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東京映画祭でアメナバール監督の「Elcautivo」を観てきました。レパントの海戦で捕虜になった、あの文豪セルバンテスの若いころのお話です。と、聞けば、トルコ人に捕まって散々な目にあったのでは?それを糧にあの大作を書いたのね、うんうん、と思うでしょう。私もそう思ってました。そうですね、そうです。しかし!アメナバール、凄いぞーーーそんな庶民のありきたりな想像なんぞ、木っ端みじんにするようなストーリー、映像美、音楽でした。もちろん、俳優陣の演技もです👍アメナバールと言えば、出世
10月7日の出来事紀元前2807年日食。アフリカ大陸と南極大陸との間にて隕石が落下。1571年レパントの海戦:ギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦。カトリック教国の連合艦隊の大勝。thewrightbrotherzさんが2009/07/22に公開thebattleofLepantohttp://youtu.be/evhqEGaDLH81777年アメリカ独立戦
「絶対にカトリック以外は認めない!」そんな強い信念を抱いた王がいました。スペイン黄金時代の国王、フェリペ2世です。あなたは、「宗教の違いが戦争の引き金になる」ことを、どこまでリアルに想像したことがありますか?フェリペ2世が目指したのは、カトリックによる統一。しかし、その理想はやがて大きな反発を生み、80年にもわたる戦争を引き起こしました。フェリペ2世が直面した「カトリック帝国のジレンマ」1556年、フェリペ2世は広大な領土を受け継ぎます。父カール5世から引き継いだスペイン帝国は、ヨー
→モノの名前一覧チェック表(過去問)パオロ・ヴェロネーゼ1528年~ルネサンス期のヴェネツィアで活動したイタリア人画家ティツィアーノとティントレットと並んで、ルネサンス後期のヴェネツィアを代表する画家であると評価されている。非常に優れた色彩感覚の持ち主で、フレスコ、油彩ともに幻想的な色使いの装飾的絵画作品で知られている。ヴェロネーゼのもっとも有名な作品は劇的で色彩に満ちたマニエリスム様式で描かれた精緻かつ物語性豊かな連作絵画群で、壮重な建築物と壮麗な画
若死にしたシャルル8世の後、ルイ12世、フランソワ1世と、遠縁の親戚が王位を継ぎます。1519年、時のフランス国王、フランソワ1世は、ローマ教皇レオ1世の支持で神聖ローマ皇帝選挙に出馬します。しかし、対抗馬のスペイン王カルロス1世に対し、1票も獲得できずに完敗しました。当時のスペインは南米植民地から搾り取った無尽蔵の黄金がありますから、選挙権を持つ7人の選帝侯にこれでもかとバラマキ、全員の支持を得たのです。これが日本の福田赳夫ならば、『天の声にも変な声がある』とぼやいて終わりでしょうが、フラン
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』で織田信長はどのように描かれているのかをヒストリーチャンネルで放送されていたので観てみました。タイトル通りの時代に革命を起こそうとした男アニメ『まんが日本史』、1983年4月〜1984年4月に放送されていました。その当時の通説的な日本史理解を知るのにちょうどいい番組だと思います。『まんが日本史』での流れ(『まんが日本史』の織田信長)前回、桶狭間で今川義元を討ち取り、斎藤道三を殺した義龍死後の斎藤龍興
浜のテティスさんにいただいた上巻の続きである。オスマン・トルコによるコンスタンティノープルの陥落から始まる。このトルコが利用した海賊とキリスト教連合軍が地中海でぶつかることとなり、マルタ騎士団のヴァッレッテ、ジェノヴァの海の男アンドレア・ドーリア、すてきな人物が登場する。ピサで気になっていたサント・ステファノ騎士団のこともよくわかった。北アフリカに拉致者を勾留していた浴場のような施設がリヴォルノにもあり、イスラム教徒を収容していたことを知った。海賊時代の地中海のすさまじさ、この本を読んでみなけ
