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幸恵さんの一日東北でNLPの実績No.1ブレイントレイン東北代表川村幸恵です。各種心理学講座/個人セッション/お問い合わせ/TEL:090-6645-2823/お客様の声/プロフィール/アクセス・゜・☆。・゜。・。・゜・☆。・゜。・。・゜・☆【4月】自分だけの学校in網地島ひじき体験2025年4/5(土)~4/6(日)▼詳しくはバナーをクリック***********************グル-プコーチング【全12回】▼詳しくはバナーをクリック
明治の奥州第五区線を調べていると、必然的に並行道路の国道4号線の事も出てきます。四号線と行っても今はバイパスメインで旧道すら分からず、ましてや明治になって幕政時代の奥州街道を近代化して、国道化したときの新国道、今の時代感から言うと旧旧国道の陸羽街道(国道)は、幕政時代の奥州街道は歩けても、維新後の道路であるのにもうすでに廃道化して、道路跡さえ辿れなくなっている場所もあります。大抵はジモティの生活道路化して、なんとか生き残っているいるのは良い方で、県北では岩手町川原木〜御堂駅間等は誰も通らない
昨日、BS再放送の阿弖流為伝、終わっちゃいました〜。奉ろわぬ神、蝦夷の人々の神、東北土着神アラハバキ神もその一つ。天津甕星-Wikipediaja.wikipedia.org明治政府どころか、遙か昔、「倭」桓武帝の時代からその存在を否定され、虐げられてきた北の人々が崇めた、古からの自然神。「倭」に屈した出雲の人々や諏訪の人々が崇めていた神々は、現代においても「神」として人々から崇敬され、今や御朱印人気で脚光を浴びつつリます。ですが、「アラハバキ神」だけは未だに歴史の闇の中に沈ん
本日は一日中、各サイトのネットアップロード写真から、明治鉄道遺産物リサーチに終始しました。その中で、どうしても納得出来ない写真が出てきました。一戸駅発着の当時のSL三重連の写真は、ほとんどが1956〜1968年、つまりD51三重連運転開始後しばらくしてからヨンサントオ、昭和43年の複線電化時までに撮影されています。で、この写真の中に昭和41年撮影の三重連発車の写真がありまして、この写真の背景に写り込んでいる給水塔が三代目?!の給水塔なのです。撮影年の間違いかと思い調べましたが、しっかりし
週末フィールドワークで本日、所用がてら岩手町まで行ってきました。行きがけに奥中山の「雅」さんで日替わり定食メニュウリサーチがてら、お昼を食べて岩手町へ。NPOSETミライトの二周年イベントに顔を出してから、少しまったりしました。ミライトの周年イベントは明日16日も開催されます。賄いのカレーが美味しそうなので、行こうかどうか考え中です。ここの所春めいてきましたから、雪が溶けていろいろな遺産が顔を出しつつあります。これが4月末になると、木々が芽吹いてきますから、それはそれで綺麗なの
50ft(15.3m)型の転車台だった可能性があります。「ものがたり東北本線史」に掲載されている写真に、盛岡北方800mを走る8700型テンダーSL+B6型タンクSLの牽引する青森行き急行列車の写真↓があります。機関車が背中合わせに二両連なった、ちょっと珍しい「背面重連」と呼ばれる重連機関車が列車の先頭に立っているのは、この先奥中山駅までほとんど上り坂の行路である事と、当面の滝沢旧線(複線電化までは巣子から渋民まで単線の別ルートを走っていた)の勾配がキツいための措置だと思われます。※ウ
一戸から盛岡へ国道4号線を車で走りつつ奥中山地区にさしかかると、右手に鉄道の中山トンネルが見えるIGRの跨線橋を渡り、奥中山高原のいわて子供の森や西岳のスキー場へ向かう踏切のある交差点を過ぎて、林が切れ右手に奥中山高原の駅の跨線橋がフロントグラスの視野に入るあたり。平糠川の最上流部を鉄道線路が渡っている石橋※実は煉瓦橋、、が目に入ると思います。これが、平糠川第一橋梁↓です。鉄道と道路はこの後、北に進むにつれて鉄道に寄り添うように流れる小繋川を、多くの橋で渡りつつ小繋・小鳥谷の駅を目
今年も行って来ました1年で一番税金を身近に感じられる日確定申告の日。前回はパソコンから送付それ以前は申告会場で。今回は〜携帯からの申告❢そして、ちょっと聞きたい事もあって途中まで入力してから申告会場で送付というスタイルに。確定申告はかれこれ10年近く自分でしていて初めての申告は用紙を税務署にもらいに行って家で記入した物を提出していた時もあった。この10年で申告方法がどんどん手軽になってきて今回携帯利用の申告はパソコン入力よりも私的には扱いやすかった。な
