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2004年1月2日~旅日記より~この宿は異常に湿気がこもっており布団もかび臭く、ジメジメ宿であった。今日もう1泊は我慢しないといけないね。さて今朝は5時10分ごろ目覚め、少し慌てて身支度をし6時には宿を出た。自転車旅で着ているモンベル製の長袖シャツにロングスパッツ。雨天に備えゴアテックスのカッパも持っていく。他の持ち物は、メガネ、一眼レフカメラ、貴重品、バナナ3本、水720mL。これをウエストバックと手提げのナイロン袋に入れ出発というわけ。アルマス広場、線路と通り、川沿いを
TARTARIAJAPAN🇯🇵HuaynaPicchu:DieTreppedesTodesDerHuaynaPicchuistrund2701Meterhoch,erhebtsich360müberdemMachuPicchuundliegtüberdemUrubamba-TalimperuanischenTeilderAn…t.meワイナピチュは標高2701メートルで、マチュピチュよ
続きです。入り口の登山コースの説明。登ったり下ったり。危険な箇所には手すりがついていた。かなりの急登。マチュピチュ遺跡は、かなり下。まるで模型のようです。ジグザグの道をマチュピチュ村から遺跡へ登ります。穴をくぐって、もうすぐ山頂。山頂狭い山頂から少し降りて、一休み。この日は続く。
僕の従妹が、前にアメリカに暮らしていた折、マチュピチュまでインカ道を3日歩いて行った、とマチュピチュ訪問後に聞いたことがある。インカ道を3日間とはタフで時間がなければ無理な話しだが、十分に魅力的だ。車の無かったインカ帝国、インカ道を脚で「チャスキ」が駆けたおそらくオリャンタイタイボから歩いたのだろう。僕たちがクスコから来た列車は、終点のマチュピチュ村駅まで来る途中、オリャンタイタイボで停車し、アメリカ人らしい若者たちが何人か降りたからだ。インカ道は、タワンティンスーヨ(イン
僕が長年のあこがれのペルー高原のマチュピチュに行ったのは、2012年2月だったから、もう11年以上も過ぎた。100年以上忘れられていたスペインに滅ぼされた遺跡そのマチュピチュは、アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世によって1911年7月24日、偶然に発見された。彼は、険しい山岳地帯に発達していた古いインカ時代の道(以下、インカ道と略)を探検していた時、山の上にマチュピチュを見つけたのだ。インカ、すなわちタワンティンスーヨの文明は、文字を持たなかったので、1533年にスペイン人コ
こんばんは今日は新婚旅行ペルー編の続きを書きたいと思います。自己責任という誓約書まで書いて行きたかった場所は・・・・『ワイナピチュ』でしたワイナピチュは、マチュピチュ遺跡の奥に聳える標高2,693mの山でマチュピチュの写真を見たことがある人は絶対に目にしている山なんです。「老いた峰」を意味するマチュピチュとは対照的に、ワイナピチュは「若い峰」を意味しています。写真の真ん中、一番高い緑の山が噂の”ワイナピチュ”です。看板を頼りに進んでいきます。でも・・・・あれ?指さしている
早朝5時半頃に起床して、6時の始発バスに乗るべくアグアスカリエンテスのバス乗り場へと向かいました。たくさんのガイドが客引きを行っています。早めに入れるかと思って来ましたがチケットが7時入場ということでしばらくバスも待たされます。早めのチケットを持っている人からバスに案内している形でした。少し時間が来るまで待って、マチュピチュの入り口を目指しました。入場口まではおよそ20分のバス旅で、九十九折りの道をぐいぐい上がっていきます。切り立った山肌を上っていくのですが、標高が上がるにつれて途中で霧で真っ白
お今日はワイナピチュに登ってきた。この山ねマチュピチュ遺跡からは約300メートル。それほどの高さではないけど、ひたすら続く階段は、結構きつかったこんな階段が延々と続く。ラマ🦙が草を食べている。階段ばかりで中々ハードだったけど、やはり上から見るマチュピチュ遺跡は素晴らしかった。初日のサーキット2だけでも充分だと思ったけれど、今日のワイナピチュ登山で、マチュピチュを堪能できた。又一つバケットリストのチェックが入ったクスコへ帰る車窓から。友人とは明後日でお別れ
マチュピチュが有名ですが、ワイナピチュをご存知でしょうか?マチュピチュの目の前に高い山があって、その頂上からマチュピチュの全貌を見ることができます。追加料金がかかりますが、ぜひ登ってほしい山です⛰️ちなみに、マチュピチュの全貌はワイナピチュをはじめ、他の山に登らないと見れません。おすすめです!