ヨーロッパでは、月曜はほとんどの博物館·美術館の休館日。グーグルマップで開館している施設を探して、朝から歩いて行けるバルセロナ海事博物館へ。ホテルから歩いて、2ブロックで、グエル邸、ここは月曜休館、何か作業をしている。更に進むと地中海の都市には珍しい高層ビルがあって、その向かいに海事博物館、元は造船廠だった建物。入口はコロンブス記念塔広場の方なので、一応塔を見ておく。旧港側から見ると後に高層ビル。右斜めにランブラス通り(中世市壁が在った線)。1285年にアラゴン連合王国の
ヴェネツィアに召喚されたマルコ。かれは政治の指導部の中枢として過ごすことになります。この巻で描かれるのは第3巻までと違って,レパントの海戦を中心としたヴェネチアの歴史です。ヴェネチアの歴史を描いた塩野さんの作品としては「海の都の物語ヴェネツィア共和国の一千年」があり,レパントの海戦については,題名そのものの「レパントの海戦」という本があります。「レパントの海戦」はずいぶん前に読んだので,今回この本でレパントの海戦について改めて読み,すごい海戦だったなと思いました。トルコ帝国の領土的野心に
世界史入門(イスラーム世界・②オスマン帝国ートルコの衰退(イスラームの国、オスマン帝国の衰退)オスマン帝国はスレイマン1世(在位1520〜66)の時、中央集権体制を整え、オスマン帝国の最盛期を築いた。西アジア・北アフリカ・東ヨーロッパを支配して1529年には第1次ウィーン包囲(地図資料①)を行い、ヨーロッパ諸国に脅威を与えた。1538年にはプレヴェザの海戦(地図資料①)でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合軍を破り、地中海の制海権を握った。しかし、セリム2世(在位156
世界史入門(イスラーム世界・オスマン朝ー①オスマン帝国の発展)13世紀に小アジアのアナトリアではトルコ人の小国家が成立していた。オスマン1世(在位`1299〜1326)はビザンツ帝国領を攻撃してオスマン帝国の基礎を築いた。オルハン(在位1326〜62)の時代にはブルサを攻撃してここに都を定めた。次のムラト1世(在位1362〜89)の時,ビザンツ帝国のアドリアノープルを征服してここを都を定め、ここを拠点にバルカン地方を征服し、コソヴォの戦い(1389)でセルビア・ワラキア・ボスニアの連合
今日は暑くもなくて過ごしやすい日でした。しばらく田舎へ戻っていたお隣さんがようやく戻ってきてくれてほっとしました。(半年近く留守)明日屋根と雨どいの掃除に業者が来てくれる日だったのでうちとセットで無料で掃除してくれます、と伝えることができましたよかった。これで雨の日の雨水駄々洩れから解放される!足場を組むための寸法を計測に来た業者がかわいい女の子だったので驚きましたって最近はガテン系の女子も多いんですね。いい傾向だな三浦しをん「小暮荘物語」
甲府の屋根屋です。山梨県はイイお天気なのですが……ま、外出もソコソコに家に籠城です……( ̄^ ̄)ゆっくりと読書しながら晩酌です!スーパーニッカです!リンゴ🍎に少しイチゴ🍓(*´∇`*)ほんのりケムリに甘い潮風とキャラメル。少しパワフル寄りなバランスの取れた味わい。ハイボールでも味わいに崩れがありません!ジョニーウォーカーブラックやバランタイン12年、シーバスリーガル等々、2000円くらいという群雄割拠、百花繚乱な激戦地帯で十分に戦える実力です(≧∀≦)ノ写真の本は塩野七生大先生の
レパントの戦いの時に、ロザリオで聖母に祈ったときに勝利を得たそれが本日だから今もレパントの教会にはその戦いの時の絵があるそして、このロザリオはドミニコとカタリナが聖母からもらったことから始まるなぜか、ポンペイの聖母もこのご絵ですないろんなパターンがありますが今日はロザリオの月のロザリオの祝日!ロザリ屋も、、、お祝い日ですなぁ今日は、聖堂にいたら15時にこんなすてきなシュツエーション!この素敵なときに神の慈しみの祈りをしました💛なんど