3/2、三月お一日、八戸八食神仏賄い買い出しアイテムっす。相変わらず、節約モードなのでお寿司はお弁当に変更。定番の上平肉店さんの酢豚弁当650円ですぅ。とは言っても、サブおかず満載なので、多めご飯でも足りません。なので、野沢菜おにぎり150円+。お肉屋さんの酢豚です、まず黒酢で◎。マカロニサラダもお肉屋さんらしい、胡椒の効いたスパイシーマヨでコレまた◎!やはり、上平さんのお弁当はコスパ◎っす!!!神棚&仏壇お供えは、ほうぼう+〆たらとメバル。明日はお雛様なので、小の寺餅店さんで、いちご大福と
本日、手元に一冊の本が来ました。岩手県北の山々を、急峻な谷を穿ちながら南北に流れ下る馬淵川水系の河川を克服するため、後に東日本の大動脈、東北本線となる日鉄奥州線全線開通において、非常に重要な役割を果たした鉄道橋。特徴的な舶来鋳鉄トレッスル橋脚と切石・煉瓦アーチを組み合わせた支保工台を持つ、優美な「明治の最先端鉄橋」のビジュアルが精細なコロタイプ写真印刷によって、この本には美しく再現されていました。後の世に刊行された幾多の本には、この本の写真をベースに複写されたと思しき写真が掲載されています
床屋と金物屋が多い町で、顔剃りが一戸で一番うまいという口コミの「理容ひまわり」(地図番号151)。小さい時は、町内の姉帯さん(地図番号117)で、毎回、寝落ちしてしまい家まで運んできてもらっていました。姉帯さんは廃業しました。髭剃りのナイフを革を使って研ぐのか、油を落とすのかシュシュとやる姿は格好良かったなあ。小学生まで、俗にいう坊ちゃん刈りです。ビートルズのマッシュルームカットでした。刈り上げてはいなかった。その後、中高は坊主。公務員はオールバックの刈り上げ、銀行員は七三とか職業によって
ひょんな事から、先程こちらを拝見させていただく機会を得まして。詳細は拙ブログで書かせていただきますが、この地この時期ならではの清冽さと、堂内に抱かれるような優しさに、ちょっと心が共振してしまいまして。小生なりに神と繋がれるかもと、十字をきってしまいました!!スノーアクティビティの歓声響くスキー場の麓に、心を愛しんでいただける、素敵な空間がある。それが一戸町なのです。
2/15土曜日、ごはんの取材で奧中山高原スキー場へやって来ました!なんせ、酒屋から30分も走れば、このロケーション❣️お天気良いとわかれば、いつだって来れる距離、とういよりパウダースキー愛好者なら、安比なんて行かなくても、実にリーズナブルなプライスで学校帰りに滑れます。今も、西岳トップの上級者コースから、三人滑り降りて来るのが目えてます。滑ったあとは天然温泉にも浸かって、体をほぐして帰ればあとは、お家で寝るだけ。ご飯はどこでも美味しいですしね!!あえて北東北の冬(あくまでなんちゃって
さて、本題に入りたいと思います。いつも前置きが長くてすいません。初代一戸駅本屋移転に従って給水塔も場所が移っていますので、その経緯が分からずにいると話がこんがらがってしまいますので。あえて、序文前章として前段を書かせていただきました。ご容赦のほど・・・。一戸駅は初代の駅本屋(改札口)は現在駅の山側、つまり稲荷側?にあって駅本屋に付随して給水塔が当時の駅本屋の脇にあり、鉄道官舎が現在の三代目駅舎のあるあたりに建っていたこと、当時上りホームへは跨線橋(線路を直接渡らずに済むよう線路
明日、岩手内陸は荒れそうだとIBCが言ってます。でも県北はそうでもなさそう。むしろ、来週がヤバそうです。三寒四温はまだまだ、先ですねー!!※2ページ目がありますよ〜
このあたりに以前は、岩銀かに二戸信金(現盛岡信金)があったように思います。今はパーマ屋さん。隣が米吉呉服店(地図番号149)。その隣の田村金物店(地図番号150)では金網を買ったことがあります。毎年5月の大型連休に消防演習があり、駅前の田村旅館(地図番号17)の前でひよこを売っていました。まだカラーひよこは普及してなく卵を産まない雄のひよこだと思います。カラーひよこは一時、ピンクや黄色、グリーンの蛍光色に染めたひよこです。成長すれば勿論普通の鶏です。今では動物虐待にあたるでしょうが、考えた
おっとっと!下りかぁ。上りは大丈夫かいな??追加:上りも二戸折り返しで走ってるのか。あぶねー!!
20250208奧中山高原ファンタジーSNOWフェスタ、花火撮影ポイント、スタンバイ完了!コリャ、なかなかにベスポジ〜。さて、花火はどの辺りに上がるかなぁ、松明滑走は多分🎯?!