[Day13]3.マチュピチュ村から遺跡入り口までのバス6時半のバスに乗り、入場時間7時ピッタリに到着。みんなと同じ入り口に並ぶも、ワイナピチュ登山(サーキット4)チケットを持っている人は、入り口が違うと、トイレ横の入り口から入場。お天気は悲しいかな、どんより曇り空。遺跡を巡るも、テレビや写真で見る「あの」有名なマチュピチュの光景ではない。雲と霧で、山は全く見えず、ただの遺跡。リャマもいないし、それほど唸るような景観でもない。今日はついてないのかな4.マチュピチュ遺跡とワイナピ
マチュピチュの写真を見たときに後ろにそびえたっている山はワイナピチュと呼ばれています。このワイナピチュはマチュピチュの一番奥から1時間かけて登ることができます。そして、山頂からはマチュピチュを見下ろすことができます。しかしなが、断崖絶壁のところがあり年間5人くらいが転落死していて日本人ガイドも死んだそうです。一歩足を滑らすと死ぬので冷や冷やしながら登りましたが我々は皆無事に山頂まで行き生きて帰ってこれました。命をかけてまで登る必要があるのかと言
この日は向かいの山、ワイナピチュへ登ります。あ、ワイナピチュはこの山のことです。笑ここへは約往復2時間程の登山。午前中しか入場がありません。私たちは7時からの入場の為、朝の5:30のバスに乗車しかし、5時10分くらいにバス停に着いたのですが、やはりもうたくさんの人が並んでいました😂恐るべしマチュピチュ。笑それでも、2台目のバスには乗車でき、昨日とは違うルートからワイナピチュの入り口まで歩いて向かいます♪今日も晴れてるなぁーーー😂☀️しかし、ここの天気ホンッッッットにコロコロ変
ペルーのマチュピチュに行った時の続きで、外観からの見学が終わって、下に降ります。この時も入場制限があってて、完全に事前予約が必要だったのですが、そい言えば、先日すでに8月末まで予約でいっぱいで、人数枠を広げたとニュースにありましたね。で、ちょっとした門を入ってトルクメニスタンのニサ遺跡は完全な土壁だったけど、こちらは石をちゃんと大きさ揃えて並べてるね。(時代が全く違うけど・・・)(大体私たちと同じ、このコースで回ってる方が多いね)
遺跡に到着したら、パスポートと入場券(入る時だけマスク着用も)をチェックされていよいよ見学です。カラッとしてるけど20度超えてたので、半袖でもOKな気候。駅で虫除けスプレーを売ってたので、蚊がいるのか心配でしたが、全く蚊も虫もいなくて全然大丈夫でした。(もしかしたら、季節が関係してるのかもですが、6月末は大丈夫でした)私たちのガイドさんは、最初に登っていくルートで案内して下さいました。私たち夫婦に息子の3人で一人のガイドさんなので、いろいろ細かく休んだり、説明した
Part2からの続きです。帰ってすぐ、お風呂に直行してリフレッシュしたものの、全身がだるくなって熱が上がってきた。最後に熱が出たのは、いつだったのか、思い出せないくらいだけど、地の時代では、高熱による原子転換で、細胞から新生させるプロセスになっていて・・・・今にリンクしたハイライトとしては、19年前の春分(宇宙元旦)を迎える直前に、40度の熱を
12.5kmの登山ルートを2日に分けて登ることにしましたとさ。一日目・藤井寺から途中までピストン二日目・焼山寺から途中までピストン往復好きでないんやけどしゃあないわなそんなわけで二日目、行ってまいりました『歩き遍路・最難関【焼山寺みち】一日目』歩き遍路最難関の遍路ころがしといわれている徳島県にある11番札所藤井寺から12番札所焼山寺までまさかまさかの歩き遍路挑戦することに山登りが苦手な登山初心者…ameblo.jpまずは焼山寺までバイクで2時間。駐車場からすぐのところから遍路道
