田屋事件をはじめ、鳥羽・伏見の戦い、五稜郭の戦いといった歴戦の数々を通して描かれる、
2020年1月30日(木)朝食後、駅近くにある一本木関門跡へ諸説あるものの、土方歳三が戦死した場所として知られています。(異国橋付近との説も)新選組副長として、蝦夷共和国陸軍奉行並として、各地を転戦してきた土方の最期は、狙撃による即死だったとも言われています。享年35。【その容姿は…】土方本人より新選組隊士:市村鉄之助に託された遺品のひとつに写真があります。市村は、命を懸けて官軍の包囲を突破、東京日野にある土方の親戚宅に2ヵ月の逃走を経て無事届けることに成功。写真でその容姿を確認
おはようございます(^-^)/ひろむです。訪問ありがとうございます。気がつけば大晦日!(*_*;早い!本日わたくし仕事納めでございます♪10月10日~10月14日まで北海道、函館へ行ってきました。旅も大詰め。「四稜郭」~の続きです。・三日目・③弥生小学校(屯所跡)→称名寺→「新選組最後の地碑」→弁天台場跡→一本木関門旅もいよいよここまで来ました。函館に戻り、向かうは屯所跡。↓↓↓↓↓弥生小学校・元町ホテル新選組の屯所であった「称名寺」があったとされる場所です。称名
一昨日と昨日は、滋賀県は琵琶湖近くの百貨店で、北海道産の乳製品のデモ。来年の3月終わりに北海道1人旅の予定を立てている私にとっては、仕事をしている最中にもいろいろと想像力をかきたてられ、楽しい2日間だった。その北海道旅だが、どうやら、北海道は北海道でも函館のみのピンポイント旅となりそうだ。と言うのが、訪れたい箇所が見事なまでに函館に集中しているのだ。1、新撰組の副隊長、土方歳三が最後まで籠城して散った一本木関門。2、石坂洋次郎原作「若い人」のモデルとなったミッションスクール、道愛学院。
歳様の150回目の命日に合わせての箱館旅の続きです最終日の朝を迎えました。どうしてもこの日、もう一度あの場所に行きたくて。。。いつ来ても貴方の碑には綺麗なお花がいっぱいですね。150年前のこの日は、まだ戦いは終わってはいない。150年前のこの日、貴方の身体はどこにあったのだろう。150年前のこの日、貴方は懐かしい勇さんや総ちゃんや源さんやその他の人たちに逢っていた?それともまだ戦っている箱館軍を見守っていた?いつになるかわからないけれど…またきっと来ま
五稜郭に向かい、五稜郭タワーで再びの新選組ソフト(笑)五稜郭から一本木関門付近まで、どの道を土方さんが最期に馬で走っていたのかなぁと想像しながら歩いてみました。当時とは変わっているだろうし、結構な距離だったけど。途中に中島三郎助父子の碑がありました。父の三郎助と長男の恒太郎、次男の英次郎の最後の地。一本木関門はもう少し海側?そして辿り着いた土方歳三最期の地碑。五稜郭から辿ったぶん、重みがありました。前回から6、7年経っているので、同じアングルで撮ってもらった自分の写真を比べるの
お待たせ?しました箱館旅の続きです。旅の2日目は2019年6月20日。そう、土方歳三没150年の「その日」前日から私が、「攻撃は午前3時頃から!」と言い続けたせいか、ブロ友ちゃんたちは皆その時間に目が覚めたらしいあ、私もだけど。。。色々を考えているうちに、起きる時間。その日もハードに動き廻る予定なので、しっかり朝ごはんは食べていかないとね。食堂からの朝の風景ちょっと黙りがちになる雰囲気…?いやいや、なかなかのホテルバイキング(種類が多かった)に、しっ