ロザリオの聖母の祝日おめでとうございます!ロザリオといえば、ドミニコとカタリナ彼らが聖母からゆずりうけた祈りこのロザリオの聖母の日はイスラム教徒の人たちがローマに攻め込みローマ人がロザリオを祈ったおかげでレパントの戦いはイタリアが勝利を得たそれが10/7だったのでこの日をロザリオの聖母の日にしたのですいまでもバチカンのちかくにレパントがあり、その時の戦いが教会の絵で現れています聖母にロザリオを祈ると見捨てられることがない!この信頼をもって、
日曜夜九時にNHKでやってた戦国〜激動の世界と日本〜超面白かった。日本史・戦国をグローバルに捉えるというかそんな感じで…なかなか今風でした。CGとかもカッコ良くて。↑これ信長…空の色とか西洋史ぽいなぁと。来週、第二回やるみたいですが…第一回は信長の日本統一とイエズス会の強固な関係とか。番組ではそうは言ってないですが…かつて本能寺の変の分析論で立花京子氏のイエズス会黒幕説とかあって、今はあまり評価する人はいませんが発表当時はかなり注目されてた。ちょっとソレを思い出した。
カール5世:ドイツ語の話せなかったドイツ皇帝https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB5%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)「プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神」:初めに結論ありきの強引な仮説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3
元記事はこちら←LINKGSRというのはゴールドシルバーレシオ金と銀の価格比のこと近世初頭スペインやポルトガルによるラテンアメリカ文明の破壊そして大量の銀持ち出しこれにより中世を通じ人類を悩ませていた広域貿易における共通交換通貨の不足これが解消された一気に世界貿易の時代へ中世初期(古代末期)イランの金鉱がほぼ枯渇これにより隆盛を誇ったペルシャの没落が始まり人類は長い自給自足経済へこれが中世貿易をやろうにも言葉が通じなくても物に交換できる通貨
夜な夜な娘とDVD鑑賞が常です。華流時代劇を見る一方で、並行して見ているのが初のジャンルにてハマってしまった「オスマン帝国外伝」🇹🇷尊敬する塩野七生女史のオスマン帝国を題材にした著書「コンスタンティノープルの陥落」「ロードス島攻防記」「レパントの海戦」の3本建てを読んだのがもう30年くらい昔💦すっかり忘れていたけれど、少しずつ記憶が繋がってきました。最初は、顔の半分がヒゲとか無理ーー💦などと思ったりもしたけれど、慣れですね❗️(笑)2話から慣れましたよ😅オスマン帝国とは1
歴史にその名を刻まれた「レパントの海戦」それまで無敵を誇り西洋を圧迫していたトルコに対しローマ教皇・スペイン・ベネチアが連合艦隊を組み対戦。結果は連合軍側の大勝利。オスマン帝国側は海戦に参加したおよそ285隻の内、210隻が拿捕され25隻が沈没、逃走が確認されたのが25隻で残る25隻も逃走したと思われる。3万人の多くが捕虜となって奴隷となるか処刑され、戦死または行方不明者も少なくなかった。オスマン帝国艦隊側のガレーの漕手となっていたキリスト教徒の奴隷12000人が
1571年レパントの海戦レパントの海戦は、一つも効果ないって訳じゃなかった一=1効=5ない=71蚊のフランソワーズさんの前世のお話です。平民見下し発言連発で、学校で友達のいないフランソワーズさん、大変な事をしようとしています。勝手に恥をかかさせたと思いこみ、逆恨みです。
