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ガダルカナル島(以下餓島)は、日本から南へ約6千キロ。昭和17年7月6日に、海軍がここに飛行設営隊約600名を上陸させました。連合国軍は、同島飛行場がほぼ完成するのを待って、昭和17年8月7日、10900名の海兵隊員を上陸させます。ミッドウェー海戦で海軍が惨敗してから2ヶ月後のことです。ミッドウェー攻略部隊として準備していた一木支隊約2000名を餓島に上陸させ攻撃に転じたけど21日敵の反撃を受け、ほぼ壊滅してしまいます。
1942年8月7日、敵はガダルカナル島(以下餓島)とフロリダ諸島に上陸を開始。我軍がほぼ完成させた飛行場をあっという間に取られてしまいました。これを受け我軍では海軍が即座に反応して駆逐艦5隻で18日に一木支隊を餓島に上陸させます。しかし敵の兵力を過小評価した一木大佐は本隊の到着を待たず攻撃を敢行し壊滅します。20日、敵は空母ロング・アイランドを使用し、完成した飛行場にF4Fを19機、SBDを12機揚陸させることに成功。
1942年に入り、日本軍の進撃は南半球ソロモン諸島のフロリダ諸島付近まで到達しました。5月3日にツラギに進出した翌日、敵の空襲を受けかなりの被害を出します。慌てた日本軍は急きょガダルカナル島(以下餓島)で飛行場建設を開始し、8月5日に何とか完成させますが7日に突如敵が上陸してきました。上がって来たのは海兵隊第1海兵師団約11000名。設営隊約1500名などあっという間に駆逐されてしまいました
NHKスペシャル「激闘ガダルカナル悲劇の指揮官」3年前の番組を再放送していましたのでこちらの視聴感想を記したいと思います。先の戦争関連の放送でもありましたが戦時中の日本は、連携しなければならない陸海軍がライバル心を隠すことなくお互いを出し抜き蹴落として戦果を誇示することが常でありバカバカしく対立し続けていました。どんぐりの背比べじゃあるまいし何をしてんのかと今なら言えるけれど当時は誰もが麻痺していたのだろうと思います。海軍からおとりに使われた陸軍部隊である一木支
昨日は梅田で仕事でしたが、帰りにグランフロント大阪で珍しい光景を目にしました。グランフロント大阪と大阪駅前を結ぶデッキの上からの写真です。夕日が綺麗なのですが、地面は濡れています。写真が小さくてわかりにくいかもしれませんが、一部霞んだような感じになっていますが、写っているのは大粒の雨粒です。角度を変えて、写真の中の方が傘をさしています。遠景の梅田スカイビルが雨で霞んでいます。こちらは、前の写真の場所に移動する前、グランフロントの北館と南館の間のデッキから。手前の木や
さて、今回私が時間に追われてヒィヒィ言いながらも旭川に行った一番の目的とは一体何だったのかそれは旭川にある北海道護国神社に御参りするためでした御参りに行った時は私以外に人がおらず、とても静かでした。この北海道護国神社には第二次世界大戦(大東亜戦争)にまつわる、とある碑がありますそれは第七師団・歩兵第二十八連隊の一木支隊の鎮魂碑です。私が今回どうしても旭川に来ておきたかったのはこれが理由でした一木支隊と言えばソロモン諸島のガダルカナル島で玉砕した事
太平洋戦争の分水嶺~「ガダルカナル島の戦い」NHKはこれまで毎年夏恒例の終戦関連番組の中で、『戦慄の記録インパール』、『ノモンハン責任なき戦い』などの力作ドキュメンタリーを放映してきましたが、2019年の『激闘ガダルカナル悲劇の指揮官』で「餓島」と呼ばれた「ガダルカナル島の戦い」を取り上げました。昭和16年8月、ソロモン諸島ガダルカナル島に日本軍が飛行場を建設中である事を知ったアメリカ軍は、「ウォッチタワー作戦」を発動。第一海兵師団を上陸させて日本軍の飛行場を占領。日本軍もすぐ
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開戦以来日本軍の南方作戦は順調に進展し、第二段階としてポートモレスビーを攻略するMO作戦、米豪分断をもくろんだニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略を目的としたFS作戦を計画しました。連合艦隊はすでに5月7日ポートモレスビー攻略、6月7日ミッドウェーとアリューシャン攻略、6月18日ミッドウェー作戦部隊トラックに集結、7月1日機動部隊トラック島を出撃、8日ニューカレドニア攻略、18日フィジー攻略、21日サモア攻略と言