津軽海峡フェリーに乗り込む。ドキドキするなぁ。北海道は小学校三年生の時に来て以来。何十年ぶりかな?日付が変わって到着。朝から五稜郭へ。初めて見る五稜郭。壮観なり。五稜郭タワー内にある土方歳三の像。いよいよ五稜郭へ。函館奉行所。のんびり日向ぼっこ。榎本武揚の書。江戸に護送されるときのことを読んだもの。内容は以下。五稜郭は広くて気持ち良かった~。近くなら毎日散歩するのになぁ。その後、土方歳三が倒れた一本木関門へ。ここなんだ~。しみじみ。思いを馳せて、しばらく立ち
「函館どつく前」から箱館戦争跡地をめぐった後は市電で函館駅に戻り函館駅から徒歩15分の場所にある「土方歳三最期の地碑」へ行って来ました土方歳三が被弾したと思われる場所は複数の説がありますが「一本木関門」付近が有力とされています。「若松緑地公園」という小さな公園内にその場所はあります。公園内にある土方歳三の説明文明治2年(1869年)5月11日新政府軍による箱館総攻撃で新選組が守る弁天台場が包囲され孤立。土方歳三が五稜郭から弁天台場へ助けに向かう途中一本木関門付近
先日話題になっていた「土方歳三最期の地碑」。現在は、若松緑地(総合福祉センター前緑地)内にある一本木関門(簡易再現)の前に移設されています。罰当たりな写真は、片側三車線の中央分離帯(グリーンベルト)にあった頃のものです。---
スタンプラリーでチケットを買ったのでw、久々に五稜郭タワーに登ってみました。エレベーターのドアが開いて乗客の皆さんがフロアに出た瞬間、目の前に広がる五稜郭の緑に「わあー、綺麗〜」と一斉に声を上げたのが、思いの外うれしかです。そうでしょ、そうでしょ、美しいでしょ。榎本さんや皆んなでここを守ったの。明け渡しの時もピカピカに掃除してここを出て行ったんだから!と勝手に誇らしい気分v150年前の最期の日の早朝、五稜郭からこの真ん中の道を通って一本木関門に向かった副長。この道を上から見るのは、極寒の
150年前の旧暦の6月11日、新暦に置き換えると今年は今日です。箱館戦争における官軍の総攻撃があり、土方歳三が戦死しました。それを偲んで、朝9時前に五稜郭を出発、戦死の地と伝えられる一本木関門を目指しました。一本木比定地を確認した後、現在、土方歳三最期の地碑が立つ小公園で、既に珠里さんは涙ぼろぼろ。真っ赤な躑躅の花が乱れ散った血潮のようでした!その後、土方埋葬地のひとつと伝わる吉川町極楽寺から、終戦が締結された亀田八幡宮に寄り、やはり埋葬地説がある神山大円寺、旧の権現台場跡地の神
150年という大きな節目。150年前、この日、この時。土方歳三落命現地、函館で過ごされているブログ主さまたちの記事を心待ちにしつつ……私も本日は自宅でではありますが手を合わせたいと思います(。-人-。)土方さんが己を貫いて戦い、最期をむかえた日。ひろむ
⑤より五月十一日朝四ツ時一本木鶴岡町土方討死附添沢忠助安富才助別当熊蔵安富者馬を牽き五稜郭江行忠助熊蔵両人士官弐人相賴五稜郭江送る小柴長之助使者一本杉江来り土方引渡す(佐藤彦五郎覚書)安富さんは「土方戦死」の状況を故郷に伝えようと手紙を添えて、その役割を立川さんに託します。「付而者立川主税義、終始付添居候間
➃より土方戦死の報を受けた榎本さんは、直ちに自ら出陣しようとします。「新選の砲兵二隊、砲台に囲まるるを知りて、これを救はざるは則ち不信なり。何んぞ以て諸隊に令せん。吾自ら進みて戦はん」と。皆馬を叩き諫めて曰く、「総裁砲台に向はば、則ち放面を奈何せん。総裁は不可なり」と。副総裁松平太郎曰く、「吾総裁に代りて行かん」と。駿馬に鞭うちて千代岡に至る。吾ともに行き諸軍に伝令す。(函館戦記)総裁である榎本さんが、本陣の五稜郭を打って出ることは叶いません。戦いは