南米ペルーにある世界的に有名な遺跡を100年以上にわたって「マチュピチュ」と呼んでいたのは間違いだった――。そんな研究結果がアンデス研究の学術誌に発表された。古代文明のインカは、この都市を「ワイナピチュ」と呼んでいたらしい。CNNよりハット各¥2900ネイティブ柄セカンドバッグ各¥2000ほぉー(゚ω゚)!!通販サイトに無い商品もDMにて承ります(o^-')b営業時間は10:00~18:00となりますネットショッピング・カート通販http://sas
「マチュピチュ」は間違いだった?歴史家が発見した本当の名は「マチュピチュ」は間違いだった?歴史家が発見した本当の名は南米ペルーにある世界的に有名な遺跡を100年以上にわたって「マチュピチュ」と呼んでいたのは間違いだった――。そんな研究結果がアンデス研究の学術誌に発表された。古代文明のインカは、この都市を「ワイナピチュ」と呼んでいたらしい。www.cnn.co.jp
2008.12.114:15起床!!混んでくる前にマチュピチュに入りたいからね!5:00からバスのチケット売り場に並んだけど、もうこんなに人がいっぱい!!ちなみに、マチュピチュ村からマチュピチュまではたったの20分程なのに、料金は片道で7ドル。こういう専用バスだよ。マチュピチュに到着して、入場ゲートをくぐる。憧れのマチュピチュへLET'SGO〜〜〜!!私はまずワイナピチュの整理券を貰いに行きたかった。ワイナピチュはマチュピチュ遺
今日は〜大阪と神戸のおふたり!!お兄さんのお誕生日祝いでお兄さんのしたい事を!ということで人力車へ😆天然なお姉さん👧とツッコミのお兄さん👨お二人のおかげで、自分自身も久しぶりの男山(ワイナピチュ)を楽しむことが出来ました❗️ありがとうございました😊姫路城にはよく登られるということだったので、次来られた際には是非とも今日行ってない場所に行きましょうね〜〜お待ちしております!!!☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆観光人力車天下車屋では、徹底した感染症対策と予防(人力車の除菌
みんな元気ですか昨日の続きだよ・・・ボクたちはマチュピチュに別れを告げた。さようならマチュピチュ・・・短い間だったけどボクたちはマチュピチュが大好きになっていた。そこは石が大事な役目をしていた空中都市。石が人間に愛と優しさを教えてくれた町。石と人間が本当の意味で支え合っていた町。さようなら石の叡智の王国マチュピチュ・・・それからボクは日本に直行した。精霊ケチュアとクリスタルスカルを案内して。ラヒーリオはアメリカ大陸に戻ってか
みんな元気ですか話の続きに戻すね・・・ボクたちが今ビジョンを見ているクリスタルスカルも太古の昔に石と会話が出来る人が造った。しかしその時代それは一部の人間の特別な能力。進化のあとではそれも一般的になっていったんだ。遠い昔、地球上には石と会話が出来た時代があった。シャーマンとか位の高い神官のような職業の人に限られていたけど。神官たちは石と意識を通わせて石の結晶を自由に、しかも目的に沿って育てるようなこともして
みんな元気ですかきのうの続きだよ・・・と、その前にハワイのマウイ島のハレアカラの山頂で何が起きたのか説明しておくね。3000メートルを超えるマウイのハレアカラの山の頂では晴れた日にもいつも凍えるような冷たい風が吹いている。ここは地球のハートのチャクラ。昼間は眼下に雲の絨毯が敷きつめられている。その夜、満月に照らされるハレアカラの山頂では不思議にあたたかい風が吹いていた。雲の絨毯にさえぎられ下からは頂上で何が起きているの