◆親父なら、何というだろうか?桜井君の質問が炎上しているらしい。私は中学生の時、親父に訊いたことがある。「親父は、米兵をころしたことがあるのか?」(しばしの沈黙)「あのなー、ジャングルの向こうから機関銃で球が飛んでくる。前横後ろの戦友がバタバタと倒れていく。曳光弾の元を狙って発砲したさ。撃たないと、こっち殺されるんだ。当たったどうかは分からない。隊は玉砕、俺は通信兵だっから、玉砕を伝えるべく、伝令として、戻ったから命があった」「そうなんだ」(しばしの沈黙)「人間の最も愚かな行為
◆ガダルカナル島帰還兵が語る!~平和への願い~終戦の日、ガ島の生き残りの父が、ガ島の現実を語ってくれています。よろしければ、今日一日、英霊に思いはせてください。https://amzn.to/2BEQWx6第1章慰霊巡拝・散骨の旅第2章戦没者遺骨収集の旅第3章釣部二郎、ガダルカナルを語る第4章基本情報あとがき【釣部二郎プロフィール】1918(大正7)年5月20日生まれ享年八九歳札幌商業学校卒業後郵便局貯金保険課に就職。3年後21歳で入隊。一木支隊。ガダルカナ
『ザ・パシフィック』は、実話を基に太平洋戦争における米海兵隊員達と日本軍の死闘を描くテレビドラマシリーズ。日本軍との戦闘シーンをまとめた動画。最初の戦闘シーンはガダルカナル島での戦闘で一木支隊の全滅のシーンだ。私の生まれ故郷からはこのガダルカナル島で戦死した者がたくさんいる。一木支隊は旭川歩兵二十八聯隊を基幹とする支隊で、二十八聯隊は北海道道北出身者で編成された聯隊であった。冒頭の戦闘シーンはイル川渡河戦。イル川渡河戦は、第二次世界大戦中の19
おはようございます。昨日はカミさんのアッシーで買い物に出て、大して動きもせんのに大汗をかき、これは本当にヤバい暑さであることを実感した者です。往き帰りの我が家の近所、まぁ見事に歩いてる人を見かけませんでした。そうだよね。ジジババだけでなくタフな子供だって無理な暑さだもん。そんな陽気が続いてる中、あちこちで早めに始まった学校の二学期。そして「危険な暑さ」の下、体育の授業でリレーの練習(運動会に向けてか?)をさせ児童を熱中症にさせる小学校、昨日はその上をいき運動会を開催、やっぱり児童を倒れ
旭川歩兵二十八聯隊を基幹とする一木清直大佐率いる一木支隊が、昭和17年8月21日ガダルカナル島奪還のため米軍と戦闘全滅した。陸軍の一木清直大佐率いる大本営直轄の一木支隊(第7師団の歩兵第28連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で海軍が敗北したため攻略作戦は中止となり、一時グァム島に休養を兼ねて留め置かれていた。同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと
NHKでガダルカナル島戦を取り上げていた。ガダルカナル島奪還に向かった一木支隊。一木支隊は歩兵二十八聯隊を基幹とした部隊で、北海道の道北地方の兵隊である。一木支隊は私の故郷からもたくさんの将兵が従軍し多くの戦死者を出した。一木支隊はミッドウェー島攻略部隊であったが、ミッドウェー作戦の失敗から急遽ガダルカナル島奪還へ転用されたのだ。ガダルカナル島へ何度も遺骨収集へ行く女性の友人がいるが先日もガダルカナル島へ行って帰ってきている。話を聞く度になんだか申し訳
◆親父の思いを実現しました!ガダルカナル島帰還兵が語る!~平和への願い~以前自費出版した本を再編集しまして、新刊本としました。親子で名前を出せました。深い喜びの中にいます。◆ガダルカナル島帰還兵が語る!~平和への願い~https://amzn.to/2BEQWx6もくじ第1章慰霊巡拝・散骨の旅1、遺言2、墓参り3、玉砕の地イル川4、教会と丘第2章戦没者遺骨収集の