プロの語り、お声の通りと滑舌が素晴らしく、またとってもフレンドリーで楽しく、いろいろと勉強させていただきました。今まではIBCとカシオペアFMニ択でしたが、16時半からはFM岩手、聞いてみようかなと。
一戸街場は、降雪はあまり酷くは無さそうですが、その分晴れて朝の放射冷却が強そうで、日中お日様が雪を溶かして、早朝凍るを数日間繰り返しそうです。街場は朝方と日没後すぐ、高度の高い奧中山は終日、路面凍結に注意が必要かもです。
最強寒波で雪降りの地方なら、どこでも目にできる景色です。けれど、このポイントは数年後には、もう目にする事ができなくなります。市街地の堤防嵩上げが、決定しているからです。アイポイントが低く、懐かしさを感じる景色だなぁ・・・と感じる場所は、昨今の河川改修が及んでいないと言う事。酒屋も数年前の大水で、敷地が浸水しました。悲しいですが、これが現実です。大雪と聞くと、最近フッと思う事があります。いま降ってる雪、雨になって降ってきたらどうなるんだろう?って。妄想です。忘れてくださいまし。
安田電機(地図番号140)は町内蒔前に移転(?)しました。ずっとシャッターが下りていましたが、昨年の暮れに建物が取り壊され、いつの間にか更地となっていました。社長は体格がよく何かのスポーツ選手。小学生の頃、夏休み冬休みはラジオ体操とランニングを一緒にやった記憶があります。ちなみに私は隣の子供会。皆勤賞だったので特別に表彰してもらいました。大らかな時代です。こちらの子供会とお祭りは一緒になります。隣のクリーニング店は、相も変わらず営業中です。半袖シャツにラジオを聴きながらの姿をガラス越で
警報級、今冬最強の寒波って言ってるの、一戸では今週末の話かな?どうなんでしょ??
その昔、盆と正月には高度経済成長を支える金の卵達が家族を引き連れての帰省ラッシュ。客間があり、押入には来客用の布団がびっしり詰まっていました。布団が売れに売れた時代がありました。その後、家族構成の変化やテレビショッピングの影響で布団は売れなくなりました。作って売る店田岡ふとん店(地図番号141)ここまで同級生が続きます。最盛期はお手伝いさんも3時のおやつもありました。打ち直しもやってくれる綿布団は、今でも実家では立派な現役です。重い布団でないと寝た気がしないのは幼児体験からでしょうか。(まる
畠山六兵衛さんについて、少しわかりました。氏は北海道札幌にて、道内最初の鉄道、幌内鉄道の鉄道敷設を請負い、この過程で煉瓦の調達も受託しています。これ以後、畠山組※畠山六兵衛氏の会社組織、、は北海道の鉄道専門業者として発展していくようです。幌内炭鉱掘削では、岩手県で募集した坑人300人以上を北海道へ招き入れた、ともあります。何処かで、来盛前に岩手との繋がりがあった可能性が出てきました。開拓使との関係は非常に深く、以後、氏が北海道で製造し取り扱った煉瓦で、現存する札幌周辺の著名煉瓦建造物の
上平仏具店(地図番号143)同級生シリーズ。3人姉妹がいたが、同級生が今は継いでいる。セレモニーホールも経営している優良企業。父の亡くなった時は、セレモニーホールはなかった。祖母の時は、自宅で行う時代。客間のふすまを取っ払い、かっぽう着のおばちゃんたちがお手伝い。本家の奥さんが仕切っていた。平成の初めはまだまだ昭和の名残、冠婚葬祭に「結い」の文化が残っていた。個人よりも家の繋がりや格式を重んじていた。地域が共同体でもあった。中3の時、クラスの皆で海に行くことになった。ここの同級生のお父
広全寺(岩手県一戸町)での墓参の帰り「三浦先生のお墓は?」と品の良い年配のご夫婦に聞かれた。三浦先生とは一戸町名誉町民芥川賞作家三浦哲郎のことである。(後で考えると、私は坊主頭なので、もしかしたら寺の関係者に間違えられた。)中学生の頃、「忍ぶ川」の石碑の序幕式があった。主人公の「志乃」というお店は今でも町内にあり「忍ぶ川」という飲み屋もその昔あった。親戚に志乃のモデルだったと言うおばさんがたくさんいた。「ユタと不思議な仲間たち」はNHKのドラマで、隣接する金田一温泉(二戸市)が舞台であ
平野孝造商店(地図144)は常前商店の向かいに位置している。駅前の平孝とは親戚だったような?金物屋というか今のホームセンターに近い存在。そういえば小学校のころ、新任の先生が一戸の印象で床屋と金物屋が多い町だと言っていた。床屋の多いのは、旧国鉄の保線区がありその労働者が利用していた。金物屋が多いのは何だろう。戦後の復興からかDIYの言葉がない時代から自分で何とかしていたのかな。同級生の男親の職業は大工が多かった。同級生がいました。昔は子供が多かった。3人くらいは普通でした。猫は放し飼い。犬は
一戸街場の雪開けスナップ!袋町筋は青空バックになると、つい写真に撮ってしまいます。一戸城の曲輪を構成していた、河岸段丘上のレトロな街並み。一戸全盛期の香りを残す街筋は、三浦哲男さん原作の東宝映画「忍ぶ川」の世界観のベースになった風景を、今に伝えています。