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本日は一日中、各サイトのネットアップロード写真から、明治鉄道遺産物リサーチに終始しました。その中で、どうしても納得出来ない写真が出てきました。一戸駅発着の当時のSL三重連の写真は、ほとんどが1956〜1968年、つまりD51三重連運転開始後しばらくしてからヨンサントオ、昭和43年の複線電化時までに撮影されています。で、この写真の中に昭和41年撮影の三重連発車の写真がありまして、この写真の背景に写り込んでいる給水塔が三代目?!の給水塔なのです。撮影年の間違いかと思い調べましたが、しっかりし
週末フィールドワークで本日、所用がてら岩手町まで行ってきました。行きがけに奥中山の「雅」さんで日替わり定食メニュウリサーチがてら、お昼を食べて岩手町へ。NPOSETミライトの二周年イベントに顔を出してから、少しまったりしました。ミライトの周年イベントは明日16日も開催されます。賄いのカレーが美味しそうなので、行こうかどうか考え中です。ここの所春めいてきましたから、雪が溶けていろいろな遺産が顔を出しつつあります。これが4月末になると、木々が芽吹いてきますから、それはそれで綺麗なの
50ft(15.3m)型の転車台だった可能性があります。「ものがたり東北本線史」に掲載されている写真に、盛岡北方800mを走る8700型テンダーSL+B6型タンクSLの牽引する青森行き急行列車の写真↓があります。機関車が背中合わせに二両連なった、ちょっと珍しい「背面重連」と呼ばれる重連機関車が列車の先頭に立っているのは、この先奥中山駅までほとんど上り坂の行路である事と、当面の滝沢旧線(複線電化までは巣子から渋民まで単線の別ルートを走っていた)の勾配がキツいための措置だと思われます。※ウ
一戸から盛岡へ国道4号線を車で走りつつ奥中山地区にさしかかると、右手に鉄道の中山トンネルが見えるIGRの跨線橋を渡り、奥中山高原のいわて子供の森や西岳のスキー場へ向かう踏切のある交差点を過ぎて、林が切れ右手に奥中山高原の駅の跨線橋がフロントグラスの視野に入るあたり。平糠川の最上流部を鉄道線路が渡っている石橋※実は煉瓦橋、、が目に入ると思います。これが、平糠川第一橋梁↓です。鉄道と道路はこの後、北に進むにつれて鉄道に寄り添うように流れる小繋川を、多くの橋で渡りつつ小繋・小鳥谷の駅を目
ん〜?亀三何コレ??と言われるくらい、まあ普通の方なら、きっと興味を示さないモノです。ですが、小生にとってはとても興味深いシロモノでしてね!コレ、実は明治日鉄奥州第四区線最大の難工事、盛岡雫石川橋梁の明治の橋脚台です。四区線工事のうちでこの鉄橋の工事が進捗しないため、盛岡スルー案も出るほどの艱難辛苦の末、なんとしても青森全通を成し遂げたい日鉄と鉄道作業局、「鉄橋鹿島」の名にかけても失敗できない鹿島組が、お互い血の滲むような努力と知恵を駆使して、遂に完成させた鉄橋です。この鉄橋を完成させた
本日、手元に一冊の本が来ました。岩手県北の山々を、急峻な谷を穿ちながら南北に流れ下る馬淵川水系の河川を克服するため、後に東日本の大動脈、東北本線となる日鉄奥州線全線開通において、非常に重要な役割を果たした鉄道橋。特徴的な舶来鋳鉄トレッスル橋脚と切石・煉瓦アーチを組み合わせた支保工台を持つ、優美な「明治の最先端鉄橋」のビジュアルが精細なコロタイプ写真印刷によって、この本には美しく再現されていました。後の世に刊行された幾多の本には、この本の写真をベースに複写されたと思しき写真が掲載されています
畠山六兵衛さんについて、少しわかりました。氏は北海道札幌にて、道内最初の鉄道、幌内鉄道の鉄道敷設を請負い、この過程で煉瓦の調達も受託しています。これ以後、畠山組※畠山六兵衛氏の会社組織、、は北海道の鉄道専門業者として発展していくようです。幌内炭鉱掘削では、岩手県で募集した坑人300人以上を北海道へ招き入れた、ともあります。何処かで、来盛前に岩手との繋がりがあった可能性が出てきました。開拓使との関係は非常に深く、以後、氏が北海道で製造し取り扱った煉瓦で、現存する札幌周辺の著名煉瓦建造物の
先週末,所用で東京へ行ってきました。一日時間が取れましたので「一戸鉄道煉瓦物語」の一方の主人公、田中煉化石製造所の本工場があった東京都北区堀船へも脚を伸ばし、工場跡や経営者一族のお住まい、その周辺に残る正真正銘の田中煉瓦の現物の計測・撮影もしてきました。また、一戸町役場世界遺産課担当さんからいただいた、この物語を書くきっかけになるリーフレットを作成された東京都北区飛鳥山博物館へもお伺いし、実際に一戸町の田中煉化製造所出張痕跡を調査された学芸員様お二人にもお会いすることが出来まして、お話をさせ
一戸鉄道煉瓦物語2現存する一戸鉄道煉瓦構造物最大級の遺物、の章は今回で最後です。前稿でお伝えしたとおり「第九馬渕川橋梁以上の規模で、見事としか言いようのない!!!一戸鉄道煉瓦使用橋台」をご紹介します。これからの季節、夕暮れ時はとっても綺麗です!!!間違いなく映える明治の煉瓦構造物の景色をご覧に入れます!!」と予告しましたので、その「橋」に付いて書きます。第九馬渕川橋梁の北側、斗米・金田一温泉駅を経てIGR線と青い森鉄道線の境界駅となっているのが目時駅です。目時駅
では、一戸鉄道煉瓦をフルに使用して構築された鉄道構造物とは・・・。前稿では鳥越トンネルと野中トンネルの隧道巻きでは・・、と言う視点で検証してみました。野中トンネルはやはり、小鳥谷以南の旧トンネルと同じタイプのポータル全切石積みで隧道巻きは奧中山工場産煉瓦で間違いないと思われます。また鳥越トンネルにしてもトンネル着工時期と田中煉瓦一戸分工場の設置稼働時期のずれから、隧道巻きに使用された鉄道レンガの大半は、田中煉瓦工場本店製あるいは畠山煉瓦奥中山工場製であろうという見方が、大方現在では有力です
前記事から少し間が開いてしまいました。夏場はどうしても記事を書す気力が減退しましてね。毎年この時期になると著作に取りかかるのが常でして。「ああ、やっと再開したか」程度の感じで、読んでやってくださいまし。さて、表題の通り今回は現存する一戸鉄道煉瓦構造物の中で、規模と煉瓦使用量で最大級!と目される構造物をご紹介してみたいと思います。民生放出煉瓦を使った現存する最大の構造物は、手前みそになりますが使用個数でも規模でも、拙酒屋の煉瓦蔵が最大級と言っても過言ではないと。全長10m60cm