3月31日、カルタゴ。1881年、フランスの時代を迎えカルタゴのビュルサの丘にフランスの国王ルイ9世の名を取り、サンルイ教会が建つ。1270年十字軍を率いチュニスに没した王は後に聖人となった。その丘は紀元前814年フェニキアの娘エリッサは、この丘に立ち新都市を建設する。町の名はカルタゴとした。以降700年の平和と繁栄は3回の戦争で跡形もなく滅ぼされるが、一部からカルタゴ時代の民家の遺跡が出てきている。カルタゴ時代の面影は数少ないが丘下の地面の中からお墓が出てきた。多くの墓石
いつもつたない中国駐在おばちゃんブログをご訪問くださりありがとうございますお陰様で励みになっていて心から感謝していますコロンナ宮殿(コロンナ美術館)「ローマの休日」の最後の記者会見のシーンで有名な大広間があります。入口はわかりにくく大通りから少し入った小道にあります。土曜日だけの見学で9:00-13:15のみ。団体で予約すれば別の日も見学可能です。ギャラリーのみ12€ギャラリー+アパートメントツアー25€ギャラリー+アパートメントツアー+庭園(晴れの日のみ)
7月11日、ラマンチャドライブ。16世紀栄光のスペインの陰で、ドンキホーテの作者ミゲルデセルバンテスは1547年マドリッドにて下級貴族の次男として生まれる。父の仕事がうまくいかずスペイン各地を転々とする生活を送り、まともな教育も受けられなかったが、道に落ちてる紙切れでも字が書かれていれば手にとって読む程の読書好きだったという。アルマグロを出てラマンチャのドライブに入る。今まで行った風車の丘とドンキホーテの旅籠以外にもドンキホーテ=セルバンテスゆかりの地に行ってみよう。ア
こんにちは。TOSHです。今回は「バレッタの市街」についてまとめてみたいと思います。基本情報登録年:1994年登録基準:(ⅱ)(ⅳ)概要・16世紀にオスマン帝国にロドス島を追われた聖ヨハネ騎士団が新たに拠点とした地・町の名前は当時の聖ヨハネ騎士団団長ジャン・バリード・ド・ラ・バレッテにちなんでいる・オスマン帝国の襲撃に備え、イタリアの建築家フランチェスコ・ラパレッリ・ディ・コルトーナの基本設計により強固な城塞都市となった・キリ
「世界の地図屏風」17世紀初頭------というわけで、さっそく調査。この屏風は、キリシタン大名の小西行長、黒田孝高らの依頼で作成されたということであった。時代は徳川政権がやっと落ち着いてきた17世紀初頭。当時、日本が得ることのできたヨーロッパの情報は、主に宣教師を通してだった。そして、日本にキリスト教を伝えたのは誰もが知る通り、カソリックのイエズス会から派遣されたザビエル。彼はスペインのバスク地方出身だ。スペインの植民地侵略の第一段階は、カソリック宣教師の布教
4月25日の朝日の朝刊を開くと、色鮮やかな不思議な絵が飛び込んできた。題して『レパント戦闘図・世界地図屏風』。江戸時代(17C.初頭)に日本人の絵師によるものだという。「レパントの海戦」は、1565年の「マルタ大包囲戦」)のわずか6年後に、キリスト教世界とイスラム教政界で戦われた海戦である。「レパント戦闘図」服装や騎兵の出で立ちから見て、左側はキリスト教軍、右側はイスラム教軍とわかる。
聖ヨハネ騎士団の人気マルタのお土産物屋さんで、一番目を引くのが写真のような騎士のフィギュア。これがこの島の「売り」であることは一目瞭然。ショーケースいっぱいに並ぶ、多種多様の騎士の姿。この島の長い歴史の中で、騎士団の存在の時期が一番大きな比重を占めているのだろう。騎士団は、ヨーロッパの裕福階級の次男以下の子弟によって構成されており、幼少から騎士として訓練され、経済的にも恵まれた人々の集団であった。色々な騎士団の中で、聖ヨハネ騎士団は聖地エルサレム巡礼に宿泊所を提供し
「第1部産業革命以前の世界における戦略と経済2覇権に手を伸ばしたハプスブルク家1519~1659年戦いの経緯とその意味」の部分で、なるほど!と思ったこと1、1568年ハプスブルク領ネーデルランドで新教徒の反乱勃発。フェリペ2世はアルバ公の軍隊を送る。2、1571年レパントの海戦スペイン・ヴェネツィア連合艦隊がオスマントルコを破る。3、1580年スペインがポルトガルを併合。(1584年日本の少年使節団がフェリペ2世に会う。)