◆今日は、親父の生誕101周年(89歳で他界)もうこんなに時間が経ったのかと思う。他界したのは長男が小学校1年生だった。その長男も20歳になる。...生きていれば、例年通り、お祝いのパーティを自宅でしていたでしょう。ガダルカナル島から生還し、別に有名でも何かを成し遂げた人でもないが、俺と兄貴を育ててくれた。「俺が死んだから、俺の骨を釣部家の墓にいれ、あとは、ガ島の戦友にのところにまいてくれないか?!」と事あるごとに言っていた。3年前の12月に、やっと、ガ島に行き、一木支隊の玉砕し
太平洋戦争の激戦地となったソロモン諸島のガダルカナル島で、決戦を祈念する碑文の一つの所在地が中国企業のものとなり、立ち入り規制が強化された。ソロモン諸島政府が9月に国交相手を台湾から中国に代えたのも手伝い、懸念が示されている。中国企業JQYが1月、現地の製材会社レバーズ・ソロモンからイル川渡河戦(テナル川の戦い、アリゲーター・クリークの戦い)の記念碑が建つ土地を入手した。テナル川の戦いは英領だったガダルカナル島を米軍が占領して間もなく、日本軍が本格的な上陸作戦を展開する前に展開された戦いで
77年前の昭和17年8月21日、北海道旭川に遠く南方から全滅した一木支隊が魂魄となって部隊へ帰還した。一木清直大佐率いる大本営直轄の一木支隊(第7師団の歩兵第28連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍が敗退したことで攻略作戦は中止となり、一時グアム島に休養を兼ねて留め置かれていた。同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送
先の太平洋戦争後、海軍は「ミッドウェイ海戦」での敗北から、そして陸軍は「ガダルカナル島」での敗戦から以後負けつづけて敗戦に至ったといわれている。その転換点であるガダルカナル島の激戦の様子がNHKのドキュメンタリー『激闘ガダルカナル島悲劇の指揮官』で顕かにされた。そもそも日本軍の戦争目的はアメリカから石油などの経済を動かす基幹物資が禁輸されたため、その資源を求めようとしたために起こった。その時既に日本陸軍は大陸の満州事変から日中戦争へと突入していた。しかし石油は大陸にはな
土曜はEテレで「ひろしま」、日曜は総合で「ガダルカナル」ですよ。(ガダルカナルというと、ガダルカナル・タカさんを思い出してしまうのですが)8月らしいラインナップですね。こんな私は当然、N国には投票していません(苦笑)。NHK、問題はあるでしょうが、良い番組が多いのも事実でして。BSは料金高いし今まで見る時間もなかったから加入していないし、地上波しか見ておりませんが(オンデマンドで一部見られるのか。そのうち見てみよう)。NHKスペシャル(総合テレビ)激闘ガダルカ
ガダルカナル島の戦いと言えば北海道人として先ず思い浮かべるのが一木支隊だ。一木支隊はガダルカナル奪還のため急派され一夜にして全滅してしまった。全滅した8月の夜、歩兵第二十八聯隊に軍旗を奉じた一木支隊長以下帰還した。魂魄となって南の島から北海道旭川へ帰還したのだ。そんなガダルカナルの戦いは飢えとの戦いでもあった。以下産経ニュースより転載73年前の8月、太平洋のガダルカナル島(ガ島)で激戦が始まった。九州ゆかりの部隊も、飢えに苦しみながら戦った。
今日は特にネタが無いので取りこぼしネタ1942年の8月21日は南太平洋はガダルカナル島のイル川でアメリカ軍に占領された滑走路を奪還すべく日本陸軍の一木清直大佐率いる一木支隊が戦闘を仕掛けた日ですが圧倒的戦力差の前に後方に残した百名ほどを残して壊滅しました日本軍はガダルカナルのアメリカ軍の兵力を過小評価しており1万人以上のアメリカ軍に800名ほどの一木支隊が突撃しちゃったわけで、今日はその一木支隊が装備していたであろう日本軍の銃器をご覧いただこう三八式歩
ガダルカナル戦書籍一覧*********************************************************************ソロモン諸島ガダルカナル島御戦没者名簿(鋭意整理入力中)2012年ガダルカナル島御慰霊行目次2014年ガダルカナル島御慰霊行目次2015年ガダルカナル島御慰霊行目次※矢野大隊1月10日~15日にも矢野大隊幹部のお名前を掲載いたしましたがより詳しく准士官以上の編成が判明致しまし