みんな元気ですか昨日の続きだよ・・・脳の構造変化の前に説明しておきたい事が一つあるんだ。人類の意識は眼に見えるものだけと言う制限から、眼に見えないものへ広がりを見せた。この傾向はいったん動き始めたらもう何も止められないような勢いがあった。今まで一部の人にしか知られていなかったことをたくさんの人が知るようになった。子供が向こうの世界にいる時に生まれる前から親を選んでいること。動物も飼い主さんと魂の旅をしていること。
みんな元気ですか昨日の続き・・・精霊ケチュアとクリスタルスカルの導きによりボクたちのビジョンの旅はさらに続く。人間は植物との絆をさらに深めて行った。少し話を後戻りさせよう。植物との共生が進むと地球は緑の星に変容した。つまり地球上には森がすごく増えたんだ。砂漠もたくさん緑の森に変わった。熱帯がなくなったわけじゃないけど、乾いた熱帯地方にも適した植物が繁殖するようになったんだ。このため世界中で絶滅しそうだったいろんな
みんな元気ですか昨日の続きだよ・・・人類はある時期を境にして寿命がすごく伸びた。しかしこれも植物との真の意味の共生が出来ればあたりまえのことかもしれなかった。人は植物を活かすようになった。そしてそれ以上に植物に生かされるようになったんだ。植物と会話が出来るようになったと言うだけのある意味では小さな進化。でもこのことがそれ以降にとてつもなく大きな変革をもたらした。以前セドナでマリア様に見せてもらったビジョンの一つに寿命と
みんな元気ですか昨日の続きだよ・・・ボクたちはスカルにこめられた愛の深さを知るとその映像にとても親しみがわいてきた。それまではなんだか怪しいものを見るような疑いが先行していた。しかしそこからは全くスカル(の映像)を見る目が違ってきた。それと同時にスカルもボクたちに本当に望むものを見せてくれるような気がしてきた。考えてみればそれは当然のこと。疑えば真実を見ることが出来ない。なぜなら自分自身で心の眼を閉ざしているから。
みんな元気ですか昨日の続き・・・精霊の名はケチュア。その地方の言語の由来でもあった。ケチュアはボクたちをもう一つの隠された部屋に案内した。その部屋は密閉されていた。大きさは10人程度が入れるくらいの角ばった小さな部屋。何処にも扉がない。だからその部屋にはいる方法はただ一つ。4人で壁を通り抜けて・・・そこは上下左右6方が白い水晶で敷きつめられている。壁と天井一面に幾何学模様の装飾が施されているがすべて今
みんな元気ですか昨日の続きだよ・・・ボクたちは光あふれるパリをあとにする。ラヒーリオはパリを離れるのが少しさびしそうだった。彼にとってはパリの街もセーヌの流れも全く非日常の世界。大自然とは全く違う都会の中に人々の悩みや迷いを感じとっていた。だからこそさらに輝く人々の優しさも。大自然も愛、でも人々の日常生活もこれもまたかけがえのない愛の営み。このいとおしい存在、人間。さようならセーヌの流れ、また会う日まで・・・アビ
みんな元気ですか前回の続きだよん・・・もう一度だけ話が戻ります。徐福・スサノオ・二ギハヤヒは日本の地形の龍脈を読み取り地球のエネルギーの循環をいかにして日本により生き生きと巡らせるかについて考えました。その計画を次々に実行してました。その最大の事業が森を増やすことでした。スサノオ・二ギハヤヒが植林してはげ山を緑豊かな森に作り変えたと言う話は東北地方にまで及ぶ伝説としていくつか残っています。同時に治水・灌漑用水の整備を行い